第2524話 2021/07/20

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(2)

 三角縁神獣鏡は古墳時代に作られた国産鏡とする古田旧説と弥生時代(景初三年・正始元年頃)の日本列島で作られ、古墳から出土する夷蛮鏡(伝世鏡)とする古田新説ですが、わたしは古田旧説の方が穏当と考えてきました。その理由は、弥生時代の遺跡から三角縁神獣鏡は出土せず、古墳時代になって現れるという考古学的事実でした。
 そして、「景初四年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡は、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたという倭人伝にある国交記事の記憶が反映したものと考えていました。すなわち、倭国の勢力範囲が列島各地に広がった古墳時代になると、魏鏡をもらえなかった勢力がその代替品として作らせた、あるいは魏鏡を欲しがった勢力に対しての交易品(葬送用か)として作られたものが三角縁神獣鏡(中でも魏の年号を持つ紀年鏡)だったのではないかと考えていました。もちろん、その三角縁神獣鏡が本物の魏鏡とは、もらった方も考えてはいなかったはずです。古墳から出土した鏡類の中で、三角縁神獣鏡がそれほど重要視されたとは思えない埋納状況(例えば棺外からの出土など)がそのことを示しています。
 こうした、やや漠然とした理解に対して、深く疑義を示されたのが日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)でした。日野さんは、新旧の古田説が持つ克服すべき論理的課題として、次のことを指摘されました。

(1)「景初四年鏡」が古墳時代の国産鏡であれば、倭人伝に見えるような弥生時代の国交記事を知っていたはずである。従って、景初三年の翌年が正始元年に改元されていたことを知らないはずがない。その存在しなかった「景初四年」という架空の年号を造作する動機もない。

(2)この点、古田新説であれば〝中国から遠く離れた夷蛮の地で作られたため、改元を知らなかった〟とする弥生時代成立の夷蛮鏡説で説明可能だが、古墳から出土したことを説明するためには伝世鏡論を受け入れなければならず、その場合、三角縁神獣鏡が弥生時代の遺跡からは一面も出土していないという考古学的事実の説明が困難となる。

 このように鋭い指摘をされた日野さんですが、それでは「景初四年」の銘文や「景初四年鏡」の存在をどのように説明すべきかについては、まだわからないとのこと。
 なお、古墳時代の鏡作り技術者たちは「景初四年」がなかったことを知らなかったという説明もできないことはありませんが、その場合はそう言う論者自身がそのことを証明しなければなりません。「景初」という魏の年号や倭国(卑弥呼)への銅鏡下賜のことを知っている当時のエリート技術集団である鏡作り技術者や銘文作成者が、倭人伝に記された「景初二年」ではなく、なぜ「景初四年」としたのかの合理的説明が要求されます。
 この日野さんが提起された「景初四年鏡」への論理的疑義について、古田学派の研究者は真正面から取り組まなければならないと思うと同時に、このような深い問題に気づかれた日野さんに触発された懇親会でした。

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