西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土
今朝、川岡保さんがFacebookに昨日の西日本新聞の記事を掲載されていました。川岡さんは福岡市早良区のお住まいで、Facebookを通して知り合いました。過日の久留米大学での講演会にもお越し頂き、その翌日には早良区や糸島半島をご案内いただきました。そのFacebookに掲載されていたのは当地の福岡市早良区西新町遺跡から古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)のすずりが5片出土していたという記事でした。近年、福岡県各地で弥生時代・古墳時代前期のすずりが発見されていたのですが、なんと西新町遺跡からは5片も出土していたことが確認されたというのです。その西日本新聞の記事【資料1】を末尾に転載します。西新町遺跡・藤崎遺跡の解説【資料2】が福岡市博物館のホームページにありましたのでそれも転載しました。
今回の発見で注目されることが三つあります。ひとつはその数の多さです。破片とは言え5個も発見されたことから、当地においてかなりの文字を書く人々が集団で住んでいたと考えられます。新聞記事でも同遺構は「交易拠点」とされており、博多湾岸という立地条件から考えても妥当な推定と思われます。朝鮮半島の土器の出土が多いこともこの推定を支持しています。
二つ目は3点から朱の痕跡が認められたことです。通常の墨だけでなく、朱も使用していたのですから、その必要がある職掌とは何かということが重要な検討課題として提起されています。今のところまだわかりませんが、墨と朱を文書記録に使用するというケースを調査してみたいと思います。
三つ目は最も関心がある問題で、それは西新町遺跡が博多湾岸に位置するという点です。その地は砂丘上であり、農耕にも居住にも適しているとは言えません。従って、そのような地に存在した西新町遺跡は交易や外交など特定の目的を持った勢力が居した場所ではないでしょうか。そこで思い当たるのが、倭国の女王俾弥呼がいた邪馬壹国への里程記事です。
古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。不彌国の規模は「千餘家」と記されており、それほど大きな国ではありません。にもかかわらず、倭人伝の里程記事に掲載されていますから、それなりの理由があったと考えられます。
不彌国の候補地としては博多駅付近の比恵遺跡もあるのですが、「千餘家」という不彌国の規模よりも大きな遺跡のようですから、西新町遺跡のほうが比較的妥当のように思われます。更に全くの思いつきに過ぎませんが、今回のすずりの出土から、当地には文書行政を司った集団がいたと考えられます。そうであれば、不彌国とは「ふみ(文)国」の漢字表記とは考えられないでしょうか。作業仮説として提起したいと思います。
【資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬台国時代のすずり5個出土
交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。3個には朱を使った跡があるという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。
【資料2】
福岡市博物館ホームページ
「西新町・藤崎遺跡群」の説明
博物館もよりの西新・藤崎には3000年位前から砂丘が形成されており、人々が暮らしていました。
古くから弥生土器や三角縁神獣鏡などの発見があって、学史的にも注目されてきた遺跡ですが、今から約40年前の昭和50年代以降の市営地下鉄や藤崎バスターミナルの建設、県立修猷館高校の建て替え工事などにともなって発掘調査が進み、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落や墳墓の全容が明らかになってきました。
弥生時代といえば、稲作農耕文化のイメージですが、西新町・藤崎遺跡群は農耕不適地に立地しており、出土遺物などからも、漁村的な遺跡であったと考えられます。また、中国や朝鮮半島など遠隔地からもたらされた遺物も多く出土することから、漁撈とともに海を介した対外交易などをも担った集団が暮らした遺跡と考えられます。