考古学一覧

第25話 2005/08/26

阿蘇ピンク石は『大王のひつぎ』か?

 8月20日、古田史学の会関西例会が行われました。今回も研究報告が目白押しで、来月回しになったものもありました。珍しく考古学関連の報告が三つもありましたが、中でも伊東義彰さん(本会会計監査・生駒市)の『「大王のひつぎ」に一言 ─読売新聞七月二五日・八月三日の記事について─』はタイムリーでもあり面白い内容でした。
 熊本県宇土市から産出する阿蘇ピンク石が近畿などの古墳の石棺に使用されていることは有名ですが、読売新聞社などが主催して、そのピンク石を古代船で大阪府高槻市の今城塚古墳まで運搬するという試みが行われています。伊東さんはこのプロジェクトには大賛成だが、阿蘇ピンク石が近畿の大王(天皇)の石棺に使用されているかの様な新聞記事の取り扱いは、誤解をまねくとして、苦言を呈されました。
 伊東さんの調査によれば、5世紀後半から6世紀前半の古墳ではピンク石使用石棺の古墳は12例確認されています。ところがそのほとんどが比較的小規模な古墳であり、大王級の古墳は今城塚古墳だけなのです。従って、阿蘇ピンク石を「大王のひつぎ」とする表現は不適当ということになります。この事実には、わたしも少し驚きましたが、更に驚いたのが、九州の古墳では阿蘇ピンク石が石棺に使われた例はないということです(現時点では未発見)。
 考古学に疎いわたしは、九州王朝で使用されていたピンク石石棺の伝統が近畿にも伝播したものと、今まで何となく思っていたのですが、それが間違っていたことを伊東さんの報告で知ったのでした。こうした意味でも関西例会は貴重な場です。関西例会には参加費500円で、どなたでも聴講できます(今回も一名初参加の方がおられました)。たくさんの資料ももらえて有意義な一日が過ごせます。皆さんも是非一度のぞいてみてください。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・古墳時代1」
○研究発表
(1)王維の九州はすべて中国(豊中市・木村賢司)
(2)「唐詩一万首」の中の日本(豊中市・木村賢司)
(3)安倍仲麻呂「天の原ふりさけみれば…」を考える(岐阜市・竹内強)
(4)「大王のひつぎ」に一言
 ─読売新聞七月二五日・八月三日の記事について─(生駒市・伊東義彰)
(5)「親王」と「皇子」と「王」の間2(相模原市・冨川ケイ子)
(6)風土記の「○○天皇の御世」と放射能年代測定(東大阪市・横田幸男)
(7)鶴見山古墳出土石人の証言(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・王維の詩序文訳・他(奈良市・水野孝夫)


第21話 2005/08/13

鶴見山古墳出土の毛髪付着銅鏡片

 鶴見山古墳からは今回の石人以外にも極めて興味深いものが出土していました。岩戸山歴史資料館(2015.11 八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷(さと)」に移転)のホームページによれば、鶴見山古墳から毛髪が付着した銅鏡片が出土しており、筑紫君一族の唯一の遺髪と紹介されています。毛髪が付着した銅鏡が出土するのも大変珍しいことのように思いますが、鶴見山古墳の場合、筑紫君磐井一族の墳墓である可能性が高いため、その価値ははかり知れません。というのも、毛髪のDNA鑑定によりその御子孫を発見できる可能性があるからです。
 古田学派内では九州王朝の末裔調査をこれまでも進めてきましたが、八女市やその近郊にその御子孫であるI家やM家が現在もおられることを確認しています(系図が存在。古田武彦「高良山の『古系図』」『古田史学会報』35号参照)。プライバシー保護や皇国史観による思想的物理的圧力など、いろいろと困難な問題もありますが、DNA鑑定により筑紫君磐井の御子孫と確認できれば、歴史学的にも素晴らしい成果となるでしょう。岩戸山古墳石室の学術発掘とならんで、是非実現させたいテーマの一つです。
 九州王朝は六世紀中葉の磐井とその子供達の時代から、六世紀末から七世紀初頭にかけての輝ける天子(日出ずる処の天子)多利思北孤(タリシホコ)の時代へと移ります。この時代は本格的に倭国王家が仏教を受容(倭国王の仏教信仰、出家)し始めた時代ですが、これと対応するように、八女丘陵から前方後円墳が姿を消していきます。恐らく、倭国王家で火葬と薄葬が流行したものと推測されます。そうした視点からも、鶴見山古墳が八女丘陵最後期の前方後円墳であり、そこから石人や毛髪が出土したことは興味深いことと言えるでしょう。

