古賀達也一覧

第3453話 2025/03/19

飛鳥宮跡北側から大型建物出土

 古田説の支持者や研究者のなかには、七世紀の近畿天皇家(後の大和朝廷)の実勢を過小評価する意見があります。わたしはエビデンスベースに基づいて判断すべきとして、拙稿「飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土」を『多元』186号(2025年)で発表し、次のように主張しました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」『多元』186号

 これは2023年に出土した飛鳥宮跡Ⅰ期に属する長大な塀跡について論じたものです。ところが今回、飛鳥宮内最大規模のⅢ期の大型建物二棟が飛鳥宮内郭の北から出土したという報道に接しました。「毎日新聞」WEB版が比較的詳しく紹介しているので、本稿末に転載します。

 その記事末尾にある〝世界では異例となる「塀の外の宮殿」の理由に迫れれば、律令国家が古代中国を模範としながらも国内事情を勘案して、国造りをいかに進めたかを浮き彫りにすることにつながる。〟という問題意識は貴重ですが、おそらく九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替という多元史観でなければ回答は得られないように思います。

 詳しくは発掘調査報告書が出ないと判断できませんが、報道のなかでわたしが注目したのが、検出された柱間距離(2.4m、3m、4.2m)と棟間距離(2.4m、12m)がいずれも、0.3mで割り切れることから、1尺=30cmの尺が設計に採用された可能性が大きいことになります。ただし、この数値の有効桁数が不明ですので、断定はできません。

 他方、この建物の造営時期は天武・持統期とされており、それが正しければ、藤原京(宮)の造営時期とほぼ重なりますから、藤原京からの出土尺29.5cmとは異なってしまいますし、条坊造営尺29.4~29.5cmとも一致しません。同一権力者による造営であるからには、設計尺が異なるのは何とも不思議な現象です。発掘調査報告書が出ましたら改めて精査検討したいと思います。

【記事転載】毎日新聞WEB版 2025/3/18
塀の外に天皇の宮殿?
飛鳥宮跡で7世紀の総柱建物跡見つかる

 奈良県明日香村の飛鳥宮跡北側で7世紀後半の大型の総柱建物跡が見つかった。以前見つかった大型建物跡の南の隣接地で、同規模の2棟が南北に対で建てられている。18日発表した県立橿原考古学研究所(橿考研)は「天武、持統両天皇の2棟建ての宮殿・内裏(だいり)とみられる」とするが、宮中枢「内郭」外側に位置しており、なぜ塀の外に天皇の宮殿があるのかは謎となっている。
橿考研が2024年10月から発掘調査を実施。09年度に発見した宮最大規模の建物跡(東西35.4メートル、南北15メートル)の範囲確認調査をしていたところ、南の隣接地に別の建物の北東部分の柱穴計35カ所を発見した。09年度に発見された遺構は外壁のみ柱を立てる「側柱建物」だったが、今回は内側にも柱を配置して頑丈に造った「総柱建物」と判明した。2棟をどう使い分けたかは不明だ。

 2棟は見つかった柱の位置関係から相似形とみられ、今回の総柱建物も内郭内の天皇の宮殿「内安殿(うちのあんどの)」や内郭外の「大極殿」とされる建物より規模が大きい。古代宮殿で複数建物が南北に並び、南側が総柱建物となっている例は、8世紀後半の「平城宮西宮」(現在の奈良市)がある。現場は埋め戻されており、見学会は実施しない。

◇世界遺産向け、謎解明が急務

 古代中国の都市区画「条坊制」が正確に用いられた藤原京(現在の橿原市)と違い、明日香村の遺跡は想定外の発見が多い。「塀外の宮殿」という今回の発見もその一つだ。世界標準では考えられない配置のため、理由の解明が焦点となる。

1棟だけでも宮最大規模の建物が計2棟も対で見つかり「天皇や天皇級の人物の宮殿」とする評価は研究者間で一致。モデルとなった古代中国の都・長安(現在の西安市)など世界の王宮は城壁で守られる中、天武・持統朝は宮殿を内郭外に置いたことになる。当時、壬申の乱(672年)のような内戦はあり、天皇を守る発想がないのは不可解だ。

 相原嘉之・奈良大教授(考古学)は「天武天皇の内裏は内郭にあり、2棟は皇后(のちの持統天皇)が住む『皇后宮』」と推測する。これとは別に、藤原京遷都を控えていたため、空いた場所に建てた「仮宮殿説」も出ているが、謎は深まるばかりだ。

