古賀達也一覧

第2834話 2022/09/12

大寶二年「御野国戸籍」と

 養老五年「下総国戸籍」の高齢者

 「大寶二年(702年)御野国戸籍」にわたしが注目したのは高齢者(70歳以上)の多さでした。古代戸籍研究でいくつもの戸籍を見てきたのですが、最高齢の93歳の女性(加毛郡半布里の都野母若帯部母里賣)を筆頭に高齢者が多く、この史料状況は二倍年暦の影響を受けて成立したのではないかと感じたのです。
 70歳以上の高齢者がわたしの調査では38人(男18人、女20人)記されています。文献によって総数が異なるのですが、その比率は全体(2428人。男1092人、女1336人)の1.57%(男1.65%、女1.5%)に相当します(注①)。高齢者率が男より女が低いことも不審ですが、比較的時代が近い養老五年(721年)「下総国戸籍」の高齢者は次の通りで、「御野国戸籍」はその約1.5倍の高齢者率なのです。

【「下総国戸籍」の70歳以上の人】

「妻 孔王部奈爲賣」(73歳)
「母 土師部刀自賣」(72歳)
「母 私部與伎賣」(71歳)
「戸主 孔王部三村」(71歳)
「母 孔王部乎弖賣」(73歳)
「母 小長谷部椋賣」(84歳)
「姑 三枝部宮賣」(75歳)
「孔王部大年」(79歳)

 最高齢は「母小長谷部椋賣」(84歳)で、70歳以上は計8人(男2人、女6人)であり、総数772人(男343人、女429人。注②)中の高齢者率は1.04%(男0.58%、女1.4%)です。こちらは女性の方が高く、人の寿命の男女差としてリーズナブルです。
 対象地域が御野国と下総国と離れてはいますが、どちらも八世紀第1四半期のほぼ同時代の戸籍ですから、約1.5倍も高齢者率が異なるのは不自然ではないでしょうか。両者を比較した場合、高齢者の男女比率の不自然さから判断しても、より疑うべきは「御野国戸籍」の方なのです(注③)。しかも、同戸籍の不自然さは他にもありました。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)掲載の年齢分布表を元に、『寧楽遺文(上)』(竹内理三編、1962年)で高齢者数を確認した。見落としがあるかもしれないが、大きく異なることはないと考えている。
②同①。
③「下総国戸籍」の年齢も、52歳以上は二倍年暦の影響を受けており、正確には〝「下総国戸籍」よりも「御野国戸籍」の方が二倍年暦の影響を受けた年齢層が広い〟ということである(「御野国戸籍」は33歳以上が二倍年暦の影響を受けている)。この点、後述したい。


第2833話 2022/09/11

「大寶二年籍」の史料事実と歴史事実

 「延喜二年籍」(702年)の次は、現存最古の戸籍「大寶二年籍」(702年)の研究に入りました。「大寶二年籍」(注①)は西海道戸籍と御野国戸籍が遺っており、わたしが注目したのが御野国戸籍の高齢者群でした。それは次の高齢者(70歳以上)です。

〔味蜂間郡春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀郡栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣郡肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方郡三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛郡半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大寶二年籍」中の最高齢記事。
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果(二倍年齢)ではないかと疑いましたが、従来の古代戸籍研究ではこの〝史料事実〟を無批判に〝歴史事実〟として採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしは、「大寶二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢者群の存在という〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とすることは学問的に危険と指摘しました(注②)。しかも、高齢者群以外にも「大寶二年籍」には不自然な史料状況がありました。(つづく)

(注)
①「大寶二年籍」『寧楽遺文(上)』竹内理三編、1962年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2193話(2020/08/03)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)〟
 同「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2832話 2022/09/10

