古賀達也一覧

第2535話 2021/08/12

古墳時代の太宰府条坊遺構
(左郭、十四条一~二坊)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2021〟(注①)のテーマは〝「倭の五王」の時代〟です。聞くところでは、「倭の五王」の都が筑前太宰府だったのか、筑後だったのか、という都城所在地が主要課題とのことですので、考古学的出土事実に基づいて論点を明確にできればと考えています。
 わたしの調査した範囲では、残念ながら五世紀「倭の五王」時代の倭国の王都にふさわしい遺跡(王宮・都市)は見つかっていません。もちろん大宰府政庁付近にも、そうした遺跡の出土報告はありません。これまでも指摘したのですが、大宰府政庁跡(東北回廊基壇下層)の〝政庁Ⅰ期の整地層〟からは「七世紀第3四半期以後」に編年されている須恵器杯Bが出土し(注②)、政庁Ⅱ期基壇積土下層からも杯Bが出土していることから(注③)、政庁Ⅰ期の時代を五世紀まで遡らせるのは無茶というものです。
 もちろん、政庁Ⅰ期遺構の下に四世紀の王宮があったはずと主張するのは自由ですが、それを学問的仮説として提起したい場合は、その根拠となる出土事実を明示する必要があります。もし、八王子セミナーでそのような主張がなされれば、わたしはエビデンス(発掘調査報告書等)の明示を求めるつもりです。
 今回は新たに、政庁地区の南に広がる条坊地区の中心部分、朱雀大路跡付近の発掘調査報告を紹介します。八王子セミナーに備えて、わたしは連日のように太宰府関連遺跡の発掘調査報告書を読んでいますが、次の重要な報告書に行き当たりました。それは『大宰府条坊跡 44』(注④)です。同報告書は井上信正さん(太宰府市教育委員会、注⑤)により執筆編集されたもので、末尾に「Ⅵ.特論 大宰府条坊研究の現状」という優れた論文が掲載されていることから、以前から重宝していた一冊でした。この論文については、別途詳述しますが、今回は同報告書に収録されている第168次調査(平成7~8年、1995~1996年)の概要に着目しました。
 第168次調査の位置は西鉄二日市駅の北方で、大宰府条坊のほぼ中心地(左郭、十四条一~二坊)に相当します。概要解説によれば、「東西に幅8m、長さ200mに亘ってトレンチを入れるというこれまでにない規模の調査」であり、「本調査により、条坊復原研究も新たな段階に入った」とされています。そして、同トレンチの北西端からは朱雀大路東側溝が出土しました。今回、わたしが着目したのは次の記述でした。

 「ここでは最古期の遺構として弥生時代後期の溝などを確認はしているが、古墳時代にはほとんど活動がみられない。7世紀末頃から広い範囲にわたって整地(茶灰色粘土層)が行われ、すぐに掘立柱建物(SB305)が建築されるなど、土地利用の大きな画期があったことを窺うことができる。このころ畿内系土師器(飛鳥Ⅳ期の杯AⅢが多い)が散見され、産地は特定できていないがおそらく中国系とみられる施釉陶器も茶灰色粘土層から出土している。奈良時代になると、掘建柱建物・区画溝・整地といった遺構が広がる。調査区北西端で検出した朱雀大路東側溝もこのころ設けられたとみられる。」14頁

 第168次調査ではかなり丁寧に四面の層位を検出しており、最下層(地山基盤)の第4調査面までの各調査面が図示されています。ここにあるように、弥生時代の遺構が検出されていますが、古墳時代の遺構はほとんど検出されず、第三調査面(七世紀後期~八世紀前期)になって、七世紀後期から末の遺物が多く出土します。
 このように、大宰府条坊中心部での大規模な発掘調査の結果に基づく、「古墳時代にはほとんど活動がみられない」という指摘は重要です。すなわち、太宰府北部地区の政庁からも、南部地区の条坊中心地からも、古墳時代の倭国の王都の痕跡は出土していないのです。
 なお、大宰府政庁や条坊の七世紀における土器編年について、わたしは通説を見直す必要があると感じていますが、まずは既存の報告書や研究書を精査したいと思います。九州王朝説が正しければ、太宰府編年のどこかに矛盾や問題があるはずですから。

