古賀達也一覧

第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)


第1377話 2017/04/25

『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)

 古田先生との応答で決着を見ないままとなった「論争」に「庚午年籍」問題がありました。『古田武彦の古代史百問百答』においてもこの問題が記されています。次の箇所です。

 「『続日本紀』の聖武天皇、神亀四年(七二七)に次の記事があります。
 『秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)』
 これがいわゆる『保存』の記事です。しかし、問題は『保存の目的』です。」(217頁)
 「『日本書紀』でも、六四五〜七〇一年の間がすべて『郡』とされている。
 こういう状況で『評にあふれた庚午年籍』が『公示』『公開』されたら、すべて“ぶちこわし”です。
 すなわち『評の庚午年籍』を“集め”て“封印”させるのが、この、いわゆる『保存』、この『封印』の意味とみる他ありません。(中略)
 要するに、あやまった『保存』という言葉に人々は“だまされ”てきたのです。
 『岩波日本書紀』下の『補注』巻第二十七-一四『庚午年籍』の項も、
 『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』(五八三ページ)
と結ばれています。ですから、一般の読者は、
 『本当に、保存したのだ。』
と錯覚させられる。そういう『形』を、学者たちはとってきたのです。」(218頁)

 このように、古田先生は『続日本紀』に見える、筑紫諸国の「庚午年籍」官印押印記事を「保存」記事とみなされ、その目的は評制文書である「庚午年籍」の「封印」であるとされました。そして「庚午年籍」が保存されたとするのは現代の学者の解釈に過ぎず、一般の人はそれにだまされていると主張されました。
 わたしは古代戸籍や「庚午年籍」の研究を永く続けてきましたので、古田先生のご自宅まで赴き、大和朝廷が後世にわたり「庚午年籍」の保存を命じていたことを史料根拠を示して説明しました。それは次のような史料です。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。〔近江大津宮庚午年籍。不除〕」(『養老律令』戸令 戸籍条)
【意訳】戸籍は、常に五回分(30年分)を保管すること。遠年のものは次のものを作成し次第、廃棄すること。〔近江大津宮の庚午年籍は廃棄してはならない〕。

 大和朝廷は自らの『養老律令』で戸籍の保管期間を定め、「庚午年籍」は保管期間が過ぎても廃棄してはならないと明確に定めています。この規定等を根拠に現代の学者は『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』と『岩波日本書紀』に注記したのです。
 更に『続日本後紀』には9世紀段階でも諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことなどが記されています。
 こうした史料の存在を紹介し、「庚午年籍」の研究状況について、ご自宅まで押し掛けて説明しました。今から10年ほど前のことだった記憶しています。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』において、古田先生は『続日本紀』の「秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)」の記事を、筑紫での「庚午年籍」の「出土」と表現されています。

 「この答えは、右の『庚午年籍七百七十巻』という、大量文書の出土が、『近江』でなく『筑紫諸国』であること、この一事からハッキリわかるのではないでしょうか。」(219頁)
 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。」(233頁)

 『続日本紀』の当該記事からは、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻に(大和朝廷側の)官印を押した、ということがわかるだけで、“出土した”“発見された”というような情報は含まれていません。古田先生がどのような意図や根拠により、「出土」という表現を用いられたのかについて関心があったのですが、ついにお聞きすることができないままとなりました。先生がお元気なうちにお聞きしておけばよかったと悔やみました。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1371話 2017/04/16

『海東諸国紀』の「任」の字義

 「洛中洛外日記」1367話で紹介した『海東諸国紀』の次の記事を紹介し、「天智天皇の記事に『初めて太宰帥に任じた』とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。」と説明しました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 この説明に対して、昨日の「古田史学の会」関西例会で水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、この説明では天智が誰かを太宰帥に任命したと読めるとのご指摘をいただきました。「任じる」という動詞は現代日本語では自動詞と他動詞の用例があるので、確かに説明が不親切だったと反省しています。
 もちろん『海東諸国紀』の「任」を現代日本語の解釈で理解するのは学問の方法として不適切ですので、わたしは『海東諸国紀』の他の「任」の用例を調べ、この記事の意味を天智が太宰帥になったと理解しました。この天智天皇の記事の末尾に次の記事があります。

 「以大友皇子〔天智子〕為大政大臣皇子任大政大臣始」※〔〕内は細字。

 岩波文庫の『海東諸国紀』では「大友皇子を以て大政大臣と為す。皇子の大政大臣を任ずるは此より始まる。」と訳されています。わたしはこの用例に従って、「任太宰帥」を天智が太宰帥になったという意味に理解したのです。
 水野さんの指摘を受けて、今日、『海東諸国紀』全文を読み直して、「任」の全用例調査を行いました。意外に「任」の使用例が少なく、次の一例を見つけることができました。

