考古学一覧

第1235話 2016/07/19

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(11)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する仮説として前期難波宮九州王朝副都説を苦悩の中から提起し、その後それを支持する研究や根拠(文献・考古学)が続出してきた経緯をご紹介してきました。ここから研究はいよいよ佳境に入ります。そこで、もう一度「三本の矢」を確認しましょう。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《三の矢》に対抗して提示した前期難波宮九州王朝副都説でしたが、この仮説研究の進展により、今まで難問だった《一の矢》《二の矢》に対する九州王朝説に立った説明ができそうな段階まで「古田史学の会」関西例会での論議は進んできたのです。その紹介の前に、前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない検討課題がありましたので、そのことをまず説明します。
 それは九州王朝はなぜ副都造営の地として難波を選んだのか、選べたのかというテーマです。難波が王都・王宮の地としてふさわしいことは、近畿天皇家も律令体制よる全国支配のための後期難波宮(朝堂院様式)を前期難波宮の真上に造営したという歴史事実、近世では豊臣秀吉が全国支配の拠点として大阪城を築城したことからもわかります。
 なお、前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者からは防衛上に難点があるとする批判意見も出されましたが、それならなぜ後期難波宮や大阪城がこの地に造営されたのかという歴史事実に基づく反論には答えられていません。聖武天皇や秀吉は防衛上不安定な地に王宮・王都や大阪城を造ったとでも言われるのでしょうか。(つづく)


第1230話 2016/07/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(8)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対して、前期難波宮九州王朝副都説という仮説を提起したのですが、この仮説を支持する考古学的事実、すなわち前期難波宮跡のある上町台地から北部九州(九州王朝中枢の筑前・筑後・他)の土器が出土していたことが寺井誠さん(大阪歴博)により報告されていました。「洛中洛外日記」224話(2009/09/12)に寺井論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)の存在を知ったいきさつを記していますので、ご参照ください。こうして、古田先生からのダメだしの一つ、前期難波宮遺構から九州の土器が出土しているのかという質問をクリアできたのでした。
 続いて、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)に記された大規模な白雉改元の儀式が、実は白雉二年二月条(652)からの切り貼りにより移動させられていたことを発見し、「白雉改元の史料批判」(『九州年号の研究』所収)として発表したのですが、652年は九州年号の白雉元年壬子の年に当たり、しかも『日本書紀』によればその年の秋には前期難波宮が完成しており、その前期難波宮であれば大規模な白雉改元の儀式が行えることに気づきました。
 通説では白雉改元の儀式は『日本書紀』の記述通り650年のこととされており、その結果、そのような儀式が行える大規模な宮殿は前期難波宮完成前の上町台地には存在しておらず、どこで行われたのかという説明に困っていました。
 この困惑は九州王朝説でも同様で、北部九州にもこの儀式が行えるような大規模宮殿跡は知られていません。古田先生もこの問題に気づいておられ、様々な試案を考えられていました。しかし、そうした大規模宮殿が北部九州に見つかっていないということは認識されていました。ですから、『日本書紀』に記されているような白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ないとする私の仮説に対して、最後は古田先生にも「検討すべき仮説」と認めていただいたわけです。
 九州年号の白雉改元の儀式を行うのは九州王朝であり、その儀式が行われたのは九州王朝の宮殿であることは当然でしょう。そしてそれが可能な規模の宮殿は日本列島内では、九州年号の白雉元年(652)に完成した前期難波宮だけです。これら考古学的根拠と文献史学の根拠と論理性により、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説へと発展していきました。こうしてようやく、大和朝廷一元論者からの《三の矢》に対抗しうる仮説をわたしたち古田学派は手にしたのでした。(つづく)

〔補論〕難波から九州王朝中枢領域である筑前・筑後の土器が出土していたことについて、それが何を意味するのかを指摘しておきたいと思います。
 この考古学的事実は前期難波宮造営時に、難波へ九州王朝中枢の土器を持った人々、すなわち九州王朝中枢地域の人々が訪れていたことを意味します。従って、九州王朝は国内最大規模の前期難波宮の造営を知悉していたことを疑えません。ということは、前期難波宮の造営を九州王朝が承認していたこともまた疑えません。
 こうした論理性からみて、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのならば、九州王朝は自らの宮殿よりも何倍も巨大な宮殿を配下の豪族(近畿天皇家)が造営することを認めたということになりますが、九州王朝説に立つ限り、こうしたことを認めることはできないはずです。
 この点、大和朝廷一元論者であれば、何の迷いもなく、「前期難波宮は近畿の孝徳天皇の宮殿であり、孝徳天皇が全国に評制を施行し、全国支配をするにふさわしい規模と様式(朝堂院)を持つのは当然であり、だから九州王朝説など成立しない」と断言できます。このことの意味を九州王朝副都説に反対される九州王朝説論者は正しく深く認識していただきたいものです。そして「他流試合」の厳しさをご理解いただければ幸いです。


第1228話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(2)

