第1597話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(4)

 『論語』には他にも二倍年暦と思われる記事があります。一例だけ紹介しましょう。それは孔子の愛弟子で若くして没した顔淵についての孔子の述懐です。孔子が「後生畏るべし」と評した最愛の弟子、顔淵(名は回、字は子淵)が亡くなったとき、孔子は「天はわたしを滅ぼした」と嘆き、激しく慟哭したと『論語』には記されています。
 「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせりと。」(『論語』先進第十一)
 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有るか。夫の人の爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせんと。」(同前)
 哭とは死者を愛惜して大声で泣くこと。慟とは哭より一層悲しみ嘆く状態といわれています。孔子を慟哭させた顔淵は、『論語』によれば短命であったとされています。
 「哀公問ふ、弟子孰(だれ)か學を好むと爲すかと。孔子對へて曰く、顔回なる者有り。學を好む。怒を遷さず、過を貳(ふたたび)せず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かざるなりと。」(『論語』雍也第六)
 『論語』には顔淵も孔子も、その没年齢は記されていませんが、孔子七二歳の時、顔淵は四二歳で没したとする説が有力なようです(孔子の没年齢は七四歳とされる)。もし、この年齢が正しいとすれば、それはやはり二倍年暦と見なさなければなりません。何故なら、顔淵の没年齢が一倍年暦の四二歳であれば、それは当時の平均的な寿命であり、ことさら「不幸短命」とは言い難いからです。従って、従来説を一倍年暦に換算すれば顔淵は二一歳で没し、その時孔子は三六歳ということになります。これであれば「不幸短命」と孔子が述べた通りです。『論語』は二倍年暦で読まなければ、こうした説話の一つひとつさえもが正確に理解できないのです。(つづく)

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