銅鐸一覧

第195話 2008/11/09

坐摩神社の「くい」神

 先日、所用で大阪市中央区久太郎町に行ったとき、坐摩神社という神社があり何と読むのかわからず、珍しいお社だったこともあり、社務所に寄り、御由緒書をいただきました。それによると、「いかすりじんじゃ」と読み、通称「ざまじんじゃ」と記されていました。

御祭神は次の五柱で、
  生井神・いくゐのかみ
  福井神・さくゐのかみ
  綱長井神・つながゐのかみ
  波比岐神・はひきのかみ
  阿須波神・あすはのかみ

 最初の三神はいわゆる「くい」神のようです。綱長井神はおそらく「つのくい神」が本来の名称で、後に「つながい」に変化したものと思われます。というのも記紀神話で「いきくい」と「つのくい」がセットで現れる場合があり、西井健一郎さん(古田史学の会会員・大阪市)の説によれば、これは壱岐・対馬に由来する「くい」神であり、かなり古層に位置する神となります。
    坐摩神社は『延喜式』にも見える古社であり、摂津国西成郡の大社とされ、豊臣秀吉の大阪城築城にともない現在の場所に移転されたとのことです。
    この「くい」神の淵源は少なくとも弥生時代まで遡りますので、この地に弥生時代から存在していた神とすれば、滅ぼされた銅鐸王国の神々だった可能性があります。すなわち、「くい」神は銅鐸圏の神だったのではないかと想像しています。
    天孫降臨以来の倭国に滅ぼされた銅鐸圏(狗奴国)にも自らが信仰する神々や祖先神話があったはずです。その伝承は既に失われているのですが、坐摩神社のような「くい」神を御祭神として祀る神社を探ることで、その実態が解明できるかもしれません。


第145話 2007/09/24

銅鐸博物館を訪ねて

 144話の続きです。朽木村から高島市の藤樹神社に向かう途中、「古賀」という地名があり、ドキッとしました。福岡県では「古賀」地名や「古賀」姓はありふれていますが、滋賀県にもあるとは驚きでした。九州と何か関係があるのでしょうか。ご存じの方はお教え下さい。
  藤樹神社を後にして、ヴィッツは一路琵琶湖大橋へ向かいました。大橋を渡って、栗東に着いたのですが、日没まで時間があったので、野洲市立銅鐸博物館を目指しました。近江冨士で有名な三上山を見ながら国道8号線を北上したのですが、近づけば近づくほど三上山が西日に照らされ、美しく輝いていたのにはちょっと感動しました。おそらく、古代の人々もこの山を神の山として崇めていたことを疑えません。
 銅鐸博物館はこの三上山の北方向に位置します。その日は来観客も少なく、閑散としていました。展示物が素晴らしいだけに、訪れる人が少なそうなのは残念です。ここには明治14年に近くの大岩山から発見された多数の銅鐸を初め、日本最大の銅鐸も展示されており、古代史ファンは是非とも訪れるべき場所の一つです。わたしも20年以上前に一度来ており、今回で2度目です。ちなみに、入館料200円(大人)、駐車料金無料で良心的。
 こうして、わたしの滋賀県ドライブは終わりましたが、次は彦根城と湖北方面を計画中。とりわけ、甲良町の甲良神社は筑後の高良大社や天武天皇との関係が深く、今から興味津々です。


第5話 2005/06/23

銅鐸と『邪馬台国』

 来る7月10日(日)、わたしは長野県松本市で講演します。「古田史学の会・まつもと」からの招請によるもので、演題は「神々の亡命地・信州─古代文明の衝突と興亡─」です。当地には松本深志高校時代の古田先生の教え子さん達が大勢おられ、いつも以上に緊張してしまう所です。「教え子」といっても、皆さん私よりも大先輩で、そんな大先輩を前に講演するのですから、恐縮至極。
 今回の講演でも、「信州についても触れて欲しい」との要請があったので、現在、信州の古代史について猛勉強中です。主には古代神話や説話と銅鐸出土分布との関連についてお話しさせていただく予定です。そこで今回改めて銅鐸について勉強したのですが、大和(奈良県)は全銅鐸文明期間において一度も銅鐸の中心分布に位置したことがないのですね。この事実は良く知られていますが、考えてみるとこれは「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)論争にとって決定的な考古学的事実ではないでしょうか。近畿・東海などにおける弥生時代を代表する遺物「銅鐸」の出土が多くない大和に倭国の中心国家が存在したとは、人間の平明な理性では、ちょっと言えないと思います。「邪馬台国」畿内説の人達はこれをどう説明できるのでしょうか。他人ごとながら思わず同情してしまいました。
 もちろん、「共同体の祭器銅鐸が統一国家の出現により捨てられた」等々、様々な「屁理屈」(失礼)がこねられているわけですが、だったら統一国家のシンボルとして、弥生時代の大和から、他地域を圧倒するような遺物が出土しているのか、という質問にはどう答えられるのでしょうか。わたしは、この疑問を松本での講演会で話してみようと考えています。大先輩達の胸を借りて、銅鐸分布が示す古代の真実に挑戦です。