古賀達也一覧

第2876話 2022/11/14

自説が時代遅れになることを望む領域

 〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟終了後、わたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)は大学セミナーハウスにもう一泊し、荻上紘一先生(大学セミナーハウス理事長、注①)・和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)と懇談しました。特に荻上先生とは数学と歴史学、科学の学問的性格の違いについて議論でき、とても勉強になりました。
 数学の持つ〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という性格に比べると、古代史学(社会科学)や化学(自然科学)はマックス・ウェーバーの次の言葉に表される領域です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁。注②)

 科学者は、自説の発表と成立は他者の旧説を時代遅れにするという一面を有し、そうであれば自説にもいずれは他者の新説により時代遅れになるという宿命が待ちうけていることを経験的に理解しています。思うに、ここで最も大切なことは〝時代遅れとなることをみずから欲する〟という点にあります。学問研究を志す者には、自説が時代遅れになることを〝自ら望む〟ことができるかが問われるのです。〝自ら望まない〟人は、例えば音楽や芸術、歴史小説などの分野で能力を発揮できるように思います。(つづく)

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。
②マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。


第2875話 2022/11/13

数学の「証明」と歴史学の「証明」

 昨日から〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加しています。今回のテーマは〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」〟で、刺激的な発表や仮説を聞くことができました。その中でも、「刺激的」をはるかに超える「衝撃的」な発言がありましたので、最初にそのことについて紹介します。
 同セミナー予稿集冒頭には荻上紘一実行委員長(注②)の挨拶文〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」の時代〟があり、次の見解が示されています。

 「一般に、2人が同一人物であることを証明するのは非常に難しいのですが、異なる人物であることの証明は簡単です。一致しない属性が一つでもあれば同一人物ではありません。」
 「古代史学においては、科学的な「史実」の確認が基本であり、その作業は客観的且つ evidence-based でなければなりません。」

 精緻な根拠と厳格な論理を追究する数学者らしい一文です。その荻上先生が閉会の挨拶で次のようなことを述べられました。

 〝わたしは証明されたことしか真実とは認めません。なぜなら数学者だからです。数学では一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認めます。ある人は認め、別の人は反対するということはありえません。他方、歴史学での「証明」とはせいぜい「仮説」に過ぎません。〟

 この話を聞いて、わたしは衝撃を受けました。わたしが専攻した化学では、実験により証明され真実と見なされた学説は、常に新たな優れた研究により否定されるものだったからです。錬金術の昔から様々な仮説が提起され、やがてはそれが誤りであることがわかり、言わば化学(科学)の歴史は間違いを繰り返し、新仮説を積み重ねながら、より真実(と思われるもの)に近づいてきたからです。したがって、〝自説はいずれ間違っているとされるはずだ〟と化学(科学)者は考えますから、〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という数学の持つ性格を知り、このような学問領域があるのかと衝撃を受けたのです。(つづく)

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。


第2874話 2022/11/07

「古田史学の会」入会案内を作成

 この度、「古田史学の会」では会員募集のための入会案内を作成しました。A4サイズを三つ折りにしたもので、両面に博多湾の志賀島・能古島などの遠景をフルカラー印刷したものです。デザイン・レイアウトは久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)に担当していただきました。なかなかの出来映えです。
 次の説明文を中心に、入会方法や活動内容、連絡先、「古田史学の会」発行書籍紹介などが掲載されています。これからも改訂を加え、最終的には郵便振込用紙を併記し、会員増加に役立てたいと考えています。

【「古田史学の会」の案内】
 「古田史学の会」は、思想史学者・歴史学者の古田武彦(ふるた たけひこ)氏(1926-2015)の学説を支持する有志による古田氏を囲んでの講演会・研究会活動を母体とし、1994年4月に創設されました。
 古田氏が提唱した独自の古代史観(邪馬壹国博多湾岸説、多元史観、九州王朝説など)は「古田史学」と総称されます。親鸞研究なども含め80冊を越える古田氏の著書は、氏亡き後も今なお多くの読者に支持されています。