 「履中天皇仁徳太子元年庚子始置大臣四人任国事」

 岩波文庫の訳では「履中天皇。仁徳の太子なり。元年庚子、始めて大臣四人を置き国事に任ぜしむ。」とあります。しかし、「国事」は「太宰帥」や「大政大臣」のような職位ではありませんから、「任」の訓みとしては「あたる」「つく」が適切のように思われます。すなわち、天智天皇がはじめて太宰帥の職にあたる、大友皇子が大政大臣の職に就く、大臣四人が国事にあたると訓んだほうがよいと思います。
 手元にある『新漢和辞典(改訂版)』(大修館書店)には、「任」の字義として「あたる」が冒頭にあることからも、「任」の字をある役職に「就く」、ある任務に「あたる」という意味で『海東諸国紀』には使用されていると思われます。
 そうすると、次に問題となるのが天智が就いたとされる「太宰帥」という役職はどのようなものでしょうか。太宰府の高位の官職と解さざるを得ませんが、当時の「太宰府」とは九州王朝下の官僚組織であり、その「太宰府」の「帥」ですから、最高権力者としての倭国の天子ではありません。
 『海東諸国紀』の当該記事がどの程度信頼できるのかも含めて引き続き論議検討が必要です。


第1370話 2017/04/15

フィロロギーと古田史学

 本日の「古田史学の会」関西例会で、最も深く考えさせられた発表は古代史のテーマではなく、茂山さんの「フィロロギーと古田史学【その1】」という哲学・論理学の分野の発表でした。
  古田先生の恩師、村岡典嗣先生がヨーロッパから導入されたアウグスト・ベークのフィロロギー(文献学と訳されることが多い)の著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』(安酸敏眞訳、知泉書館。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften)の解説です。特に「実証」と「論証」の関係性についての説明はとても勉強になりました。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉の意味について、「実証」も「論証」もそれらが正しいかどうかは「論証」によって改めて証明できなければならないとされ、この「論証の二重構造」こそ「実証よりも論証が重要」という本当の意味だとする指摘は、村岡先生の言葉を正しく理解する上で貴重な示唆と思いました。このテーマを連続して発表されるとのことですので、「関西例会」がますます楽しみとなりました。
 4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①古田説批判(2倍年歴・魏志倭人伝)『古代史家は古代史を偽造する』抜粋(犬山市・掛布広行)
②「九州王朝の勢力範囲」清水淹氏に答える(八尾市・服部静尚)
③フィロロギーと古田史学【その1】(吹田市・茂山憲史)
④降臨神話の原話から神武説話へ(東大阪市・萩野秀公)
⑤薩夜麻の都督就任と倭国(九州王朝)における二重権力状態の発生(川西市・正木裕)
⑥王朝交代(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版・会員数増加の報告・年間活動報告・「古代史セッション」(森ノ宮)で4/21米田敏幸氏、5/26古賀が講演予定・『古田史学会報』投稿要請・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5〜7月会場変更の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)・東京(10/15)で開催・『九州倭国通信』に正木・服部論稿が掲載・『多元』に古賀稿が掲載・筑紫野市前畑土塁保存署名の協力・その他


