短里一覧

第926話 2015/04/18

アポローンは太陽神か?

 本日の関西例会も盛りたくさんの発表で、楽しく有意義な一日となりました。
 冒頭、西村さんからは、ギリシア神話のアポローンは太陽神ではないと史料をあげて説明されました。アポロドーロス著『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波文庫)によれば、アポローンは予言者・神託にかかわる神とされており、古代ギリシアにおける太陽神はヘーリオスとされています。ちなみにヘーリオスはオリンポス山には住んでいないとのこと。アポローンがいつ頃から太陽神とされたのかと質問したところ、5〜6世紀頃ではないかとのことでした。
 原さんは、『住吉神代記』に記された住吉の神領が難波京を取り囲むように位置していることから、これら全体で「一国」を形成していたのではないかとされました。そして『二中歴』「年代歴」細注にある「新羅人来たりて筑紫より播磨を焼く」という記事は、新羅が住吉神社の勢力圏を攻撃したのではないかとされました。
 出野さんからは前回に引き続いて、『漢書』『三国志』倭人伝に見える「倭」と「倭人」が別国(朝鮮半島の「倭」国と日本列島の「倭人」国)であるとする持論を展開されました。先月、茂山憲史さん・正木さん・西村さんから出された批判について、改めて反論されました。特に興味深く思ったのが、西村さんへの反論で示された「在」と「有」の違いについての説明です。『漢書』の「楽浪海中有倭人」にある「有」は倭人の「初見」を表す際に用いられ、既知の場合は「倭人在帯方東南海中」(『三国志』倭人伝)のように「在」の字が使われるとのことで、面白い指摘と思われました。
 岡下さんは、『万葉集』で宇治川を「是川」と表記する例(2427・2429・2430)があるが、これは「この川」と訓むのではないかとされました。そして、古墳時代の銅鏡の銘文で倭人は漢字を習得したとする森浩一説を批判され、交易により記録が必要なため、渡来人から倭人は交易業務と共に文字を習ったとされました。倭国の文字受容の時期や仕方について論議が交わされ、認識が深まりました。
 この間続けられてきた「大化改新詔」論争が今回もなされました。服部さんは、前回の正木さんからの批判は決定的なものではないと反論され、「大化改新詔」は九州王朝により7世紀中頃に前期難波宮で出されたと考えても問題ないとされました。
 正木さんからは「大化改新」論争の研究史と諸説を概説され、自説の「常色の改革」説を再論されました。そして、なぜ九州年号「大化」(695〜703年)を『日本書紀』では645〜649年にずらして盗用したのかが根本の問題とされ、その理由が説明できない服部説を批判されました。
 次に、「短里」の起源が殷まで遡ることを『礼記』などから論証され、「短尺(16cm強)・短寸(2cm強)」と「短歩(25cm強)・短里(75m強)」(周制三百歩を一里とす。『孔子家語』)が別系統の長さの単位であることを漢字の語義などから明らかにされました。
 最後に、服部さんから「長者」の意味について発表があり、「長者」は仏教用語(ギルドの頭領・指導者・組合長を意味するシュリイシュティンの漢訳)として6世紀後半から7世紀にかけて日本に伝来したとされました。そして「長者」は九州王朝の天子の呼称としてふさわしいと締めくくられました。時間が少し余りましたので、ギリシア旅行の報告が服部さんからなされました。
 以上、4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①アポローンは太陽神に非ず(高松市・西村秀己)
②住吉神代記と九州王朝(奈良市・原幸子)
③松本清張氏の見解を再び(奈良市・出野正)
④鏡は文字習得に役立ったか(京都市・岡下英男)
⑤「大化年号は何故移設されたか」論考に問う(八尾市・服部静尚)
⑥大化の改新問題について(川西市・正木裕)
⑦「短里」の成立と漢字の起源(川西市・正木裕)
⑧長者考(八尾市・服部静尚)
⑨ギリシア旅行報告(八尾市・服部静尚)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(お元気で好調、津軽の金光上人新史料入手、太田覚眠新史料入手)・新年度の会役員人事・橿原市博物館ハイキング・テレビ視聴(北摂の窯業生産、平安遷都と瓦生産)・大塚初重氏「三角縁神獣鏡国産説に転向」・その他


