観世音寺一覧

第2077話 2020/02/07

観世音寺創建年を再考する(1)

 学問研究は真実を求め、真実に至るための営みですが、それは一直線に到達できるものではなく、立ち止まったり右往左往、ときには引き返すということもあります。また、自説が論証や実証により成立し、真実に至ったと自分は思っていても、それを超える他者の研究により自説が間違っていたり不十分であることがわかるのは、学問が持つ本質的な性格です。そのことをドイツの学者、マックス・ウェーバー(1864-1920)が、1917年にミュンヘンで行った講演録『職業としての学問』に次のように記しています。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 わたしはマックス・ウェーバーのこの指摘は学問の金言と思っていますし、〝学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなる〟ということを頭では理解しているのですが、自説の誤りや欠点を自ら気づくことは容易ではありません。そのため、研究会での口頭発表や論文発表などで自説を開示し、他の研究者の評価に委ねなければなりません。幸い、わたしの周囲には真摯に拙論を批判したり、疑問を投げかけてくれる信頼すべき友人たちがいます。こうした学問的環境こそ、真理に至る(近づく)ためには不可欠なのです。「古田史学の会」の存在意義の一つはこうした点にあります。
 先に発表した「洛中洛外日記」2073話「難波京朱雀大路の造営年代(8)」において、次のように記しました。

 〝都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。〟

 この観世音寺に対するわたしの認識に対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から本質的な質問と指摘をいただきました。いずれも重要な問題を含んでおり、自説を見直す上でも良い機会ですので、観世音寺の創建について改めて考察することにしました。(つづく)


第2073話 2020/01/30

難波京朱雀大路の造営年代(8)

 都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。更に、年代が経るにつれて尺が長くなるという一般的傾向とも両者の関係は整合しています。
 しかし、意外なことに大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺とそれよりも先に造営された太宰府条坊(井上信正説)の設計尺は、前者が29.6〜29.8cm、後者が29.9〜30.0cmと、わずかですがより古い条坊設計尺の方が大きいのです。ただし、両者の尺の推定値には幅がありますから、より正確な復元研究が必要で、現時点では不明とすべきかもしれません。しかしながら、652年に造営された前期難波宮設計尺(29.2cm)よりも大きいことから、前期難波宮と太宰府条坊の造営の先後関係については自説(太宰府条坊の造営を七世紀前半「倭京元年」頃とする)の見直しを迫られています。
 自説の見直しや撤回は学問研究においては避けられないことです。なぜなら、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)だからです。わたしはこの言葉が大好きです。(おわり)


第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2023話 2019/10/27

『九州倭国通信』No.196のご紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.196が届きましたので紹介します。
 同号には拙稿「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の『宿痾』〈後編〉」を掲載していただきました。本稿は『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)に掲載された注目すべき論文をピックアップして、九州王朝説の視点で解説したものです。
 今回の後編には次の収録論文を取り上げ、高倉論文の先進性を評価し、他方、森論文と井形論文が大和朝廷一元史観の『宿痾』に冒されていることを指摘し、批判的に解説しました。

○高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱」
○森弘子「筑紫万葉の風土」
○井形進「大宰府式鬼瓦考」


第1930話 2019/06/30

白鳳13年、筑紫の寺院伝承

 対馬の天道法師伝承を調べていてある現象に気づきました。白鳳13年(673)に生まれた天道法師は宝満山を経由して九州王朝の都の太宰府(禁門)に向かったことが「天道法師縁起」に記されています(同縁起には「天武天皇白鳳二年癸酉」と後代改変型で表記)。その当時の宝満山は山岳信仰の聖地と思われるのですが、いつ頃の開基かを確認するため『竈門山旧記』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ。宝満山の別名に竈門山や三笠山があります)を読み直したところ、「天武天皇御宇白鳳二年」とありました。この白鳳年号は「天道法師縁起」と同様に後代改変型の「白鳳」であり、本来型は「白鳳十三年癸酉」(673)と考えられます。このことから、天道法師が生まれた年に竈門山神社は開基されたことになります。この年次の一致は偶然と思われますが、わたしはこの「白鳳十三年癸酉」という年次にいくつか思い当たることがありました。
 たとえば、福岡県久留米市高良山に鎮座する筑後一宮の高良大社の『高良記』に次のような「白鳳」年号記事が見えます。

 「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ、大祝ニシタカイ、大菩垂亦ニテ、ソクタイヲツキシユエニ、御祭ノ時モ、御遷宮ノヲリフシモ、イツレモ大菩御トモノ人数、大祝ニシタカウナリ」
 「御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」

