古賀達也一覧

第2514話 2021/07/08

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)

九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)を利用して、九州年号「僧要」(635~639年)に続いて、九州年号「蔵和」(559~563年)の出典を調べました。検索すると多くの経典がヒットしますが、その多くが「三蔵和尚」「三蔵和上」などで、その他に「○○蔵和合」(菩薩蔵和合、如来蔵和合、衆生蔵和合、地蔵和合、他)もありました。いずれにしても単語や文章中の二文字です。しかし、九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の漢訳となりますと、次の経典が検索されました。

○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』竺法護 訳
 「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」

 ウィキペディアによれば、竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧とのこと。別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称され、漢訳した経典は約150部300巻に及ぶとあります。
 九州年号「蔵和」の出典がこのような経典でしたら、『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟した「令和」(注②)と同様に、九州王朝も経典内の「大菩薩藏」と「和合」の二つの単語から、その末尾と冒頭の二文字を〝集成〟して「蔵和」という年号にしたことになります。この理解が正しいかどうか断定はできませんが、一仮説として提起したいと思います。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②現在の年号「令和」(2019年~)は、『万葉集』巻五「梅花の歌」序の一節「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」を出典とする。


第2513話 2021/07/07

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (9)

 九州年号「僧要」の出典は『四分律』か

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介していただいた『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)のおかげで、連日のように発見が続いています。
 たとえば、九州年号には仏教関連の用語や漢字が多用されていますが、それらの九州年号の出典はおそらく仏典ではないかと、わたしは推定していました。しかし、膨大な仏典を調べることは大変な作業のため、なかなか調査に取り組めなかったのですが、今回、大蔵経検索サイトを利用して、九州年号の出典を片っ端から調べています。その成果の一端をご披露します。
 かなり確実な安定した成果として、九州年号「僧要」(635~639年)のケースがあります。「僧要」で検索するといくつかの経典がヒットしますが、その中で最も可能性が高いのが『四分律』六十巻で、そこには次の「僧要」用例がありました。

○『四分律卷第四十六三分之十』
 「隨如法僧要。隨如法僧要不違逆。如法僧要不入違逆説中。(中略)如法僧要、如法僧要違犯、如法僧要呵説。入如法僧要呵説中。」
 「云何如法僧要不隨。如因縁相貌。如法僧要不隨、比丘見此相貌。知此比丘、如法僧要不隨。若不見此比丘、如法僧要不隨。聞彼某甲比丘如法僧要不隨。(中略)云何如法僧要違逆如因縁相貌。如法僧要違逆。比丘見此相貌。知此比丘如法僧要違逆。若不見此比丘如法僧要違逆。聞彼某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘入如法僧要違逆説中。」

○『四分律卷第六十第四分之十一』
 「隨如法僧要。如法僧要不呵。不隨如法僧要呵説中。」

 このように「僧要」の文字が集中して現れます。この「僧要」の教義上の正確な意味はわかりませんが、〝僧の求め〟のようなことでしょうか。ご存じの方があれば、ご教示下さい。
 『四分律』とは僧侶の戒律として伝えられたもので、罽賓国の僧、佛陀耶舎らにより東晋代に漢訳されています。「オンライン版 仏教辞典」(注②)には次のように解説されています。一部抜粋します。

【四分律】
〔漢訳〕『四分律』六十巻は、カシュミール(罽賓)の佛陀耶舎が、四分律を暗記して長安に来て、自己の暗記に基づいて訳した。訳時は410~412年のことである。
〔特徴〕四分律は曇無徳部、すなわち法蔵部が伝えた広律である。中国における律学は、はじめは鳩摩羅什などが訳出した説一切有部の十誦律が主流を占めていたが、北魏仏教の隆盛と共に慧光(468~537年)らが四分律を宣揚し、その系統に道宣が出るに及んで全土を風靡するに至った。道宣の起こした律宗を〈南山(律)宗〉と呼び、日本律学の実質的な祖と目される鑑真もこの系統に属する。したがって本書は日本や中国の律宗の原典というべき特に重要な位置にある。

 以上のように説明されており、仏教教団にとって重要な律書のようです。なお、「四分律六十巻」は僧要年間に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注③)にも小乗経典として収録されており、九州王朝(倭国)に伝わったていたことは確実と思われます。ただ、九州年号の「僧要」改元(635年)までに伝わっている必要があり、『歴代三宝紀』よりも先に伝来していたことになります。こうして、九州王朝(倭国)の仏典受容史の一つを明らかにし得たのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②「オンライン版 仏教辞典」 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%A4
③隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2512話 2021/07/06