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1334話 2017/02/11

三浦九段冤罪事件の実証と論証

 昨年、将棋界に激震をもたらした、棋士(三浦九段)が対局中にスマホで将棋ソフトを使用したという事件がありましたが、第三者委員会による調査の結果、将棋ソフトを用いたとする明確な証拠はなく、冤罪だったようです。しかし、疑われた三浦九段は決定していたタイトル戦(竜王戦)への挑戦権を奪われ、対局も禁止されるという将棋連盟による処分がなされ、週刊誌(文春)やマスコミ報道により、ご家族も含めて三浦九段は著しい人権侵害・名誉毀損を受けられました。わたしはSTAP報道事件のときの小保方さんや笹井さんへのバッシングを思い起こしました。
 なぜ将棋連盟やマスコミはこの冤罪を見抜けず、三浦九段の不正使用と決めつける過ちを犯したのでしょうか。報道によれば三浦九段の勝利した対局での指し手と将棋ソフトの指し手の一致率が70%、ときに90%のケースがあることと、対局中の離席時間か長いことなどが不正の証拠とされました。
 わたしがこの事件をニュースで知ったとき、将棋ソフトがプロ棋士よりも強くなったのかという驚きと共に、指し手の一致率が高いことが将棋ソフト使用の証拠になるのだろうかと疑問を感じました。学問的に表現するならば、指し手の一致率の高さという「実証(状況証拠)」を根拠とする、将棋ソフトを使用したとする「判断(仮説)」は、「論証」を経ていないと感じたのです。具体的に言いますと、指し手の一致率の高さは将棋ソフトを使用したケース以外にも、プロ棋士の実力レベルまで進化した将棋ソフトの指し手はトップクラスの棋士の指し手と一致するというケースも当然のこととしてありうることから、後者のケースを否定できなければ前者のケース(将棋ソフト使用)と論理的に断定できないのです。
 学問において、ある仮説を正しいとするとき、それ以外の仮説が存在しない、あるいはそれ以外の仮説が合理的に成立し得ないことを論証しなければなりません。ところが今回の事件では指し手の一致率が高いという「実証(状況証拠)」を根拠に、三浦九段が将棋ソフトを不正使用したと、将棋連盟も週刊誌も断定してしまったようです。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉にならうのであれば、三浦九段の指し手が将棋ソフトによるものであるという論証が重要だったのではないでしょうか。
 今回のような誤断は学問研究の世界でもときおり見かけます。すなわち相関関係と因果関係の区別が無視されるというケースが少なくないのです。将棋ソフトと三浦九段の指し手の一致率が高く、両者に相関関係が認められるということと、その相関関係は因果関係なのか、それともデータの選び方や比較の方法により偶然に生じたものなのかという検証(論証)が不可欠にもかかわらず、それを怠ったのではないでしょうか。
 見かけの相関関係を「実証(状況証拠)」とみなしてしまい、それが因果関係なのかそうではないのかを論理的に考証する力(論証力)が現代の日本社会は失われてきているようにも思えます。わたしも古代史研究でこうした短絡的な批判や意見を聞くことがありますが、そのたびに「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が思い浮かびます。今回の事件にあたり、古田先生から学んだ学問における論証の重要性を改めて訴えていかなければならないと思いました。


第1329話 2017/01/28

水戸藩と新井白石と九州年号

 今日、放送されたNHKの番組「ブラタモリ」で水戸藩や水戸光圀の業績が紹介されていました。弘道館や偕楽園などとともに、中でも光圀が編纂させた『大日本史』約400巻が250年かけて完成したことなどが紹介され、勉強になる番組でした。
 『大日本史』で思い出したのですが、江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻518頁)

 また新井白石は九州年号のことを知っていて、やはり水戸藩の友人の安積澹泊に次のような手紙を出しています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻284頁)

 この手紙に対する返事は『新井白石全集』には収録されていませんので、水戸藩の学者が九州年号に対してどのような見解を持っていたのかはわかりません。『大日本史』に九州年号が記されているか、一度読んでみることにします。新井白石は諸史料に見える九州年号を実在していたと考えており、さすがは江戸時代を代表する学者だと思いました。
 この新井白石の九州年号に対する認識を示した書簡については、拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で紹介し、日本思想史学会(京都大学)でも発表したことがあります。同論文は『「九州年号」の研究』や「古田史学の会」HPに収録していますのでご覧いただければ幸いです。なお、『新井白石全集』は京都大学文学部の図書館で閲覧させていただきました。


第1327話 2017/01/23

研究論文の進歩性と新規性

 「洛中洛外日記」1315話「2016年の回顧『研究』編」でわたしが紹介した、2016年の『古田史学会報』に発表された特に印象に残った優れた論文の「選考基準」についての質問が、先日の「古田史学の会」関西例会の参加者から出されました。良い機会ですので、わたしが選考に当たって重視している「研究論文の進歩性と新規性」という問題についてご説明することにします。
 わたしは次の論文を特に優れていると判断し、「洛中洛外日記」で紹介しました。

①「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
②古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚(136号)
③盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚(137号)
④南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
⑤隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