第2873話 2022/11/06

『多元』No.172の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.172が届きました。同号には拙稿「藤原宮下層条坊と倭京」を掲載していただきました。同稿は、藤原宮(大宮土壇)下層から出土した条坊跡を根拠に、条坊建設当初の王宮は大宮土壇の北西の長谷田土壇にあったのではないかとする仮説を論じたものです。そして、その後に藤原京条坊域は東へ拡張され、その中央に位置する大宮土壇に藤原宮が新たに創建されたため、『日本書紀』には藤原京を「新益京」と記され、この「新益」は条坊域拡張を意味した命名としました。
 この他に、和田昌美さん(多元の会・事務局長)の論稿「正木裕講演『俾弥呼は漢字を用いていた』所感」では、十月の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演を紹介し、「講演では、倭人の漢字の世界が周の時代に始まったことを力説されました。中国史書や漢字の字義を考察した結果と最新の考古学の成果を結びつけた論考であり、大変明快で説得力がありました。」との所感が述べられていました。また、同稿末尾には、わたしの〝周代の二倍年齢〟説の紹介がありました。

 リンクしました。

「邪馬壹国」の官名
 — 俾弥呼は漢字を用いていた
正木裕


第2871話 2022/11/04

奈良新聞に「真説・聖徳太子」講演会記事が掲載

 「洛中洛外日記」2861話(2022/10/20)〝15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)〟で紹介した「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」の記事が奈良新聞(令和4年11月1日)に掲載されましたので、全文を転載します。奈良新聞社の取材と掲載に感謝いたします。

【以下、転載】
法隆寺の築造などを議論
徹底討論「真説・聖徳太子」

 古代大和史研究会(原幸子代表)は10月19日、斑鳩町法隆寺1丁目の法隆寺iセンター多目的ホールで、徹底討論「真説・聖徳太子」を開催。謎の多い聖徳太子の姿や、法隆寺の築造などの議論に、約50人の古代史ファンが熱心に耳を傾けた。
 雑誌「古代に真実を求めて」前編集長の服部静尚さんが「聖徳太子と仏教」、大阪府立大学の正木裕講師が「聖徳太子の実像と政治的功績」と題して基調講演を行った。
 シンポジウムでは「古田史学の会」の古賀達也代表が進行役を務め、服部さんと正木さんがパネリストとして参加。会場からの質疑応答を受けたり、聖徳太子にまつわる金石文や法隆寺の築造に関する疑問などを議論した。
 古賀代表は「法隆寺の若草伽藍(がらん)焼失後の再建論が盛んだが、今の法隆寺は移築されたもの。移築元は不明で、これからの研究課題になる」などと述べた。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。


第2869話 2022/11/02

『先代旧事本紀』研究の予察 (4)

 『先代旧事本紀』は十巻からなり、飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』によれば、その内訳は次の通りです。〈〉内は古賀による概略ですが、正確な表現ではないかもしれません。もっと良い表現があれば、ご教示ください。

〔巻一〕
 神代本紀 〈天地開闢と天譲日天狭霧國譲月國狭霧尊〉
 神代系紀 〈神世七代〉
 陰陽本紀 〈伊弉諾・伊弉冉神話〉
〔巻二〕
 神祇本紀 〈素戔烏尊と天照大神神話〉
〔巻三〕
 天神本紀 〈饒速日降臨と随神〉
〔巻四〕
 地神本紀 〈素戔烏尊と天照大神の裔神・出雲神話〉
〔巻五〕
 天孫本紀 〈物部系の系譜〉
〔巻六〕
 皇孫本紀 〈瓊瓊杵尊の降臨と神武東征説話〉
〔巻七〕
 天皇本紀 〈神武天皇~神功皇后〉
〔巻八〕
 神皇本紀 〈応神天皇~武烈天皇〉
〔巻九〕
 帝皇本紀 〈継体天皇~推古天皇〉
〔巻十〕
 国造本紀 〈各国造の出自・由来〉