「延喜二年籍」の史料事実と〝偽籍〟

 「延喜二年(902年)阿波国戸籍」に見える超高齢者群を二倍年暦(二倍年齢)の影響を受けたものではないかと、当初、わたしは考えていたのですが、同戸籍の年齢を全て半分にすると、新たに多くの問題点が発生することがわかりました。たとえば、親子間の年齢差や女性の出産年齢が非常識なものになる例が出てきたのです。このため、二倍年齢による解釈は成立困難と判断しました。
 そこで先行研究(注①)を調べたところ、この超高齢戸籍を〝偽籍〟とする説があることを知りました。すなわち、親や家族が亡くなると班田を国家に返却しなければならず、それを避けるため除籍せずに死者が生きていることにして、造籍時に年齢だけを加算した偽りの戸籍を作成し、国司や朝廷に報告した結果、〝偽籍〟「延喜二年阿波国戸籍」が成立したとするものです。現代社会でも、親が亡くなっても生きていることにして、親の年金を受給する事例が発覚していますが、それと同類の行為が十世紀初頭の平安時代にあったというわけです。しかも古代の場合、その〝偽籍〟は地方役人も加担して行われたに違いありません。
 この偽籍説は、「延喜二年阿波国戸籍」の〝史料事実〟を〝歴史事実〟とはせずに、班田返却を避けるための〝偽籍〟とするもので、学問の方法としても妥当な判断と思いました。しかし、同戸籍を精査すると、死者の年齢を造籍時に加算しただけでは説明できない超高齢の戸(家族)があり、やはり一部の戸には二倍年齢という概念を部分導入しなければ説明できないことに気づきました。その詳細については、八王子セミナーで発表した拙論「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注②)をご参照ください。
 こうして、「延喜二年籍」の超高齢者群の存在について、自分なりに納得できる結論に至ったので、次に現存最古の「大宝二年籍」(702年)の研究に入りました。そこにも、〝史料事実〟と〝歴史事実〟の間に大きな問題が横たわっていることを知りました。(つづく)

(注)
①平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。
②古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を検討したうえで使用しなければならない。文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2831話 2022/09/09

「延喜二年籍」の史料事実と歴史事実

 八王子の大学セミナーハウスで毎年開催されている〝古田武彦記念古代史セミナー〟が、今年も近づいてきました。一昨年は、古代戸籍の二倍年暦についての研究「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注①)を発表させていただきました。
 この研究テーマの発端となったのは、古田先生が明らかにされた倭人の二倍年暦(二倍年齢)が日本列島ではいつ頃まで続いたのだろうかという疑問を抱いたことでした。そこで注目したのが「延喜二年阿波国戸籍」に見える超高齢の年齢分布という次の〝史料事実〟でした(注②)。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。もちろん〝史料事実〟と〝歴史事実〟とは異なる概念ですから、史料事実をそのまま歴史事実と見なし、別の仮説の根拠とすることは文献史学の学問の方法上できません。
 そこで、わたしはこの超高齢分布戸籍という〝史料事実〟は、二倍年暦を淵源とする二倍年齢の痕跡ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする古い二倍年齢計算法が阿波国では十世紀時点でも継続採用されていたのではないかと考えたのです。そこで、古田先生が提唱された二倍年暦説を用いてこの〝史料事実〟の解釈を試み、当時の阿波国の人々の二倍年齢使用という〝歴史事実〟を論証しようとしたのです。ところがそれほど単純な問題ではないことがわかりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf
②平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。


第2830話 2022/09/08

中国での「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)には、中国の研究者からも厳しい批判論文が発表されました。張富祥氏による「『夏商周断代工程』の間違い」(注①)という論文で、次のような書き出しで始まります。

〝暫定的に公表された「1996年から2000年までの夏商周断代工程の成果に関する報告書(簡易版)」(以下、「報告書」という)は、わが国の「5000年」の歴史の複合体を暗示しているように思われる。どう見ても不人気である。純粋に学術的な観点からは、大げさで不完全な特定の日付と数字の組み合わせはそれほど重要ではないかもしれません。おそらく、それらの背後にある一連の概念と意図こそ、学界による反省と思慮に値するものです。〟