 世界では異例となる「塀の外の宮殿」の理由に迫れれば、律令国家が古代中国を模範としながらも国内事情を勘案して、国造りをいかに進めたかを浮き彫りにすることにつながる。今夏に世界文化遺産への登録を巡る国連教育科学文化機関(ユネスコ)の審査が予定される「飛鳥・藤原の宮都」の普遍的な価値をアピールできる可能性も秘めている。【皆木成実】


第3452話 2025/03/18

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (6)

 ―天柱山標高「1860m」の出典閲覧―

 今の中国には、なぜか複数の「天柱山」があります。古田先生は『史記』や『三国志』に見える「天柱山」を大別山脈の最高峰とされ、著書にはその高さを1860mとしています。ところが大別山脈最高峰の白馬尖は1777mです(注①)。この違いが気になっていましたので、先生の著書(注②)で出典とされている「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」を探していたところ、なんと『世界大地図』(小学館、1972年)がご近所の京都府立医大付属図書館にあることがわかり、昨日、閲覧してきました。同書は『ジャポニカ大日本百科辞典』別巻「23巻」の『世界大地図』のことでした。

 同書索引には「天柱山」がなく、中国安徽省を含む地図中にもそのような山名は見えません。先生は何を根拠に1860mとされたのだろうかと目を凝らして探し続けたところ、大別山脈中に小さな文字で「▲1860」とありました。その位置は潜山(チエンシャン)の西で、白馬尖の位置とも異なるように見えました。また、安徽省潜山市の天柱山(約1489m)の場所よりもやや南のように見えます。しかしながら大別山脈中にはこの他に山の高さを示す数字はありません。従って、古田先生はこの「▲1860」を大別山脈の最高峰と見なしたものと思われます。おそらく、これが1970年頃の中国の測量技術に基づく数値ではないでしょうか。先生の著書も1975年出版ですから、当時としてはこの「1860」という数値が、大別山脈最高峰の公的な標高・海抜(注③)であったと思われます。

 こうして、古田先生が採用した1860mが、当時の地図に記された根拠を持つ数値であることを確認できました。決して、古田先生の誤解ではなく、架空の数値でもなかったのです。古田先生(の著書の数値)を「信じとおす」とは、このように一つ一つ実証的に調べ抜くことを意味し、決して古田先生や古田説を「盲信する」ことではないのです。(つづく)

(注)
①WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。
③標高と海抜は厳密には異なる概念だが、当時の中国での定義については未詳。


第3450話 2025/03/15

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (5)

 ―本来の「天柱山」は六安市の霍山―

 今の中国には複数の「天柱山」があります。このことは古田先生も著書で指摘していました(注①)。

 「天柱山は中国各地にいくつもあるが、この場合幸いなことに道程の記載があって、はっきりその場所が指定できる。現在中国で出ている地図にも書いてある有名な山で、海抜一八六〇メートルの、関東でいえば国定忠治の赤城山か谷川岳といったところだ。天柱山、高峻二十余里という語から想像するほど高くはない。」『日本古代史の謎』

 そのため、『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山」を古田先生は『三国志』や『史記』の記述を根拠に、下記の条件を満たす「霍山」(安徽省六安市霍山県。1860m)のこととしました。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 そこで、WEBで安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」について調べたところ、次の解説が目にとまりました。

〝南岳山

 皖西の名山、南岳山の位置は霍山県城の南2.5㎞、(中略) 原名は天柱山、亦の名は霍山、又、衡山、小南岳と称す。(中略)
我が国最古の意味を説明した専著《尓雅》の「釋山篇」に言う。「大山は小山を囲み、霍。」、「霍山は南岳である。」前段の意味は、大山が小山を囲んでいるということである。後世の歴史書で「霍山」を説明する場合、《尓雅》的な解釈が大半である。また、一致して「霍山」と呼ばれるのは、山西省の霍州近くにある山が「霍山」と呼ばれる以外には安徽省西部の霍山がある。