 太宰府の般若寺跡は条坊内(左郭14条4坊)にあった古代寺院とされており、もともとは筑紫野市の塔原廃寺に「甲寅年」(654年、九州年号の白雉3年。『上宮聖徳法王帝説』裏書による)に蘇我日向により創建されたものが、奈良時代に太宰府市朱雀地区(旧大字南字般若寺)に移転されたとする説が通説となったようです。もちろん、移転されたとするのは一元史観による解釈にすぎず、「移転」の痕跡が考古学的事実に基づいて証明されたわけではありません。
 なぜこのような移転説が採用されたのでしょうか。わたしの推定では、太宰府条坊造営が井上説でも7世紀末頃(藤原京造営と同時期)とされているため、654年には存在しないはずの条坊に沿った寺院など造営できないとされたのではないでしょうか。しかし、地名として残っているのは太宰府市の「般若寺」であり、塔原廃寺跡のある場所の地名は「塔原(とうばる)」であって「般若寺」ではなく、その廃寺を般若寺とするのはかなり恣意的な判断と言わざるを得ません。
 地名と考古学的事実の指し示すところ、太宰府市の字地名「般若寺」から、条坊と同じ南北方位軸をもった寺院跡が出土しているのですから、7世紀には造営されていた太宰府条坊都市の中に般若寺が創建されたとする理解が最も真っ当で無理のないものでしょう。わたしの研究では、太宰府条坊都市は九州年号の倭京元年(618年)頃に造営されたと考えていますから、その後に般若寺が条坊内に創建されたことになります。
 そこで注目されるのが、般若寺跡から出土した最も古い瓦が、なんと観世音寺と同じ複弁八葉蓮華文軒丸瓦の「老司1式」瓦なのです(わたしのfacebookの写真を参照ください)。もしこの「老司1式」瓦が般若寺の創建瓦とすれば、その創建年は観世音寺と同時期の670年(白鳳10年)頃となり、「甲寅年」(654年)よりやや遅れます。今のところ、これ以上のことはわかりませんが、九州王朝の都、太宰府に観世音寺と般若寺が条坊内に存在していたことになり、九州王朝史研究の新たな手がかりになります。


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1222話 2016/07/03

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(2)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とわたしが名付けた考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視しすることは学問的態度ではないからです。これが九州王朝説論者同士の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元史観論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》を考察します。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者からは、当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然であると説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されており、わたしは期待を持ってそれを見守っている状況です。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)


第1217話 2016/06/30

愛知県一宮市馬見塚出土の甕棺墓

 図書館で『尾張史料の新研究』(森徳一郎著、昭和12年発行、昭和63年復刻)を閲覧したのですが、その中にある「尾張馬見塚甕棺群の真相(1)」によれば、愛知県一宮市馬見塚から大量の甕棺が出土していたことが記されていました(facebookに写真掲載)。
 甕棺墓と言えば北部九州の弥生時代の代表的墓制で、吉野ヶ里遺跡からも大量に出土しています。それと酷似した甕棺群が一宮市から出土していたとのことで、北部九州以外の地からこれほどの量の甕棺が出土するのは珍しいのではないでしょうか。
 説明によれば、金属器は出土しておらず、石器が一緒に出土しており、土器も弥生と縄文の中間の様相を示しているとのことですから、北部九州の甕棺墓よりも時代が古いのかもしれません。北部九州の甕棺墓と偶然の一致なのか、両者に何らかの関係があるのかはわかりませんが、とても興味深く思われました。おそらく、私が勉強不足で知らないだけで、他の地域からも同様の甕棺墓が発見されているかもしれません。引き続き、勉強したいと思います。詳しい方がおられれば、ご教示ください。


第1216話 2016/06/26

阿志岐山神籠石の列石は折れ線構造

 一昨日、九州出張から帰宅すると、八王子市の前田嘉彦さんから郵送物が届いており、その中に筑紫野市教育委員会発行の「ちくしの散歩 国指定史跡 阿志岐山城跡」という説明書がありました。前田さんは、わたしの久留米大学での講演などにも遠くから参加される熱心な研究者です。
 阿志岐山城跡とは平成11年に発見された、太宰府の東南に位置する神籠石山城(宮地岳)で、山頂部(標高338m)付近は列石が見あたらず未完成とのことです。いただいた説明書によれば、その列石は直線に並べた列石線を連続させていく「折れ構造」であり、北部九州の他の神籠石の「曲線構造」とは異なっており、瀬戸内地方にある神籠石に類似しているとのこと(瀬戸内型)。また、列石の積み上げ技術も石材の一部を切り欠く「切り欠き技法」という高度な技術が採用されているそうです。
 こうした形状や年代、そして神籠石内部の建築物遺構や土器の発見と調査が期待されます。なお、大野城・基肄城・阿志岐山城を太宰府鎮護の三山と理解する仮説「三山鎮護の都、太宰府」(「洛中洛外日記」第815話 2014/11/01)を発表していますので、ご覧ください。前田さんからいただいた説明書はFacebookに掲載しています。


第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。


第1212話 2016/06/19

中国で発見された三角縁神獣鏡と古田先生の予告

 中国洛陽から三角縁神獣鏡が発見されたというニュースが流れ、その後、偽物説や本物説が発表されています。わたしは写真でしかその鏡を見ていないので、まだ何とも言えませんが、訪中して実物を観察された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)のご意見では日本出土のものと製造法などがよく似ており、本物とされています。
 もちろん、中国から見つかったからといって、三角縁神獣鏡中国鏡説が成立するというわけではありません。こうした事態を予測して、古田先生は30年以上前に次のように「予告」されていますので、ご紹介しましょう。

 A「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
 古田「そうだ。だからといって、和同開珎が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」

 古田武彦『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房版、p.67)

 死してなお輝く、古田先生の慧眼恐るべし、です。

〔付記〕「古田史学の会・関西」では恒例の遺跡巡りハイキングに併せて、西川寿勝さんの講演「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」をお聞きすることになりました。日時・会場は次の通りです。「古田史学の会」からの要望により特別に講演していただけることになりました。どなたでも参加できます。

○日時 2016年9月3日(土)14:00〜16:30
    博物館展示解説の後に講演(博物館会議室)
○会場 大阪府立狭山池博物館
○講師 西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館学芸員)
○参加費 無料


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。