科学一覧

第672話 2014/03/05

酸素同位体比測定法の検討

 西井健一郎さん(「古田史学の会」全国世話人、大阪市)からお知らせいただいた「読売新聞」(2014.02.25)掲載の『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』に紹介された「年輪セルロース酸素同位体比法」という、 樹木の年代を測定する新技術について、何人かの方にご意見を求めたところ、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、高松市)からは懐疑的な意見が出されました。そこで、四国出張のおりに高松市で西村さんと夕食をご一緒し、「年輪セルロース酸素同位体比法」について意見交換しました。
 西村さんが懸念されていたのは、地方によって同じ年でも降雨量が異なり、その結果、酸素同位体比に地域差が生じ、地域ごとの基礎データと、測定対象樹木の産地が確定できなければ、正確な年代測定は困難ではないかという問題でした。なるほどもっともなご意見でした。それに対して、わたしは次のような理由を あげて、信頼してもよい技術ではないかと返答しました。

1.木材の年輪中に固定されたセルロース分子内の酸素を分析対象としているため、外部からの不純物混入のリスクが少ないと思われる。
2.樹種を問わないので、基礎データとなる対象木材サンプル(年代が明確なもの)数が多く、安定したデータベース作成が可能できる。
3.古代においては、それほど遠隔地から木材が搬入使用されるとは考えにくいので、基本的に出土地近辺の木材データベースとの比較により、年代確定しても信頼性は高いと思われる。
4.前期難波宮の水利施設出土の木枠が年輪年代測定により7世紀前半(634年)の伐採が確定されており、その木枠の年輪セルロース酸素同位体比との比較、クロスチェックが可能であり、既に実施した上で発表したのであれば、今回の発表は信頼性が高い。

 概ね以上のような意見を述べ、4で述べましたように、前期難波宮水利施設出土の木枠の酸素同位体比測定が行われたうえでの結果であれば、クロスチェックを経たことになり信頼性が高いということで、西村さんと意見の一致をみました。3月15日午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で行われる成果報告会に参加される方がおられましたら、是非、この点を質問していただければ幸いです。


第661話 2014/02/11

武田邦彦さんの学問論

 中部大学教授の武田邦彦さんのブログをときおり紹介していますが、学問や学説について自然科学の分野を例にあげて、考えさせられる持論を展開されていますので、ご紹介したいと思います。
 新説が世に受け入れられるのに何故時間がかかるのかという問題を、学問や人間の本質にまで踏み込んで考察されており、古田史学を世に認めさせるという 「古田史学の会」の使命を考える上でも刺激的な見解です。賛否は別にしても、皆さんも一緒に考えていただければと思います。以下、全文を転載させていただ きます。

 学問・芸術と報道「査読委員はわかってくれない」
                  武田邦彦
              (平成26年2月10日)

 暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。
 その若い女性が「論文を査読した学者が、『300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている』と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。
 学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。
 この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。
 学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。
 学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは 当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。
 それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。
 学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。
 でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。
 もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第623話 2013/11/23

「学問は実証よりも論証を重んじる」(2)

 村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味をわかりやすく伝えるために、どのような説明をすればよいのかを考えてきたのですが、関西例会では「足利事件」の冤罪を例に出して次のように説明しました。
 女児が誘拐殺害された「足利事件」での冤罪発生の要因や構造は複雑なものとされているようですが、「有罪」の決め手とされたのは当時としては最先端技術 だったDNA鑑定(実証)でした。他方、容疑者の供述内容や動機、目撃者証言との不一致などは、犯人と断定するには不自然で論理的ではありませんでした。 しかし、裁判所もDNA鑑定(実証)を重視し、犯人と断定するには不自然と考えざるを得ない論理的判断(論証)を退けて、有罪としました。その結果、 DNAの再鑑定がなされるまで、無実の人が長年月投獄されるという悲劇的冤罪事件が発生しました。有名な冤罪事件でしたから、ご存じの方も少なくないと思 います。
 このとき、警察や裁判所が「実証」よりも「論証」を重視しなければならないという学問の性格を理解していれば、この冤罪事件は発生しなかったでしょう し、真犯人を時効として取り逃がすこともなかったかもしれません。わたしはこの「足利事件」の例を紹介説明し、実証よりも論証が重要であることの一例とし て紹介したのです。もちろん、これは実証を軽視してもよいという意味では全くありませんので、誤解されないようにしてください。
 犯罪捜査も歴史研究も過去におきた事件の真実を明らかにするという点において、似たような性格を有しています。しかし古代史研究においては、当時の関係 者はいませんし、弁護士もつきませんし、古代人自ら反論することもできません。従って、誤った仮説を発表し、古代人を「冤罪」に陥れないという覚悟と慎重 さと、深く考え抜いた論証が必要なのです。(つづく)