現代の辞書も「霍山」を説明する際には、上記の二つの注釈を多く引用している。そのため、南岳山もまた霍山と名付けられる。しかし霍山は今では南岳山や他の山を指しているのではなく、行政区域の霍山県を指している。
明末清初の著名な歴史地理学者、顧祖禹の《読史方輿紀要》第26巻には霍山について次のように記載されている。「霍山、県の南五里、本名は天柱山、また南岳山、また衡山とも呼ばれる。文帝は淮南の地を分けて衡山国を立て、この山の名を付けた。
《洞天記》によると、黄帝が五岳を封じた際、南岳衡山が最も遠い地で、潜岳を副にした。舜が南巡狩を行った際、南岳に至る。それが霍山である。漢の武帝は先哲の訓練を考えて、霍山を南岳としたので、故にその神をここで祭った。したがって、南岳山はまた衡山とも呼ばれる。(中略)

1987年に南岳山が省政府により正式に「小南岳風景区」と命名されて以降、「小南岳」という名前が広まった。〟 (『Baidu百科』「南岳山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を大意が取れる程度に修正した。)

 このように安徽省六安市霍山県の「霍山」は「南岳山」(「南嶽」と同義)と呼ばれ、天柱山・衡山という旧名を持つと説明されており、地理的位置も先の条件に適っています。他方、3448話で紹介した安徽省安慶市・潜山市の天柱山(標高1489.8m)には、「霍山」という別名は見当たらないようです。
従って、大別山脈にある霍山こそ『史記』や『三国志』に記された本来の「天柱山」とするのが最も有力な理解です。なお、この霍山の最高峰「白馬尖」の標高は1777mとあります(注②)。古田先生が紹介した1860mとは少々異なりますが、いずれでも短里によれば、「天柱山、高峻二十余里」と実測値が対応しているということに違いはありません。(つづく)

(注)
①古田武彦「『邪馬台国』はなかった —その後—」『日本古代史の謎』朝日新聞社、1975年。
②WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。


第3449話 2025/03/14

「天柱山高峻二十余里」の論点 (4)

 ―安徽省にある二つの「天柱山」―

 『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山高峻二十余里」の標高の違いに着目し、まず、古田先生の著書に記された天柱山(1860m)について再確認しました。そこには次の説明がありました(注)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 このように指摘し、『史記』の記事を提示して次のように論じます。

〝其明年(元封五年)冬、上巡南郡、至江陵而東。登礼潜之天柱山、号曰南嶽。
応劭曰「潜県属盧江。南嶽、霍山也。」
文頴曰「天柱山在潜県南。有祠。」  (『史記』第十二、孝武本紀)

 この「霍山」は高さ一八六〇メートル(海抜)だ【注18】。これに対し、「二十余里」とは、メートルに直すとつぎのようだ。

短里(一里=七五〜九〇メートル)
二三〜二四里=一七二五〜二一六〇メートル
長里(一里=四三五メートル……山尾氏)
二三〜二四里=一〇〇〇五〜一〇四四〇メートル

 つまり、霍山の実高は、魏晋朝の短里によると、ピッタリ一致している。ところが長里によるときは、エベレスト(八八四八メートル)を超える超高山となる。実際は霍山は群馬県の赤城山(黒桧山、一八二八メートル)と谷川岳(一九六三メートル)の間くらいの山なのである。その上、つぎの四点の条件が重要だ。

(1) その場所は、いわゆる“夷域辺境”ではなく、黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点、という、まさに多くの中国人にとってもっとも明瞭な認識に属する位置に当たっている。
(2) その山の東方(安徽省)、西方(湖北省)とも、平野部であり、その間に屹立し、万人の注目をうけてきた著名な山である。
(3) 『史記』に武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
(4) 「十里」「百里」などと異なり、「二十余里」というのは“成語”や“誇張的な概数”ではない。

 すなわち、万人が日常見ている周知の山に対し、“異常な誇張”をもって表現すべきいわれは全くない。〟『邪馬壹国の論理』

 そして【注18】には「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)大別山脈」とあり、「天柱山」は次の条件がそろっている山のこととなります。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 以上の条件を持つ山があります。安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」です。古田先生の著書『邪馬壹国の論理』に掲載された地図にも、安徽省の西側の大別山脈中に「△霍山」と記されており、この山が『三国志』の「天柱山」とされているのです。(つづく)

(注)古田武彦「魏晋(西晋)朝短里の史料批判 山尾幸久氏の反論に答える」『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3448話 2025/03/13

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (3)

 ―「天柱山」の標高は何メートルか―

『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕について、古田説を次のように説明しました(注①)。

○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。

このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、天柱山の標高は1860mではなく、1499mではないかとの指摘がありましたので、「現代中国には各地に天柱山があり、『三国志』に見える「天柱山」は古田説の場所でよい」と返答しました。この1499mという数字を聞き、やはり勘違いされているのだなと思いました。

