古賀達也一覧

第3424話 2025/02/07

倭人伝「七万余戸」の考察 (5)

 ―50年逆行する「邪馬台国」畿内説―

 今回のテーマ「七万余戸」に限らず、文献史学の「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、代表的な畿内説論者の仁藤敦史さんの著書・論文(注①)を取り寄せ、読んでみました。その読後感は「倭人伝研究が古田武彦以前の状況、言わば50年逆行している」というものでした。ちなみに同様の感想を、古田学派の中でも中国史書・倭人伝研究に最も精通する谷本茂さん(古田史学の会・編集部、日本科学史学会・会員)も漏らされていました。

 谷本さんは京都大学時代(工学部)からの古田説支持者で、中国古典の天文算術書『周髀算経』の研究により、周代に短里(1里=76~77m)が使用されていたことを明らかにした研究業績が著名です(注②)。その谷本さんから、仁藤さんら「邪馬台国」畿内説論者の倭人伝研究は「50年、時代に逆行している」と聞いていたのですが、実際に読んでみると、まさにその通りでした。併せて読んだ安本美典氏の著作『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(注③)の方が考古学エビデンスも解釈も〝はるかにまとも〟と思えたほどです。

 詳しくは後述しますが、古田先生や谷本さんが明らかにした魏・西晋朝短里説は、「邪馬台国」畿内説にとって最も不都合な仮説なのです。その証拠に、仁藤さんや渡邉義浩さんの著書(注④)には、古田先生が50年前に提起し、当時論争が続いた短里説が全く扱われていません(注⑤)。短里説の存在を読者には絶対に知られたくないかのようでした。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』1978年3月。
「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」、古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。
同「『邪馬一国の証明』復刻版解説」、古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房、2019年。
③安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』宝島社新書、2009年。
④渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
⑤古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年(昭和46)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。

 

【写真】谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」の短里計算式と関西例会で発表する谷本さん


第3423話 2025/02/06

倭人伝「七万余戸」の考察 (4)

 ―戸数と面積の相関論(正木裕説)―

 弥生時代の人口推計学の方法(遺跡の「発見数」を計算に使用)や推定値(弥生時代の人口約60万人)が、同分野の研究者(注①)からも「計算方法に根本的な問題がある」との疑義が出されていることから、そのような推定値を根拠として、倭人伝の「七万余戸」を否定することはできないことがわかりました。

 そこで今回は文献史学の立場から、倭人伝に記された各国の戸数とその領域の平野部面積に相関があり、その戸数が信頼できることを実証的に論じた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注②)を紹介します。同研究の概要を説明したメールが正木さんから届きましたので、転載します。詳しくは『古代に真実を求めて』17集に収録した正木論文を読んで下さい。

【以下、メールを転載】
古賀様
極めて大雑把な計算ですが、壱岐の面積と戸数をもとに計算した「魏志倭人伝」の各国の面積と領域は次のとおり。

①壱岐(一大国)は138㎢・3千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約50㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約25㎢=方5㎞の範囲の国)

②「奴国」の「二万戸」を比例させれば約800㎢。これは山岳部(背振山脈)を除外すれば怡土平野+肥前国程度。

③「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約2800㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。
全国で60万人などという人口推計がおかしいのです。
正木
【転載おわり】

 この正木さんの計算方法は簡単明瞭であり、誰でも検証可能なデータに基づいていますから、説得力があります。他方、現在の文献史学における「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、畿内説論者の著書・論文(注③)を入手し、取り急ぎ読んでみました。(つづく)

(注)
①中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf
②正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
③渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3422話 2025/02/05

倭人伝「七万余戸」の考察 (3)

 ―人口推計方法の限界―

 弥生時代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できませんので、とりあえずネット上の緒論を見てみました。それによれば、鬼頭宏氏の推定人口(注①)は小山修三氏の説(注②)に依拠しているとのことで、次のような説明と計算式が示されていました(注③)。

