古賀達也一覧

第2563話 2021/09/11

古田先生との「大化改新」研究の思い出(8)

 二年間にわたって続けられた「大化改新」共同研究の結果、「大化改新」の実像について、晩年の古田先生の見解が『古田武彦の古代史百問百答』では次のように述べられています(注①)。

〝質問 先生は改新の詔が九州王朝で出された詔を盗用したものだとおっしゃっていますが、その根拠を教えて下さい。
 回答 大化年間に行われた十六回の詔の第一回目は「(大化元年)八月丙申の朔庚子に東国等の国司を拝して」行われており、(中略)東国に対する詔はあっても他の西国、南国、北国という表現はありません。東国に突出した表記になっていると言えます。第五回目の改新の詔には「畿内」の定義が記されています。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内とす。」この畿内国を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要です。中国や四国や九州が西国に当たります。しかし、それは出てきません。なぜ西国が出てこないのでしょうか。この畿内国の定義のすぐ後に「凡そ畿内より始めて、四方の国に及(いた)るまで」の文面があります。ここには「東国=四方の国」という概念が示されています。なぜでしょうか。その答えは一つです。「これらの詔勅の“原文面”における原点は九州である」からです。九州を原点とすれば、この「東国」が「四方の国」になることに何の問題もありません。〟146頁

 この質疑応答では、古田先生は「大化改新詔」は九州王朝(倭国)が出したもので、“原文面”は九州を原点としたものとされています。従って、「大化改新詔」は九州王朝が太宰府で発したと理解されていると思われます。

〝質問 孝徳紀には改新の詔以外にも数多くの詔勅が記載されていますが、乙巳の変の直後にこのように多くの制度が発表になることは不自然ではないでしょうか。
 回答 孝徳紀の大化時代(六四五~六四九年)には詔勅が十六回も集中して出てきています。これは『日本書紀』を編纂する時の方針の一つです。安閑紀にも「屯倉」記事がぎっしり詰め込まれています。(中略)『日本書紀』の編者はそのように分かりやすく構成することによって、記載されている内容が八世紀現在の政治に有効に反映するように意図しているのです。〟146頁

 ここでは、大化年間の諸詔は『日本書紀』編纂者による編集構成であり、必ずしも同年代の詔勅とは限らないことを示唆されています。要は、八世紀の大和朝廷に有利となるように詔勅を大化年間に集合している、との指摘です。

〝質問 改新の詔には有名な「公地公民制」が含まれています。なぜそれほど政権の基盤が安定していないこの時期にこのような強権が発動できたのでしょうか。
 回答 (前略)『日本書紀』は「七〇一」以前の九州王朝関連の領地と領民を一度「私地私民」とし、大宝律令によって、「近畿天皇家や藤原氏たちの豪族」の有する「公地公民」としたのです。このように八世紀の(大宝律令の)公地公民制は決して(元正や藤原氏などの)勝手気ままに施行されたのではなく、あの天智天皇や天武天皇も承認していた公約の「実現」に他ならないということにするために、半世紀遡った時点の改新の詔に加えられたわけです。これは『日本書紀』最大の達成目標とすべきところだったのではないでしょうか。〟147頁

 この回答部分は重要です。「大化改新詔」の「公地公民制」は大宝律令に基づいた詔であり、それを権威づけるために孝徳紀まで半世紀遡らせ、他の改新詔に加えたとされています。すなわち、「大化改新詔」には九州王朝が九州(太宰府)を原点として発したものと、大宝律令に基づいて近畿天皇家が発した詔として半世紀遡らせたものが含まれるという理解なのです。

〝質問 孝徳紀の詔勅の中に薄葬令が出てきます。実行されたのでしょうか。
 回答 第十一回目の詔勅は、墓の大きさをテーマにしています。もう大きさを競うのはやめようという命令です(大化二年三月二十二日条)。(中略)この「薄葬の詔」は「近畿の天皇陵や古墳の現状」に全く合致していないのです。舞台を一転させて、九州の古墳と比較すれば、ここでは一変します。九州の場合、近畿のような大型古墳はありません。ことに六世紀後半や七世紀ともなれば、大型古墳はほとんど見られないのです。つまりこの詔勅は九州王朝で七世紀前半までに出されたものを盗用したものと言えるでしょう。〟127~128頁

