前期難波宮出土木柱は羅城跡か
最近、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が精力的に取り組まれている「難波京の羅城」調査ですが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える「難波の羅城」造営記事は考古学的には未発見であったことから、記事の信憑性が疑われてきました。ところが「難波京羅城」が存在していた可能性が高まりつつあるようなのです。
服部さんは「難波京羅城」の存在を、これまで地名や文献からその痕跡を関西例会で報告されてきたのですが、過日のミーティングでは、大阪府文化財センターの江浦洋さんから聞かれた前期難波宮出土木柱の出土状況について、次のような興味深い考古学的事実について、正木裕さんから説明がありました。
1.同木柱は年輪セルロース酸素同位体比年代測定により、7世紀前半のものであり、前期難波宮の北側の東西柵列から出土したものである。
2.直径は約30cmと太く、単なる柵ではなく、土塀の柱と考えられる。
3.柵列は高低差のある地表に沿って並んでいる。言わば万里の長城のよう。
以上のような考古学出土事実から、この東西柵列こそ羅城の跡ではないかと正木さんは考えられるとのことなのです。しかも、柵列の外側(北側)は谷となっており、前期難波宮を防衛する羅城にふさわしい位置にあります。なお、服部さんは宮域を区画する柵の可能性もあるとされています。
服部さんが調査された「羅城」地名といい、今回の考古学的痕跡といい、難波京に羅城があったとする有力な証拠が着々と発見されています。なお、正木説によれば、天武8年条(679)の羅城造営記事は34年遡り、実際は645年のこととなり、まさに前期難波宮完成(652年)の前となります。服部さんの研究の進展が期待されます。