 中国語(簡体字)の論文なので、わたしは上手に訳せませんが、主な批判点はつぎのようなことでした。結論部分をかなり要約して転載します。

〝一、研究アプローチの見直し
 古代年代学研究の難しさはよく知られていますが、「史料」がないわけではありません。現時点で実現可能なアプローチは、既存の古代文献「史料」に基づいている必要があり、既存年表をほとんどの学者が受け入れられるレベルにまで調整するよう努める必要があります。
 正直なところ、プロジェクト(夏商周断代工程)は急いで実行されており、既存の「史料」は体系的に注意深く研究されてはいません。「報告書」に反映されている研究アプローチはほとんどすべての既存史料を解体し、さまざまな古典または引用された文書と不適切な比較を行い、自分たちが「最良の選択肢」と考える年代を採用しています。〟

〝二、汎科学的議論の考察
 偏った研究アプローチに関連して、プロジェクトによって提唱された学際的なアプローチも汎科学的になりがちです。プロジェクトの年代学研究の基本原則は、文字史料が考古学的結果、科学技術的な年代測定、および碑文と矛盾する場合、前者よりも後者を信じるべきとすることです。この原則は特定の歴史年代を決定するという点では、文献史学と比較して利点がありません。プロジェクトにおける学際的な手法の適用には、長所と短所があると言うべきで、多くの間違いと教訓を反省する必要があります。〟

〝古代史の年代を考古学で検証するには、まず適用範囲の問題があります。調査の対象が数万年または数十万年前の遺物である場合、試験資料は比較的適用可能な年代順のデータを提供でき、誤差は数百年または数千年に拡大されても依然として有効です。
 しかし、それが文字の時代(歴史時代)に限定され、時系列の詳細に至る場合、試験方法は限界を示します。プロジェクトでは炭素年代測定値は±20年程度の精度が求められています。現在の技術水準を考えると実現不可能な精度です。たとえ試験が正確であっても、考古学的な層序区分や発掘された遺物が実際の年代を決定するための直接的な根拠になり得ないことは誰もが知っています。〟

〝プロジェクトにおける学際的なアプローチの使用は、大部分がとてつもないものであり、得られた結果も欧米人がよく使う比喩で言えば、プロジェクトが設定した時代に剣がかかっているとも言え、ちょっとした疑問があれば、剣が落ちて時代を殺してしまうかもしれません。科学研究の基礎は実験と帰納であり、社会科学に科学技術的手段を一概に適用することはできず、また科学自体にも欠点があり、汎科学的理解は決して科学を尊重するものではありません。〟

 わたしの拙い訳でわかりにくいと思いますが(注②)、張氏は「夏商周断代工程」が文献よりも考古学・炭素年代測定などの結果を優先していることを批判し、周王の王年のような詳細な年代を求めるには文献に依らなければならないと主張しています。具体的には『竹書紀年』『魯国年代記』などを重視し、周王の即位年を推定しています。
 わたしの見るところ、張氏の「夏商周断代工程」に対する批判は的を射ていると思うのですが、結局、張氏にも二倍年暦の概念がないため、周王の年代や在位年数の復元には成功していないと言わざるを得ません(注③)。しかし、国家プロジェクト「夏商周断代工程」に対する氏の厳しい批判精神に触れ、勇気ある研究者だと思いました。

(注)
①張富祥(Zhang Fuxiang)「『夏商周断代工程』の間違い」、『捜狐』デジタル版、2019年4月1日。
https://www.sohu.com/a/305083439_523187
②たとえば「汎科学的」に対応する適切な日本語訳を思いつかなかった。不適切な訳があるかもしれず、中国語に堪能な方の助言をいただければ幸いである。
③張氏の説によれば、周の建国年次を前1027年(『竹書紀年』に基づく)であり、「夏商周断代工程」の結果(前1046年)と大きくは変わらない。


