考古学一覧

第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。


第1553話 2017/12/13

難波京朱雀大路の新展開

 難波京朱雀大路についてはこれまでも論じてきました。最近では「古賀達也の洛中洛外日記【号外】」2017/10/05「難波京の朱雀大路発見について」で、大阪歴史博物館・杉本厚保典さんの論稿を次の通り紹介しました。

※『大阪の歴史を掘る2015』より転載。
平成26年度 大阪市内の発掘調査
   大阪歴史博物館 杉本厚保典
 (前略)
古代の上町台地
難波宮跡での新発見

 前期難波宮の宮城南門(朱雀門)140m南で行った調査⑦(中央区上町1丁目)では、幅1.5〜2.9m、深さ0.3〜0.7mの南北方向の溝が見つかりました(fig,6〜9)。この溝は前期難波宮中心線から西に16.35mのところで中心線に平行して延びていることから、難波京朱雀大路の西側溝と推定されています。中心線で折り返すと道路幅は32.7mに復元され、奈良盆地の横大路(32〜35m)の規模に相当し、古代の道路の中では最大級です。さらにこの溝の東側には小石が分布していました。難波宮の宮域内では1〜5cmの礫による小石敷が見つかっており、道路面にも小石を敷いていた可能性があります。今回の発見は難波宮のメインストリートを復元するための重要な手がかりです。(後略、転載終わり)

 あれだけ大規模な中国風の宮殿を造営した権力者が、その宮殿南門から南に延びる朱雀大路を造らなかったとする見解には納得できなかったのですが、他方、上町台地にはいくつもの谷筋が入り込んでおり、朱雀大路も大きな谷筋で「寸断」されていたのかもしれないと理解していました。
 ところが、先日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅に見えられて、二人で古代史談義をしていたのですが、正木さんから朱雀大路を通すために谷を埋め立てた整地層が出土していることを教えていただいたのです。それは大阪歴博『大阪の歴史を掘る2017』の村元健一さんの「平成28年度 大阪市内の発掘調査」5頁に報告されていました。同パンフレットはわたしも持っており、読んだはずですが失念していたようです。当該部分を転載します。

【転載】
 難波宮の周囲に広がる難波京でも大きな成果がありました。難波京では平成26年度の調査で朱雀大路の西側溝と思われる南北溝が見つかりました。この溝を難波宮の中軸線で折り返すと道路幅は32.7mに復元できます。昨年度の調査でも朱雀大路に関わり大きな成果がありました。調査地は天王寺区石ヶ辻町で、想定朱雀大路の上にあたります。東側の細工谷遺跡では平成18年度の調査で西から東に開く谷(五合谷)が見つかり、この谷が奈良時代でも埋められていないことが明らかになりました。谷の状況から考えて谷は朱雀大路を超えて西までのびており、谷が埋められていなければ、道路の敷設は困難だと考えられます。この調査成果が難波京朱雀大路非存在説の有力な根拠となっていました。今回の調査では想定どおり朱雀大路西側で五合谷の谷頭が確認できたのですが、古代に遡る可能性のある整地層も見つかりました。整地層は7世紀前半の地層を覆っていることから、それ以降のものであることが分かります。残念ながら、整地層そのものの時期を絞りこむことはできませんでしたが、今回の調査により、谷の朱雀大路にかかる部分を限定的に整地していた可能性が出てきました。
【転載終わり】

 以上のように、近年の発掘調査により次々と発見される朱雀大路や条坊の痕跡により、巨大な難波京の姿が明らかになりつつあります。


第1551話 2017/12/09

古田先生との論争的対話「都城論」(8)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」に次いで、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の論理構造について解説します。
 まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造と下記の①〜④までは同じです。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。
 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」(648年)木簡や整地層から7世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①〜④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤7世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記載(盗用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。従って、古田先生による九州王朝実在の論証が成立していなければ、わたしの副都説も成立しないという論理構造を有しています。(つづく)


第1548話 2017/12/03

前期難波宮と近江大津宮の比較

 「古田史学の会」の福岡市や大阪市での講演会の運営にご協力していただいた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、『大津の都と白鳳寺院』という本をお借りして精読しています。同書は大津市歴史博物館で開催された「大津京遷都一三五〇年記念 企画展 大津の都と白鳳寺院」の図録で、久冨さんが同企画展を見学され、購入されたものです。
 同書を繰り返し読んでいますが、わたしが最も知りたかった最新の近江大津宮遺跡の規模についての記述があり、以前から気になっていた前期難波宮との規模の比較を行っています。近江大津宮(錦織遺跡)は周辺の宅地化が進んでおり、発掘調査が不十分です。特に朝堂院に相当する部分は北辺の一部のみが明らかとなっており、全容は不明です。そこで、比較的発掘が進んでいる内裏正殿と同南門の規模を前期難波宮と比較しました。次のようです。

〔内裏正殿(前期難波宮は前殿)の規模〕
前期難波宮 東西37m 南北19m
近江大津宮 東西21m 南北10m

〔内裏南門の規模〕
前期難波宮 東西33m 南北12m
近江大津宮 東西21m 南北 6m

 このように652年に創建された前期難波宮に比べて、『日本書紀』では667年に天智が遷都したとされる近江大津宮は一回り小規模なのです。大規模な前期難波宮があるのに、なぜ近江大津宮に遷都したのかが一元史観でも説明しにくく、白村江戦を控えて、より安全な近江に遷都したとする考えもあります。しかしながら、一元史観では内陸部の飛鳥宮から同じく内陸部の近江大津宮に遷都したことになり、それほど安全性が高くなるとは思われません。
 他方、前期難波宮を九州王朝の副都と考えたとき、海岸部の摂津難波よりは近江大津の方がはるかに安全です。ですから、前期難波宮と近江大津宮が共に九州王朝の宮殿であれば、摂津難波からより安全な近江大津への遷都は穏当なものとなりそうです。その場合、近江大津宮の方が小規模となった理由の説明が必要ですが、十数年で二つの王宮・王都の造営ということになりますから、近江大津宮造営が白村江戦を控えての緊急避難が目的と考えれば、小規模とならざるを得なかったのかもしれません。引き続き、この問題について検討したいと思います。