と言うのも、わたしは古田説の紹介に当たり、事前に天柱山について調べていたからです。たしかにインターネットで「天柱山」を検索すると、標高約1449mの安徽省安慶市・潜山市の天柱山が真っ先にヒットするからです。わたしも、古田説の1860mとは異なることを不審に思い調べたところ、同じ安徽省内ですが古田説の天柱山とは場所が異なっていたのです。しかも、そのWEB(『Baidu百科』「天柱山」)では次のように解説されているのです。

〝前漢元封五年(前106年)、漢武帝劉徹が南巡狩を行い、浔陽(九江市)から揚子江を下り、盛唐(現在の安慶市盛唐湾)を経て皖口(現在の懐寧県山口鎮)に入り、川を遡上した。法駕谷口(現在の天柱山野人寨)に登り、礼天柱に至り、「南岳」と称された。隋文帝が江南の衡山を南岳と改称するまでの700年間、南岳と呼ばれるのは天柱山である。南岳の称号が江南に移った後、天柱山を人々は「古南岳」と呼んだ。〟(『Baidu百科』「天柱山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を修正した。以前と比べて最近の翻訳ソフトはかなり精度が向上しているが、そのままでは採用に堪えない。)

この安徽省安慶市・潜山市の天柱山の標高は、1980年の測定で1488.4m、2008年には1489.8mとあり、この説明を読めばこれを『三国志』の「天柱山」のことと間違ってしまうのも無理からぬことと思います。他方、古田先生は「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」によって、天柱山の標高を海抜1860mと著書(注②)に記されています。1971年作成の地図と現在の地図とに400m近くの測定差が発生するはずもなく、史料調査に慎重な先生が地図を見誤られたとも考えにくいのです。このときわたしは〝何かがおかしい。このWEB情報を信用するのは危ない〟と直感的に思い、天柱山の位置を文献と現在の地図とで精査・探索しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。ミネルヴァ書房より復刻。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。

 

【写真】安徽省安慶市・潜山市の天柱山


第3447話 2025/03/12

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (2)

 ―山高を「里」で表す『水経注』―

 『三国志』に短里(一里76~77m)が採用されている例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕があります。これに対して、〝山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この「二十余里」は天柱山までの距離〟とする批判が出されましたが、山の標高を「里」で表記する例は少なからずあることを古田先生は『邪馬一国の証明』(注①)で紹介しました。そして、「水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している。」としています。

 『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されています。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものです。酈道元自身の執筆部分の里数値は長里ですが、諸文献からの引用部分の里数値はその時代の里単位が使用されているようですので、個別に検討が必要です。
その『水経注』全四十巻を数年ぶりに一日かけて読みました(注②)。見落としがあるかもしれませんが、山や嶺の高さに「里」が使われている次の例を見つけました。多くはありませんが、「山高」を「丈」で表す例もありました。

❶河水重源有三、非惟二也。一源西出捐毒之國、蔥嶺之上、西去休循二百餘里、皆故塞種也。南屬蔥嶺、「高千里」。(卷二 河水)

❷水出垣縣北教山、南逕輔山、「山高三十許里」、上有泉源、不測其深、山頂周圓五六里、少草木。(卷四 河水)

❸汾水又逕稷山北、在水南四十許里、山東西二十里、南北三十里、「高十三里」、西去介山十五里。山上有稷祠、山下稷亭。(卷六 汾水)

❹許慎《説文》稱從邑、癸聲。河東臨汾地名矣、在介山北、山即汾山也。其山特立、周七十里、「高三十里」。文穎*言在皮氏縣東南、則可「高三十里」、乃非也。今準此山可「高十餘里」、山上有神廟、廟側有靈泉、祈祭之日、周而不耗、世亦謂之子推祠。(卷六 汾水)
※文穎*は魏の官僚。『三国志』の著者陳寿は西晋の官僚で、二人は同時代の人物。

❺水西出廣昌縣東南大嶺下。世謂之廣昌嶺、「嶺高四十餘里」、二十里中委折五迴、方得達其上嶺、故嶺有五迴之名。(卷十一 滱水)

❻泃水又左合盤山水、水出山上、其山峻險、人跡罕交、去山三十許里、望山上水、可「高二十餘里」。(卷十四 鮑丘水)

