『養老律令』の中の大宰府
大和朝廷は自らの最初の律令として「大宝律令」を公布しましたが、残念ながら現在は伝わっていません。その後『養老律令』を制定し、その内容から「大宝律令」の復元研究が試みられてきました。その『養老律令』の中には九州王朝の痕跡が残されているのですが、その最たるものは「大宰府」です。
『養老律令』には中央官庁の組織とともに地方官組織についても規定されているのですが、九州の9国(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩)だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州 王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。
こうした九州島諸国の特異な支配形態こそ、九州王朝が存在した痕跡(証拠)であり、大和朝廷一元史観では説明困難な『養老律令』の史料事実なのです。なお、現存地名は「太宰府」ですが、『養老律令』などでは「大宰府」の字が使用されています。