九州王朝説で読む『大宰府の研究』(7)
第1842話で森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ー宝満山は何故万葉集に詠われなかったのかー」を紹介し、「みかさ山」とあれば論証抜きで「奈良の御蓋山」のこととしてしまう〝凍りついた発想〟を大和朝廷一元史観の「宿痾」と指摘しました。同様に優れた研究や史料事実に基づきながらも、その解釈や結論が大和朝廷一元史観による〝凍りついた発想〟となっている論文が『大宰府の研究』には他にも見られます。その残念な論文の一つが井形進さん(九州歴史資料館)の「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」です。
九州王朝太宰府における王朝文化の象徴のような迫力ある「大宰府式鬼瓦」の芸術性の高さは、古代日本列島内随一の鬼面瓦として有名です。井形さんも「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」において、次のように紹介されています。
「大宰府式鬼瓦は、大宰府政庁跡を中心とする、いわゆる大宰府史跡をはじめとして、筑前・筑後・肥前・肥後北部・豊前など、九州北部の官衙や寺院跡から出土する遺物である。その系譜をひく、大宰府系などと称されるような鬼瓦は、九州南部からも出土しており、それらの存在も併せ考えると、九州全域、つまり大宰府官内全域に影響を及ぼしたことになる。」(561頁)
「大宰府式鬼瓦Ⅰ式Aの迫真的で立体的、各部位が有機的に連動した造形は、奈良時代の鬼瓦の中にあっては異質なものである。」(564頁)
「大宰府式鬼瓦の第一の特徴として指摘されるのは、鬼面の立体性、そして彫塑作品としての水準の高さである。このような、大宰府式鬼瓦において最も重要な鬼面の源を、統一新羅に求めることはできない。」(566頁)
このように大宰府式鬼瓦の異質性・高水準について指摘し、その造形美との関係性がうかがえる遺物として、福岡県福智町の神崎1号墳出土の獅噛環柄頭大刀の柄頭にあしらわれた獣面、観世音寺梵鐘の龍頭などを紹介されています。これらの点は九州王朝説から見れば、大宰府式鬼瓦こそ日本列島内で先進的で最高の王朝文化の精華と位置付けることが可能ですが、井形さんはなんとしたことか次のような結論へと進まれます。
「日本で鬼面文を棟端瓦に採用したことについては、一般に大宰府式鬼瓦が最初とされている。しかしそうであれ、それは必ずしも、大宰府の先進性を示すものだと考えることはできないと思う。具体的な造形の成立についてはともかく、鬼面の採用を決定したのは中央だと考えている。そもそも大宰府は出先機関であるし、それに資料的に見ても、大宰府式鬼瓦ときびすを接するようにして全国に鬼面文鬼瓦が展開してゆくわけであるが、それにあたって大宰府から都へという流れや、その後の全国への展開を考えるのは、不自然な上に迅速に過ぎるように感じられるからである。」(570頁)
このように考察され、大宰府式鬼瓦の先例として平面的で陳腐な鬼の姿全体の造形を持つ平城京式鬼瓦Ⅰをあげられました。。
列島内最大規模で唯一の古代防衛施設である水城・大野城・基肄城などを毎日のように誰よりも見ているはずの、九州王朝のお膝元ともいえる九州歴史資料館の優れた考古学者であっても、このような〝凍りついた発想〟から抜け出すことができない、大和朝廷一元史観の「宿痾」の深刻さを感じざるを得ません。
井形さんが論文末尾に次のように記されていることが、かすかな希望と言えるのかもしれません。
「とはいえ大宰府式鬼瓦こそは、そのような中にあって、確かに九州を一つと見なしうる場合もあることを、雄弁に物語る存在なのである。(中略)大宰府ありし日には、大宰府の威武を象徴する存在として雄々しく楼上に君臨し、いま大宰府史跡の象徴として扱われている大宰府式鬼瓦は、九州の歴史や文化を考え語る上でも、他をもって代え難い意義をもった大切な文化財として、ひときわ大きな存在感を見せているのである。」(572-573頁)
大宰府式鬼瓦が九州王朝(倭国)の象徴として認識されるその日まで、大和朝廷一元史観の「宿痾」に立ち向かうことは、わたしたち古田学派の歴史的使命なのです。(つづく)
※太宰府出土「鬼瓦」に関して、次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。
第1673話 太宰府出土「鬼瓦」の使用尺
第1675話 太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)