日本書紀一覧

第500話 2012/12/5

『日本書紀』の中の短里

 第499話で紹介した正木裕さんとの会話で、古代貨幣以外にも『日本書紀』の中に見える「短里」についても話題に上りま
した。南嶋と九州王朝との関連記事について、下記の天武十年八月条の「五千余里」が短里表記であり、この「京」とは太宰府のことと正木さんは指摘されまし
た。

 「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」(『日本書紀』天武十年八月条)

 この記事の「五千余里」を短里表記とする見解は20年以上も前から出されていました(どなたが最初に発表されたのかは失
念しましたが)。太宰府から短里(1里約77m)であれば、五千余里は約400km弱となり、種子島までの距離としてぴったりです。これが、大和からとす
ると短里でも長里(1里約450~500m)でも種子島には着きません。すなわち、短里では種子島まで全く届きませんし、長里では行きすぎてはるか沖縄の
南方海上となってしまうからです。
 従って、この記事は「短里」存在の証明と、「京」が九州王朝の都(太宰府)であることの証拠でもあるのです。そしてこれらのことから、天武十年(681)の多禰國の記事は九州王朝史書からの盗用と考えざるを得ないのです。
 ここまでは古田学派では「常識」のことなのですが、正木さんと検討したのはこの後の問題でした。それでは日本列島ではいつ頃まで短里が使用されたのかというテーマです。(つづく)


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第443話 2012/07/16

木簡に記された七世紀の位階

今日は祇園祭の宵山です。一年中で京都が最もにぎやかな夜。そして、明日はクライマックスの山鉾巡行です。今朝から御池 通には観覧客用の大量のイスが、車道二車線にびっしりと並べられています。これだけのイスをどこに保管していたのだろうと、疑問に思うほどの数のイスが河 原町通から新町通までの間に並べられるのですが、これも京都の風物詩一つです。

その一方で、北部九州を襲っている記録的豪雨。わたしの久留米市の実家や、うきは市の親戚の安否が心配で、毎日のように電話しています。ところが、京都市も北区で川が氾濫し、驚いています。拙宅は御所の近くですので、地形的にやや高台になっており、雨水が溢れる心配はないようです。さすがは「千年の都」 だけに、御所のある場所は歩いていても気づかないのですが、微妙に「高台」になっているのです。

さて、「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武14年条(685) 以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要です が、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。

たとえば、『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されて おり、一緒に出土した「辛巳年」(681年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。

したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、 史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な検証が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。


第439話 2012/07/12

大化二年改新詔の造籍記事

 「戸籍」木簡の出土に触発されて、古代戸籍の勉強をしています。特に『日本書紀』に記された造籍記事を再検討しているのですが、大化二年(646)改新詔にある造籍記事に注目しました。

 大化二年改新詔の中の条坊関連記事や建郡記事が、696年の九州年号「大化二年」の記事を50年ずらしたもので、本来は藤原京を舞台にした詔勅であったとする説(注1)を、わたしは発表しましたが、同じ改新詔中の造籍記事もこれと同様に九州年号大化二年の記事を50年ずらしたのではないかという疑いが生じてきました。すなわち、「庚寅年籍」(690年)の六年後(696年)の造籍記事ではなかったかと考えています。7世紀末頃の戸籍は通常6年ごとに造籍されたと考えられていますから、これは「庚寅年籍」の次の「丙申年籍」造籍記事に相当します。

 しかも『日本書紀』ではこの大化二年の造籍が「初めて戸籍・計帳・班田収授之法をつくれ」と記されていることから、近畿天皇家にとって、この「丙申年籍」が最初の造籍事業だった可能性もありそうです。従って、わが国最初の全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)は九州王朝による造籍であったこととなります。

 この大化二年(646年)改新詔の造籍が696年のこととすると、その6年後の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記された造籍記事もまた、50年ずれた大宝二年(702年)の造籍と考えることができます。今も正倉院に現存している「大宝二年戸籍(断簡)」がその時に造られたものです。 しかも『日本書紀』白雉三年条に記された造籍記事には大宝律令の条文と同じ文章(「戸主には、皆家長を以てす。」など)が記されており、「大宝二年戸籍」 の記事が50年ずらして掲載されている可能性がうかがえます。

 ちなみに大宝二年は九州年号の大化八年に相当することから、九州年号の「大化八年」と「大化二年」の造籍記事が、『日本書紀』の大化二年と白雉三年にそれぞれ50年ずらして掲載されたことになるのです。この「大化八年籍」(702年、大宝二年)という視点は、正木裕さん(古田史学の会・会員)からのご教示によるものです。この「九州年号・大化期造籍」について、正木さんも精力的に研究を進められており、関西例会などで発表されることと思います。