第917話 2015/04/09

『古田史学会報』

  127号のご紹介

 今日は仕事で加古川市に来ています。途中、JR新快速の車窓から見える六甲山にも、まだ所々に散り始めた桜を遠望できました。この沿線途中のお気に入りスポットは明石城です。天守閣はないのですが、二つの櫓を両脇に持つ石垣やお堀がとても美しい城郭です。
 『古田史学会報』127号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りですが、平田さんは入会間もない新人ですが、テーマも筑後方言に基づく『日本書紀』の史料批判という新たな研究分野で、論証の方法論も手堅くまとめられています。もう一人、安随さんも会報には初投稿ですが、関西例会では古参のメンバーです。関西例会で発表された研究を投稿していただきました。
 安随さんは、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍(2000人)の大半(1400人)は船団を操る「送使団」であり、侵略軍・武装集団ではないとされました。この安随説が正しければ、唐の進駐軍は筑紫を「軍事制圧」するには「少人数」ですし、ましてや九州王朝の「陵墓破壊」などが目的ではない可能性が高くなります。今後の論争や研究の進展が期待されます。
 正木さんと西村さんからは短里についての新発見が報告されました。ますます短里説が正しかったことが明らかになりました。これらの論稿により、『三国志』の短里研究は更にレベルの高い段階へと進みました。
 服部稿は、近年の考古学研究成果を紹介され、大和朝廷一元史観の根拠の一つとなっていた、大和の庄内式土器が全国にもたらされたという従来説は誤りであり、全国に普及した庄内式土器の多くは播磨産であることが、胎土の研究により明らかになったとされました。この間、精力的に取り組まれた服部さんの「考古学」研究により、近畿天皇家一元史観の根拠がまた一つ崩れ去ったようです。
 以上のように、『古田史学会報』127号は大変優れた内容となりました。わたしたち古田学派の陣容が確実に強化された手応えを感じました。
 最後に、古田先生からはギリシア旅行「断念」の一文をいただきました。断念せざるを得なかった先生には申し訳ないことですが、わたしとしてはご高齢をおしてのギリシア旅行を心配していましたので、複雑な心境ではありますが、やはり「安心」しました。先生にはご無理はなされず、長生きしていただきたいと願っています。

【『古田史学会報』127号の掲載稿】
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦
○2015年度会費納入のお願い
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集


第881話 2015/02/24

長里から短里への換算の痕跡

 今朝は5時過ぎに自宅を発ち、阪急電車で大阪空港に向かっています。今日から九州出張で、鹿児島・宮崎・熊本・長崎・福岡と5県を廻ります。国内出張としてはハードな行程ですが、海外出張に比べれば楽なものです。

 さて、先日の関西例会で報告された『三国志』の短里に関するもうひとつの研究、西村秀己さんの「短里と景初」について、その概要をご紹介します。
 西村さんは魏朝における、長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』魏書の文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
 さらに西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。
2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。
3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、正確には約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。
(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た「端数」は数学の有効桁数としては意味がありませんから、「数千里」「数百里」という概算値表記に陳寿はしたものと思われます。)
4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。
5.作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有為の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有為の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1,『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
  漢(長里使用) 21.3%
  魏 景初元年より前(長里の時代)37.5%
    景初元年以後(短里の時代)5.3%
  呉(長里使用) 33.3%
  蜀(長里使用) 40.0%
2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。
3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要もなかったと考えるのが妥当である。
4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。
5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

 以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この報告に限らず、西村さんの研究手法(学問の方法)は統計的手法を手堅く用い、かつ、仮説とその証明方法が厳格に対応していることが特長です。ですから西村さんは、関西例会などでの発表を安心して聞ける研究者の一人なのです。