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (8)

  後漢代に漢訳された阿弥陀経典『般舟三昧経』

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)で見つけた支謙訳「阿弥陀経二巻」(注②)でしたが、内容を精査したところ、残念ながら「命長七年文書」(注③)の語句とは異なっていました。関係する部分は次の通りです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○『佛説阿弥陀經巻下』(支謙訳「阿弥陀経二巻」)
 「如是法者。當一心念欲往生阿彌陀佛國。晝夜十日不斷絶者。壽命終即往生阿彌陀佛國。」

 このように、「名号称揚」と「當一心念欲往生阿彌陀佛國」、「七日」と「晝夜十日」と、両者は修行の内容やその期間が全く異なっており、直接的な影響関係はうかがえません。他方、参考になったのが『印度学仏教学研究』(注④)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」でした。同論文には次の阿弥陀経典が紹介されていました。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅲ『抜陂菩薩経』(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅳ『無量寿経』(魏代、康僧鎧訳)
Ⅴ『仏説阿弥陀経』(後秦、鳩摩羅什訳)
Ⅵ『大方等大集経賢護分』(隋代、闍那崛多訳)
 ※()内は略称。

 眞野論文はこれらの経典の成立年代・成立順位について論じたものですが、それは漢訳年代の先後関係ではなく、漢訳の元本(サンスクリット原文等)の成立順位についてです。なお、九州王朝に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注⑤)にはⅠⅡⅣⅥが収録されています。また、「命長七年文書」と類似する部分は次の通りです。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経
 「一心念之。一日一夜若七日七夜。過七日已後見之。」
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経
 「一心念若一晝夜。若七日七夜。過七日以後。見阿彌陀佛。」
Ⅲ『抜陂菩薩経』
 「淨心念一日一夜至七日七夜。如是七日七夜畢念便可見阿彌陀佛。」
Ⅳ『無量寿経』
 「皆積衆善無毛髮之惡。於此修善十日十夜。」
Ⅴ『仏説阿弥陀経』
 「聞説阿彌陀佛。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿彌陀佛。」
Ⅵ『大方等大集経賢護分』
 「或經一日或復一夜。如是或至七日七夜。如先所聞具足念故。是人必覩阿彌陀如來應供等正覺也。」

 以上のように、「名号」「七日」「阿弥陀仏」の語はありますが、「命長七年文書」に見える「名号称揚」の語は、今回の調査でも見つかりませんでした。しかしながら、『般舟三昧経』などに〝釈迦の時代のインドにおける二倍年歴(二倍年齢)の痕跡〟を発見することができました。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。同サイトには『大正新脩大蔵経』の影印画像ファイルも収録されていることに気づいた。研究者にとっては有り難い機能である。
②『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上』『佛説阿弥陀經巻下』の二巻。
③『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
④『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
⑤隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2511話 2021/07/05

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (7)

 現存していた支謙訳「阿弥陀経二巻」

 膨大な『大正新脩大蔵経』の調査と漢字だらけの経典読解に悪戦苦闘していたわたしに、強力な〝助っ人〟が現れました。西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご紹介いただいた『大正新脩大蔵経』の全文デジタルデータによる検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)です。
 この検索機能のおかげで、『大正新脩大蔵経』調査のスピードが劇的にアップし、しかも正確になりました。それまで行っていた調査作業(自転車で洛彩館に行き、『大正新脩大蔵経総索引』からめぼしい経典を探し、その分厚い収録巻を書庫から何冊も出してもらい、当該経典を読み、必要な箇所をコピーし、それを自宅に持ち帰り、繰り返し読む)が自宅のパソコンで可能となったのです。研究者として、便利な時代に生まれたもので、なんとありがたいことか。しかし、最終的には『大正新脩大蔵経』を本で読まなければなりません。経典全体の雰囲気(文字配列、細注などの状況)や新旧字体の確認が学問研究には不可欠だからです。
 早速、このサイトで「支謙」「阿弥陀経」のキーワード検索したところ、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上(佛説阿彌陀經上)』『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經下(佛説阿彌陀經下)』がヒットしました。この経典名には見覚えがありました。『歴代三宝紀』巻第五(注②)にある支謙訳「阿弥陀経二巻」の細注に「内題云阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經亦云無量寿經見竺道祖呉録」とあり、「阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經」「無量寿經」の内題・別名を持っているのです。この内題と「支謙訳」「二巻本」であることが一致しており、『歴代三宝紀』の「阿弥陀経二巻」と検索でヒットした『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經上下巻』とは同じ経典と見てよいと思います。
 力強い〝助っ人〟のおかげをもって、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』中にある支謙訳「阿弥陀経二巻」を発見することができました。改めて、検索サイトをご紹介いただいた西村さんに感謝します。九州王朝(倭国)の仏典受容史研究は飛躍的に進展することでしょう。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
②隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。


