第1479話 2017/08/15

一元史観から見た前期難波宮(3)

 今回は視点を少し遡らせて、前期難波宮が摂津難波の地に造営された歴史的背景について、一元史観の考古学者はどのように出土事実を捉えているのかを紹介します。
 土器の専門家である寺井誠さんは「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(『大阪歴史博物館 共同研究成果報告書』7号、2013年)で6〜7世紀の難波について次のように説明されています。

 「難波は倭王権にとって長く外交の窓口としての重要な役割をはたしてきた。『日本書紀』には、中国や朝鮮諸国からの使節が到来する場面がしばしば登場する。難波には、外国の使節によってもたらされた「調」の検閲・記録や饗応儀礼を行ったりした「難波大郡」、使節を宿泊・休養させるための「館」が、外交関連施設として存在したことが記されている。(中略)
 難波ではまた、これを反映するかのように、朝鮮半島からの搬入土器が多く出土している(寺井2012bなど)。こうした土器は古代難波における外交を考えるための基礎的な物証となる可能性を秘めている。特に、これまで筆者が何度か指摘しているように、難波で確認できる朝鮮半島の土器のほとんどが難波遷都以前の段階のものである。難波宮が完成したにもかかわらず、何故に継続的に朝鮮半島から土器がもたらされなかったのか、素朴な疑問を抱く方も多いであろう。」(5頁)

 このように論文は書き始められているのですが、寺井さんは難波における『日本書紀』の外交関連記事と朝鮮半島土器の出土、すなわち史料事実と考古学的出土事実の一致という、実証的な視点で論述を進められます。
 この戦後実証史学の方法からは九州王朝説は片鱗も見えず、一元史観による説明をとりあえず可能としています。多元史観・古田学派の研究者は、この一元史観による「実証主義」をよく理解しておく必要があります。そうでないと「他流試合」を戦えないからです。“大阪市の考古学者など信用できない”というような非学問的な非難や態度は、「他流試合」では全く無力で無意味ですし、学問論争の体もなしていません。
 さらに寺井さんは考古学者らしく、次のような出土事実を提示されます。

 「まず、百済土器は、6世紀後半頃に遡る可能性があるものを含むと総数で10点程度出土している。6〜7世紀の日本列島では、管見による限り百済土器の出土例がきわめて少なく(寺井2012bなど)、これが当時の実体であるというなら、いかに難波に偏っているかわかるであろう。」(9頁)
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。(中略)
 このように朝鮮半島の搬入土器が難波に集中的に出土する背景としては、やはり難波に外交関連の施設が設置され、次第に外交の窓口として定着してきたことが考えられよう。土器の搬入は外交使節による場合もあったであろうし、文献には登場しないような来訪もあったと思われる。いずれにせよ、難波は朝鮮半島諸国と接する機会の多い場所であったことを反映しているのであろう。」(18頁)

 以上のように寺井さんは、摂津難波が6〜7世紀の日本列島内においてトップクラスの外交拠点であることを朝鮮半島からの搬入土器の出土事実(実証)と『日本書紀』の記述(実証)の一致から説明されています。これらの実証結果は九州王朝説を否定するものです。こうした戦後実証史学の成果に対して、わたしたち古田学派はどのようにして反論すべきかが問われているのです。(つづく)

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