 このように高良玉垂命の御法心を「白鳳二年」と記すものと、「白鳳十三年、天武天皇即位二年癸酉」とする二例が混在しています。これは本来の九州年号の「白鳳十三年癸酉」(673)であったものが、その年が『日本書紀』の天武二年癸酉に当たるため、「天武天皇白鳳二年」とする改変型が発生し、その両者が不統一のまま同一文書内に混在した史料です。
 この他に、筑後国竹野郡の清水寺も「白鳳二年癸酉清水寺観世音建立」(673)と伝えられています(「久留米藩社方開基」)。肥前の『背振山縁起』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ)も「白鳳二年癸酉(673)房舎経営寺院所々建立」と記されています。
 このように九州王朝(倭国)の中枢領域である筑前・筑後・肥前の山岳信仰の聖地における、白鳳13年(673)の寺社建立などの伝承が遺されていることは偶然とは思えません。ここからは想像ですが、白鳳13年に九州王朝の有力者が仏門に入ったことなどを記念して、北部九州の聖地に寺社の建立などが進められたのではないでしょうか。特に『高良記』に見える「御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」という記事が、そうした想像を抱かせるのです。
 なお、太宰府の観世音寺が白鳳10年(670)に建立されていることも、この白鳳13年の諸伝承と無関係ではないような気がします。


第1889話 2019/05/08

京都市域(北山背)の古代寺院(5)

 京都東山の「八坂の塔」として有名な五重塔には法観寺という正式名があることはあまり知られていません(俗称は八坂寺)。元々は塔の北側に金堂や講堂などがあったと推定され、出土した瓦の編年から七世紀第3四半期の創建とされています。昭和53年の塔基壇調査では心礎の巨石が創建時のままで移動していないとのことで、三度の焼失のたびに同じ位置で再建されたことが判明しました。
 伝承では、聖徳太子が四天王寺建立のため山背国愛宕郡の材を求めたとき、この地が気に入り、一堂を建てたことが法観寺の始まりとされています。しかし、七世紀前半の飛鳥時代の遺物が出土しないことから、この伝承は否定されています。心礎の位置(高さ)が基壇上にありますので、七世紀後半頃(白鳳時代)の創建とする見解にわたしも賛成です。白鳳10年(670)年創建とされる太宰府・観世音寺の五重塔もこの様式です。もし飛鳥時代(七世紀初頭頃)であれば心礎は法隆寺五重塔のように地下に埋まっていると思われます。
 他方、広隆寺と同様に法観寺も聖徳太子伝承を持つことには注目すべきです。それは九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承があって、それが後世において聖徳太子伝承として伝えられた可能性があるからです。このように京都市の東西(東山区と右京区)に聖徳太子伝承を持つ大形寺院が現存することは、京都市域が古代において九州王朝との強い関係を持っていたことをうかがわせ、古田史学・多元史観にとって重要な研究課題です。(つづく)


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)


第1850話 2019/03/06

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(2)

 「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の論稿「九州見聞考」は次のような書き出しで始まります。

 〝二〇〇九年に社会人生活を一応卒業した私は、翌二〇一〇年、九州・福岡の西南学院大学・国際文化学科に学士入学し、考古学を専門とする高倉洋彰教授(九州大学出身、文学博士、高倉は旧姓で戸籍上の姓は石田さん)のゼミに所属した。〟

 ちょうど「洛中洛外日記」1841話で高倉さん(西南学院大学名誉教授)の論文「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」について論じていたこともあり、この小笹稿の書き出しに誘われて全文を読み直すことになったのです。小笹稿では高倉さんについて次のように紹介されています。

 〝高倉教授自身の弁によれば、九州大学を出たあと、当初は福岡県に勤務する考古学者であったご本人は、縁あって観世音寺に婿養子として入り、ときを経て住職になった。
 高倉氏の九大時代の恩師が観世音寺の発掘調査を担当した鏡山猛氏なので、この際のキューピットは鏡山氏だったのではないか、つまり鏡山氏は高倉氏にとって単なる学問上の恩師ではなく、観世音寺との縁を取り持ち、高倉氏の人生に大きな転機をもたらした恩人なのではないかと、私は勝手に推察している。〟

 この記事により高倉氏が観世音寺のご住職であり、鏡山猛氏のお弟子さんだったことをわたしは知りました。鏡山氏といえば太宰府条坊復元案を提起された九州考古学界の重鎮です。わたしも、当初、鏡山説に基づいた太宰府条坊研究や仮説を提起していましたので、鏡山氏は多くの影響を受けた先学のお一人です。(つづく)


第1841話 2019/02/19

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(5)