第880話 2015/02/22

長里と短里の牛車「里数」

 昨日の関西例会では、『三国志』や魏西晋朝の短里についての研究報告が正木裕さんと西村秀己さんから発表されました。両報告とも画期的で秀逸なものでした。今回は正木さんの報告を紹介します。
 それは「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」という報告で、わたしが「洛中洛外日記」857話で紹介した『三国志』の「駑牛一日三百里」についての研究です。
 『三国志』ほう統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三百里」とあり、牛車の一日の行程として短里では約24kmで妥当だが、長里ではありえない距離となり、この記事も魏西晋朝短里説の証拠になるとしました。裴松之注に引用されたこの記事は西晋の張勃(ちょうぼつ)による『呉録』が出典で、『三国志』の著者陳寿と同時代の人物によるものです。従って、魏西晋朝では短里が公認使用されており、『三国志』も『呉録』も短里で編纂されていたことがわかります。
 正木さんはこの「駑牛一日行三百里」が漢代の律令で定められた牛車の移動距離に基づくもので、漢代の長里表記「五十里」を短里に換算した数値であることを発見されました。その漢代の律令とは1983年に中国の湖北省江陵県張家山の漢墓から出土した大量の竹簡(1236枚)に記されていたもので、「頒布年」の呂后二年にちなみ「二年律令」と呼ばれているものです。
 それには、荷物の運搬には牛車(「車牛」と表記。「徭律(徭役に関する律)」簡411)が用いられており、その守るべき速度が「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」(簡412)と記されています。これらの里数は漢代ですから長里(1里=約435m)が使用されています。重い荷物を積んだ牛車の里数が「五十里」とされていますから、これを短里(1里=約77m)に換算すると約282里となり、『三国志』の「駑牛一日行三百里」に相当します。従って、正木さんは『三国志』の「駑牛一日行三百里」は漢代の「二年律令」で規定された長里表記での「五十里」を短里に換算したものとされたのです。すなち、漠然と牛車の一日の運搬距離を300里としたのではなく、漢代の律令の規定に従い、それを短里換算したものと理解できるのです。
 この正木さんの発見により、同じ牛車での運搬距離を長里と短里で表記した史料がそろったことになり、漢代の長里と魏西晋朝の短里、すなわち『三国志』は短里で編纂されたとする古田説が正しかったことを史料根拠に基づいて証明されたのです。素晴らしい発見だと思います。それにしても漢代の竹簡が大量に発見され、「二年律令」が復元されたのですから、これもすごいことです。
 最後に付け加えれば、『三国志』が短里であったことが自明のものとなった以上、「邪馬台国」畿内説は完全に葬り去られました。帯方郡(ソウル付近と推定されています)より邪馬壹国への総里程一万二千余里(約924km)と倭人伝に明記されていますから、倭国の女王卑弥呼の都は博多湾岸で決まりです。一万二千余里では大和へは絶対に届きません。この単純な理屈から「邪馬台国」畿内説論者は逃げずに受け止めていただきたいと思います。「邪馬台国の場所は永遠の謎」などといいかげんな報道してきたマスコミ関係者も、もうそろそろ真実を国民に伝えていただきたいものです。日本の「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の復活は、まずそこから始まるのではないでしょうか。


第863話 2015/01/31

『三国志』のフィロロギー

    「質直の人、陳寿」

 『三国志』のフィロロギーと題して、短里説とその学問の方法についての連載も今回が最終回となります。文献史学の学問の基本的方法として史料批判の大切さ、すなわち『三国志』が誰により誰のために何の目的で編纂されたのかという史料性格の検証の重要性を繰り返し説明してきました。さらに著者である陳寿の認識や編纂方針について、フィロロギーの方法論に基づいて分析してきました。そこで今回は陳寿その人について解説したいと思います。
 『晋書』陳寿伝には陳寿の人となりを次のように高く評価した上表文が記されています。

 「もとの侍御史であった陳寿は、三国志を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
 文章の持つ、つややかさでは司馬相如には劣りますが、『質直』つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。
 そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている三国志を天子の認定による『正史』に加えられますように。」(古田武彦『邪馬一国への道標』128頁、講談社、1978年)
 この上表文を天子が受け入れ、既に没していた陳寿の遺書ともいえる『三国志』が正史として世に出たのです。
 この上表文で陳寿のことを「質直」と評していますが、「質直」とは、飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない、という意味で、出典は『論語』です。