【以下、転載】
2-1 原典データの人口算出プロセス
原典データは大略次のようなプロセスで人口を算出しています。

ア 日本でもっともふるく、かつ比較的信頼性のたかい人口データである沢田吾一(1927)の奈良時代人口(国別租税高による推算)を基準とする。
イ 沢田データに時間的に近い土師期(古墳、奈良、平安)遺跡数をもとめる。
ウ データのそろう関東地方の遺跡当たり基準価Vを求める。
V=P/T 遺跡当たり基準価(V)=土師期の人口(P)/遺跡総数(T)
V=943000/5549≒170
エ 縄文各期の人口は例えば
縄文中期人口=縄文中期制限定数(C)×縄文中期遺跡数×V
でもとめる。
期別制限定数は結果蓋然性が高くなるような方法により早期1/20、前期1/7、中期1/7、後期1/7、晩期1/7、弥生1/3を設定する。(Shuzo Koyama 1979)
【転載おわり】

 この人口推定に用いられた計算式が論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの遺跡数が主要ファクターになっていることは明確です。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。

 このような計算式で精確な人口が推定出来るものなのでしょうか。そもそも、各時代の遺跡数などわかるはずもありません。わかるのは発見された遺跡の数だけですし、遺跡の性格や規模はどのようにカウントし、定数に反映させているのでしょうか。はっきり言って、こんな計算式で縄文時代や弥生時代の人口が推定できるとは、わたしには到底思えません。そこで、人口推定の専門家の論文を探しました。

 近年では、小山氏の人口推計に問題があるとする研究者は少なからずいるようです。たとえば立命館大学に縄文時代の人口研究を専門とする中村大氏がいます。氏の論文「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」(注④)の「小山推定の意義と問題点」において、「計算方法に根本的な問題がある」として、計算に使用した遺跡数が「発見数」であり、「本当の存在数」ではないと指摘しています。これこそわたしが問題視していたことの一つです。

 このように問題が指摘されている現代の研究者による人口推定値を根拠として、同時代史料である倭人伝の記事を否定するのは、文献史学の方法から見ても問題ではないでしょうか。現代人の認識によって、古代史料を改訂・否定(たとえば倭人伝の中心国名「邪馬壹国」を「邪馬臺(台)国」に、その位置を示す方角「南」を「東」と書き換えるなど)するには、必要にして十分な論証が必要であると、古田先生が述べてきた通りです。ですから、疑うべきは同時代史料よりも、問題があるとされる現代人による推定値の方ではないでしょうか。

 なお、中村さんは2018年に、弥生時代の人口推定の新しい方法を発表されたらしく、立命館大学の知人を介して中村さんにお会いし、御教示いただこうかと考えています。専門家に直接お聞きするのが、より勉強になると思いますので。(つづく)

(注)
①鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。
②『ブログ歴史人口学』によれば、小山修三氏の説に依拠した鬼頭宏氏の推定人口は次のように説明されている。
遺跡数と、遺跡当たりの推定収容人口比から、弥生時代に関しては遺跡数に56、中期以降の縄文時代に関しては遺跡数に24、縄文時代早期に関しては遺跡数に8を乗じた値をそれぞれの時代の推定人口とすることで算出された。
縄文時代早期 2万0100人
縄文時代前期 10万5500人
縄文時代中期 26万1300人
縄文時代後期 16万0300人
縄文時代晩期 7万5800人
弥生時代 59万4900人
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geo-Jinkou.html
③『ブログ花見川流域を歩く』「縄文時代人口データ原典の考察」2020年6月7日
https://hanamigawa2011.blogspot.com/2020/06/blog-post_7.html
④中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf


第3421話 2025/02/04

倭人伝「七万余戸」の考察 (2)

 ―弥生時代に戸籍はあったか―

 『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」という数字は誇張されたもので信頼できないとされているようです。その理由の一つに、「弥生時代に戸籍制度があったとは思われない」という意見があります。他方、当時の国家制度は中国の影響を受けて、その時代にふさわしい制度があったとする意見もあります。わたしもこの意見に賛成です。