第2510話 2021/07/04

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (6)

 『歴代三宝紀』にあった支謙訳「阿弥陀経二巻」

 九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来したと思われる一切経『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』(402年頃訳出)を見つけることができずにいたのですが、『印度学仏教学研究』(注①)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」によれば、鳩摩羅什訳よりも古い求那跋陀羅訳の「阿弥陀経」があるとのこと。そこで、『歴代三宝紀』の鳩摩羅什よりも前を重点的に探し直したところ、魏の文帝の時代(220~226年)に「阿弥陀経二巻」という記述を見つけることができました。その解説部分には「魏文帝世。月支國優婆塞支謙」とあり、月支國の僧、支謙が漢訳したとされています。同解説によれば支謙は「百二十九部百五十二巻」の経典を訳しており、その時代を代表する訳経僧だったようです。
 残念ながら、支謙訳「阿弥陀経二巻」そのものを見つけることはまだできておらず、内容を知ることができません。現存していないのかもしれません。
 九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」(646年成立。注②)が「阿弥陀経」の影響を色濃く受けていることは確かですから、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれている支謙訳「阿弥陀経二巻」の影響を受けた可能性が出てきました。確かに、そう考えた方が良いと思われることがあります。それは「命長七年文書」と鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』とでは使用されている用語に異なる部分があるからです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。」

 「命長七年文書」では「名号称揚」、『仏説阿弥陀経』では「執持名号」とあります。すなわち、「命長七年文書」では「斑鳩厩戸勝鬘」自身が七日間にわたり「名号称揚」(阿弥陀仏の名前を褒め称える)したと読めますが、『仏説阿弥陀経』では〝善男子や善女人が、阿弥陀仏を説くことを聞き、一心不乱に七日間「執持名号」すれば〟という内容であり、「執持名号」とは〝阿弥陀仏の名前を作意(思惟)する〟の意味とされています(注③)。従って『仏説阿弥陀経』の文章から、「名号称揚」という表現は生じにくいのではないでしょうか。
 こうした理由から、九州王朝に伝わった「阿弥陀経」は鳩摩羅什訳ではなく、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』に含まれた支謙訳「阿弥陀経二巻」ではないかと推定するにいたりました。もちろん、支謙訳「阿弥陀経二巻」の内容が不明ですので、断定することはできません。なお、先に『歴代三宝紀』に『仏説阿弥陀経』が見つからないとしたのは不正確でした。「鳩摩羅什訳『仏説阿弥陀経』は見つからない」に訂正します。(つづく)

(注)
①『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
③ワイド版岩波文庫『浄土三部経(下)』(岩波書店、1991年)175頁の解説による。


第2508話 2021/07/02

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (5)

  僧要年間(635~639年)に伝来した一切経

 昨日、洛彩館(京都市左京区)に行き、「如意宝珠」関連経典(『大宝積宝経』『大乗理趣六波羅密多経』『雑宝蔵経』)精査のため、『大正新脩大蔵経』を閲覧しましたが、それ以外にも目的がありました。九州年号の僧要年間(635~639年)に九州王朝(倭国)へ伝来した一切経『歴代三宝紀入蔵録』(費長房撰述。1076部、3292巻)の閲覧調査です。
 『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に次の記事があります。