第622話 2013/11/19

「学問は実証よりも論証を重んじる」(1)

 今朝は特急サンダーバード5号で福井に向かっています。JR湖西線から見える、朝日で金色に輝く琵琶湖と全山紅葉した比良山系が絶景です。連日のハードなビジネスや出張の合間に、こうした景色に出会え、心が癒されます。本当に日本は美しい国だと思います。子孫にしっかりと残したいものです。

 今月の関西例会で、水野代表から古田先生の八王子セミナーの概要について報告がなされました。ただ、水野さんはセミナーに参加されていませんから、「古田史学の会」会員の肥沼孝治さん(所沢市)のブログに掲載されていた箇条書きの発表項目を紹介されたのですが、その中に「実証よりも論証が重要」という箇所があり、これはどういう意味だろうかと疑問を呈されました。実はこのことは古田史学において大変重要なことで、以前か ら不二井伸平さん(古田史学の会・総務)らと話し合ってきたテーマでもありました。
 この言葉は古田先生の東北大学時代の恩師である村岡典嗣先生の言葉で、「学問は実証よりも論証を重んじる」からきています。わたしは若い頃、古田先生から何度もこの言葉をお聞きしました。いわば、古田史学の神髄であり、フィロロギーという学問の基本的性格を表した重要な言葉だと理解しています。
 ところが、残念ながらこの言葉の意味をわたし自身もなかなか理解できず、それこそ十年以上かけてようやく見えてきたというのが実感でした。古田学派の研究者でも、この言葉の意味を真に理解している人は少ないのではないかと、不二井さんと何度も話し合ってきたのでした。そこで、例会での水野さんの発言を受けて、ちょうど良い機会でもあり、わたしから次のように説明しました。(つづく)


第531話 2013/02/28

大野城木柱の伐採は650年頃
       
       
         
            

 24日の日曜日、東京で講演してきました(多元的古代研究会主催、東京古田会協賛)。100名以上のご参加があり、盛況
でした。ご静聴いただき、ありがとうございます。日程が東京マラソンと重なったため、ホテルの予約がとれず、当日早朝の新幹線で上京したのですが、車窓か
らマラソン風景が見え、ラッキーでした。
 講演会のおり、多元的古代研究会の和田昌美事務局長から西日本新聞(2012年11月23日)のコピーをいただきました。「大野城の築城年 白村江の戦
い前? 木柱伐採は650年ごろ」という見出しの記事で、大野城で出土した木柱の伐採年がエックス線CTスキャナーにより650年頃であったことが判明し
たとのこと。その結果、大野城の築城開始は白村江戦(663年)よりも前である可能性が高いとされています。
 大野城は当然のこととして、守るべき都市の存在が前提で築城された山城です。すなわち、大野城築城以前に九州王朝の都、太宰府条坊都市が存在していたと
考えざるを得ません。太宰府条坊都市の成立とそこへの遷都年代を、わたしは文献史学の立場から九州年号「倭京」元年(618)とする仮説を発表してきまし
た。もちろん条坊都市全体の完成は更に遅れたことと思いますが、今回の大野城築城開始時期を650年頃とする考古学的発見から、太宰府条坊都市の造営が
650年頃よりも早い時期となり、倭京元年(618)の太宰府遷都と矛盾がなく、うまく整合します。
 こうした推論が正しければ、九州王朝は七世紀中頃に太宰府条坊都市の造営と大野城の築城、そして前期難波宮の創建をほぼ同時期に行ったことになります。
唐の脅威と一大決戦に備え、九州王朝が抱いた危機感とその権力の大きさがうかがえます。大野城出土木柱の伐採年確定により、こうして七世紀の九州王朝の姿
がまた一つ復元できたように思われるのです。


第498話 2012/12/02

「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の
原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた
銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なア
ンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃
密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)


第496話 2012/11/23

越智国のアンチモン鉱山

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含有されているアンチモンですが、その産地はどこてしょうか。国内の鉱山では愛媛県西条市の
市之川鉱山が世界的に有名なアンチモン鉱山でした。現在は閉山されていますが、古代の越智国(合田洋一説)にあたる西条市に最大級のアンチモン鉱山があっ
たことは注目されます。
 文献的にも『続日本紀』文武2年条(698)に次の記事が見え、この「白(金へん+葛)」は従来はスズのことと見られていましたが、愛媛県にはスズ鉱山
がないことから、アンチモンのこととする研究が発表されています(成瀬正和「正倉院銅・青銅製品の科学的調査と青銅器研究の課題」『考古学ジャーナル』
470、2001年)。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 合田洋一さん(古田史学の会・四国、全国世話人)から教えていただいたことなのですが、『日本書紀』持統5年(691)7月条にも次の記事があり、やはり愛媛県から「白銀」が献上されています。

