考古学一覧

第124話 2007/03/06

藤原宮の紀年木簡

  藤原宮出土の「評」木簡群と同様に注目されるのが、紀年木簡群です。紀年が書かれていますから、木簡制作年が判断でき、史料としてとても貴重です。藤原宮をはじめ、紀年木簡にはONラインを境に顕著な変化があります。700年以前は芦屋市出土の「元壬子年」木簡を除けば、すべて干支のみで紀年が表記され、九州年号は記されていません。
 この史料事実は、近畿天皇家が年号に無関心であったのではなく、強い関心を示していた証拠です。何故なら、701年以後の紀年木簡は近畿天皇家の年号を用いているからです。ONラインを境にして、紀年表記の形式が干支から年号へと見事に一変しているのです。
 すなわち、近畿天皇家は支配下に置いた諸国からの貢進物の荷札の木簡にさえ、九州年号を使用させず、自ら年号を制定した701年以後はその年号を使用させるという、極めて露骨な政策をとったとしか思えないのです。同時に、藤原宮などに貢進物を送った諸国は、そうした近畿天皇家の政策に忠実に従ったのであり、その結果が、現在までに出土している紀年木簡の姿と言えます。
 このように、紀年木簡の示す史料事実は、藤原宮時代の近畿天皇家の権力を推し量る上で貴重です。この時期、九州王朝は衰退の一途を辿っていたことも、同時に推測できるのではないでしょうか。


第107話 2006/11/11

弥生の高層建築
 本日の朝刊に、鳥取市の青谷寺地(あおやじち)遺跡から出土していた木柱が約7mであったことがわかり、弥生時代に高層建築が存在していた証拠である旨、報道されていました。その記事によれば、高さ10.5mぐらいの物見やぐらで、地上から床の高さまで6mあったとされています。
  この発見自体は素晴らしいことだと思いますが、わたしの「常識」では弥生時代に10m以上の建物があるのは当然で、ちょっと大騒ぎしすぎるような感じを受けました。と言うのも、本会会員で天文学者の難波収さん(オランダ・ユトレヒト在住)から、次のようなお話を聞いていたからでした。
  海岸に敵船発見などの為に物見やぐらを建てるなら、15m以上の高さがないと役に立たない。なぜなら、海上には陽炎が立ち上るので、その陽炎の上から見ないと船は発見できない。従って、物見やぐらは15m以上の高さが必要。というものでした。その上で、こうも言われました。だから、吉野ヶ里で復原された「物見やぐら」は低すぎる、と。
 わたしには専門的なことは判断できませんが、天文学者の難波さんの言葉だけに、説得力を感じました。同時に、古代人が見張りの役に立たないような低い「物見やぐら」をわざわざ造るようなことはしないとも思いました。なぜ、現代人は日本の古代建築や古代人を侮るのでしょうか。これこそ自虐史観だと思うのですが。


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。


第85話 2006/06/15

「白鳳壬申」骨蔵器の証言

 第83話に掲載した次の七世紀後半部分の九州年号を御覧になって、白鳳年間が他と比べて異常に長いことに気づかれたと思います。実はこの点も九州年号真作の論理性が現れているところです。そのことについて述べたいと思います。
常色 元(丁未)〜五 647−651
白雉 元(壬子)〜九 652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二 684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九 686−694
大化 元(乙未)〜六 695−700

 九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は661年辛酉であり、二三年癸未(683)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(737)「太政官符謹奏」にも現れています。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
  『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

  「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮織*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
  『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(737)

織*は、身編に織。糸編無し。
稱*は、人編に稱。禾偏無し。

 このように、近畿天皇家の公文書にも九州年号が使用されていたのです。特に聖武天皇の詔報に使用されている点など、九州年号真作説の大きな証拠と言えます。通説では、この白鳳を『日本書紀』の白雉が後に言いかえられたとしていますが、これも無茶な主張です。そして何よりも、白鳳年号の金石文が江戸時代に出土していたのです。
 江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されています。

 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
  『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺

 博多湾岸から出土した「白鳳壬申」(672年)と記された骨蔵器の記事です。残念ながらこの骨蔵器はその後行方不明になっています。なお、この『筑前国続風土記附録』は筑前黒田藩公認の地誌で、信頼性の高い史料です。
 これでも、大和朝廷一元史観の人々は、「九州年号はなかった。九州王朝もなかった。」と言い張るつもりでしょうか。少しは科学的で学問的な思考をしていただきたいものです。


第84話 2006/06/14

「大化五子年」土器の証言

第83話で九州年号にも大化があり、しかも『日本書紀』の大化(645〜649年)とは異なり、七世紀末(695〜700年)であることを紹介しました。そして、『日本書紀』は九州年号の大化を50年遡らせて盗用したものと結論づけました。日本古代史学界からは無視されていますが、実はこのことを裏づける金石文が既に出土しているのです。茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵している「大化五子年」土器がそれです。
わたしは古田先生らと共に、1993年に見せていただいたのですが、同土器は高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて

「大化五子年
二月十日」

と線刻されています。
この土器は江戸時代天保九年(1838)春に冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土したもので、大化年号が彫られていたことから出土当時から注目され、色川三中著『野中の清水』(嘉永年間<1848〜1854>の記録)や清宮秀堅著『下総旧事考』(弘化二年<1845>の自序あり、刊行は1905年)などに紹介されています。また、当時の領主も当土器を見に来たとのこと。冨山家には、その時領主のおかかえ絵師による同土器が描かれた掛軸がありました(絵師の号は南海)。
その掛軸の絵や『野中の清水』の絵にもはっきりと「大化五子年二月十日」と記されていますが、現在では「子」の字が故意による摩耗でほとんど見えなくなっていました。おそらくこれは『日本書紀』の大化五年(649)の干支「己酉」と異なるため、それを不審として削られたものと思われます。
『二中歴』では大化六年(700)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が一年ずれています。おそらく、この土器には干支が一年ずれた暦法が採用されたためと考えられますが、詳しくは拙論「二つの試金石−九州年号金石文の再検討−」(『古代に真実を求めて』第二集)を御覧下さい。
一方、『日本書紀』の大化年間には全く子の年はありません。従って、この土器の大化五子年は七世紀末の699年のことと考えざるを得ず、九州年号の大化を証明する貴重な同時代金石文となるのです。しかも、地元の土器専門家によって、七世紀後半から八世紀前半に属すると鑑定されており、699年はこの鑑定のど真ん中に位置しています。なお、この土器は煮炊きに使用された後、骨蔵器に転用された痕跡があるとのことで、刻された「大化五子年二月十日」とは命日か埋葬日のことと推定されます。
このように「大化五子年」土器は、九州年号の大化が存在したという真実を証言しているのです。同土器の存在は、地元の考古学者により専門誌で報告されているにもかかわらず、古代史学界は無視しています。大和朝廷一元史観の学者の、九州年号や九州王朝を認めたくないという気持ちは分からないではありませんが、何とも非学問的でアンフェアな態度と言わざるを得ません。