 「自唐一切経三千余巻渡」

 僧要年間(635~639年)に「唐より、一切経三千余巻が渡った」とあり、この一切経は隋代(開皇十七年、597年)に成立した『歴代三宝紀』(費長房撰述。1076部、3292巻)に時代も巻数も対応しています。ありがたいことに、この『歴代三宝紀』は現存しており、『大正新脩大蔵経』に収録されています。ですから、同書を調べれば、そのときに九州王朝にもたらされた経典を明らかにできるわけです。
 この大量の経典名が記された『歴代三宝紀』を精査したのですが、当然、あるはずと考えていた経典が見つかりません。「洛中洛外日記」2506話(2021/06/30)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3) ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―〟で論じた『仏説阿弥陀経』が見あたらないのです。九州王朝内で成立したと思われる「命長七年文書」は『仏説阿弥陀経』の影響を色濃く受けていることから、命長七年(九州年号、646年)までには九州王朝へ伝わっていたはずです。恐らくは『二中歴』「年代歴」に記されているように、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経に含まれている可能性が高いと判断していたのです。
 『歴代三宝紀』全十五巻は、一巻から三巻までは年表になっており、周代から隋代まで各王朝の年表(干支・年号・王名)に経典関連記事などが付されています。『仏説阿弥陀経』は鳩摩羅什(注①)により漢訳されていますので、その時代が含まれる巻三「帝年下魏晋宋齊梁周大隋」の鳩摩羅什関連記事や、後秦(姚秦)時代の経典名が集録された巻八「譯経苻秦姚秦」、更には大乗仏典の総目録である巻十三「大乗録入蔵目」も探しましたが、みつかりませんでした。もちろん、僧要年間の一切経伝来とは別に『仏説阿弥陀経』が伝わっていたという可能性もありますが、それにしても著名な経典『仏説阿弥陀経』が『歴代三宝紀』に見えないことを不思議に思いました。
 そのようなとき、洛彩館の方に紹介された『印度学仏教学研究』(注②)が思わぬ視点と知見を与えてくれました。(つづく)

(注)
①ウィキペディアによれば、鳩摩羅什(くまらじゅう。344~413年、一説に350~409年)は、亀茲国(きじこく。新疆ウイグル自治区クチャ市)出身の西域僧。後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した。玄奘と共に二大訳聖と言われ、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
②『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。


第2506話 2021/07/01

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (4)

 ―「如意宝珠」(魚の眼精)信仰と経典―

 今日は小雨の中を自転車で洛彩館(京都市左京区)に行きました。目的は同館が所蔵する『大正新脩大蔵経』の閲覧とコピーです。具体的には、古田先生が『失われた九州王朝』(注①)の「第三章 高句麗王碑と倭国の展開 阿蘇山と如意宝珠」において、「如意宝珠」の〝出典〟として紹介された次の経典を精査するためです。

(1)『大宝積宝経』「第百十 賢護長者会」
(2)『大乗理趣六波羅密多経』「第三 発菩提心品」
(3)『雑宝蔵経』「第七 婆羅門、以如意珠施仏出家得道縁」

 『隋書』俀国伝には、倭人の信仰対象として「如意宝珠」(魚の眼精)のことが記されており、古田先生は次のように分析されました。

〝「魚の眼精」への信仰は、本来、海洋の民の民俗的信仰に属するものであろう。しかも注目すべきは、それが仏教的概念と結合した信仰形態をなしていることだ。いわば、もっとも早い神仏融合説であろう。すなわち、わが国の仏教信仰の、もっとも古い民間受容形態の一つがここに語られているのである。(中略)同時に、右にあげたような経典名(ことに(2)(3))は、当時の「俀国」に影響を与えた仏教の性格をうかがう上で、絶好の、新しい扉の戸口となることであろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版261~262頁

 本テーマの「九州王朝(倭国)の仏典受容史」を研究するために、わたしはこれらの経典の全容を知りたかったのです。この調査のため、久しぶりに『大正新脩大蔵経』を検索・閲覧しましたが、この膨大な仏典群の中から「如意宝珠」を見つけ出された、古田先生の集中力と根気強さには驚きました(注②)。これは実際にやってみて、わかることでした。
 ところが、『大正新脩大蔵経』に『大乗理趣六波羅密多経』はあるのですが、肝心の「発菩提心品第三」部分が欠落しているのです。洛彩館の方にそのことを指摘し、他の蔵書中に『大乗理趣六波羅密多経』がないか探していただいたところ、「発菩提心品」であればあるとのこと。それらを閉架の収蔵庫から取り出してもらったところ、いずれも同名の別書でした。それで諦めていたところ、ご年配の担当者が「これはどうでしょうか」と差し出されたのが『印度学仏教学研究』(注③)という古い雑誌でした。残念ながら、そこに収録されていた「発菩提心品」も別物でした。ところが、それとは別に阿弥陀経に関する論文があり、その内容がとても興味深いものでした。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②今回の『大正新脩大蔵経』閲覧調査により、『大宝積宝経』の「第百九 賢護長者会第三十九之一」にも「如意珠」の語を見出した。
③『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。