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」

 「宇和郡の御馬山」とは宇和島市三間町とみられ、当地にもアンチモン鉱山跡があるそうですから、この「白銀」もまたアン
チモンのこと推察されます。これらの記事により、古代の伊予国・越智国から冨本銅銭や古和同銅銭の原料となったアンチモンが供給された可能性が大きいので
す。また、正倉院にアンチモンのインゴットがあることも知られています。
 ちなみに、愛媛県には「中央構造線」にそっていくつかのアンチモン鉱山の存在が知られており、その中でも西条市のアンチモン鉱山は世界的に見ても大規模
なものだったことが知られています。古代の越智国はアンチモンなどの金属がその繁栄の主要因だったのかもしれません。(つづく)


第495話 2012/11/22

古代貨幣とアンチモン

 昨日は経産省に行った後、横浜に立ち寄りました。仕事を終えて帰る前に横浜市在住の安藤哲朗さん(多元的古代研究会・会長)に久しぶりにお会いし、最近の研究状況について語り合いました。その後、名古屋まで戻り、今朝は一宮市にいます。関西例会のときの風邪もようやく治りました。

 古田先生らと取り組んだプロジェクト「貨幣研究」において、古田先生やわたしは冨本銭や和同開珎を九州王朝の貨幣とする 見解を報告しました。そのときの主たる根拠は文献史学から提起したもので、たとえば冨本銭と和同開珎はその他の近畿天皇家発行の古代貨幣とは異なり、『日本書紀』や『続日本紀』にその銭文が記録されていないという点や、その他の貨幣の銭文にある最後の一字の「寶」という字が使用されていないという差異を根拠に、本来は別王朝により発行されたものではないかと考えました。
 他方、九州王朝貨幣とする仮説には弱点もありました。それは考古学的出土分布の中心が近畿であり、九州ではないということでした。これは学問的には無視できない弱点でしたので、わたしは和同開珎をもともとは九州王朝が発行したものとする仮説に充分な確信を持てずにいたのでした。
 そのようなときに読んだのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)でした。同書には科学的分析手法(電子線スキャニング・バルク組成分析法)に基づいた貨幣の組成分析値が示されており、その中に「古和同」と「冨本銭」はアンチモンの含有率が非常に高いという指摘がありました。 わたしはこのアンチモンに興味を抱きました。仕事で各種金属について勉強する機会があるのですが、通常、銅銭には銅の他にスズや鉛が混ぜられていることが多く、スズや鉛よりも珍しい金属のアンチモンが古代日本で最古の貨幣に属する「古和同」と「冨本銭」に多く含まれているとは意外でした。
 なお、「古和同」とは銭貨研究家がその銭文などの差異から、和同開珎を古いタイプと新しいタイプの二種類に分類したもので、古いとされたものを「古和同」、新しいとされたものを「新和同」と呼ばれています。その「古和同」銅銭の方にアンチモンが多く含まれており、和同開珎よりも古い貨幣である「冨本」銅銭にも同様にアンチモンが多く含まれていることは、両者が共通の原料と技術で鋳造されたことがうかがわれます。
 こうした自然科学的組成分析により、冨本銭と和同開珎が九州王朝の貨幣とする仮説が補強されるように思われるのです。(つづく)


第494話 2012/11/20

斎藤努著『金属が語る日本史』を読む

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で書いています。明朝、霞ヶ関の経済産業省に用事があるため、今日から東京に入ります。