第2829話 2022/09/07

日本からの「夏商周断代工程」批判

 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(2000年発表・承認)の結論、特に西周各王の紀年が間違っていると、わたしが確信した理由の一つに、日本人研究者からの有力な批判を知ったことでした。特に佐藤信弥さんの著書にはその理由が詳述されており、周代研究の現状を知るのにも大変役立ちました。「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究を紹介した佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(注①)は、「夏商周断代工程」の研究結果への学界からの批判を次のように紹介しています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟同書108頁

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟同書110~111頁

 こうした批判を認めざるを得なくなった「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、佐藤さんは次のように指摘しました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟同書111~112頁

 様々な解釈が可能な抽象的な金文に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという「夏商周断代工程」の方法自体に、わたしの疑念は決定的なものとなりました(注②)。その後、中国の研究者からも更に厳しい批判論文が発表されました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。
 同『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟
 同「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第2828話 2022/09/06

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (2)

 『古今和歌集』古写本(注①)の「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山を いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説が杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注②)に紹介されています。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 おそらくこうした偽作説の根拠になったと思われる不自然な状況があります。たとえば、同歌が『古今和歌集』の巻第八「離別哥」ではなく、巻第九「羈旅哥」冒頭に収録されていることです。この「天の原」歌の題詞・左注には、中国の明州の海辺で行われた中国の友人達との別れの席で、仲麻呂が夜の月を見て歌ったと語り伝えられているとあります。

 「もろこしにて月を見てよみける」
「この哥は、むかしなかまろ(仲麿)をもろこし(唐)にものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいしう(明州)といふところのうみべ(海辺)にて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」(注③)※()内の漢字は古賀による付記。

 この歌は別離の夜会で仲麻呂が歌ったとあるのですから、その通りであれば「羈旅哥」ではなく、その直前の「離別哥」に入れられるべきものです。しかも、この歌を詠んだときの作者の進行方向は、「ふりさけみれば かすがなるみかさの山」とあるのですから、日本ではなく唐のはずです。唐へ向かう遣唐使船上で振り返ると、「かすがなるみかさ山」から出た月が見えたという歌なのです。ですから、作者が唐に向かうときに歌ったのだからこそ「羈旅哥」に入れられたのではないでしょうか。
古田先生はこの歌の作歌場所を壱岐の〝天の原〟とされ、仲麻呂が遣唐使の一員として唐に渡るときに詠んだもので、その歌を明州で思い出して歌ったと理解されました(注④)。古田説の場合、偽作ではなく、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の左注が不正確だったとするものです。すなわち、「よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」とあるように、伝聞情報に依ったと記していることも、古田説成立の背景と思われます。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した次の二つの古写本がある。前田家所蔵『古今和歌集』清輔本、保元二年、1157年の奥書を持つ。京都大学所蔵『古今和歌集註』藤原教長著、治承元年、1177年成立。
②杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
③『古今和歌集』日本古典文学大系、岩波書店。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2827話 2022/09/05

「夏商周断代行程」と水月湖の年縞

 1996年から始まった中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝(夏・殷・周)の実年代を多分野(文献史学・考古学・天文学・暦学)の研究者による共同作業で確定するというもので、その報告書が2004年に発表、国家から承認されました。それまでは古代王朝の実年代は東周(周代の後半、春秋・戦国時代)までしかわからないとされていましたが、このプロジェクトにより周の建国年次(前1046年)まで明らかになったと発表当時は注目されました。
 この研究結果により、『論語』や周代の二倍年暦説は成立しないとの批判(注①)もあったのですが、わたしは「夏商周断代工程」の方法論に疑問を抱いていましたので、周代(特に西周)は二倍年暦でなければ史料事実を説明できないと考えていました。ですから、このプロジェクト結果は正しいのだろうかと疑っていましたし、今では〝間違っている〟と確信しています(注②)。その理由の一つがC14炭素年代測定値を根拠にしていることでした。
 同プロジェクトの経緯や概要と結論について著された岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(注③)を読んで、最初に感じた疑問が、西周の王年の証明に使用された各遺跡出土物(人骨・木炭等)の炭素年代測定値幅が約20年~80年であり、紀元前11世紀から8世紀の炭素年代測定の精度がそこまで高いのだろうかということでした。もしその測定値と周の各王年が一致したのであれば、それは2000年頃の補正値(intCAL98か、1998年)が採用されているはずで、最新の補正値intCAL20(2020年)やその前の補正値intCAL13(2013年)など、数度にわたり補正値が変化しているので、最新補正値では王年との対応が崩れているのではないかと思ったからです。特にintCAL13は水月湖(福井県)の年縞(注④)により補正され、その精度が画期的に向上しています。(つづく)