 「達とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり。」『論語』願淵篇

 古田先生はこの文を次のように訳されています。
 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の『言葉』や表面の『現象』(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている。」
 わたしたち古田学派の研究者は、陳寿がそうであったように「質直」であらねばなりません。このことを最後に述べて、本シリーズの結びとします。


第861話 2015/01/28

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』倭伝の短里」

 『後漢書』はその複雑な史料性格から、長里で編纂されているにもかかわらず、『後漢書』成立時期よりも早い魏・西晋朝で成立した短里史料、たとえば『三国志』の短里記事が混在する可能性について説明してきました。今回はその具体例について紹介します。
 『後漢書』倭伝に「楽浪郡はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里」と「邪馬台国」への距離が記されています。これは『三国志』倭人伝の次の記事の改訂引用となっています。

「その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
「郡より女王国に至る万二千余里」

 このように『三国志』倭人伝の短里記事の里程「七千余里」「万二千里」を転載採用していることがわかります。従って、范曄は『三国志』倭人伝の里程情報(短里による距離)を採用しているのですが、その理由としては倭人伝よりも信頼のおける倭国への里程情報を范曄は有していなかったことが推定されます。すなわち、後漢代における長里による倭国への里程情報が『後漢書』編纂時代(南朝宋)には無かったと考えざるを得ません。もしあったのなら范曄はそちらを採用したはずですから。
 さらに言えば、范曄は『三国志』倭人伝の里単位(短里)を認識したうえで使用したのか、短里の認識がないまま使用したのかという興味深い問題がありますが、今のところわたしには判断がつきません。おそらく、短里の認識がないまま使用したと推測していますが、今後の課題です。
 このように『後漢書』倭伝に短里が混在しているのですが、『後漢書』全体では他にも短里が混在している可能性がありますが、これも今後の研究課題であり、その場合も『三国志』のときと同様に、個別にその検証を行い、混在した事情(范曄の認識、編纂方針)についても判断するべきであることは当然です。(つづく)


第860話 2015/01/26

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』の短里混在」

 漢代では長里が採用されており、魏・西晋朝になって周代の短里(注)が復活採用されたという里単位の歴史的変遷があったため、『三国志』は短里で編纂されたにもかかわらず、前代の長里が混在しうる可能性について考察を続けてきましたが、同様の方法で『後漢書』の里単位についても「思考実験」として考えてみたいと思います。
 『後漢書』はその時代を生きた人間が編纂した『三国志』のような同時代史料ではありません。中国では、ある王朝の歴史(正史)を編纂するのは、その後の別の王朝です。その点、近畿天皇家が自らの大義名分(自己利益)に基づいて編纂した『日本書紀』などとはその史料性格が大きく異なります。このように誰が何の目的で編纂した史料なのかという視点は、文献史学における史料批判という基礎的で重要な作業です。
 この史料批判の観点からすると、『後漢書』は複雑な史料性格を有しています。それは編纂時期の問題です。後漢(25〜220)の歴史を記録した『後漢書』は南朝宋(420〜479)の范曄(はんよう、398〜445)により編纂されていますから、『三国志』(魏、220〜265)よりも前の王朝の正史でありながら、その成立は西晋(265〜316)で編纂された『三国志』(著者:陳寿、233〜297)よりも遅れるのです。このような歴史的変遷を経て、『後漢書』は成立していますから、今回のように里単位を問題とするとき、次のような論理的可能性を考えなければなりません。