 わたしが『先代旧事本紀』を初めて読んだとき、大きな疑問に遭遇しました。物部氏系の古典であるのにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないのです。物部麁鹿火の名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」として見え、「此の連公は勾金橋宮御宇天皇(安閑)の御代に大連と為りて、神宮に齋き奉ず」とあります。「帝皇本紀」の継体天皇条には「物部*麁鹿火大連」(「*麁」=「森」「品」のように、「鹿」の字が三つ重なった字体)の名前は見えますが、〝磐井の乱〟記事はありませんし、〝磐井〟という人物も登場しません。
 九州王朝説の視点からすれば、九州王朝の王、筑紫君磐井を討ち取った記念すべき業績である〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、物部氏系古典とされる『先代旧事本紀』に全く見えないことは何とも理解しがたいことです。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいたはずです。しかし、『古事記』にも『日本書紀』にも記された〝磐井の乱〟と物部麁鹿火の活躍がカットされていることに、九州王朝と物部氏の関係を探るヒントがありそうです。(つづく)


第2868話 2022/11/01

『先代旧事本紀』研究の予察 (3)

 『先代旧事本紀』の成立は平安時代(9世紀頃)とされています。しかし、序文に聖徳太子や蘇我馬子の選録とあることから、偽作とする見解が江戸時代からありました。飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)の冒頭に付された飯田季治氏による「舊事紀解題」は、この偽作説に対する反論が多くを占めています。その迫力ある筆致の一端を紹介します。

〝試みに思へ。織田豊臣氏の時代より、昭和の今日に及ぶ歴史を編修し、その序に「本書は水戸黄門の撰録せるもの也」と記載し、是れ予が家に蔵する所の珍書也など云ひ誇り、以て世を欺瞞し得べし とする痴漢が奈邊に有らうや……。
 假りにも聖徳太子の著書と思はしめんと計るには、太子が薨去後に於ける事績の如きは、素より悉く之を刪除し、年代に誤差なからしむる位のことは、兒童と雖も辨ふる所の常識である。況んや偽作を敢てする程の人物に於てをやである。卽ち此理を辨へたらんには、「本書の序文は此紀(これ)を編集せし者が、始めよりして記し置けるものには非じ」といふ筋合いを、明らかに悟る事が出來よう。
 然るに貞丈等(注②)は更に此義に思ひ詣らず。その「序文ぐるみ」を以て本書を鑑定し、全篇を悉く偽作也とし、信用すべからざる書也としたのであるから、私は其れを愚論也とし、そして上記の理由に據つて、「本書の序文は後人の加入也」と定むるものである。〟

 わたしはこの飯田季治氏の意見に賛成です。25年ほど前のことですが、和田家文書偽作キャンペーンでの偽作論者の主張が、『先代旧事本紀』偽作説によく似た主張であることを思い出しました。たとえば、明治から昭和にかけての再写文書、書き継ぎ文書である和田家文書に、江戸時代にはない用語、たとえば「○○藩」が使用されているとして、そのことが偽作の根拠だとしていたからです。そこで、「藩」という用語が江戸期の史料にいくらでもあることをわたしは指摘しました(注③)。それに対して、偽作論者からの応答は今日に至るまでありません。こうした経験もあって、わたしは飯田季治氏の激しく反論する論稿を他人事とは思えないのです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②江戸時代の学者、伊勢貞丈・多田義俊のこと。『先代旧事本紀』の序文は最初からあるものとし、同書を「全編盡く後人の偽作なり。信用すべからざる書也。」(伊勢貞丈著『舊事本紀剥僞』)とした。
③古賀達也「知的犯罪の構造 「偽作」論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集、新泉社、1996年。


第2867話 2022/10/31

『先代旧事本紀』研究の予察 (2)