闘論二つの試金石ー九州年号金石文の再検討参照


第78話 2006/05/21

大野城刻木文字は「孚右都」・飯田満麿説

 昨日の関西例会も盛り上がりました。発表が目白押しで、最後に発表したわたしは要点のみ早口で報告するという状況でした。懇親会も参加人数が多く、会場探しが大変でした。ちなみに、わたしは大阪で2軒、京都で1軒とハシゴしてしまいました。
 研究発表でも興味深い内容が多く、大下さん(本会書籍部)は奈良文化財研究所木簡データベースから、「元」と「三」の字を検索列挙され、芦屋市三条九ノ坪出土「壬子木簡」と比較するという実証的な調査研究を発表されました。もちろん結論は「元」の字であるということでした(69話、72話参照)。
 中でも最も注目した発表は、飯田満麿さん(本会会計)の大野城出土木柱の刻木文字に関するものでした(73話、74話参照)。飯田さんはさすがに古代建築の専門家らしく、平城京跡南大門復原時のエピソードや奈良文化財研究所とのやりとりなど、蘊蓄と経験談を述べられた後、「孚」の字義に着目されました。そして『書経』にある「上天孚佑下民」の用例を示され、刻木文字は「孚右都」ではないかとされました。「右」は「佑」の略字と考えられますし、刻木の「石(右)」と読まれた字は右側に偏って刻されており、左側のスペースは「人偏」が本来書かれるはずだったのではないかと推測されたのです。
 そしてもし、「孚右都」であれば、その語意は「都をはぐくみ助ける」となり、大野城正門の木柱に刻まれるにふさわして内容となります。すなわち、唐や新羅との軍事的緊張関係が高まったとき、倭国(九州王朝)の都である太宰府を防衛する大野城正門の柱にその願いを込めたとものと考えられるのです。
 この飯田仮説、かなり面白いと思うのですが、いかがでしょぅか。なお、関西例会の内容は下記の通りでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「密教と曼陀羅の世界」
○研究発表
1.古田史学の果報者(豊中市・木村賢司)
2.多紀理媛と胸形の奥津宮(大阪市・西井健一郎)
3.三条九ノ坪出土「壬子木簡」(豊中市・大下隆司)
4.最後の九州年号─消された隼人征討記事─(京都市・古賀達也)
5.姿を現した東堤*国王達・その一(長岡京市・高橋勲)、 堤*[テイ]は、魚編に堤、土編無し。
6.大野城太宰府口城門出土木材の研究(奈良市・飯田満麿)
7.中巌円月『日本書』がもたらしたもの・その3(相模原市・冨川ケイ子)
8.九州王朝の陪都論−前期難波宮の研究−(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・泰澄と法蓮・他(奈良市・水野孝夫)


第75話 2006/05/02

太宰府条坊の南端発見
 先月の21日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から新聞の切り抜きがファックスされてきました。「大宰府南端の道路発見」「筑紫野市で奈良時代の条坊」という見出しとともに、太宰府条坊の南端が出土し、「太宰府」市街地の南北が1.7kmと確定したことが報じられていました。
 この発見により、太宰府条坊が南北に22条、東西に24坊あったことが確定したようですが、このこと自体は以前から推測されてきたことなので、とりたてて驚くべきことではありません。しかし、この新聞記事にある「条坊」の説明欄に次のように記されていることに注目しました。
 「大宰府の条坊は7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとみられ、(以下略)」
 太宰府条坊が7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとする説は、誰の説かは知りませんが、もしそうであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京よりも早く太宰府建設が始まったことを認めたことになります。近年の説では藤原京の初期条坊工事は天武の時代、684年頃からとする見方が有力となっています(木下正史『藤原京』中公新書、p.61)。従って、太宰府条坊建設が7世紀中頃からとなれば、大和朝廷一元史観に立てば、天皇家は自らの都よりも、遠く離れた太宰府の条坊都市を先に建設し始めたということになります。こんな珍説が世界で通用するでしょうか。
 わたしは年輪年代測定により「太宰府」の考古学編年が100年ほど早くなるという事実などから、九州王朝の都太宰府は通説の8世紀初頭ではなく7世紀初頭に完成したと論じたことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号)。今回の新聞記事は、ようやく「50年」ほど古田史学に追いついてきた学界の現状(ゆらぎ・とまどい)を象徴しているのかもしれません。


第74話 2006/04/30

浮石とコウヤマキ

 前回で紹介した、大野城跡から出土した木柱に「孚石都」と彫られていたというニュースですが、この「孚石」が柱の産地名だとしたら、どこかに「浮石」(うきいし)という地名が残っているのではないかと思い、インターネットで探してみました。そうしたら、ありました。場所は下関市の豊田町という所で、かなり山間部のようです。ここなら、柱になりそうな木材もありそうですし、太宰府へ運搬するにしても、そんなに遠隔地というわけでもありません。「孚石」の有力候補ではないでしょうか。他に北部九州近郊に「浮石」という地名はなさそうですので、今のところ唯一の候補地と言ってもいいでしょう。もし他にもあれば、教えて下さい。
 地名の一致以外に、もう一つ候補地として欠かせない条件があります。それはこの柱の材質であるコウヤマキ(高野槙。高野山に多く自生していることからこの名前がつけられたらしい)の産地であることです。コウヤマキは日本にしか自生しておらず、東北地方から九州まで分布しているのですが、九州には熊本県や宮崎県に多く、福岡県や佐賀県には群生していないようなのです。問題の下関市の浮石にコウヤマキが群生していれば、候補地としては更に有力になります。わたしも調べていますが、下関市の浮石にコウヤマキが産出するかどうか、まだ判っていません。これもご存じの方がおられれば、是非教えて下さい。
 ちなみに、コウヤマキは水に強く、古代から古墳の木棺などに使用されてきたそうです。確か百済の武寧王のお墓の棺もコウヤマキだと聞いた記憶があります。そんな丈夫な木だったからこそ、現代まで刻木が遺存したのでしょうね。なお、この刻木問題について、建築の専門家である飯田満麿さん(本会会計。平城京跡の南大門建設なども手がけられた古代建築の専門家)が5月の関西例会で発表されるそうです。楽しみです。