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代―。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。開催日:2021年11月13日~14日。共催:多元的古代研究会・東京古田会・古田史学の会・古田史学の会・東海。
②藤井功・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和52年(1977年)。228~230頁
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
⑤「古田史学の会」記念講演会(2017年6月18日、大阪市)で、太宰府条坊の最新研究について講演された。講演後の懇親会では、太宰府条坊遺構の考古学編年についてご教示を得た。


第2533話 2021/08/10

王朝交替前夜の飛鳥と筑紫

 太宰府関連遺跡の土器編年を研究するため、発掘調査報告書と研究論文を連日読みあさっています。そうするといろいろと面白い問題や発見に遭遇します。その一つを紹介します。
 「古田史学の会」関西例会では、七世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替がどのように起こったのかについて諸説発表と論争が続いています。それぞれの説に根拠や説得力があり、今のところ決着はついていません。論議が深まり、諸説の淘汰・発展が進み、いずれは最有力説へと収斂することでしょう。わたしも史料根拠に立脚した議論検討のための一助として、飛鳥・藤原出土評制木簡や「天皇」銘金石文の紹介など、「飛鳥」地域に焦点を絞って発表してきました。王朝交替の表舞台が飛鳥の地(おそらく藤原京)であったと考えるからです。
 そこで今回は、逆に王朝交替により歴史の表舞台から退場することになる筑紫(太宰府関連遺跡)に焦点を当て、検討すべき問題について指摘します。それは『続日本紀』文武紀に見える次の記事です。

 「大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を繕治させた。」『続日本紀』文武二年(698年)五月条

 文武二年(698年)は701年(大宝元年、九州年号・大化七年)の王朝交替の直前ですから、古田説では九州王朝の時代、その最末期です。ですから、大宰府に三城の繕治を命じたのは九州王朝の最後の天子ということになるのかもしれません。この王朝末期の権力実態について、古田学派内でも30年以上前から仮説が発表されていました(注①)。近年でも、文武天皇は九州王朝からの禅譲を受け、実質的には藤原宮に君臨した近畿天皇家(文武・持統ら)が第一権力者だったとする見解が発表されています。たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、持統紀に見える「禁中定策」を多元史観(九州王朝説)で考察された「多元史観と『不改の常典』」(注②)で次のように論じられました。

〝文武即位の六九七年は九州年号大化三年で、まだ「評」の時代、仮に実力はヤマトの天皇家が遥かに上にあったとしても、形式上の我が国の代表者は倭国(九州王朝)の天子で、持統は臣下の№1という位取りだ。これは天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」の「真人」が臣下のトップを意味することからも分かる。そうした位取りの中での持統の「定策」とは、臣下№1の天皇家持統の主導で、朝廷内の重臣の総意により、「倭国(九州王朝)の天子の系統」に代えて文武を即位させた、つまり「王朝・王統を交代させた」ことを意味するだろう。〟

 わたしも、文武天皇の即位の宣命に焦点を当てた拙稿「洛中洛外日記」1980話(2019/09/02)〝大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)〟(注③)を発表しました。

〝『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。〟

 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は、王朝交替(701年)以前の藤原宮には九州王朝の天子がいたとする仮説を口頭発表されており、「古田史学の会」関西例会の論者からは有力説と受けとめられつつあるようです(同説の詳細を論文発表するよう西村さんに要請しています)。
 なお、通説の立場からも、大野城などの「三城の繕治」以前と以後とでは、列島の南北の勢力(蝦夷・隼人)に対する大和朝廷の姿勢が、より強権的で武力行使も辞さないという姿勢に大きく変化しているとする小澤佳憲さん(九州国立博物館)の研究(注④)があり、注目されます。おそらく、南九州に逃げた九州王朝の徹底抗戦派に対する、大和朝廷による戦争準備として、大野城などの繕治命令が大宰府に出されたのではないかと、わたしは考ています。