関連する報告として古賀氏の

玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)

高良玉垂命と七支刀(古田史学会報二十五号)

高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)があります。


第20話 2005/08/12

続・鶴見山古墳出土の石人の証言

 鶴見山古墳から今回出土した石人は、鼻と両腕の一部が削られていたとのこと。ここにも重要な問題が含まれています。
 今までは磐井の墓の石人などは、「磐井の乱」で大和朝廷軍により破壊されたと理解されてきました。しかし、息子の葛子がその後も健在なのに、父親の墳墓の破壊を修復しなかったと考えるのも変なものです。ましてや、今回の発見により磐井の後継者(葛子か)の墓にも石人があったとなると、ますますおかしなことになります。父親の墓の石人は破壊されたままにしておいて、葛子は自らの墓の石人を造ったとなるからです。一般庶民の墓の話ではありません。筑紫の王者の墓なのです。当然、破壊されていれば修復するのが当たり前です。このように、従来の理解はおかしかったのです。そして、今回の発見は更に矛盾を増大させます。
 磐井の後継者の墓の石人も削られていたという事実は、「磐井の乱」とは無関係な、もっと後の時代に何者かが削ったと考えざるを得ないのですが、通説ではこの点をうまく説明できません。ところが、古田説では簡単に説明ができるのです。
 古田先生の最近の説(「講演録・『磐井の乱』はなかった」『古代に真実を求めて』8集所収)では、岩戸山古墳の石人などを破壊したのは、白村江で勝利した唐の筑紫進駐軍が行ったものとされました。七世紀後半のことです。ですから、破壊は岩戸山古墳にとどまらず、鶴見山古墳を含む九州王朝の王者の墳墓全体に及んだ可能性があります。この時の破壊の痕跡が、今回発掘された石人の傷跡だったと理解すれば、一連の考古学的事実を無理なく説明できます。
 中国では南朝の陵墓が徹底的に北朝により破壊されています。南朝に臣従していた磐井ら倭王の墳墓も、唐の軍隊に破壊されたという古田説は説得力がありますが、わたしはもう一つの可能性にも留意しておきたいと考えています。それは、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交代に伴う、大和朝廷側による破壊という可能性です。『古事記』『日本書紀』では、磐井は大和朝廷に逆らった反逆者として記されています。こうした主客転倒させたイデオロギーを『日本書紀』により流布させた大和朝廷により、岩戸山古墳や鶴見山古墳の石人は壊された可能性はないでしょうか。(つづく)


第19話 2005/08/11

鶴見山古墳出土の石人の証言

 先日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)からお電話があり、八女古墳群の鶴見山古墳からほぼ完全な石人が出土したことを知らせていただきました。さっそくインターネットで各新聞の記事などを見ましたところ、いろいろと面白い問題があることに気づきました。
 それぞれの記事に共通した論調として、鶴見山古墳が磐井の息子の葛子の墓である可能性が高まったこと、「磐井の乱」以後も磐井の後継者の影響力が続いていたこと、などが見受けられました。通説では「磐井の乱」で磐井が滅んだ後は大和朝廷の勢力下に筑紫がおかれたと見られていたのですが、磐井の墓の岩戸山古墳と同様の石人が八女古墳群最後期の前方後円墳である鶴見山古墳からも出土したことにより、こうした考えを見直さざるを得なくなったようです。
 しかし、古田説に立てば事は明快です。磐井は九州王朝の王、すなわち倭王であり、近畿なる継体のほうが倭王磐井に対して起こしたのが「磐井の乱」の真相です。ですから、「継体の反乱」と読んだ方が正確です。しかも、この反乱は磐井当人を倒しはしたものの最後まで勝つ事(筑紫の制圧と実効支配)は出来ずに、事実上の継体側の敗北で終わっています。これらについては、古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日文庫、ミネルヴァ書房から復刻の計画があります)をご参照下さい。なお、最新の古田説では「磐井の乱」「継体の反乱」というものは、そもそも無かった、という方向に展開しています。このことについては別の機会に触れたいと思います。
 「継体の反乱」以後も九州王朝は健在(たとえば、その後も九州年号は連綿と続いている)ですから、磐井の後継者の墳墓に石人が存在していても、何ら不思議とするところではなく、むしろ当然といった感じです。こうした点からも、今回の石人発見は古田説に有利な考古学的事実と言えるでしょう。