第73話 2006/04/23

大野城から刻木文字が出土

 このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、4月15日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
 日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により648年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
 そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
 文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
 この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば648年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を665年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、665年の伐採とすれば、この柱は17年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(7世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』50号)を参照下さい。
 それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。6月25日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。


第66話 2006/03/11

多元史観の木簡研究

 金石文や文献など、古田史学は多方面にわたり、多元史観による新たな歴史学を展開してきました。しかし未だほとんど手つかずの領域があります。その一つが木簡研究です。
 すでに古田先生により、伊場木簡の「若倭」の多元史観的読解などが提起されていますが(『倭人伝を徹底して読む』)、本格的で総合的な研究は古田学派内部でもまだ行われていません。そうした中で、「古田史学の会・東海」の林俊彦さんによる論稿「呪符の証言」(「東海の古代」69号、『古田史学会報』73号転載予定)などは、多元史観による新たな木簡研究であり、注目されるところです。
 木簡は記紀などのように近畿天皇家により政治的に改竄編集された史料ではなく、文字通りの同時代史料であるため、史料批判などが行いやすく、史料として扱いやすいのですが、他方、断片的文字史料であり、主に「荷札」として使用されたケースが多いため、歴史事実全般を解明する上では多くの限界もかかえています。
 そのような木簡研究を、わたしは今年のメイン研究テーマとしました。そして、その成果報告の第一段として、「木簡のONライン−九州年号の不在−」を3月18日の関西例会にて発表します。多くの皆さんに聞いていただき、批評していただきたいと願っています


第60話2006/01/28

鶴見山古墳出土毛髪、DNA分析へ

 今日は朝から一日、ベートーヴェンの第九(フルトヴェングラー指揮・バイロイト祝祭管弦楽団、1951年)を繰り返し聴いていました。合唱の部分では、フロイデ・シェーネル・ゲッテルフンケンと鼻歌混じりで『古田史学会報』72号の校正と編集の仕上げを行い、ようやく完成させました。後は印刷所へ郵送するだけです。それにしても、ベートーヴェンの第九を聴くと、元気が出てくるから不思議です。
 話は変わりまして、今月の21日、福岡市の上城誠さん(本会・全国世話人)から同日付けの西日本新聞がファックスされてきました。見出しには「磐井一族の毛髪初出土」「市教委DNA分析へ」の文字が。
 「洛中洛外日記」第21話で紹介した、八女市鶴見山古墳出土の銅鏡片に付着していた毛髪のDNA分析が行政により行われることになったようです。別にわたしの提言が受け入れられたというけではないでしょうが、磐井一族の毛髪が注目され、科学的に分析されることは大変よいことです。歓迎したいと思います。
 記事によれば、「DNAが分析できれば、被葬者の性別が特定されるほか、出自が在地系か渡来系か、病気の有無などから死因の解明にもつながる」とありますが、どうせやるのなら、地元の協力も得て、御子孫がいないかどうかも調べて欲しいものです。わたしたちの調査では九州王朝の御子孫の家系が一部明らかになっていますから、是非、ご協力の下、調査してもらいたいものです。
 フランスでは氷河に閉じこめられたかなり大昔のミイラ化した遺体のDNA鑑定を行い、その御子孫を発見したという話を聞いた記憶があります。日本でも同様の分析調査は可能だと思います。御子孫のプライバシー尊重を前提としながらも、取り組んでもらいたいと思いますが、いかがでしょうか。