『養老律令』の「隼人司」
『養老律令』には「隼人司」という不思議な職掌が記されています。岩波の日本思想大系本の頭注では、次のように説明されています。
「隼人:朝廷への服属が遅れて異種族視されていた南九州の住民。ここでは朝廷に勤務する隼人」
すなわち、南九州の薩摩や大隅は、大和朝廷への服属が遅れたため、都に定住させた「隼人」を「隼人司」が監督したと説明
されているのです。一見もっともな説明に見えますが、実は大変矛盾した「理屈」です。というのも、『続日本紀』文武4年6月条によれば、薩摩地方の評督や
助督といった人物のことが記されており(衣評督衣君県、助督弖自美。衣評は鹿児島県揖宿郡頴娃町)、遅くとも7世紀末には薩摩地方は評制下に組み入れられ
ていたことは明らかなのです。従って、「朝廷への服属が遅れ」たというのは史料事実から見れば不正確な表現なのです。
結論からいえば、九州王朝の評制に組み入れられていた薩摩・大隅地方の隼人が、701年の大和朝廷への権力交代時において、九州王朝の評督・助督の身分で大和朝廷の支配に抵抗したというのが歴史の真相です。
ここまでは古田学派の方々にはご了解いただけることと思いますが、問題はこのあとです。『養老律令』の「隼人司」という職掌は大和朝廷になって初めて置かれたものなのか、九州王朝律令に既に存在していた職掌なのかという問題です。
まだよくわかりませんが、何か特別な事情があって、九州王朝でも「隼人司」が置かれていたという可能性も検討する必要を感じています。南九州には、ある
時代において九州王朝倭国とは別の「国家」が存在していたのではないかというテーマにかかわる検討課題なのです。