古賀達也一覧

第2126話 2020/04/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(7)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』には各種の偽籍がなされていると考えられます。たとえば、班田の没収を避けるため、死亡者を除籍せずに年齢加算し登録するという偽籍による高齢者の「増加」現象。兵役や徴用を逃れるために男子を戸籍に登録しない、あるいは女性として登録するという偽籍による女性比率の「増加」現象。そして、婚姻による他家への転籍者を除籍せず、班田を維持するための偽籍による高齢女性の「増加」現象。更には、班田受給年齢の六歳にはやく到達するため、「二倍年齢」による年齢加算という偽籍による幼年者「減少」現象などの痕跡が見て取れます。
 「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)が飛び抜けた超長寿として偽籍されている理由は不明ですが、父が「従七位下粟凡直田吉」として登録されていることから、「従七位下」という位階を持つために偽籍されたのかもしれません。この偽籍によりどのようなメリットがあるのかはわかりませんが、たとえば五位以上であれば「位田」が受給できますから、「従七位下」でも何らかの特典があったのかもしれません。今後の研究テーマにしたいと思います。
 延喜二年『阿波国戸籍』のように、偽籍が顕著に認められるケースもあれば、それほどでもない戸籍もあります。しかし、古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を充分に検討したうえで使用しなければなりません。文献史学における基本作業としての「史料批判」が古代戸籍にも不可欠なのです。すなわち、「史料批判」というどの程度真実が記されているのかという基本調査が必要です。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという「史料事実」を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからです。(つづく)


第2125話 2020/04/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(6)

延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)の超長寿は、少年期における「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば説明が一応は可能と考えました。すなわち、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれないとしました。この推定と類似した現象が南洋のパラオに遺っていることを古田先生が紹介されています。
 『古代史の未来』(明石書店、1998年)の「24 二倍年暦」において、古田先生は古代日本や中国で採用された二倍年暦の発生地を南太平洋領域(パラオ)とされ、「パラオ→日本列島→黄河領域」という二倍年暦の伝播ルートを提唱されました。そして、「25 南方民族征服説」ではパラオに現存する墓石の写真を掲載し、「パラオの習俗(二倍年暦) ― 墓石に1826生、1977没」と紹介されています。古田先生からお聞きしたのですが、パラオでは近年でも年齢を「二倍年齢」で計算する習俗が遺っており、この墓石のケースでは、1977年に「二倍年齢」の151歳(一倍年暦での75.5歳)で没した人の生年を、一倍年暦での151歳と誤解して逆算し、その結果、「1826生」と墓石に記されたものと考えられます。
 このように、新しい一倍年暦と古い習俗「二倍年齢」が併存している社会(パラオ)ではこのような現象が発生しうるのです。延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿表記も、偽籍と共にこの可能性も考慮する必要があるのです。(つづく)


第2124話 2020/04/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(5)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える長寿者の多さを、二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」表記として説明することは困難と一旦は考えたのですが、たとえば同戸籍中に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)を精査すると、戸主(粟凡直成宗)の両親(父98歳、母107歳)だけが存在し得ないような長寿であることから、没後も班田没収を避けるため除籍せず、造籍時に年齢加算して登録するという偽籍が為されたと考えざるを得ません。しかし、両親以外の家族の年齢は通常の一倍年暦による年齢構成であることから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたようにも思われます。更に、両親とその子供たちとの年齢も離れすぎており、不自然でした。
 そこで一案として、両親が成人する頃までは「二倍年齢」で年齢表記がなされ、その後は通常の一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。具体的には次のようです。
 戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳ですから、母の出産年齢は107-68=39歳です。これが「二倍年齢」表記であれば半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ないと思われます。
 次に長女(宗刀自賣)と二人目の子供である長男(戸主)の年齢差が11歳ありますので、やや間が開いているように思われます。そこで、長女の年齢もしばらくは「二倍年齢」で計算されていたと考えれば、その年齢差は5.5歳となり、ややリーズナブルとなります。もちろん両者の誕生の間に兄弟姉妹が生まれていたが、延喜二年の造籍時には亡くなっていたケースもありますので、実際に11歳差だったのかもしれません。
 このような少年期の「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が一応は可能です。もしそうであれば、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。現代日本でも、わたしが子供の頃には「満年齢」と「数え年齢」が併存していたようにです。(つづく)