(注)
①わたしの記憶するところでは、次の中小路駿逸氏の発表が嚆矢と思われる。氏は、『続日本紀』文武紀の「即位の宣命」を、「これはそれまで九州系の一分王権に過ぎなかった大和の王権が、文武天皇にいたってはじめて、九州から東国までを支配し、九州王朝の『格』をひきつぎ、それと同質となったことの宣言でなくて何でしょう。」と指摘された。
 中小路駿逸「古田史学と日本文学(講演録)」『市民の古代』第10集、新泉社、1988年。
②正木裕「多元史観と『不改の常典』」『古田史学会報』144号、2018年2月。
③後に、「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)として発表した。
④小澤佳憲「大野城の繕治 ―城門からみた大野城の機能とその変化―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2532話 2021/08/05

土器編年による水城造営時期の考察(3)

 水城の土器編年について、山村信榮さん(太宰府市教育委員会)は次のように説明されています。

 「〔フェイズ4〕須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期で、大宰府羅城(水城、大野城他)、鞠智城等が成立。」(注①)

 この須恵器Ⅳ(九州編年)は「須恵器杯H」、Ⅴは「須恵器杯G」と呼ばれているものです。杯Hは碁石の容器のようなもので、丸底の杯身に同じく丸い蓋を持ち、杯Gは杯Hの蓋の中央につまみが付いたものです。杯Hは古墳時代からある古いタイプで、その改良型が杯Gと考えてもよいと思います。この杯Hと杯Gが水城堤体中(木樋周辺)から出土することから、これらの使用時期が水城造営の頃と判断されたわけです。
 具体的には水城の第5次調査で出土したSX050 SX051の土器とされているのですが、同調査報告書にはSX050 SX051から杯Hの出土は報告されていますが、杯Gは見えません。このSX050 SX051の土器とは、水城跡第5次調査(昭和50年、1975年。注②)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)とともに出土したもので、水城造営年代の根拠になるものです。そこで、他の木樋遺構の報告書を精査したところ、JR水城駅西南側から出土した木樋抜き取り跡の調査(水城跡第32次調査。注③)で杯Gが出土していました。
 水城の木樋遺構は4カ所発見されていますが、木樋そのものが出土したのは東門地区西側だけのようで、その他は木樋が抜き取られた痕跡が出土しています。その抜き取られた木樋跡の最下層(7層)から杯G(蓋)が出土しており、同報告書はこの土器を「七世紀の資料」と説明しています。これら水城堤体内からの出土土器が根拠となり、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」を水城成立時期と判断したと思われます。
 しかし、より厳密に言うならば、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」以後に水城が造営された根拠にはなりますが、それだけでは不十分です。なぜなら、水城造営時期の下限も押さえる必要があるからです(注④)。この下限の根拠となるのが水城築造後の遺物・遺跡に含まれる土器です。幸い、水城土塁の周囲や濠からは少なからず土器が出土しており、その中に須恵器杯Bと呼ばれるものがあります。杯Bは杯Gの底に「足」が付いたもので、今のお茶碗のようなスタイルです。これは平坦な机の上に杯を安定して置けるようにした進化形です。この杯Bの出土により、水城の造営時期は杯Gが使用された七世紀中頃と、杯Bが発生した七世紀第3四半期後半以降の間と考えることができます。すなわち、七世紀第3四半期頃を水城造営時期とする判断が最有力であると、土器編年からは導き出されるのです。
 通説に立てば『日本書紀』天智三年条(664年)の水城築造記事を史料根拠とでき、考古学による土器編年と文献史学による『日本書紀』のダブルチェックにより、水城造営を664年とする説が成立しています(注⑤)。
 更に、基底部出土敷粗朶の炭素同位体比年代測定値(注⑥)の多くが七世紀第3四半期頃造営説と対応しており、水城の年代判定に大きな矛盾も無く整合しています。
 なお、付言すれば杯Gの年代については、難波編年(難波Ⅲ中段階~新段階に出土)でも飛鳥編年(飛鳥Ⅱ~Ⅲに出土)でも「七世紀中葉~後葉」とされており(注⑦)、九州編年とも対応しています。
 こうしたエビデンスがあるので、わたしは太宰府関連遺跡の土器編年と、九州王朝説による文献史学の編年との齟齬に長く悩んできたのです。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅰ』九州歴史資料館、2001年。
④遺構の年代を決めるためには、遺構の層を挟む上下の層からの出土土器が必要と、わたしは大阪歴博の考古学者から教えていただいた。このことを「洛中洛外日記」1764話(2018/09/30)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)〟で紹介した。
⑤天智三年条の水城築造記事は、九州年号「白雉四年(655年)」の記事を「白鳳四年(664年)」に相当する天智三年条に移動したものではないかとする正木裕氏の見解がある。この見解は、土器編年(七世紀第3四半期頃)と対応しており、敷粗朶の炭素同位体比年代測定値とも大きな齟齬はないため、注目される。
⑥水城遺物の炭素同位体比年代測定値には、東土塁基底部(第35次調査)から出土した最上層(全11層)敷粗朶600~770年、第38次調査時に追加測定した第35次調査出土の粗朶540~600年・葉653~760年・葉658~765年、西門付近北東側(第40次調査)出土の敷粗朶と炭化物の測定値675~769年などがある。
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。255頁。