(注)
①中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
②古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
③岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』柏書房、2005年。
④萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。


第2826話 2022/09/04

『多元』No.171で論じた 「夏商周断代行程」

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.171が届きました。同号には拙稿「周代の史料批判 「夏商周断代行程」の顛末」を掲載していただきました。同稿は、周代史料(伝世史料・金文・竹簡)の性格と史料批判上の留意点を説明し、中国の国家プロジェクト「夏商周断代行程」の問題点を指摘したものです。
 『論語』や周代の二倍年暦説への批判の根拠として、周代史料(金文・『竹書紀年』)の〝史料事実〟や「夏商周断代行程」の〝結論〟を指摘する意見もあるため、周代史料の取り扱い(例えば、金文は様々な解釈が可能)が難しいこと、プロジェクト「夏商周断代行程」の学問の方法への疑義や、結論に対して学界からの批判があることを紹介しました。
 中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」は、古代中国王朝の実年代を多分野の研究者による共同作業で明らかにするというもので、その報告書が2004年に発表されました。わたしは、知人の台湾人研究者の協力の下、同報告書(中文)精査の準備をしており、後日、その結果を報告したいと思います。


第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2824話 2022/09/02

「二倍年暦」研究の思い出 (12)

―弥生人骨の年代判定とグラフ化―

 『論語』をはじめとする周代史料の二倍年暦論証という古田先生の遺訓については、多くの論文を発表し、ある程度はお応えすることができたと考えています。しかし、それらを一冊の本にする仕事がまだ残されています。他方、二倍年暦説そのものに対する考古学的批判(弥生人骨の年齢分布)や中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(注①)により周代の一倍年暦は証明されたとする批判もありました(注②)。
 何度も述べていますが、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えていますので、新たな批判も歓迎するところでした。特に弥生人骨の年齢判定や中国での「夏商周断代工程」などは未知の分野でしたので、それらの研究に触れる良い機会にもなりました。しかも、前者は理系分野の研究ですから、わたしもその方法論については関心を抱いていましたし、化学工場で品質管理・製品検定責任者の経験もありましたので、どちらかというと漢籍や古文研究よりも得意な分野でした。この分野については既に反論済みと考えていますが(注③)、あらためてその論点を紹介します。
 わたしの『論語』二倍年暦説を批判された中村通敏さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」(注④)において、五十歳を越える古代人が20%以上いたとされた根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが次のように引用されています。
【以下、転載】
 注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 1942.2 祥伝社
p169~p172 死亡時年齢の推定 要旨
 骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(20~40)、熟年(40~60)、老年(60〇~)の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、15歳くらいまでは1歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。
 注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 2005.1
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】
 そして、中村さんは提示されたグラフに次のような説明を付されています。「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」
 わたしは上記の「注」を読み、中村稿の「生存者の年齢推移図」グラフを仮説(一倍年暦)の根拠に用いるのは危険と感じました。同グラフに違和感を覚えたのです。その理由は次の通りです。