 これら造籍記事には、九州王朝から大和朝廷への王朝交代期(7世紀末~8世紀初頭)の複雑な問題を内包しており、古田学派によるさらなる研究の深化が期待されています。

(注1)「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号。『「九州年号」の研究』に転載。


第432話 2012/06/30

 太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。

 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武14年正月条(685年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は685年~700年(あるいは701年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り685年と考えてよいかという問題でした。

 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず685年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武14年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武14年(685年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になりました。

 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、7世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。

 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武14年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、7世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当然でしょう。

 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。(つづく)


第431話 2012/06/29

太宰府「戸籍」木簡の「評」

 今回の「戸籍」木簡から、「やはりそうか」という感想を持ったのが、「嶋評」の表記でした。白村江敗戦後の7世紀後半から造られたとされる、「庚午年籍」(670年)を筆頭とする古代戸籍は、700年までは九州王朝の評制下で造籍されたのですから、当然のこととして行政単位は「評」で記されていたと論理的には考えざるを得なかったのですが、今回の「戸籍」木簡の出現により、やはり「評」表記であったことが確実になりまし た。

 何をいまさらと言われそうですが、『日本書紀』や『古事記』では「評」は完全に消し去られ、「郡」に置き換えられていることから、近畿天皇家は九州王朝の痕跡を消すべく、徹底的に「評」文書を地上から消滅させようとしたと考えられていました。ところが、その一方で「大宝律令」や「養老律令」では、評制文書である「庚午年籍」の半永久的保管を近畿天皇家は命じているのです。これは何ともちぐはぐな対応ですが、今回の評制「戸籍」木簡の出土により、近畿天皇家は戸籍に関しては評制文書であるにもかかわらず、隠滅することなく保管していたと考えざるを得ないことが明らかとなったのでした。
たとえば9世紀段階でも近畿天皇家は全国の国司に「庚午年籍」の書写を命じ、中務省への提出を命じています(洛中洛外日記120話「九州王朝の造籍事業」参 照)。したがって、全国の国司たちは『日本書紀』の「郡」の記述が嘘であり、真実は「評」であったことを9世紀段階でも知っていたことになります。こうした歴史事実があったことも手伝って、若干ではありますが後代の諸史料に「評」表記が散見される一因となったのではないでしょうか。(つづく)


第430話 2012/06/24

太宰府「戸籍」木簡の「兵士」

 今回の出土で注目された「戸籍」木簡ですが、わたしはそこに記された「兵士」という文字に強い関心を抱きました。この二文字は九州王朝研究にとって重要な問題を持っているからです。

 九州王朝末期における列島内のパワーバランスを左右する要素として、白村江戦後に筑紫に進駐した数千人にも及ぶ唐の軍隊はいつ頃まで倭国に滞在したのか という問題があるのですが、『日本書紀』では天武元年五月条(672年)に唐軍の代表者である郭務宗(りっしんべん+宗)等の帰国を記してはいますが、そ の時全ての唐軍が帰国したかどうかは不明でした。古田学派内では唐軍はその後も長期間筑紫に駐留したと理解されてきたようですが、特に明確な史料根拠に基づいていたわけではありませんでした。

 このような研究状況の中で、今回の「戸籍」木簡にある「兵士」の二文字は、685~700年において、「徴兵制度」を維持、あるいは再開していたことを示しているからです。ということは、この時期に唐軍が筑紫に駐留していたとするならば、九州王朝倭国の武装解除をせずに、徴兵を容認していたことになります。これでは何のために唐軍は筑紫に駐留していたのか、その意味がわからなくなります。逆にこの時期、唐軍は既に帰国しており、筑紫にいなかったとすれば この矛盾は解消されるのです。

どちらが歴史の真実かはこれからも研究と考察を続けたいと思いますが、「戸籍」木簡の「兵士」の二文字は、「既に唐軍は帰国していた」とする仮説成立の可能性を示しているのです。(つづく)