第2506話 2021/06/30

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3)

 ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―

 九州王朝が釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)へと変容したとされた服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)は、その史料痕跡として次の「命長七年文書」を挙げられました(注①)。

         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

 これは信州の善光寺史料(注②)に収録されたもので、聖徳太子から善光寺如来に宛てた書簡の一つと伝えられてきたものです。往復書簡として全六通の内の最初のものです。法隆寺にも〝善光寺如来の御文箱〟という寺宝が伝えられており、その内の一通が「公開」されています。これらのことについては拙稿「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」(注③)などで発表していますのでご参照ください。
 わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
 九州王朝の仏典受容史の視点から同文書を見たとき、服部さんが指摘されたように、『無量寿経』などによる浄土信仰の影響を受けていることは歴然です。そこで、「名号称揚七日」という部分に焦点を当てて、どの経典の影響が強いのかを調査したところ、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)の一つ、『仏説阿弥陀経』(注⑤)の次の説話に注目しました。

『仏説阿弥陀経』(抜粋)
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」

 七日間、一心不乱に「執持名号」することにより、善男子と善女人は臨終後に阿弥陀仏の極楽国土に往生できるとされており、「名号称揚七日」とある「命長七年文書」はこの『仏説阿弥陀経』の影響を受けているのではないでしょうか。もちろん仏典全てを精査したわけではありませんので、有力な可能性の一つとして提起したいと思います。この見解が正しければ、七世紀前半頃までには九州王朝へ『仏説阿弥陀経』が伝来していたことになります。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立。
③古賀達也「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」『古田史学会報』15号、1996年8月
 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④阿部周一「『厩戸勝鬘』とは誰か」ブログ〝古田史学とMe〟、2021年2月27日。
⑤ウィキペディアによれば、『仏説阿弥陀経』一巻は姚秦の鳩摩羅什訳(402年ごろ訳出)。


第2505話 2021/06/29

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (2)

    法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想

 近年の「古田史学の会」関西例会では、九州王朝仏教についての研究発表があり、論議検討がなされています。『古田史学会報』164号(2021年6月)に掲載された服部静尚さんの論稿「女帝と法華経と無量寿経」もその一つで、「女人往生」の視点から、六~七世紀における仏典受容に着目され、釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)への流れを説明されています。同研究は会報発表に先だって本年四月の関西例会で口頭発表されました。浄土信仰の痕跡はわが国には古くからあったとする論文を読んだ記憶があったのですが、そのときには出典を思い出せませんでした。その後、九州王朝における仏典受容史の勉強をしていて、ようやく出典の一つを思い出しました。東野治之さんの『日本古代史料学』(注①)に収録されている「太子信仰の系譜」という論文で、次のように記されています。

〝太子の作とされる三経義疏の一つは『勝鬘経義疏』であるが、勝鬘経では勝鬘夫人という女性が主役になっている。こういう経典が注釈の対象にされたのは推古女帝の存在と無関係ではなく、逆に太子が勝鬘経を講義したという伝えも認めていいであろう。もう一つの注釈『法華義疏』は、いうまでもなく法華経の注であるが、法華経の「薬王菩薩本事品」という章には、女性の阿弥陀浄土への往生が述べられていて、これも女性に縁がある。太子は日本人として最初に法華経を将来、流布した人とみられていた(『延暦僧録』上宮皇太子菩薩伝)。
 光明皇后のころになると、女性救済を説く「題婆達多品」を加えた法華経が普及しており、太子忌日の法華経講讃が企画されたのも、女性としての関心から出ているのではないだろうか。〟同書、39頁

 ここにあるように、法華経「薬王菩薩本事品」に女性の阿弥陀浄土への往生が述べられているという指摘は興味深いものです。もちろん、九州王朝説に立てば、近畿天皇家の聖徳太子伝承は九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績を転用したとする視点での史料批判が必要です。
 なお、「薬王菩薩本事品」には次の説話が見えます。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品二十三」
(前略)
 宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。(後略)