【延喜二年『阿波国戸籍』、「粟凡直成宗」の戸】
戸主 粟凡直成宗 57歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 98歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 107歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 54歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 36歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 31歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 29歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 20歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 29歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 29歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 14歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 11歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 68歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 47歳
(後略)


第2121話 2020/03/28

「大宝二年籍」断簡の史料批判(4)

 平田耿二さんは著書『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)において、延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える長寿者の多さ、そして若年層と成人男子の少なさは、約三十年間に及ぶ「偽籍」という行為(死亡者の除籍を行わなかった)とその後の約四十年間に出生者の戸籍登録を徐々に行わなくなった結果であるとされました。それは延喜二年(902)に至る七十年間の造籍時(六年毎に造籍を実施)に「不正戸籍登録」が、それこそ「地方官僚」ぐるみで実施されたことを意味します。もはや中央政府の権威や権力が地方(阿波国)に及んでいなかったことを同戸籍は示しているのではないでしょうか。
 わたしは平田さんの研究を知り、同戸籍を「二倍年齢」の痕跡とする論文発表を断念しました。もし、これら先行研究を調べもせずに発表していたらと思うと、ぞっとします。まさに冷や汗ものでした。
 ところが、同戸籍に記された各戸の家族構成とその年齢を精査してみると、単に死亡者の年齢を造籍時に加算するという「偽籍」操作だけでは説明しにくい家族の存在に気づきました。たとえば次の「粟凡直成宗」の戸(家族)です。

戸主 粟凡直成宗 57歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 98歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 107歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 54歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 36歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 31歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 29歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 20歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 29歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 29歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 14歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 11歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 68歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 47歳
(後略)

 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの「高齢出産」(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような「高齢出産」は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたとする単純な「偽籍」ではうまく説明できないのです。そこで、わたしはこの両親の年齢は「二倍年齢」あるいは「二倍年齢」加算の結果ではないかと考えました。(つづく)


第2120話 2020/03/26

「大宝二年籍」断簡の史料批判(3)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える、当時としては有り得ないような多くの長寿者は「二倍年齢」表記によるものではないかと考えたわたしは、古代戸籍に関する先行研究を調査しました。そうすると、律令支配体制が形骸化していた九~十世紀頃には、班田収受で得られた田畑の所有権を維持するために、造籍時に死亡者の除籍を届け出ず、年齢を書き加えて生きていることにするという「偽籍」行為が頻出していたことが研究により判明していることを知りました。研究の結論は当然のことながら、延喜二年『阿波国戸籍』に見える「高齢者」たちは既に亡くなっており、戸籍に登録されているからといって、その当時に長寿者がいたと判断することはできないというものでした。
 そこで、『阿波国戸籍』の長寿表記が「偽籍」という行為(死亡者の除籍を行わなかった)の結果なのか、「二倍年齢」表記によるものなのかを検討してみました。その結論は、「二倍年齢」表記と考えることは困難ではないかというものでした。たとえば、同戸籍から親子関係(特に母子関係)がわかる人物があり、もし「二倍年齢」であればその年齢差は、おおよそ一世代を二十年とするなら、二倍表記で四十歳ほどの年齢差が多いはずです。しかし、実際は通常の一世代差の二十歳差くらいでした。例えば八十歳の高齢者の子供の年齢が六十歳という具合です。もし「二倍年齢」であれば、八十歳(一倍年齢の四十歳)の親と四十歳(一倍年齢の二十歳)の子供というような年齢表記差になるはずですが、そうではありませんでした。
 また同戸籍の「偽籍」の痕跡として、子供や成人男子の数が極めて少ないということがあげられます。これも徴用・徴兵という義務から逃れるために、男子の戸籍登録をしなかったと推定されています。こうして、「偽籍」という概念により、長寿表記の謎が解決したと思われたのですが、更に同戸籍の年齢を精査すると、事態は複雑な問題へと発展しました。(つづく)