 とは言え、当時の倭国の「戸」制度の内容は未詳です。しかし倭人伝に次の記事が見え、注目されます。

 「尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役と考えられている。注①)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、吉野ヶ里遺跡や比恵那珂遺跡のような大規模集落、大都市遺構の存在を見ても、それらを造営・維持管理するための国家制度(戸籍・官僚制度・軍事制度・官道など)があったことを疑えません。

 戸制度については古田先生による考察が『倭人伝を徹底して読む』の「第七章 戸数問題」(注②)にあり、倭人伝に見える「戸」を「魏の制度としての戸」としています。そこでは『漢書』地理志の戸数が列記されており、その一戸あたりの人数を計算すると概ね四人から五人であることがわかります。この数値を援用すれば、邪馬壹国の「七万余戸」は約30~35万人となります。これでも邪馬壹国だけで現代の人口推計学による弥生時代の推定人口(北海道・沖縄を除く)約60万人の半数ほどになりますから、両者は整合していません。どちらがより正しいのでしょうか。わたしが学んだ文献史学の方法や立場からは、現代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できません。(つづく)

(注)
①国営吉野ヶ里歴史公園HP「弥生ミュージアム 第五章 弥生時代の社会」の解説による。
②古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。


第3420話 2025/02/03

倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

 八王子セミナー(注①)の実行委員として、橘高修さん(東京古田会副会長)と意見交換する機会に恵まれました。今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。

 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。そのため、現代人による人口推計値約60万人が、どの程度確かな方法や理論により成立しているのかを調べることが必要です。

 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。橘高さんの問題提起を受けて、わたしはこれらのテーマについて勉強を始めました。(つづく)

(注)
①八王子市にある大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー」の略称。毎年11月に開催。協力団体として「古田史学の会」も参加している。
②鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。


第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。


第3418話 2025/01/30

安藤哲朗氏のご逝去を悼む

 多元的古代研究会の顧問(前会長)安藤哲朗氏が一月二四日、ご逝去されました(九一歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。

 安藤さんは「市民の古代研究会」時代からの知己、漢文・中国史書に堪能な方で、誠実温厚なお人柄でした。亡くなられた高田かつ子さんの後を継いで多元的古代研究会々長に就任され、『多元』誌の編集発行などにご尽力されました。古田武彦先生が亡くなられた二〇一五年一〇月、友好三団体(多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会)の幹部が東京の学士会館に急遽集まり、追悼行事の打ち合わせをしたことなどが昨日のことのように思い起こされます。

 わたしの手元には、生前、氏から委ねられた未発表論稿があります。『古事記』真福寺本国生み神話に見える「天沼矛(あまのぬぼこ)」の字形に関する論稿で、それを「天沼弟(あまのぬおと)」と読み〝銅鐸の音〟と解釈する古田説を〝否〟とするものでした。研究途上あるいは古田先生に遠慮されたのか、発表の意思はないとのことで、安藤稿に賛成するわたしに託されたのかもしれません(注)。この論文は遺稿となりました。

 最後に『多元』一七〇号(二〇二二年七月)掲載、恐らくは絶筆であろう「FROM編集室」を転載します。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に順うであろう◆NHKの深夜放送は例によって目を覆うばかりの小魚の群を少数の大魚が追い廻す光景を放送して◆暗示している◆私は来世何に生まれるやら◆人間を期待するのは無理だろうな◆でも人間は地上を荒らしすぎた◆最近それを人々は自覚しはじめたようだ◆哲朗誠恐誠惶頓首謹言」

 水野孝夫さんら古田史学第一世代の物故が続いています。悲しみと寂しさは雲委の如し。令和の御世、鬼哭啾々にして涙暇無し。あなたのご遺志をしっかりと引き継ぎます。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」628話(2013/12/03)〝幻の古谷論文〟
同「洛中洛外日記」676話(2014/03/11)〝『古事記』道果本の「天沼矛」〟

 