 当時、「成仏」できないとされた「女人」でも、薬王菩薩本事品を聞いて説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いています。
 拙稿「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」(注②)で紹介したように、九州年号の「端政」年間(589~594年)での法華経伝来記事「自唐法華経始渡」が『二中歴』「年代歴」にあり、これは多利思北孤の時代に相当します。ですから法華経の受容により、同「薬王菩薩本事品」に基づく女人往生を可能とする阿弥陀浄土信仰が六世紀末頃の九州王朝宮廷内の女性達にもたらされたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①東野治之『日本古代史料学』岩波書店、2005年。
②古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2504話 2021/06/28

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (1)

 本年六月十九日に開催された奈良市での講演会(注①)で、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と並んで講演させていただきました。わたしの講演テーマは、九州王朝(倭国)への仏教伝来時期と初伝僧(清賀上人)に関する研究でした。講演後の質疑応答で、会場から「清賀上人が伝えた仏教経典は何か」とのご質問をいただきました。大変重要な質問であり、わたし自身も気になっていたことでしたが、伝承が断片的にしか遺っていないので、現時点では不明と回答せざるを得ませんでした。このときの質問が気になったままでしたので、この機会にこれまでの研究を再確認し、考察を深めてみたいと思いますので、少々お付き合い下さい。
 九州王朝の仏典受容については古田先生は当初から問題意識を示されており、『失われた九州王朝』(注②)の「第三章 高句麗王碑と倭国の展開 阿蘇山と如意宝珠」で触れられたのが最初です。遅れて、わたしも九州年号研究の一端として、「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」(注③)を発表しました。それは、九州年号群史料として著名な『二中歴』「年代歴」の九州年号細注に見える仏典記事を史料根拠としたものでした。たとえば次のようなものです。

(1)法清(554~557年) 法文唐渡僧善知傳
(2)端政(589~594年) 自唐法華経始渡
(3)定居(611~617年) 法文五十具従唐渡
(4)仁王(623~634年) 自唐仁王経渡仁王会始
(5)僧要(635~639年) 自唐一切経三千余巻渡
(6)白雉(652~660年) 国々最勝会初行之

 六~七世紀の九州年号時代における仏典受容の様子が少しわかる記事です。これらの記事と『日本書紀』に見える関連記事を比較すると、『二中歴』の九州年号細注とは時期が異なっており、細注記事の方が早いことがわかりました。従って、これら細注記事は近畿天皇家のことではなく、九州年号で事績を記録した九州王朝(倭国)の仏典受容史であると論じました。
 更に僧要年間(635~639年)の「自唐一切経三千余巻」という唐からの一切経(注④)伝来記事は、隋代(開皇十七年、597年)に成立した『歴代三宝紀入蔵録』(費長房撰述。1076部、3292巻)と時代も巻数も対応しており、細注記事は史実を記録したとする根拠になりました。ちなみに、『日本書紀』には一切経伝来記事は見えません。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」や関西の古代史研究団体共催による講演会。六月十九日(土)、奈良新聞本社ビル。
 ○講師 関川尚功(元橿原考古学研究所員) 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 ○講師 古賀達也(古田史学の会・代表) 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピカタ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を編纂したもの。


第2503話 2021/06/26

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (3)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘に対して、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年については妥当な年代ではないかと思うのですが、もう一つ、妥当と思われる年輪年代測定値があります。前期難波宮址水利施設から出土した木製の水溜枠です。
 『難波宮址の研究 第十一』(注①)によれば、井戸がなかった前期難波宮の水利施設(石組)が出土し、その周辺から多くの木材も出土しました。中でも大型の水溜枠の木材には樹皮が残っており、年輪年代測定により伐採年が634年とされました。『日本書紀』によれば、前期難波宮の完成年が孝徳天皇白雉三年(652年、九州年号の白雉元年)とされ、その18年前に伐採されたことになります。同水利施設からは須恵器坏Hや坏Gが多数出土しており、7世紀中頃の遺構であるとされ、出土木材の伐採年とも整合しています。ちなみに、同遺構からは7世紀後半の須恵器坏Bは出土していませんので、前期難波宮から出土した「戊申年」(648年)木簡などと共に、前期難波宮孝徳期造営説はほとんどの考古学者から支持されて定説となりました。更に前期難波宮を囲んでいだ塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値も612年、583年であり(注②)、孝徳期造営説を支持するものとされました。
 この木枠の年輪年代測定は奈良文化財研究所の光谷拓実さんによるもので、次のように解説されています。

