秋田土崎の橘氏
この数年、いろいろと忙しくて和田家文書の研究は全く手つかずの状態が続いています。これからもしばらくは取り組めそうにないのですが、佐々木広堂さんからのファックスがきっかけで、昔書いた論文「知的犯罪の構造 –「偽作」論者の手口をめぐって」(『新・古代学』第2集、1996)を読みなおしました。おかげで当時の記憶が次から次へとよみがえってきたのですが、それらを忘れないうちに書きとどめておくのもいいかもしれないと思い、これから時折「洛中洛外日記」に記していくことにします。
その最初として、和田家文書『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季(あきたたかすえ)のことを少しご紹介します。『東日流外三郡誌』などの末尾には「秋田 土崎住 秋田孝季」と記されている例が多いのですが、これらの記述から、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三郡誌』などを著述したとがわかる のですが、なぜ津軽ではなく秋田土崎なのかが不明でした。
ところが、秋田県ご出身の太田斉二郎さん(古田史学の会・副代表)が現地調査などで秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。というのも、和田家 文書によれば秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季だったからです。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝 季と名乗るようになったのです。ですから、秋田土崎は秋田孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。だから、秋田土崎の地で『東日流外三郡誌』を 初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。
秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されたのです(太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」、『古田史学会報』24号、1998)。この発見により秋田孝季がなぜ秋田土崎で執筆したのかがわかったのです。
こうした事実は偽作説では説明しにくいでしょう。現地調査により、秋田孝季の実在を証明する事実が明らかになるのではないかと期待しています。いつかわたしも現地調査を行いたいと思っており、現地に協力者が現れることを願っています。