第2531話 2021/08/04

土器編年による水城造営時期の考察(2)

 今までも水城の土器編年について調査検討したことはあったのですが、合理的な判断が難しく、お手上げ状態でした。その理由について説明します。
 実は水城遺跡からは少なからず土器が出土しています。しかし、そのほとんどが造営年代の〝決め手〟に使えないのです。というのも、出土位置が濠の中であったり、土塁上や堤体の周辺であるため、いずれも水城造営後の土器であり、その土器の編年がそのまま水城の造営年を示すわけではないからです。
 これが堤体中からの出土であれば、その土器は造営時に取り込まれたことになります。ですから、その土器の製造時期以後に水城が造営されたわけですから、造営時期の判断根拠として使えます。ところが、土塁の主要部分は版築工法により形成されています。そこには均質な粒径や土質を持つ複数種の土壌が選ばれ、それらが交互に敷き詰められており、そこに土器が含まれることはほとんど期待できません。
 このように造営時期の編年根拠にできる土器が、その構造上から検出しにくい水城なのですが、ある特定の部位には造営時の土器が出土していることがわかりました。それは基底部の下部に埋設された木樋(木製の暗渠)の周囲(左右・上部)と内部です。
 水城には、太宰府側の内濠から博多側の外濠に水を送るための木樋が4カ所で埋設されていた痕跡が発見されています(注①)。この送水用暗渠は、基底部をある程度造成した後に、水城を南北に直行する溝(堀形)を基底部に穿ち、その溝に木樋(ヒノキ材)を埋設するという方法で造成されています。そのため、木樋周囲の隙間を木樋埋設後に土で埋めるのですが、その埋土に含まれていた土器片が出土しています(注②)。この土器は7世紀前半頃以前と編年されている須恵器坏Hと七世紀中頃の坏Gで、水城遺構から出土した土器としては最古に属するとされています。(つづく)

(注)
①水城跡第5次調査(昭和50年、1975年)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)が出土した。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2530話 2021/08/03

土器編年による水城造営時期の考察(1)

 九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
 たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
 このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)

(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)


第2529話 2021/08/02

『東京古田会ニュース』No.199の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』No.199が届きました。今号は拙稿「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」を掲載していただきました。飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約四万五千点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究が飛躍的に進みました。そのなかの三五〇点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を紹介し、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができるとしました。
 同号の掲載論稿中、わたしが最も注目したのが新保高之さん(調布市)の「謎の皇孫・健王と大田皇女」でした。新保さんによれば、『日本書紀』には「皇孫」の表記が43例あり、その内の39例は神代紀(38例)と神武紀(1例)で、他の4例は、時代が遠く離れた斉明紀の健王(3例)と天智紀の大田皇女(1例)という不思議な使用状況とのこと。両者は持統の同母姉弟という共通項を持つが、なぜこの二人が「皇孫」と呼ばれているのかは不明とのことです。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された〝九州王朝系近江朝〟(注①)や、古田先生の〝天智による日本国の創建〟(注②)と関係するのかもしれません。
 こうした『日本書紀』の史料状況に着目されたこと自体も鋭い問題提起ですが、その理由については不明とされた慎重な研究姿勢に、わたしは共感を覚えました。研究途上での、わからないことはわからないとする姿勢や、史料事実の核心部分を鋭く見抜くという新保さんの洞察力は流石と思いました。研究の進展が楽しみです。