 「(前略)№1の木枠の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのもので、転用材ではない。したがって、634年と確定した年輪年代は原木の伐採年である。」『難波宮址の研究 第十一』208頁。

 そして、「年代を割り出すヒノキの暦年標準パターンには、37B.C.~845A.D.のものを使用した」と説明されています。この「ヒノキの暦年標準パターン」は、鷲崎さんが

 〝飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。〟(注③)

 と批判されたもので、この年輪年代の新旧標準パターンを鷲崎さんは次のように説明されています。

○旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
○新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。

 法隆寺五重塔心柱と同様に、前期難波宮水利施設の木枠にも旧標準パターンが採用されており(注④)、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値(634年)が、伴出した7世紀中頃の土器編年からも妥当と考えざるを得ないことから、法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値(594年)も妥当とせざるを得ません。少なくとも、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値を100年新しくすると後期難波宮の時代となり、それは極めて困難です(出土層位も出土遺物も全く異なり、まず不可能)。
 以上のように、鷲崎さんが100年古く間違っているとした遺物の中でも、法隆寺五重塔心柱と前期難波宮水利施設木枠の年輪年代測定値は妥当なものと、わたしには見えます。
 しかしながら、新旧標準パターンや測定木材の原データを公開すべきという、鷲崎さんの主張(注⑤)は正当なものです。国民の税金で運営・測定した奈良文化財研究所のデータは全国民の共有財産です。そうした国民からの(個人情報でもなく、人権や国益も損なわない)学術データの開示要請に応えない姿勢は、どのような事情があるのかはわかりませんが、学問的態度とは言い難いとする批判を避けることはできないでしょう。また、自説の根拠となる基礎データを掲載しないというのは、自然科学の研究論文ではおよそ考えられないことです。

(注)
①『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
②古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
 古賀達也「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟
③鷲崎弘朋「年輪年代法による『弥生古墳時代の100年遡上論』は誤り」考古学を科学する会、第80回2019年5月24日、https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/。
④光谷拓実「法隆寺五重塔心柱の年輪年代」『奈良文化財研究所紀要』2001年。同報告には「前37~838年」のヒノキの暦年標準パターンを使用した旨、記されている。
⑤鷲崎氏らによる奈良文化財研究所への情報開示請求書と同不開示決定通知書が次のサイト「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に掲載されている。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/


第2502話 2021/06/25

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (2)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説にも影響を受けるものがあります。
 たとえば、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年が100年後の694年となり、米田良三さんが提唱された法隆寺移築説(注①)の成立根拠の一つが失われます。他方、現法隆寺の再建年代を和銅年間(708~714年)とする通説と修正伐採年(694年)が整合し、通説が更に有力となります。このことも、年輪年代測定値が100年古く誤っていることの根拠の一つとされています。というのも、従来説では、594年に伐採した心柱が約100年後の法隆寺再建時に使用されたことになり、伐採から100年も放置(不使用)した合理的説明に苦慮してきたからです。
 この点、移築説であれば、100年前に建立された古い寺院を移築したという説明が容易にでき、通説の再建説よりも有力な仮説であると古田学派内では考えられてきました。ところが、年輪年代測定値は100年古く間違っているという鷲崎さんの指摘により、移築説が成立困難となったわけです。
 しかしながら、法隆寺五重塔の建築様式は8世紀初頭の頃とは考えにくいと思います。たとえば、心柱を基壇地下に埋め込むタイプは古いもので、とても8世紀の寺院建築とは思えません。また、版築基壇が二重に形成されているのも古い様式とされてきました(注②)。更に、金堂の釈迦三尊像光背銘(注③)に記された「法興元卅一年」(621年)という紀年が年輪年代測定による伐採年(594年)と近いことも、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。
②「二重基壇」については、白鳳十年(670年)創建の観世音寺五重塔(太宰府市)にも採用されており、決定的な根拠とはできないが、現法隆寺は古い寺院を移築したものとする説と矛盾しない。なお、観世音寺の「二重基壇」については次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1694話(2018/06/19)〝観世音寺古図の五重塔「二重基壇」〟
 古賀達也「『観世音寺古図』の史料批判 ―塔基壇と建物、非対応の解明―」『東京古田会ニュース』182号、2018年9月。
③古田説ではこの釈迦像や光背銘文を、九州王朝の天子阿毎多利思北孤(『隋書』による)のためのものとする。