❼《搜神記》曰、雍伯、洛陽人、至性篤孝、父母終殁、葬之於無終山、「山高八十里」、而上無水、雍伯置飲焉、有人就飲、與石一斗、令種之、玉生其田。(卷十四 鮑丘水)

❽漢水又東南逕瞿堆西、又屈逕瞿堆南、絶壁峭峙、孤險雲高、望之形若覆唾壺。「高二十餘里」、羊腸蟠道三十六迴、《開山圖》謂之仇夷、所謂積石嵯峨、嶔岑隱阿者也。(卷二十 漾水)

❾《鄒山記》曰、徂徠山在梁甫、奉高、博三縣界、猶有美松、亦曰尤徠之山也。赤眉渠帥樊崇所保也、故崇自號尤徠三老矣。山東有巢父廟、「山高十里」、山下有陂、水水方百許步、三道流注。(卷二十四 汶水)

❿泗水南逕高平山、山東西十里、南北五里、「高四里」、與衆山相連。其山最高、頂上方平、故謂之高平山、縣亦取名焉。(卷二十五 泗水)

⓫沅水又東、夷水入焉、水南出夷山、北流注沅。夷山東接壺頭山、「山高一百里」、廣圓三百里。(卷三十七 沅水)

 このように、酈道元自身の文や諸時代成立の引用文献中に、山の高さの表記に「里」が少なからず使われており、『三国志』の天柱山記事に「里」が使われていてもなんら不思議ではありません。従って、〝山の高さを「里」では表すことはない〟とする批判は的外れなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。
②調査に当たり、WEB版「中國哲學書電子化計劃」の『水経注』を利用した。


第3446話 2025/03/11

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)

 『三国志』には編纂当時の公認里単位として、短里(一里76~77m)が採用されているとする魏・西晋朝短里説を古田先生は発表し、その一例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕をあげました。それをわたしは次のように紹介しました(注①)。

 〝天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。〟

 このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、ある実行委員から二つの指摘がなされました。一つは、山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離のこととするものでした。

 こうした批判が数十年前にあったことは知っていましたが、古田先生から反論がなされ、とうの昔に決着済みと思っていたので、セミナー実行委員から出されたことにちょっと驚きました。具体的な反論の出典を記憶していなかったので、調べたうえで返答することにしました。その調査結果は次の通りです。
山の標高を「里」で表記する例は少なからずあり、古田先生は次の例を『邪馬一国の証明』(注②)で、45年前(昭和55年)に示されていました。

〝○文穎曰く、「(介山」)其の山特立し、周七十里、高三十里」。(『漢書』武帝紀、注)
文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人だ。ここ(山西省)は二〇〇〇メートル前後の高度だから、短里(約二一五〇メートル)でほぼ妥当する。(中略)もしこれが長里なら、一三〇五〇メートルだ。エベレストなど問題にならぬ超高山となろう。(中略)
他の例をあげよう。
○(永昌郡)博南県、山高四十里(『華陽国志』『邪馬壹国の論理』二三七ページ所収、参照)。
○騶山有り、高五里、秦始皇、石を刻す(『後漢書志』郡国志二、注。篠原俊次氏のご教示による。ただし、これは「短里」の例ではない)。
なお、水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している(同右)。〟

 これ以外にも、わが国における短里研究の第一人者である谷本茂さん(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)から次のご教示を得たので紹介します。

〝『海島算経』に、島の峰の高さを測る方法の問題があり、「答曰 島高四里五十五歩」とあります。島の峰までの距離と解することはできません。
山の高さか山頂近くまでの距離なのか、議論が生じ易い論点だと思いますが、少なくとも、〝山の高さは「丈」で表すもので、「里-歩」では表さない〟という主張は史料に反例が幾つもあるのですから、成り立たないと思います。
また、山道(登山道)の距離を表す場合には、例えば、漢書注[漢書25郊祀志5上] 如淳曰…泰山從南面直上歩道三十里車道百里のように説明されています。(この例は短里での登山道の距離の例であることが分かりました。)
文頴も如淳も魏の官僚ですから、「短里」や山の高さ表記の認識を共有していたと考えて大過ないのではないでしょうか。〟

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」との信条を持っていますので、古田説や短里説への批判も歓迎しますし、〝兄弟子〟からのご教示には深く感謝しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。

「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕に関して、
古田武彦氏の発言は、ホームページで全文検索エンジンで検索してください。

 