 1.長里を使用していた後漢の史料をそのまま引用・使用した場合は長里となる。
 2.編纂時期の南朝宋も長里を採用していたから、漢代史料の長里記録に対して、「矛盾」や「問題」は発生しない。ただし、漢代の長里(約435m)と南朝宋の長里が全く同じ距離かどうかは別途検討が必要。
 3.従って、『後漢書』は後漢と南朝宋の公認里単位の長里により編纂されたと考えるのが基本である。
 4.ところが、後漢と南朝宋の間に存在した魏・西晋朝では短里が復活採用されており、その短里に基づいた『三国志』が既に成立している。
 5.その結果、『三国志』や魏・西晋朝で成立した記録を『後漢書』に引用・使用した場合、短里が混在する可能性が発生する。
 6.そこで問題となるのが、『後漢書』の編纂時代の南朝宋において、「魏・西晋朝の短里」という認識が残っていのたか、忘れ去られていたのかである。
 7.著者范曄の短里認識の有無を『後漢書』などから明らかにできるかどうかが、史料批判上のキーポイントとなる。
 8.もし范曄が魏・西晋朝の短里を知っていたとすれば、その短里記事をそのまま採用したのか、長里に換算したのかが問題となり、知らなければ「無意識の混在」あるいは「おかしいなと思いながらも、他に有力な情報がないため短里記事をそのまま転用(せざるを得ない)」という史料状況を示すことが推定できる。

 以上のような論理的視点を踏まえて『後漢書』の里単位を論じるのが学問的・論理的な姿勢ですが、『三国志』長里論者の諸論に、このような厳密な学問的方法に基づいて論じられたものをわたしは知りません。「洛中洛外日記」本シリーズ冒頭の851話で、「その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました」と述べたのは、このような実態があったからなのです。(つづく)

(注)本シリーズ執筆を契機に、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と短里の淵源などについて、メールで意見交換を続けています。その中で、短里の淵源は殷代に遡るのではないかとの仮説が浮上しました。論証が成立したら『古田史学会報』に発表されるよう御願いしています。


第859話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー

  「短里混在の無理」

 『三国志』の倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。いわば「短里混在」説ともいうべき立場です。『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難であることを説明します。
 『三国志』に直前の漢代に採用されていた長里が混在する論理的可能性については説明してきたところですが、これとは逆のケース、すなわち長里で編纂された『三国志』に短里が混在するとしたい場合は、直前の漢代で短里が採用されており、魏・西晋朝になって長里が採用されたとしなければなりません。そうでなければ長里の史書に短里が混在することの説明ができないからです(「千里の馬」などの永く使われてきた成語は別です)。しかし、どの立場に立つ論者も漢代は長里であるとしており、そうであれば『三国志』において「短里混在」は論理上の問題として成立できないのです。
 このように『三国志』「短里混在」説に立つ論者には肝心要の「短里が混在」した理由が学問的論理的に説明できないのです。したがって、『三国志』はオール長里とする立場(短里を認めない)に固執せざるを得ません。あるいは、倭人伝や韓伝のみ短里とか、6倍に誇張されているとする「古代中国人はいいかげんで信用できない」説という非学問的な立場におちいってしまうのです。
 自説に不都合なことや自説では説明つかないことを「どこかの誰かが間違ったのだろう。だから無視する。好きなように原文改訂する。」という姿勢は非学問的であり、古田史学・フィロロギーとは正反対の立場なのです。(つづく)


第858話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー「短里説無視の理由」

 本テーマから少し外れますが、なぜ古代史学界は『三国志』短里説を認めようとしないのかという質問が、1月の関西例会で姫路市から熱心に参加されている野田利郎さん(古田史学の会・会員)から出されました。学問の本質にもかかわる鋭く基本的な質問と思い、わたしは次のように説明しました。
 短里説を認めると「邪馬台国」畿内説が全く成立しないから、「古代中国人の里数や記録などいいかげんであり信用しなくてもよい。だから倭人伝の原文を好きなように改訂してよい」という非学問的な立場に立たざるを得ないのです、と。
 「洛中洛外日記」の「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」で説明しましたように、『三国志』倭人伝には帯方郡(今のソウル付近)から邪馬壹国までの距離を一万二千餘里と記されており、長里(約435m)では太平洋の彼方までいってしまうので、畿内説論者は倭人伝の里数は6倍ほど誇張されていると解して、里数に意味はないと無視してきたのです。このように長里では一万二千餘里は非常識な距離となり、無視するしかないのですが、短里(約78m)だと博多湾岸付近となり、邪馬壹国の位置が明確となるのです。ですから、畿内説論者は絶対に短里説(の存在)を認めるわけにはいかないのです。
 他方、北部九州説の論者の場合、短里を認めることに問題はないのですが、古田先生のように『三国志』短里説に立つ論者とは別に、倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。後者は『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難な立場なのです。(つづく)