(注)
①正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
②古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。


第2528話 2021/08/01

九州王朝の部民「松延氏」と松野連

 先月のことです。九州王朝王族の末裔の〝お姫様〟から突然メールが届きました。お父上と懇意にしていたこともあり、懐かしく思いました。
 九州には今でも九州王朝王族の末裔と思われる方々がおられます。わたしたちの調査によれば、筑後地方には玉垂命(注①)御子孫の家系が複数続いており、その中に稻員(いなかず)家や松延(まつのぶ)家があり、江戸時代幕末の久留米藩の国学者、矢野一貞(注②)もその系図を研究しています。それぞれの家に系図が伝えられているようで、わたしは八女市の松延さんから家系図を見せていただいたことがあります(注③)。
 その時には全く気づかなかったのですが、「松延」は本来「松野部」であり、九州王朝での部民の呼称ではないでしょうか。「○○部」と称される氏族は、通説では大和朝廷による支配形式の一つ、部民制と理解されることが多いのですが、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究によれば、それは氏族の名称に他ならず、いわゆる部民制ではないとされています(注④)。この日野説が念頭にあったため、今回、この作業仮説(アイデア)が浮かんだのです。
 「松延」の原型が「松野部」であれば、九州王朝(倭王)系図とされる「松野連系図」の松野氏との関係が想起されます。そこで、WEBサイト(注⑤)で「松延」姓を検索したところ、福岡県南部の八女市と久留米市に濃密分布していることがわかりました。
 他方、「松野連系図」に見える「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応し、当地には「松延」という地名が今もあります(注⑥)。「松延」姓が八女市・久留米市に濃密分布し、筑前町に「松延」地名があることは、わたしのアイデアを支持するのではないでしょうか。更には、七支刀を持つ御祭神で有名な「こうやの宮」があるみやま市瀬高町に「松延」発祥の地とされる松田(旧:松延)があることも興味深いと思います。
 九州王朝末裔の〝お姫様〟から届いたメールのおかげで、またひとつ九州王朝史の一端に迫ることができたかもしれません。不思議な御縁を感じます。

(注)
①筑後国一宮の高良大社(久留米市)の御祭神、玉垂命(たまたれのみこと)は「倭の五王」時代の九州王朝の王であり、代々、「玉垂命」を襲名したとする次の論稿を発表した。
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②矢野一貞(1794~1879年)は幕末の久留米藩を代表する国学者。岩戸山古墳の現地調査を行い、筑紫君磐井の墓であることを最初に唱え、神籠石が山城であると指摘した。『筑後将士軍談』などの著書がある。
③2017年3月5日、日野智貴氏と共に松延家を訪問し、家系図を拝見した。
④日野智貴「『部民制』はあったのか」2021年7月17日、「古田史学の会」関西例会での口頭発表。
⑤「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、市別の分布上位と発祥地は次の通り。
 1 福岡県 八女市(約500人)
 2 福岡県 久留米市(約300人)
 3 茨城県 かすみがうら市(約110人)
 4 茨城県 石岡市(約90人)
 5 福岡県 飯塚市(約50人)
 6 長崎県 長崎市(約40人)
 7 熊本県 熊本市(約30人)
 7 茨城県 土浦市(約30人)
 9 福岡県 北九州市小倉南区(約30人)
 9 福岡県 福岡市南区(約30人)
《発祥地》
○福岡県みやま市瀬高町松田(旧:松延)発祥。平安時代に記録のある地名。福岡県八女市高塚に江戸時代にあった。
○福岡県朝倉郡筑前町松延発祥。南北朝時代に記録のある地名。
○茨城県石岡市府中付近(旧:松延)から発祥。鎌倉時代に記録のある地名。地名はマツノベ。位置不詳。茨城県水戸市三の丸が藩庁の水戸藩医に江戸時代にあった。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟


第2527話 2021/07/26

「土器編年」、関川尚功さんとの対談

 7月22日に京都市で開催された古代史講演会(市民古代史の会・京都主催)の後、講師の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と夕食をご一緒しました。大和の発掘調査に50年近く携わってきたベテランの考古学者と意見交換できる貴重な機会でしたので、わたしからは7世紀の土器編年について質問させていただきました。その内容は次のようなものでした。

〔古賀〕7世紀での飛鳥の土器編年と北部九州(太宰府など)の土器編年とでは年代差はありますか。あるとすれば何年くらいですか。
〔関川さん〕7世紀であれば同じと考えてよい。当時の土器職人の移動や土器製造技術の伝播は速いので、飛鳥と北部九州であれば年代差はないと思う。
〔古賀〕飛鳥編年は正確で、5~10年ほどの精度で編年できるとする考古学者の見解もありますが、±10年の幅はあるのではないでしょうか。
〔関川さん〕飛鳥編年は『日本書紀』(文献史学の判断)に基づいており、考古学的に土器様式で判断するのであれば25年の幅はあると思う。土器は長期間使用されるので、新様式の土器が発生したからといって、旧様式の土器がなくなるわけではない。

 以上のような対話が続きました。わたしも関川さんの見解(25年ほどの幅)に賛成です。以前にも、「洛中洛外日記」で土器や瓦の編年の難しさについて論じたことがあるのですが(注①)、土器編年には次のような難しさがついてまわるからです。

(a)土器の様式差や法量の違いによる相対編年にとどまる。
(b)土器による相対編年を暦年とリンクさせて絶対編年にするためには土器編年以外の方法に依らねばならないが、同一遺跡の同一層位とリンクできる他の暦年判定方法があることは極めて希である。
(c)同一層位から年代が異なる土器が共伴することはよくあることで、その場合、どの土器を重視するのかという判断が恣意的になる可能性がある。

 こうした問題点を理解した上で、なるべく客観的な手法や判断で出土物や遺構の編年がなされます。しかし、それでも同一遺跡に対する編年が考古学者間で異なる例は少なくありません。
 わたしたち古田学派には考古学を専門分野とする研究者が極めて少ないこともあり、遺跡に対して恣意的な判断がなされるケースが散見されます。わたし自身もそうだったのですが、太宰府関連遺跡の従来の土器編年は誤りであり、実際は百年ほど古くなるとする見解を漠然と信じていたこともありました。しかし、この10年間ほど、7世紀の須恵器編年の勉強を続けた結果、7世紀の土器編年はそれほど間違ってはいないことを知りました。たとえば大阪歴博などの考古学者による難波編年は、九州年号や多元史観による文献史学の成果とも見事に整合していました(注②)。
 他方、未だに解決できていない太宰府関連遺跡(政庁、条坊、水城、他)の造営年代には、九州王朝説に基づく文献史学と、出土土器による考古学編年とが整合しないケースがあります。一例として、大宰府政庁の造営年代があります。文献史学によれば白鳳十年(670年)創建と記されている観世音寺と同一尺が採用され、同じ老司式瓦で造営された政庁Ⅱ期遺構は同時期の造営とわたしは考えています。しかし、政庁Ⅰ期(新段階)やⅡ期の整地層からは7世紀第4四半期頃に編年されている須恵器坏Bが出土していることから(注③)、通説では土器編年により、観世音寺や政庁Ⅱ期の造営を8世紀第1四半期中頃とする見解が有力視されています(注④)。
 なお、政庁Ⅰ期・Ⅱ期の整地層からは古墳時代と見られる土器片や6世紀から7世紀前半に編年される須恵器坏Hなども出土しており、通説では整地に使用した土壌に古墳時代の土器が含まれていたと理解されているようです。同様の現象は前期難波宮整地層でも見られており、より新しい須恵器坏Bを重視した編年そのものは妥当と思われます。しかし、政庁Ⅱ期の成立について、文献史学(九州王朝説)の成果とは30~40年ほどの齟齬があるため、北部九州の須恵器坏Bの年代観の再検討が必要とわたしは考えています。残念ながら、考古学者を説得できるほどのエビデンスに基づく編年研究はまだできていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1764~1773話(2018/09/30~10/13)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)~(9)〟
②古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2524話 2021/07/20

