評制施行時期、古田先生の認識(1)
古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)