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。


第856話 2015/01/22

『三国志』のフィロロギー

   「上表文の長里」

 魏・西晋朝で採用された短里により『三国志』を編纂するという困難な任務を陳寿が行うにあたり、おそらく大きな問題の一つが、直前の漢代まで使用されていた長里により記録された史料をそのまま引用するか、短里に換算するべきかを考え抜いたことと思います。『三国志』のように里単位変更の前後を含む時代の正史編纂にはこうした課題は避けられません(里単位以外にも暦法や度量衡でも同様の問題が発生します)。
 前話までは短里で編纂された『三国志』に、長里が混在する可能性とその考えうるケースを論理の視点から解説しました。そこで、今回はそうした論理性に基づいて、『三国志』の長里記事の有無を具体例を挙げて解説します。
 1月の関西例会で正木裕さんから「魏・西晋朝短里」は揺るがないとする発表があり、その中で『三国志』の中の長里ではないかと考えられる記事と、なぜ長里が混在したのかという考察が報告されました。そして次の記事について長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 それに対して、わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないと批判したのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 明帝の暦法変更時期について、暦法や中国史に詳しい西村秀己さんに調査を依頼したのですが、わたしも少しだけ調べたところ、明帝は景初元年(237)に「景初暦」を制定したようですので、もしこのときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。もっとも、この「三百餘里」を短里とする理解もありますので、まだ断定すべきではないのかもしれません。
 詳しくは西村さんの研究報告を待ちたいと思いますが、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。このように、短里で編纂された『三国志』に長里が混在する可能性について、具体的に個別に検証し、フィロロギーの方法によってその理由を明らかにしていくこと、これが学問なのです。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んじる」(村岡典嗣先生)のです。(つづく)


第855話 2015/01/21

『三国志』のフィロロギー「長里混在の理由」

 『三国志』編纂時代(西晋朝)の公認里単位は短里であっても、漢代の公認里単位である長里が混在しうる論理性については、既に述べた通りですが、それでは『三国志』の中に長里が混在するとしたら、それはどのようなケースでしょうか。今回はこの問題について学問的・論理的に考察したいと思います。なお、ここでわざわざ「学問的・論理的」と断ったのには理由があります。
 「古代の中国人などいいかげんだから、史書に短里や長里が混在しても不思議ではない」として、「『三国志』は里単位など無視・無関心に編纂された」とする「論法」や「理解」で済ませてしまうケースがあるからです。これは倭人伝の「邪馬壹国」は「邪馬台国」の間違い、「南」は「東」の間違いとして、全て古代中国人(陳寿や書写者)のせいにし、自説に都合よく原文改訂をして済ませてきた従来の古代史学界と同じ「論法」であり、学問的ではありません。歴史学は学問ですから、「どこかの誰かが間違えたのだろう」などという非学問的な「論断」ではなく、学問的・論理的に考えて論証しなければなりません。
 ということで、『三国志』にもし長里が混在するとすれば、どのような場合なのかを学問的・論理的に考えてみます。先日の関西例会でも正木裕さんから、同様の問題提起があり、長里が混在する場合の理由についての報告がありました。そのときの正木さんの意見も含めて、次のようなケースが考えられます。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない「里数値」の場合です。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合(引用せざるを得ない場合)。
(3)長里により成立した「成語」の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走れる名馬)とは逆のケースです。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録の引用です。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 この他にもあると思いますが、このようなケースにおいては、『三国志』に長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は歴史官僚として公認の短里で『三国志』を編纂するという基本姿勢を貫いたはずです。おそらく長里記事をどのように引用・記載すべきか、天子に進呈する正史にふさわしい編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。正史編纂を任された歴史官僚であれば当然です。このように作者の気持ち(立場)になって、史料を再認識する学問の方法こそ、古田史学の方法でありフィロロギーという学問なのです。(つづく)