『大宰府の研究』には、先に紹介した井上信正論文「大宰府条坊論」の他にも太宰府都城編年に関して大きなインパクトを持つものがあります。その一つが高倉彰洋さん(西南学院大学名誉教授)の「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」です。それは主に文献史学の研究により、観世音寺の伽藍完成を朱鳥元年(686)とするもので、この説を以前から高倉さんは主張されていました。
 実は太宰府都城編年において、最も矛盾が集中して現れるのが観世音寺創建年についてでした。井上信正説が最有力説として登場してからは、観世音寺の扱いが研究者間で密かな課題(悩みの種)となっていました。というのも観世音寺創建年については次のような諸問題(矛盾)が山積していたためでした。

1.通説では、天智天皇が亡き母斉明天皇を弔うために670年頃に観世音寺建立を発願し(『続日本紀』)、落成は8世紀中頃の天平18年(746)とされてきた。その間、80年近くを要しており、他の主要寺院には見られない長期の造営期間である。
2.他方、7世紀末頃には既に観世音寺が存在していたことを示す史料がある(注①)。
3.創建瓦の老司Ⅰ式瓦は藤原宮式瓦よりも古く、従来は7世紀後半頃(天智期)に編年されていた。後に、藤原宮式中段階の瓦と同時期とする見解が発表された(注②)。
4.観世音寺の本尊仏(注③)は百済伝来の阿弥陀如来像(銅製)と伝えられており、百済滅亡以前に渡来したと考えざるを得ない。そうであればその阿弥陀如来像を安置した観世音寺本堂は660年頃には存在していなければならない。
5.国内最古の銅鐘とされる観世音寺の鐘(国宝)は7世紀後半の鋳造と見られている(注④)。
6.『二中歴』などの後代史料に観世音寺を「白鳳年間」「白鳳10年(670)」の創建とする記事が見える(注⑤)。

 以上のような諸事実を直視すれば、観世音寺の創建年代は早ければ白鳳10年(670)、遅くても藤原宮完成年頃(694年遷都。『日本書紀』)となります。ところが観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期よりも、その南に拡がる条坊都市の成立が早いとする井上信正説が最有力説として登場したために、観世音寺創建年代を7世紀後半から末頃にしてしまうと、太宰府条坊都市の成立は大和朝廷の都藤原京よりも早くなってしまい、このことは一元史観の学界にとって不都合な事実となってしまいます。もちろん九州王朝説に立てば、当たり前のこととして受け入れることができます。このことを古代史学界や考古学界の識者が知らないはずがありません。ですから、観世音寺創建年をより新しくしたいという動機が諸論文に見え隠れするようになりました。
 そのような学界の状況下で、今回紹介した高倉論文は観世音寺伽藍完成を朱鳥元年(686)とするものですから、それを認めると太宰府条坊都市の造営は藤原京よりも数十年は早くなってしまうのです。わたしが高倉説が九州王朝説から見れば不十分ではあるものの高く評価するのはこの点にあります。
 更に高倉論文には、観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」を従来説の7世紀後半頃(天智期)よりも新しく編年(藤原宮式中段階)した岩永省三さんの説に対して次のような反論が論文中の「注17」でなされており、注目されます。

 「観世音寺伽藍の完成を朱鳥元年としたとき、創建瓦の老司Ⅰ式の年代が課題となる。近年の老司Ⅰ式に関する諸説を検討した岩永省三は、本薬師寺式系譜に有り、藤原宮式の中段階に併行するとする〔岩永二〇〇九〕。藤原宮中段階の瓦は藤原宮大極殿に葺かれている。大極殿の初見が文武二年(六九八)だから、中段階の瓦も六九八年以前に造られていたことになる。ただ、岩永が指摘するように藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。堂宇の建設に際して、まず骨格となる柱を建て、未完成の堂宇の内部や板材などの建築素材を雨の害から守るために瓦を葺くから、造瓦は大極殿造営事業の初めに行われる。それは六八〇年代前半であり、朱鳥元年に観世音寺伽藍の完成を考えたとき、老司Ⅰ式は藤原宮の瓦より数年早くなることになるが、国宝銅鐘の上帯・下帯を飾る偏行唐草文がその可能性を強める。」(517頁)

 老司Ⅰ式瓦の年代を藤原宮式まで新しく編年するという岩永説に対して、「藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。」とする高倉さんの批判は重要です。例えば大宰府式鬼瓦は立体的で美術品としての芸術性も高いのですが、大和朝廷の藤原宮の「鬼瓦」には曲線模様だけで「鬼」はなく、平城宮の時代になってもその鬼瓦の鬼の文様は扁平です。すなわち、大和朝廷の都の鬼瓦よりも地方都市とされた太宰府の鬼瓦の方が「王朝文化」を体現していることは著名です。
 それと同様に軒瓦も大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式が「精緻流麗」とする高倉氏の指摘は急所を突いたものです。しかし、それではなぜ太宰府の瓦の方が「精緻流麗」なのかという、学問としての本質的な問いへは進まれていません。ここに高倉さんの依って立つ大和朝廷一元史観の限界を見ることができます。
 ところが、九州王朝説に立てば、大和朝廷に先立つ列島の代表王朝「倭国」の都、王朝文化が先駆けて花開いた太宰府の瓦が「精緻流麗」であることは当然のこととして受け止めることができます。また、観世音寺が藤原宮(694年遷都)よりも古く、さらに太宰府条坊都市はその観世音寺(白鳳10年[670]創建)よりも古いという、井上信正説が通説の太宰府編年に鋭く突き刺さっていることも見えてくるのです。(つづく)