 最近読み始めたのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)という本ですが、古代貨幣や日本刀・鉄砲の歴史を自然科学的分析から考察されており、論理的で読みやすい本です。もちろん、その自然科学的分析結果の評価は近畿天皇家一元史観に基づいていますから、多元史観・九州王朝説の視点から見ると、不十分であることは避けられません。しかしそれでも参考になる一冊でした。
 25年ほど昔、わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、稚拙ながらも古代史研究を開始したとき、その主たるテーマは「九州年号」と「古代貨幣」でした。 その内、九州年号については昨年末に『「九州年号」の研究』をミネルヴァ書房より上梓でき、一区切りついたのですが、「古代貨幣」研究については、まだまだ研究成果をまとめられる域に達していません。
 1999年に古田先生らと「貨幣研究」プロジェクトチームを立ち上げ、飛鳥池遺跡から出土して話題となっていた冨本銭や和同開珎などを取り上げました。 その参加者各人の報告が『古代に真実を求めて』第3集に収録されていますのでご参照ください。プロジェクトでは主に文献史学の立場からの報告が多く、いわゆる「合意形成」や「結論」が出されたわけではありませんが、多元史観によって古代貨幣を含む貨幣史に迫ろうとする野心的な取り組みでした。
 メンバーは古田先生・木村由紀雄さん・浅野雄二さん・山崎仁礼男さんと古賀の五名で、各人の報告は「古田史学会報」や友好団体の会紙に掲載されました。 さらに古田先生からは報告以外にも膨大な先行論文のコピーが提供され、いまでも貴重な資料として大切に保管・利用しています。
 プロジェクト終了後もわたしは古代貨幣に強い関心を持ち続けていましたが、古代貨幣研究は文献史学にとどまらず、考古学・自然科学(材質分析・金属工学)・貨幣経済史などを網羅したテーマですので、浅学なわたしには骨の折れる課題でした。そんなときに斎藤努著『金属が語る日本史』が書店で目に留まり読み始めたのですが、おかげで古代貨幣に関する新知見を得ることができ、わたしの研究心が再び沸き起こったのです。
 著者の斎藤さんは東京大学大学院で化学を専攻され、現在は国立歴史民俗博物館研究部教授と紹介されています。わたしも化学を専攻しましたが、有機合成化学だったので無機化学や金属についてはあまり詳しくありませんから、同書の解説は大変勉強になりました。現在、同書で紹介された古代貨幣の材質分析結果を、九州王朝説の視点から読み説こうとしています。洛中洛外日記で少しずつ紹介していきたいと思います。

 今、新幹線は駿河湾付近を走行中ですが、座席がA席(海側)なので、富士山は見ることができません。せっかくの晴天なのに残念です。(つづく)


第453話 2012/08/12

科学的事実と空気的事実

 今回は古代史から離れますが、科学的事実(古代史では多元史観・古田史学)よりも、社会の「空気」(利害関係に縛られた通念)を「正しい」とする空気的事実(古代史では近畿天皇家一元史観)という、学問・真理と現実社会に焦点を当てた鋭い一文を紹介します。

 執筆者の武田邦彦さんは中部大学教授で、原子力工学・材料工学の専門家です。テレビにもよく出ておられる著名人といってもよいでしょう。下記は氏
のホームページから転載させていただきました。これを読んで、皆さんはどのように感じられるでしょうか。わたしは、古田史学と古代史学界の関係に似ている
ようで、とても考えさせられました。

 

「理科離れ」・・・君の判断は正しい(先輩からの忠告)  武田邦彦

 「理科離れ」が進んでいる。日本は科学技術立国だから250万人ほどの技術者が必要で、少なくなると自動車もパソコンもテレビも公会堂も作れなくなるし、輸出もできずに食料や石油を輸入することもままならない貧乏国になる。

 だから、どうしたら理科離れを防ぐことができるか?と学会、文科省などが苦労している。でも、私は子供に理科をあまり勧められない。

・・・・・・・・・・

 理科が得意な子供は「アルキメデスの原理」を理解できる。そうすると「北極の氷が融けても海水面は上がらない」ということが分かる。それを学校で言うと先生から「君は温暖化が恐ろしいのが分からないのか!」と怒られる。

 理科が得意な子供は「凝縮と蒸発の原理」が理解できる。そうすると「温暖化すると南極の氷が増える」と言うことが分かる。でも、それを友人に言う
と「お前は環境はどうでも良いのか!」といじめられる。反論しても「NHKが放送しているのがウソと言うのか!」とどうにもならない。

 理科が得意な子供は「森林はCO2を吸収しない」ということを光合成と腐敗の原理から理解している。しかし、それを口にすることはできない。「森を守らないのか!」と怒鳴られる。

 物理の得意な大学生は「エントロピー増大の原理から、再生可能エネルギーとかリサイクルは特殊な場合以外は成立しない」ことを知る。でも、そんな
ことを学会で話すことはできない。エントロピー増大の原理を理解している人は少ないし、まして、そのような難解な原理と日常生活の現象を結びつけることが
できる人も少ない。

 日本は「理科を理解しない方がよい」という社会である。「それは本当はこうなんです」と説明すると「ダサい」と言われる。原発が危険な理由を説明すると「お前は日本の経済はどうでも良いのか!」とバッシングを受ける。

 理科を理解できない人が理科を理解している人をバッシングする時代、理科的に正しいことでも社会にとって不都合と思われることを口にできない時代なのだ。だから君が理科を勉強すると不幸が訪れる。「理科離れ」は正しいのだ。

 これほど自然現象を無視した社会では理科を勉強しない方がよい。NHKは科学的事実を報道しているのではなく、空気的事実を報道する。そしてそれが社会の「正」になるし、さらに受信料を取られる。それは極端に人の心を傷つけるものだ。

(平成24年8月11日)