 これらの論文はいずれも研究論文としての「進歩性」と「新規性」が他の論文よりも際だっていました。
 特許出願に関わられた経験のある方ならよくご存じのことですが、特許庁による特許審査では、その特許申請の内容が社会の役に立つのかという「進歩性」の有無と、まだ誰もやったことのない初めての事例であるのかという「新規性」の有無が厳しく審査されます。そして進歩性と新規性が認められると、それが事実に基づいているかどうかという「実施例」と「実施データ」がこれまた厳しくチェックされます。ここに虚偽データや虚偽記述があると拒絶査定されますし、特許が成立した後で発覚すれば厳しい罰則(企業倒産するケースもあります)が課せられるほどです。
 わたしも勤務先での特許申請においては、特許事務所の専門家と何度も打ち合わせを行い、最後は胃が痛くなるような決断をして特許出願します。場合によっては担当審査官の個人的「性格」まで勘案して文言やデータの修正を行うこともあるほどです。
 学術論文でも同様に「進歩性」と「新規性」が学術誌への採否で厳しく審査(査読)されます。その研究が学問や研究に役立つ進歩性があるのか、まだ誰も行ったことがない、あるいは未発見という「新規性」があるのかをその分野の第一人者とされる研究者が査読します。権威のある学術誌ほど採用のハードルは高いのですが、世界中の研究者はそうした権威ある学術誌(ネイチャー誌は有名)への採用を目指して切磋琢磨しています。従って、投稿されたほとんどの論文は「没」になる運命が待っているのです。
 『古田史学会報』では通常の学会誌ほど厳しくは査定しませんが、進歩性・新規性の有無、そして論証の成立の有無や史料根拠の妥当性は重要視しています。念のため付け加えますが、採否にあたり、わたしの説とあっているかどうかは判断基準とはしませんし、更にいうならば個別の古田説にあっているか異なっているかも採否には無関係です。この点、誤解が生じやすいのではっきりと断言しておきます。
 また、投稿論文の採否検討にあたり、わたしが不得意な分野は、そのことをよくご存じの方に意見を求めることもあります。わたしが「採用」と判断しても、西村秀己さんから「不採用」とされるケースも極めて希ですがありました。掲載後に会員読者から「なぜこのような原稿を採用するのか」という厳しいご指摘が届いたことも一度や二度ではありません。ちなみに最も厳しい意見を寄せられたのは古田先生でした。そのときは、採用理由や経緯を詳しく説明し、その論文に対する反論をわたしが書くことでご了解いただいたこともありました。懐かしい思い出です。
 以上のことを「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。他の論稿②③④⑤も同様です。皆さんも「進歩性」「新規性」という視点でそれらの論文を再読していただければと思います。なお、わたしが紹介しなかったこの他の論文も、『古田史学会報』に掲載されたという点に於いて、いずれも優れた論稿であることは言うまでもありません。この点も誤解の無いようにお願いします。


第1323話 2017/01/16

井上信正さんの謦咳に接す

 昨日は「九州古代の会」主催の井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演会に参加しました(於:ももち文化センター)。「大宰府-古代都市と迎賓施設」というテーマで、太宰府条坊の発掘調査にたずさわられている条坊研究の第一人者である井上信正さんの講演を是非ともお聞きしたいと、前日から実家のある久留米に戻っていました。講演会当日は大雪により新幹線ダイヤが乱れましたので、正解でした。
 初めてお聞きするような新発見や新説が次から次へと発表され、2時間では説明しきれないようでした。発表された新説の中でも特に驚いたのが、大宰府政庁の西に位置する「蔵司(くらのつかさ)」の礎石造りの大型建物が倉庫ではなく、唐長安城の麟徳殿に相当する「饗宴施設」とされたことです。その根拠は礎石配列や礎石が自然石ではなく加工されていることなどでした(大野城や奈良の正倉院など、倉の礎石は自然石をそのまま使用するのが普通で、蔵司の礎石は丸い柱に対応した加工が施されている。礎石配列も政庁正殿と同じ)。それではなぜ「蔵司」という地名が遺存しているのかという問題は残りますが、出土事実からの判断としては納得できるものでした。
 太宰府条坊都市が完成した後に大宰府政庁Ⅱ期と朱雀大路が造営されたことを井上さんは発見されたのですが、なぜその位置に造営されたのかという点についても明らかにされました。それは都城の南に位置する南山を「闕」とみなす秦始皇帝以来の中国都城の伝統を受け継いだ(模倣)ためと説明されました。大宰府政庁から南へ延びる朱雀大路の延長線上には基肄城の「東北門」があり、その位置関係が唐の乾陵(高宗・則天武后陵)に類似しているとのことでした。
 井上さんとは講演会後の懇親会でも隣の席に座らせていただき、太宰府や飛鳥・難波編年についてかなり突っ込んだ意見交換をさせていただき、とても有意義でした。「古田史学の会」の講演会へ講師として来ていただくことを了承していただきましたので、日程などが決まりましたらお知らせします。わたしは井上さんのお名前とその太宰府条坊研究は日本古代史学の研究史に残るものと確信しています。
 なお、1月21日の「古田史学の会」関西例会で、井上講演の概要をわたしから報告する予定です。


第1316話 2017/01/01

謹賀新年
12月に配信した「洛中洛外日記【号外】

 新年のお慶びを申し上げます。
 旧年中は「古田史学の会」のホームページ「新・古代学の扉」をご覧いただき、ありがとうございます。今年も「洛中洛外日記」をお届けいたしますので、よろしくお願い申しあげます。新春講演会(1月22日、i-siteなんば)にて皆様とお会いできることを楽しみにしております。

 12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/12/07 化学と古代史のプレゼン
2016/12/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』初校
2016/12/19 真田丸の赤を天然色素で再現
2016/12/24 贈呈本二冊
2016/12/31 『多元』137号のご紹介


第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)