評制施行時期、古田先生の認識(6)
『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」では、倭国の「評制度の淵源」について説明された後、朝鮮半島諸国の「評」についても触れられ、「行政単位」が倭国と新羅では似ていることなどを次のように紹介されています。
「この後朝鮮半島内では同じく評を名乗る例が出てまいります。
基色在内曰啄評、国有云啄評・五十二邑靫 〈梁書 新羅伝〉
『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている。行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
さらに高句麗における評があります。
復有内評・外評・五部褥薩 〈隋書、高句麗伝〉
内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。(中略)中国の影響を受けて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。」(26〜27頁)
このように古田先生は「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と、新羅や高句麗も倭国と同様に中国の影響を受けて「評を設定した」とされています。もちろんこれらの「評」も称号(官庁名、軍事名)としての術語です。なお、古田先生はここで「行政単位」という用語を使用されていますが、通常、「行政単位」とは「行政区画」を施政・統治する機構という意味で使用されているようです。たとえばWikipediaには次のように説明されています。
「行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。〔1〕」
「〔1〕例えば、東京都という「行政単位」が施政を行う「行政区画」は、東京都区部、多摩地域、東京都島嶼部である。」
「行政区画の例 日本
47の都道府県から構成されるが、その下に市町村、特別区(東京都のみ)が置かれる。町、村はいくつか集まって郡を形成する。また、市のうち政令指定都市には行政区が置かれる。」
以上のような定義とは別に、「行政区画」と同じ意味で「行政単位」が使われるケースもあるようです。単純化していえば、7世紀中頃に九州王朝が日本列島内で施行したのが、行政区画である評制(「国・評・里」制)であり、朝鮮半島内での評(官庁名、軍事名)は行政単位(行政区画を施政・統治する機構)となります。ただし、当時の倭国が支配した朝鮮半島内の行政区画の詳細は不明です。従って、古田先生がここで述べられた「行政単位」とは、通常の定義である「行政区画を施政・統治する機構」の意味であることが、一連の文脈からも明らかです。(つづく)