(注)
①「(朱鳥元年)観世音寺に封二百戸を施入する。」(『新抄格勅符抄』)
②岩永省三「老司式・鴻臚路館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』№7 2009年
③講堂の本尊は観世音菩薩立像(塑像)。天平年間の作製と見られている。
④「戊戌年」(698年)銘を持つ妙心寺鐘(国宝、京都市)の兄弟鐘とされており、観世音寺鐘の方が古く編年されている。
⑤『日本帝皇年代記』『勝山記』に白鳳10年(670)の創建と記されている。

※観世音寺に関しては次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

第219話 観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」の論理
第336話 『勝山記』の観世音寺創建記事
第405話 太宰府編年の再構築
第410話 観世音寺の水碓(みずうす)
第587話 観世音寺と観音寺
第588話 阿部周一さんからの「鎮西」試案
第811話 山崎信二さんの「変説」(1)
第1053話 瓦の編年と大越論文の意義
第1178話 観世音寺式寺院の意義に新説か
第1179話 観世音寺の創建年と瓦の相対編年
第1182話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)
第1186話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)
第1295話 井上信正説と観世音寺創建年の齟齬
第1392話 『二中歴』研究の思い出(5)
第1412話 観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦
第1638話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)
第1639話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)
第1640話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)
第1641話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)
第1642話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)
第1644話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)
第1694話 観世音寺古図の五重塔「二重基壇」
第1696話 観世音寺古図の史料性格
第1697話 「観世音寺古図」と資財帳の不一致
第1698話 「観世音寺古図」と出土遺構の不一致
第1699話 五重塔「創建基壇」の階段
第1772話 土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)


第1799話 2018/12/06

「須恵器坏B」の編年再検討について(4)

 本連載では、佐藤隆さんによる「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説が最有力説としてほとんどの考古学者に支持されていることと、天武期造営説を発表された小森俊寬さんの論法や論証が学問的に成立していないことを縷々説明してきました。その結果、7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期についての再検討が必要となったことを明らかにしました。この点について具体的事例により説明します。
 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)記載の前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、その発生時期が7世紀中頃以前にまで遡る可能性に気づいたわたしは、大宰府政庁Ⅰ期から出土した須恵器坏Bのことを思い出しました。
 7世紀における九州王朝(倭国)の都がおかれた太宰府には条坊都市の北端に大宰府政庁遺構があります。政庁遺構は3段階にわかれており、最も古い政庁Ⅰ期遺構は比較的小規模な掘っ立て柱建物で、通説では天智期(662〜671年)の造営とされています。Ⅱ期は礎石を持つ瓦葺きの朝堂院様式の宮殿で、通説では『大宝律令』による「大宰府」とされ、8世紀初頭の造営とされています。現在、地表に残されている礎石はⅢ期のもので、平安時代(10世紀)の造営とされています。なお、Ⅰ期は「新・古」の二段階があります。
 政庁Ⅰ期が天智期とさた考古学的根拠はその整地層から出土した須恵器坏Bでした。他方、太宰府市の考古学者、井上信正さんの研究などから太宰府条坊は政庁Ⅰ期の時代(天智期〜8世紀初頭)の造営と見られており、7世紀末頃の藤原京造営と同時期とされました。すなわち、政庁Ⅰ期や条坊都市の造営は7世紀末頃であり、7世紀前半には遡らないというのが考古学者の判断です。
 他方、古田学派内では大宰府政庁や条坊都市を古く考える研究者が多く、わたしも文献史学の分野から太宰府条坊都市の造営開始時期を7世紀前半頃、政庁Ⅱ期の宮殿や観世音寺の創建を670年頃(白鳳年間、661〜684年)とする研究を発表してきました。しかし、この説には出土土器編年と対応していないという弱点がありました。その象徴的土器が政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bでした。7世紀後半の指標とされてきた須恵器坏Bの存在は自説にとって不都合な出土事実でした。ちなみにその坏Bは藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)の出土土器の図(229頁)に紹介されています。(つづく)


第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。


第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)