【写真】学士会館(東京神田)にて。安藤哲朗さん(多元的古代研究会会長・当時)・古賀(古田史学の会代表)・藤沢徹さん(東京古田会会長・故人)2015.10.22。


第3417話 2025/01/26

秀逸!『隋書』俀国伝の

       「九州王朝」解説動画

 「古田史学の会」の会員から、若者向けに古田説・古田史学の解説動画を作成し、YouTube配信してはどうかとのご意見が少なからず寄せられます。わたしも賛成ですし、具体的に検討したことも何回かありました。しかし、今のわたしにはその力が足りず、また時間的余裕もなく、具体化できないままでした。何よりも、今の若者たちの心に届くようなコンテンツを造れるのはわたしではなく、若きクリエイターであるということが決定的でした。

 そうした問題意識もあって、古代史関係のYouTube番組を関心を持って見てきたのですが、先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)より、優れた動画サイトの紹介がありました。「未知の日本史」というタイトルで、『隋書』俀国伝(動画では倭国伝とする)に記された「九州王朝」説を解説した動画でした。その内容から、作成者は古田説をよく勉強されていることがわかりました。アクセス件数も初日だけで九万件を越えたとのことで、同サイトはいわゆるインフルエンサーによるもののようです。ちなみに、昨年の久留米大学公開講座では若者の受講者が突然増えて驚いたのですが、大学関係者の話によると「インフルエンサーが(九州王朝説をテーマとする)同講座を紹介したようだ」とのことでした。現代は、古田説を書籍ではなく、ネットで知る若者が主流の時代であることを改めて思い知らされた次第です。
動画の最後は次の言葉で締めくくられています。

〝それは私たちが教科書で学んできた歴史とは大きく異なる様相を見せていた。
魏徴が編纂したこの歴史書が伝える3つの重大な謎
第一は、なぜ『日本書紀』から消された600年の遣隋使の存在
第二は、700人もの後宮を持つ謎の支配者・多利思北孤
そして第三は、阿蘇山の記述から浮かび上がるもう一つの王朝の可能性である。

 これらの謎は、『日本書紀』が描く推古天皇と聖徳太子による日本の統治という一元的な歴史像の背後に、より複雑な政治構造が存在していた可能性を示唆している。そして、7世紀の日本がいかなる国家であったのかを考える上で極めて重要な手掛かりとなっている。この謎は今なお完全には解き明かされていない。『隋書倭国伝』は1400年の時を超えて、私たちに古代日本の新たな可能性を問いかけ続けているのだ。〟
https://youtu.be/xjcap8plu3g?si=82YhFAL5I86zR4qY

 なお、同サイトは「ヤバイ都市伝説」として紹介していますが、わたしたちは学問的有力仮説として検証・研究しなければならないこと、言うまでもありません。

(参考)「宝命」について

サイトおよび記事内は「宝命」で検索願います。

市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年 古田武彦を囲む会編
古田武彦講演録1 『日本書紀』の史料批判

「遣隋使」はなかった 古田武彦 第一代天子の「宝命」間題

 

中村幸雄論集

新「大化改新」論争の提唱─『日本書紀』の年代造作について
『日本書紀』推古紀の年代造作記事

 

古田史学会報123号(2014年 8月 8日)

『日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 服部靜尚

 


第3415話 2025/01/24

日野智貴さんの歴史教科書改訂案

 1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。

 「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ

 このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。

山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴

p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。

《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。

《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。

p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。

 もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。


第3414話 2025/01/23

『九州倭国通信』217号の拙稿紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.217号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」を掲載していただきました。同稿は「美しい」というキーワードで多元史観を論じたもので、その前編です。

 前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。原稿は次の言葉で締めくくりました。

 「あなた方(一元史観の学者)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」

 後編では、中国史書の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介します。

 なお、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との友好関係は、今年も更に深まることでしょう。1月19日の新春古代史講演会には同会の前田事務局長ら三名の方が見えられました。わたしたちも同会月例会での研究発表を今年もさせていただく予定です。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3413話 2025/01/22