第2119話 2020/03/25

「大宝二年籍」断簡の史料批判(2)

 わたしが古代戸籍に関心を抱いた理由は、各種史料に見える古代人の長寿記事(二倍年齢表記)の存在により、「二倍年暦」の痕跡が古代戸籍に残っているのではないかという作業仮説(思いつき)が発端でした。具体的には、延喜二年(902)成立の『阿波国戸籍』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで「二倍年齢」表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布は次の通りです。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館

同戸籍はこのような現代日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」ではないかと考えたわけです。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする、古い「二倍年齢」表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったのでした。ところがこれが大きな思い違い。早とちりでした。(つづく)


第2118話 2020/03/23

映画「ちはやふる」での「難波津の歌」

 先日、映画「ちはやふる -結び-」(2018年公開、同シリーズ2作目)をテレビで視ました。広瀬すずさん主演のこの映画は競技カルタと高校カルタ部という斬新な舞台設定で、青春映画として人気を博した作品です。原作は末次由紀さんによる同名のコミックで、映画脚本もよく練られていました。何よりも広瀬すずさんの可愛さと若さ、そしてカルタに挑む真剣な表情が全面的に表現されており、おりからの新型ウィルス騒動をしばし忘れさせてくれました。
 競技カルタといえば、近江神宮で毎年大会が開催されていることぐらいしかわたしは知らなかったのですが、映画の中でルール解説などもあり、勉強になりました。何よりも、競技開始のとき、最初に詠まれるのが古代史でも有名な「難波津の歌」であることを知り、感銘を受けました。その他の著名な和歌も詠まれており、いくつかは諳(そら)んじることができました。
 特に映画のタイトルでもある「ちはやふる」、そして「難波津の歌」は九州王朝研究でも注目されてきた古歌で、わたしも三十代の頃に研究テーマとしてきたものです。古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)に掲載された拙稿「『君が代』『海行かば』、そして九州王朝」は「難波津」博多湾岸説に立った論文で、論証は拙いのですが、わたしにとって初めての著作であり、とても懐かしく大切な一冊です。
 そんなこともあって、映画「ちはやふる」を視て、三十年前のことをいくつも思い出しました。

《難波津の歌》『古今和歌集』仮名序
 難波津に 咲くやこのはな 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 〈王仁〉
 ※競技カルタでは「今を春べと」と詠まれるそうです。

《「ちはやふる」の歌》『万葉集』巻七(1230)
 ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ) 〈作者未詳〉
 ※映画のタイトルは「ちはやふる」ですが、この歌は「ちはやぶる」と詠まれてきました。

《「ちはやふる」の歌》『古今和歌集』「小倉百人一首」
 ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは  〈在原業平〉
 ※こちらは「ちはやふる」とされていますから、映画タイトルはこの歌に従ったものと思われます。


第2117話 2020/03/22

「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)

 3月17日、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された「市民古代史の会・京都」主催の講演会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が古代の「二倍年暦」について講演されました。古田先生が倭人伝研究で存在を明らかにされた「二倍年暦」について紹介され、その影響や痕跡が現代日本にも残っていることなどを資料に基づいて、初めて聞く人にもわかりやすく説明されました。
 そのとき紹介された古代史料に御野国(美濃国)の「大宝二年籍」断簡がありました。同戸籍断簡は、わが国に現存する最古(大宝二年、702年)の戸籍の一つで、御野国の他に筑前国と豊前国の大宝二年戸籍断簡が正倉院文書として残っており、当時の家族制度研究における基礎史料とされています。わたしも25年ほど前に古代戸籍研究を行ったことがあるのですが、勘違いや試行錯誤しながらの研究でした。良い機会ですので、当時の失敗談も含めて、古代戸籍の史料批判の難しさなどについて紹介することにします。(つづく)