第3445話 2025/03/10

『多元』186号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』186号が届きました。同号には拙稿〝飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土〟を掲載していただきました。同稿は、2023年11月に報道された飛鳥宮第一期(舒明天皇の飛鳥岡本宮)遺構(塀跡)発見の紹介と、同遺構の火災の痕跡が『日本書紀』記事「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。〔舒明八年〕」と一致することについて考察したものです。そして、次のように論じました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」

 同号の一面には、和田事務局長による「安藤哲朗前会長を悼む」が掲載されていました。古田先生や古田説のことをよく知る古田史学第一世代の物故が続き、わたしも心が痛みます。生前、安藤さんから預かっていた未発表原稿は遺稿となりましたが(注)、多元的古代研究会で発行される論集に収録していただけるとのこと。十数年、大切に保管していてよかったと思いました。

 和田さんの追悼文には、わたしが知らなかった次の逸話が記されていました。

 〝安藤さんは「動より静の人」でした。発言はつねに必要にして最小、率先して人の先に立つことはまれでした。初代の高田カツ子会長が急逝された際にも、会長職を固辞され、古田先生が懸命に説得されたとも聞きました。〟

 今頃は冥界で、遺稿に示された古田説とは異なる自説を、もの静かに古田先生に語られているような気がします。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3418話(2025/01/30)〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟


第3444話 2025/03/07

唐詩に見える王朝交代の列島 (5)

 ―王維の詩の「九州」は九州島か―

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目したのですが、古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされました(注①)。前話で紹介した❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》の詩です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑は外(古田説による)
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 これは、唐の官僚(秘書)として勤めていた阿倍仲麻呂が帰国する際の送別の式で王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。それに対応するように、「郷樹扶桑外」も通説の〝郷樹扶桑の外〟ではなく、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島を意味する)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました。扶桑=外(遠地)とする理解です。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生はそのような読みは成立しないと批判されました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②


第3441話 2025/03/02

唐詩に見える王朝交代の列島 (2)

中小路駿逸氏から学んだ「論証とは何か」

 わたしが古田門下に入門した三十歳の頃、古田先生は東京の昭和薬科大学で教授をされており、直接教えを請えるのは年に二度ほどの大阪講演会(市民の古代研究会主催)のときくらいでした。そのため、1987年から大阪の追手門学院大学で文学部教授をされていた中小路駿逸先生(注①)からは、何かと教えていただきました。

 当時、わたしは化学会社に勤務しており、学生時代の専攻が有機合成化学だったこともあり(注②)、まったく異分野の文献史学において、「論証する」とはどういうことなのかさえも知りませんでした。化学の場合、実験により再現性を確認できれば、一応、仮説(想定した反応式や分子構造)を証明したことになり、その実験方法(反応条件)と実験結果(分析機器による測定データ)を提示することにより、化学論文としての最低要件は満たせます。ところが歴史学の場合、再現性試験は不可能ですし、文献(テキスト)をエビデンスとして採用することの当否も不確かです。ですから、古田先生の著書に記された〝目が覚めるような論証と結論〟に感動し、深く同意はできるものの、自ら歴史研究を行うことや論文執筆など、全くやり方がわからなかったのです。

 そこで中小路先生に、「論証するとは、どういうことなのでしょうか。どうすれば論証したことになるのでしょうか」と、恥ずかしながら尋ねてみました。中小路先生の返答は、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。これはこれで難解な答えですが、このことを理解できるようになるまで十年ほどかかりました。ですから、わたしは古田門下では、あまりできのよい〝弟子〟ではなかったようです。古田先生からもよくしかられました。

 話を戻しますが、中小路先生は中国古典文学にも詳しく、唐詩の研究により、唐の詩人たちは唐代の日本列島に複数の王権が併存すると認識していたことを発表されました(注③)。

 「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』196~197頁

 この主張は、古田先生の多元史観・九州王朝説と整合するとされました。こうした中小路先生の唐詩研究は、当時の古田学派に多大な影響を与えました。(つづく)

(注)
①中小路駿逸(なかこうじ しゅんいつ)、1932~2006年。京都大学文学部文学科卒(国文学専攻)。明石高専教諭、愛媛大学教授などを歴任し、1987年に追手門大学文学部教授(国文学・国語学担当)に就任。2006年、同大学名誉教授。著書に『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』(桜楓社、1983年)、『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社、2017年)がある。
②久留米高専・工業化学科卒。鳥井昭美研究室でアクリジン関連化合物の合成と反応性について研究した。
③中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。