第1537話 2017/11/11

百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)

 久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。

 禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。

 他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)


第1536話 2017/11/05

古代の土器リサイクル(再利用)

 ちよっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器を骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1514話 2017/10/09

久留米市田主丸で「積石水門」発見

 昨日の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡講演会(共催:久留米大学比較文化研究会・九州古代史の会・古田史学の会)は最後まで活発な質疑応答が続くなど、学問的にも盛況でした。遠くは宮崎県・長崎県・熊本県から参加された方もおられ、九州での古田史学(九州王朝説)への関心の高さがうかがわれました。更に筑紫野市の前畑筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生(福岡女学院大学講師)も見えられ、ご挨拶していただきました。
 九州での講演会ではいつも期待以上の学問的成果に恵まれます。今回も吉田正一さん(菊池市、久米八幡神社宮司)から久留米市田主丸石垣で神籠石山城の水門に似た「石垣高尾遺跡」が発見されていたとの情報が伝えられ、講演会受付を協力していただいた犬塚幹夫さん(古田史学の会会員、久留米市)からは同遺跡の報告書コピーをいただきました。
 犬塚さんからいただいた『石垣高尾遺跡 田主丸町文化財調査報告書第22集』(2003年、田主丸町教育委員会)によると、平成13年に三日谷川砂防ダム工事に伴う調査で発見され、記録保存のための緊急発掘調査の後、取り壊されたとのこと。
 地理的には高良山神籠石と杷木神籠石の中間地点にあり、軍事的要衝の地ではないようです。標高は100mの位置で、その石積みによる谷の水門遺構は神籠石山城の水門によく似ています。花崗岩の長方形石で8段積み上げられており、長さ11.4m(推定20m)、残存高3.8m、提体下部に吐水口があります。他方、山を取り囲むような列石は発見されておらず、その性格は不明と言わざるを得ません。積石から出土した須恵器が8世紀のものと編年されており、造営時期が古代まで遡る可能性が高いと思われます。なお、石積み中央部の石材上面と前面に星形(五芒星)が刻まれており、このような古代の刻印石材の存在は初めて知りました。他に同様例があれば、ご教示ください。
 当地の字地名「石垣」は、この積石水門と関係がありそうな気もしますが、今のところこれ以上のことはわかりません。遺跡が取り壊されたことは残念ですが、同地域の踏査が期待されます。
 なお、犬塚さんからの情報では、同遺跡を『続日本紀』文武3年(699)12月条に見える「三野城」(みののき)ではないかとする見解が研究者から示されているようです。
 「大宰府をして三野、稲積の二城を修らしむ。」『続日本紀』
 水縄(耳納)連山の「みのう」を三野(みの)と考える説ですが、当水門が山城の一部であることの考古学的証明がまず必要です。


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1505話 2017/09/21

日本列島出土の鍍金鏡

 熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の鍍金鏡(直径14.65cm)を含め、日本列島からは3面の鍍金鏡の出土が知られています。
 1面は九州王朝の中枢領域である糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半、墳丘長103m)から出土した方格規矩四神鏡(直径21.2cm)です。同古墳は糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝の有力者の古墳と見てもよいと思います。もしかすると4世紀後半頃の「倭王」かもしれません。5世紀の「倭の五王」の時代になりますと、倭国(九州王朝)は筑後地方に遷都(遷宮)したと、わたしは考えていますから、被葬者はその直前の倭王の可能性が高いように思います。
 もう1面は何故か九州から遠く離れた岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳(5世紀中頃〜6世紀初頭、主軸全長75m)から鍍金獣帯鏡(直径20.3cm)が出土しています。九州王朝説の立場からすると九州内からの鍍金鏡出土は当然とも言えるのですが、岐阜県大野町の城塚古墳からの出土は多元的古代の観点から、この濃尾平野に鍍金鏡を埋納されるにふさわしい「天子」級の権力者が居たことを想像させます。
 もちろん出土した数の数倍の鍍金鏡が古代において存在していたと考えるべきですが、九州地方から2面、東海地方から1面という鍍金鏡出土分布は何を意味するのか、古田学派ならではの研究テーマです。(つづく)


第1504話 2017/09/20

南九州の「天子」級遺品

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)出土の「龍」銀象嵌大刀は、南九州における「天子」級の遺品と思われるのですが、私の知るところでは他にも南九州から「天子」級遺品が二つ出土しています。
 一つは宮崎県串間市王の山から出土したとされる日本列島内では最大の玉璧(直径33cm)です。玉璧は古代中国では天子クラスの権力者の持ち物とされ、なぜ南九州から出土したのか不思議です。九州王朝の中枢領域である筑前からも玉璧の小片が出土しているだけです。同玉璧は中国産(漢代とされる)と思われますが、出土状況などが不明ですので、いつの時代に埋納されたのかなどもわかりません。
 もう一つは熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳から出土した鍍金鏡(直径14.65cm)です。鍍金鏡は全国から数面しか出土しておらず、「天子」級の遺品と言えるのではないでしょうか。才園古墳は6世紀末〜7世紀頃の築造と編年されていますから、その時代に「天子」級の権力者が当地に居たことがうかがわれます。その人物が九州王朝とどのような関係にあったのかなど、やはり多元史観による解明が待たれます。(つづく)