第416話 2012/05/25

日蝕(は)え尽きたり

21日の金環食を見られた方は多いと思いますが、わたしも出勤前に拙宅の二階の窓から、東山の上で起きた世紀の天体 ショーを観察することができました。その後、自転車で勤務先に向かったのですが、都大路や路地(ろーじ)でたくさんの人々が一斉に空を見上げている光景 に、なんだか幸せな気分になりました。ホテルの玄関先でも修学旅行生たちが大勢で日食を見ていましたが、京都での金環食は良い思い出になったのではないで しょうか。また、御池通りの並木の木漏れ日が、歩道に無数の三日月状となっていたことにも感動しました(ピンホールカメラの原理による)。
わが国最初の日食記事は、「日本書紀」推古28年(620)三月条に見えます。「日蝕(は)え尽きたり」と記されており、「尽きたり」とありますから皆 既日食のようです。岩波新書『星の古記録』斉藤国治著(1982年刊)によれば、この時の日食は奈良県飛鳥では最大食分0.93ほどで、皆既日食ではな く、「尽きたり」というのは「単なる文飾」とされています。ところが、第263話(「古代天文学」の近景)でご紹介しました谷川清孝さんらの論文「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年)によれば、推古28年の日食は最新の計算(微調整)によれば皆既日食であるとのことです。
このように最新科学(天文学)の成果による文献史学へのサポートは、歴史研究に大きな貢献を果たしており、ありがたいことです。なお、推古28年条の日食観測は奈良県飛鳥で行われたものか、九州太宰府で行われたものかという興味深いテーマを内包しているのですが、更なる天文学の発展により将来解明される かもしれません。楽しみな課題です。


第395話 2012/03/10

『古事記』千三百年の孤独(3)

『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
『日本書紀』の第二八巻すべてが「壬申の乱」の記述に当てられていることは著名です。他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。しかし、『古事記』序文の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。
拙稿「『古事記』序文の壬申大乱」(『古 代に真実を求めて』第九集所収。明石書店、2006)で詳論しましたが、簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。ところが『古 事記』序文では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。
どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記』序文の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記』序文の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。
それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)


第394話 2012/03/08

『古事記』千三百年の孤独(2)

『古事記』の史料性格を考える際、その大前提ともいうべきテーマがあります。それは皆さんもご存じの通り、『古事記』は 大和朝廷の正史として採用されることなく「隠蔽」され、『日本書紀』が正史として後世に伝えられたという歴史的事実です。この事実は次のことを指し示しま す。すなわち、『古事記』は編纂当時の大和朝廷の天皇にとって、不都合かつ不必要な史書であり、『日本書紀』は逆に都合がよく、必要であったということで す。
もし『古事記』が不都合でなければ、『日本書紀』とともに併用して普及あるいは後世に公的に伝えられたはずですが、実際は中世に真福寺から「発見」され るまで、書名こそ伝わっていたものの存在が不明な史書だったのです。ですから、『古事記』が大和朝廷にとって不都合で後世に伝えたくなかった史書であるこ とは明らかです。
それでは『古事記』の何が不都合だったのでしょうか。そのことを調べる方法が残されています。それは正史『日本書紀』と比較することによって、判明する はずです。『日本書紀』は天皇家にとって都合が良かったから正史として採用されたのですから、両書を引き算すればよいのです。『日本書紀』マイナス『古事 記』イコール「都合の良い部分(日本書紀の中の)」と「都合の悪い部分(古事記の中の)」と見なす。この方法です。これは古田先生が『盗まれた神話』で提 起された学問の方法で、わたしたち古田学派にとってお馴染みの方法です。(つづく)


第393話 2012/03/07

『古事記』千三百年の孤独(1)

今年は『古事記』編纂1300年に当たることから、様々な『古事記』関連書籍が出版されています。書店でそれらをパラパラパラと立ち読みしているのですが、いずれも期待はずれで、購入する気になれません。皆さんはいかがでしょうか。
わたしの見るところ、古田先生以外の学者や作家のほとんどは『古事記』を正しく理解していないようです。その意味では1300年たっても理解者が極めて 少ないこの状況は、「『古事記』千三百年の孤独」と表現できそうです。もちろんこれは、わたしが好きな南米チリのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの名著 『百年の孤独』の模倣です。
『古事記』編纂1300年という良い機会ですので、九州王朝説・多元史観から見た『古事記』の史料性格について考えてみることにします。
大局的には、大和朝廷による『古事記』編纂の目的として、二つの動機が推定されます。一つは、先住した九州王朝を否定し、大和朝廷こそ神代の時代から日 本列島の代表者であったと主張(偽装)すること。もう一つは、『古事記』編纂時の天皇が大和朝廷の正当な後継者であることを主張(いいわけ)することで す。
こうした視点から分析考察する上で、わたしたちは格好の比較史料『日本書紀』を有しています。というのも、『古事記』と『日本書紀』を比較することによ り、『古事記』の史料性格が鮮明に浮かび上がってくるからです。以下、具体的に述べていきます。(つづく)


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)