(ⅰ) 松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。
(ⅱ) そして、「壮年(20~40)、熟年(40~60)、老年(60~)の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
(ⅲ) 出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法は理解できるが、その三段階の年齢枠は何を根拠に(20~40)(40~60)(60~)と設定されたのかが不明。
(ⅳ) 出土人骨の相対的年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定は困難。古代史に詳しい知人の医師にもたずねたが、そのような技術はまだ確立されていないとのこと。
(ⅴ) 従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢枠が現代とは異なり、仮に(15~30)(30~40)(40~)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判定によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
(ⅵ) 他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、信頼性は高い。これによれば、倭人の一般的寿命は四十~五十歳である。
(ⅶ) 中村さん提示のグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0%に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
(ⅷ) 弥生時代の出土人骨を50歳・60歳・70歳に区別できるほどの測定技術があるのか不審(従って、コンピューターソフトでグラフ化した70歳付近のパーセント数は信頼性が劣る)。しかも年齢比定に必要な、別の手段(墓誌など)で没年齢が判明している弥生人の「標本人骨」の存在など聞いたことがない。
(ⅸ) 同時代の文字記録(倭人伝)という一次史料と現代の考古学者による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の推定方法の当否である。

 このように、同グラフ作成に至る方法論や一次史料(倭人伝)との整合が脆弱であるため、仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんの意見にも賛成できませんでした。さらに、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを用いることにも問題なしとは言えません。
 以上のようにわたしは反論しました。なお、出土縄文人骨年代判定にベイズ推定統計学を採用する試みも見られ(注⑤)、注目していますが、今でもわたしの反論は基本的に妥当と思っています。(つづく)

(注)
①岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)にプロジェクト「夏商周断代工程」が紹介されている。同プロジェクトは古代中国王朝の実年代を多分野の研究者による共同作業で明らかにするというもので、その報告書が2004年に発表された。
②中村通敏「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない 『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」『東京古田会ニュース』178号、2018年。
 同「『史記』の「穆王即位五〇年説」について」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
 服部静尚「二倍年暦・二倍年齢の一考察」『古田史学会報』171号、2022年。
③古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理 ―中村通敏さんにお答えする―」『東京古田会ニュース』179号、2018年。
④中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号、2009年。
⑤長岡朋人「縄文時代人骨のライフヒストリーの解明」日本学術振興会、最近の研究成果、2011年。


第2823話 2022/09/01

「二倍年暦」研究の思い出 (11)

―周代と漢代の「寿命」の落差《ケースD》―

 周代の二倍年暦から一倍年暦に代わった漢代では、人の年齢や寿命の表記が半減するわけですから、この激変の痕跡が漢代史料に遺されているはずとわたしは考えました。この痕跡《ケースD》を発見できれば、周代に二倍年暦が実在したとする論証上の有力なエビデンスになります。

《ケースD》周代の二倍年暦(二倍年齢)記事と、漢代の一倍年暦(一倍年齢)時代の記事とで、ちょうど二倍の年齢差が発生した史料痕跡がある場合。寿命や年齢が半減するため、そのことによる影響が漢代史料に遺る可能性がある。

 この史料調査は難航しましたが、京都府立図書館に通い詰め、ついに見つけることができ、論文発表しました(注①)。それは中国の古典医学書『黄帝内経素問』に記された、黄帝と天師岐伯との問答です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」『素問』上古天真論第一(注②)

 上古の人の百歳という長寿命に疑義を呈した黄帝から天師岐伯への質問形式を採った記事です。同書の作者は二倍年暦による百歳を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。
 ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦時代に入っており、上古の二倍年暦の記憶が失われていたことになります。『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見え、前漢代に編纂されたようですから、漢代では二倍年暦の記憶が失われていたことがわかります。そして、その時代の人の動作が衰える年齢が百歳ではなく五十歳(年半百)と認識されていたこともわかります。
 更に、この記事の重要な点は、比較した年齢、上古の百歳と今時の五十歳がちょうど半分になっていることです。このことから、二倍年暦が漢代よりはるか昔に存在していたとしなければ、この記事に示された作者の疑問(認識)の発生理由を説明できないのです。なお、同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 こうして、『論語』や周代の二倍年暦説を論証するための四つのケース《A・B・C・D》全てのエビデンスを確認できました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1660話(2018/04/29)〝『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)〟
 同「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
 同「二倍年暦と『二倍年齢』の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
 同「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』171号、2022年。
②『素問』はweb辞書「維基文庫」に収録されている。