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(2)

 三角縁神獣鏡は古墳時代に作られた国産鏡とする古田旧説と弥生時代(景初三年・正始元年頃)の日本列島で作られ、古墳から出土する夷蛮鏡(伝世鏡)とする古田新説ですが、わたしは古田旧説の方が穏当と考えてきました。その理由は、弥生時代の遺跡から三角縁神獣鏡は出土せず、古墳時代になって現れるという考古学的事実でした。
 そして、「景初四年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡は、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたという倭人伝にある国交記事の記憶が反映したものと考えていました。すなわち、倭国の勢力範囲が列島各地に広がった古墳時代になると、魏鏡をもらえなかった勢力がその代替品として作らせた、あるいは魏鏡を欲しがった勢力に対しての交易品(葬送用か)として作られたものが三角縁神獣鏡(中でも魏の年号を持つ紀年鏡)だったのではないかと考えていました。もちろん、その三角縁神獣鏡が本物の魏鏡とは、もらった方も考えてはいなかったはずです。古墳から出土した鏡類の中で、三角縁神獣鏡がそれほど重要視されたとは思えない埋納状況(例えば棺外からの出土など)がそのことを示しています。
 こうした、やや漠然とした理解に対して、深く疑義を示されたのが日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)でした。日野さんは、新旧の古田説が持つ克服すべき論理的課題として、次のことを指摘されました。

(1)「景初四年鏡」が古墳時代の国産鏡であれば、倭人伝に見えるような弥生時代の国交記事を知っていたはずである。従って、景初三年の翌年が正始元年に改元されていたことを知らないはずがない。その存在しなかった「景初四年」という架空の年号を造作する動機もない。

(2)この点、古田新説であれば〝中国から遠く離れた夷蛮の地で作られたため、改元を知らなかった〟とする弥生時代成立の夷蛮鏡説で説明可能だが、古墳から出土したことを説明するためには伝世鏡論を受け入れなければならず、その場合、三角縁神獣鏡が弥生時代の遺跡からは一面も出土していないという考古学的事実の説明が困難となる。

 このように鋭い指摘をされた日野さんですが、それでは「景初四年」の銘文や「景初四年鏡」の存在をどのように説明すべきかについては、まだわからないとのこと。
 なお、古墳時代の鏡作り技術者たちは「景初四年」がなかったことを知らなかったという説明もできないことはありませんが、その場合はそう言う論者自身がそのことを証明しなければなりません。「景初」という魏の年号や倭国(卑弥呼)への銅鏡下賜のことを知っている当時のエリート技術集団である鏡作り技術者や銘文作成者が、倭人伝に記された「景初二年」ではなく、なぜ「景初四年」としたのかの合理的説明が要求されます。
 この日野さんが提起された「景初四年鏡」への論理的疑義について、古田学派の研究者は真正面から取り組まなければならないと思うと同時に、このような深い問題に気づかれた日野さんに触発された懇親会でした。


第2523話 2021/07/19

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(1)