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2105話 2020/03/07

三十年ぶりの鬼室神社訪問(10)

 残念ながら、鬼室集斯墓碑の削られた一面の碑文を解読できる技術は未だに開発されていません。従って、墓碑を対象とした実証的な研究を進めることは不可能なので、わたしは論理的に考察を進めました。それは次のような論理展開でした。

①他の三面に残された碑文は、墓の被葬者名(鬼室集斯)、その没年(朱鳥三年戊子十一月八日)、墓の造営者名(庶孫美成)である。
②もし、残る一面に記録すべき文があったとすれば、「庶孫美成」がこの墓を造った造立年と考えるのが穏当であろう。
③その時期は、「庶孫」が造ったとあることから、没年からそう遠く離れた後代ではないと思われる。「室」の字体の筆法からも七世紀末頃まで遡る可能性が高い。
④しかし、何らかの事情により、その造立年は後世のある時点で削られたこととなる。
⑤その造立年には後代の認識や利害からして、削るべき必要性があったと考えざるを得ない。
⑥この②③④⑤を説明できる仮説として、造立年が九州年号の「大化」年間(695-703年)であり、例えば「大化○年○月之建」のようなが碑文があったとするケースが想定される。
⑦すなわち、九州年号「朱鳥」(686-694年)の次の九州年号「大化」が記されていた場合、『日本書紀』成立後の後世において、「朱鳥三年戊子」(688年)に没した鬼室集斯の墓が『日本書紀』に記された大化年間(645-649年)に造られたことになる碑文の年次は「誤り」と認識されてしまう。
⑧その結果、九州年号の記憶が失われた後世において、碑文の「大化」を不審として削られたとする仮説が論理的に成立する。

 以上のように、「削られた碑文」という作業仮説を説明するための論理展開(論証)は進みました。碑面そのものからの碑文復元という実証的説明(実証)は困難ですが、わたしは諦めることなく、その他の方法・分野の調査研究により、この仮説が証明できる日が来ることを願っています。(おわり)


第2104話 2020/03/06

三十年ぶりの鬼室神社訪問(9)

 鬼室集斯墓碑研究史において、誰も取り上げなかったテーマについて、本シリーズの最後に紹介します。それは「削られた碑文」というテーマです。
 古田先生と鬼室集斯墓碑の現地調査を行ったときのことです。八角柱の墓碑には一面おきで計三面に次の文字が彫られています。

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉

 一面おきですから、八面の内の四面に文字があってもよさそうなのですが、正面の裏側の面には文字が見えません。その面には大きな傷跡があり、本来は文字があったのではないかとわたしは考え、古田先生に「これだけ大きく削られていると、元の文字の復元はできませんね」と申し上げました。そうしたら先生から、「将来、復元技術が開発されるかもしれません。まだ諦めないでいましょう」と諭されました。こうした困難な調査研究であっても、簡単には諦めない研究姿勢とタフな学問精神を、わたしは古田先生から実地訓練で学んできたことを、今更ながら思い起こし、感謝の念が湧き上がってきます。(つづく)


第2103話 2020/03/06

6月に久留米大学で講演します

 本年も久留米大学主催公開講座で講演させていただきます。昨日、同案内のパンフレットが届きました。下記の通り、正木さんとわたしと福山先生(久留米大学教授)による講演となります。皆様のご参加をお待ちしています。

会場:久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
講座名:九州王朝論2020 ―令和記念―

○6月7日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「九州王朝(弥生編)」
古賀達也(古田史学の会) 「『日本書紀』に息づく九州王朝 令和二年の日本紀講筵」

○6月14日(日)12:30~16:00
福山裕夫(久留米大学文学部教授) 「筑後の古代遺跡から」
正木 裕(大阪府立大学講師・古田史学の会) 「継体と『磐井の乱』の真実」