 『先代旧事本紀』研究を始めるにあたり、テキストとして飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)を採用することにしました。国史大系本『先代旧事本紀』(注②)もあるのですが、両本を比較したところ、前者の底本の方が優れているように思われたので、採用を決めました。
 『標註 先代旧事紀校本』の底本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』で、解題には「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。国史大系本の底本は「神宮文庫本」で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。ちなみに、飯田季治(いいだ・すえはる)氏は『日本書紀通釈』の著者で藤原宮「大宮土壇」説を唱えた飯田武郷氏(いいだ・たけさと。注③)の七男とのことです。
 『先代旧事本紀』江戸期(1644年)版本を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。同書版本の雰囲気を知る上では参考になり、おすすめです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②黒板勝美編『国史大系第七 先代旧事本紀』吉川弘文館、1966年。
③古賀達也「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」971話(2015/06/06)〝「天皇号」地名成立過程の考察〟


第2866話 2022/10/30

『先代旧事本紀』研究の予察 (1)

 昨日の「多元の会」のリモート研究会で、「日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―」を発表させていただきました。古田史学に入門した35年ほど前の若い頃に書いた拙論(注)に基づいた発表ですが、現在でもその論旨は有効ではないかと思っています。2019年に若干の修正を加えリライトしましたが、新たな知見や研究により修正を続けたいと願っています。
同リモート研究会では、終了後も残った「多元の会」会員の方々と学問研究について意見交換が行われることがあり、わたしもその時間を楽しみにしています。昨日も赤尾恭司さんや鈴木浩さんらと「磐井の乱」について意見交換しました。その中で、岩井を討った物部麁鹿火をはじめとする物部氏研究の必要性を訴えました。
 というのも、九州王朝の王族は物部氏であったと考えられないでしょうかと古田先生におたずねしたことがあり、その可能性もありますとの返答でしたが、先生晩年の頃の会話でしたので、物部氏研究は手つかずのままとなっていました。近年では日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)が物部氏関連の研究を始められたこともあり、わたしも一念発起して、物部氏に関わる代表的古典『先代旧事本紀』を読み直しています。長期にわたる研究になりそうですので、勉強の進捗状況を「洛中洛外日記」で報告することにより、読者からのご指摘・ご教示をいただければと願っています。(つづく)

(注)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第1集、古田史学の会編、1996年。1999年に明石書店から復刻。


第2865話 2022/10/28

後代史料中の干支がずれた九州年号

 干支が一年ずれた九州年号が後代史料中にも散見され、これが異干支暦によるものか、誤記誤伝の結果なのかの判断は難しいところです。管見によれば、『肥前叢書 第一輯』(注)収録の史書に次の異干支九州年号が見えます。

 「遊方名所略曰、卅二代用明天皇、勝照二年丁未(後略)」
 「日本略記曰、(中略)其後人王卅四代ノ帝敏達天皇ノ御宇ニ、聖徳太子ノ御異見ニテ、鏡帝(當)二年癸卯 增――癸卯ハ敏達天皇ノ十二年ニテ聖徳太子十一歳ノ時 六十六ケ國ニ被割ケリ」
 『肥前舊事 巻之一』南里居易編・糸山貞幹增訂、明治三六年。

 『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。

【九州年号「鏡當」「勝照」干支と一年ずれた異干支】
西暦 九州年号 干支 異干支 天皇 年
581 鏡當元年 辛丑 壬寅 敏達 10
582 鏡當二年 壬寅 癸卯 敏達 11
583 鏡當三年 癸卯 甲辰 敏達 12
584 鏡當四年 甲辰 乙巳 敏達 13
585 勝照元年 乙巳 丙午 敏達 14
586 勝照二年 丙午 丁未 用明 1
587 勝照三年 丁未 戊申 用明 2
588 勝照四年 戊申 己酉 崇峻 1

(注)『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、1973年。


第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