 先日の関西例会終了後の懇親会で、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から「景初四年鏡」に関する新旧の古田説について、仮説成立の当否に関わる論理構成上の重要な問題提起がありました。その紹介に先立って、「景初四年鏡」に関する古田説の変遷について説明します。
 「洛中洛外日記」1267話(2016/09/05)〝「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)〟でも紹介したのですが、当初、古田先生は「三角縁神獣鏡」は国内の古墳から出土することから、古墳時代に作られた国産鏡とされ、「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた三角縁神獣鏡伝世理論を批判されていました。
 ところが、1986年に京都府福知山市から「景初四年」(240年)の銘文を持つ三角縁神獣鏡が出土(注①)したことにより、弥生時代の日本で作られた「夷蛮鏡」説へと変わられました。すなわち、魏の年号である「景初」は三年で終わり、翌年は「正始」元年と改元されており、その改元を知らなかった夷蛮の地(日本列島)で造られたために、「景初四年」という中国では存在しない紀年(金石文)が現れることになったとされ、この「景初四年鏡」は三角縁神獣鏡が中国鏡ではないことを証明しているとされたのです。そして、そのことを意味する「夷蛮鏡」という概念を提起されました(注②)。
 そして古田先生は最晩年において、三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(239年)・正始元年(240年)」前後とされ、そのことを『鏡が映す真実の古代』の「序章」(2014年執筆。注③)で次のように記されましたが、これは「景初四年鏡」の出土に大きく影響されたためと思われます。

〝次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四~六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇~二六五)と西晋朝(二六五~三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十数年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。〟『鏡が映す真実の古代』10頁

 この古田新説の発表は、わたしを含め古田学派の研究者にとって衝撃的な出来事でした。それまでは古墳時代の鏡とされてきた三角縁神獣鏡を、「景初四年」の銘文を持つ、ただ1枚の鏡の出土により、弥生時代(結果として古墳から出土した「伝世鏡」となる)のものとされたのですから。(つづく)

(注)
①京都府福知山市広峯の広峯古墳群の広峯15号墳(4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳)から出土。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の銘文を持つ直径16.8cmの銅鏡。
②1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」の古代史講演会で発表された。同講演録は『市民の古代』九集(新泉社、1987年)に「景初四年鏡をめぐって」として収録。
③古田武彦『鏡が映す真実の古代 ―三角縁神獣鏡をめぐって―』ミネルヴァ書房、2016年。


第2522話 2021/07/18

難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡

 「古田史学の会」関西例会では、研究発表の他にも休憩時間や懇親会での参加者との会話や情報交換により、重要な知見を得ることが度々あり、リモート参加では味わえないリアルな研究会の醍醐味の一つです。昨日の関西例会でもそうした知見が得られましたので、紹介します。
 ズームによるリモートシステム管理を担当されている久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)から大阪歴博『研究紀要』最新号(注①)に佐藤隆さんの研究論文が収録されていることを教えていただき、同書をお借りすることができました。それは「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」という論稿で、最新の発掘成果に基づいて難波京条坊の範囲や年代を考察したものでした。大阪歴博や大阪府には優れた考古学者が少なくありませんが、その中でもわたしが注目してきたお一人が佐藤隆さんでした。特に難波編年の構築や難波と飛鳥の比較を出土土器に基づいて考察された「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)は研究史に残る好論と、わたしは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注③)。
 今回の論稿でも驚くべき重要な仮説が提起されていました。それは、従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)にも、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位による条坊(方格地割)の痕跡が複数出土しているとのことなのです。これまで発見された難波京条坊は1尺29.49cmで造営されており、それは藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm。モノサシが出土)に近いものでした。ところが、難波京西北部地区は1尺29.2cmを用いて造営されているとのことなのです。
 わたしはこの1尺29.2cmという尺に驚きました。これは前期難波宮の造営尺と同じだからです。以前に論じましたが(注④)、前期難波宮と同条坊の造営尺が異なっていることは不思議な現象だったのですが、その前期難波宮と同じ尺が西北部地区の条坊造営に使用されていることは、前期難波宮九州王朝複都説と密接に関係する現象ではないでしょうか。
 というのも、同地区には古墳時代からの遺構があり、全国的に見ても、福岡市の比恵那珂遺跡とともに古墳時代最大の都市であり(注⑤)、おそらく古墳時代(倭の五王時代)の九州王朝の港運拠点である難波津かそれと関係した地域と思われます。その条坊造営尺が九州王朝の宮殿である前期難波宮と同じということは重要です。この問題についてこれから深く考察したいと思います。ご紹介いただいた久冨さんに改めて御礼申し上げます。

(注)
①『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、令和3年(2021)3月。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
③古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
 古賀達也「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』No.175、2017年8月。
 古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
 古賀達也「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年8月。
④古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。
⑤古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年12月。