京都新聞に「新春古代史講演会」記事

 1月19日に開催した新春古代史講演会の記事が翌日の京都新聞朝刊に掲載されましたので紹介します。「古田史学の会」事務局から同新聞社に案内を送っていたこともあってか、京都新聞社より取材にうかがいたいとの電話をいただいていました。当日の開会前に高山浩輔記者が見えられ、わたしが取材を受けました。その後も高山記者は熱心に講演を聴いておられ、仕事とは言え、まじめな青年だなあと思いました。

 当日、奈良新聞記者として講演会に来ていた竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)によれば、翌日の朝刊に掲載されるはずとのことでしたので、京都新聞を置いているご近所の喫茶店タナカコーヒーで20日付け朝刊をいただきました。見ると、市民版のページにカラー写真入りで新春古代史講演会の記事が掲載されていました(WEB版 2025.01.19 には記事の冒頭部が掲載)。京都新聞社さん、ありがとうございます。

【2025.01.20「京都新聞」朝刊より転載】
博物館の未来像 市民考える
下京で古代史学ぶ講演会
「地域文化への拠点」へ転換訴え

 古代史について考える講演会が19日、京都市下京区のキャンパスプラザ京都で開かれた。文化庁博物館支援調査官の中尾智行氏が、考古学にも密接に関わる博物館の未来像について語った。

 中尾氏は博物館の約8割は公立だが「バブル崩壊後、自治体の財政悪化で予算が割けず学芸員を置いていないところも多い」と指摘。老朽化も進む中、予算を得るためには、市民ぐるみで「地域文化の拠点」に変える必要があるとし、文化財なども一部のファンだけではなく、社会で価値を共有する必要性を投げ掛けた。

 橿原考古学研究所(奈良県橿原市)の元所員も登壇し、邪馬台国の所在地論争で有力な「畿内説」に疑義を呈する独自の見解を披露した。講座は古代史家の故古田武彦氏のファンらでつくる古田史学の会が主催した。(高山浩輔)


第3412話 2025/01/20

超満員御礼! 新春古代史講演会

 昨日、キャンパスプラザ京都で開催した新春古代史講演会は108名という多数の御参加で超満員となり、大盛況でした。参加者や関係者の皆様、講演していただいた三名の講師(注)の方々に厚く御礼申し上げます。そして、定員オーバーのため、途中退室要請に応じていただいた十数名の皆様(古田史学の会・関西の皆さん・他)には心より感謝申し上げます。この方々のご協力がなければ、講演会を無事に終了することはできなかったかもしれません。

 今回の講演会は、多くの案内チラシを各地の図書館や大学などに配布し、講師の方々の前評判が高かったこともあり、各地からの問い合わせ電話が連日のように届きました。当日は京都新聞の取材もありました。遠く関東、南は佐賀県・福岡県からもご参加いただきました。中でも友好団体の「九州古代史の会」の前田事務局長・田中前会長・松中さんがご来場され、旧交を温めました。講演会後の懇親会には講師の中尾先生・関川先生・正木先生にもご参加いただき、とても楽しい京の一夕となりました。

 昨年から続けてきた「古田史学の会」創立30周年記念イベントも、この京都講演会で終了です。これからは創立40周年に向けて、決意も新たに前進してまいります。会員の皆様には様々な機会にご参加頂き、ご意見ご要望などお寄せ頂けましたら幸いです。

《追補》今日の午前中は、佐賀県から講演会に見えられたKさんと出町商店街のカフェ〝出町ビギン〟でお会いしました。Kさんは元東京新聞の記者で、古田先生の訃報を掲載していただいた方。九年ぶりの再会でした。午後は八王子セミナー実行委員会にリモート参加。
関西例会・新春講演会・セミナー実行委員会と連日のハードスケジュールが続き、その合間を縫って『古代に真実を求めて』28集のゲラ校正や『古田史学会報』投稿原稿の査読、論文執筆などを行いました。会務を徐々にでも後継に委ねたいと願っています。

(注)《講師・演題》
中尾智行氏 (文化庁 博物館支援調査官) 考古学と博物館の魅力を未来に
関川尚功氏 (橿原考古学研究所元所員) 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
正木 裕氏 (古田史学の会・事務局長、元大阪府立大学理事・講師) 百済の古墳と「倭の五王」