 大化二年(646年)の「薄葬の詔」にいたっては、本来の詔勅(原勅)は七世紀前半までに九州王朝が発したもので、それを「盗用」したものとされています。

〝質問 『日本書紀』に出てくる年号は九州王朝の年号と同じものが使用されています。それらの年号と大化の改新の関係を説明してください。
 回答 『日本書紀』には年号が三つ登場してきます。「大化」(六四五~六四九年)、「白雉」(六五〇~六五四年)、「朱鳥」(六八六年)です。(中略)「白雉」と「朱鳥」は『日本書紀』と九州年号の時期は接近していますが、「大化」はほぼ半世紀のズレがあります。「大化」だけが飛び離れている理由は、『日本書紀』の「大化の改新」は、大宝律令(すなわち九州年号の「大化の改新」)の歴史的背景(淵源)を示している、という意義があります。言いかえれば、大宝元年は大化七年(三月二十一日まで)ですから、この大宝元年の一大変革は、文字通り「大化の改新」と呼ばれたはずです。九州年号による呼称だったわけです。『日本書紀』は七〇一年に発布された大宝律令を正当化するために五〇年遡った時点に同様の内容をもつ「改新の詔」を記載することによって「天智帝、天武帝もご承認された詔である」ということにしたのです。〟148~149頁

 以上のように古田先生は各質問に答えられていますが、同書の構成は「一問一答」形式であるため、論文のような厳密な論証や他の質問との厳格な対応はなされてはいません。〝わかりやすく〟ということに重点を置かれたためです。ですから、先生の回答全般から、「大化改新詔」に対する先生の理解を正しく把握することが肝要です。
 これらの回答が示していることは次の点です。

(1)『日本書紀』編纂者の主目的は、九州年号「大化」を孝徳紀に約50年遡らせて移動した「大化年間」に、九州王朝の「詔」や自らの大宝律令を基本とした「詔」を配置することにより、それらを権威づけることにある。
(2)その結果、「大化改新詔」には、七世紀前半に発せられた九州王朝の詔や、八世紀の大和朝廷による大宝律令に基づいた詔などが混在している。
(3)「東国」国司らを対象とした九州王朝による詔の発出地は九州(太宰府)である。

 おおよそ、以上のようです。「大化改新」共同研究会立ち上げ時の認識、〝「大化改新詔」は九州王朝により九州年号の大化年間に発せられた〟とする作業仮説が、より重層的多元的に、そして精緻に豊かに発展したことがわかります。中でも(1)の認識は重要なもので、「古田史学の会」関西例会でも様々な視点に基づいて諸説が発表され、「大化改新詔」研究は今日に至っています(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。
②古賀達也「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面


第2562話 2021/09/10

宮崎県の「あま」姓と「米良」姓の淵源

 宮崎県の西都市や宮崎市に「あま」姓(阿万、阿萬)が濃密分布しており、九州王朝(倭国)王族の姓「天(あま)」の子孫とする仮説を「洛中洛外日記」などで発表してきました(注①)。また、「米良」姓についても宮崎県に最濃密分布していることを紹介したことがあります(注②)。この宮崎県の米良氏が熊本県の菊池氏の後裔で、「天」姓を名のっていたことが記録に遺っています。『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』に収録されている、日向米良修験道を紹介した次の文です。

 「さてその米良氏は、現在すでに各地に分家してしまったが、その出自については、菊池氏の後裔という説がある。これは近世、近代に書かれた系図、系譜、由緒書に基づいており、また天(あめ)氏を名乗った形跡も見られる。(中略)また、東臼杵郡東郷町附近に定着した米良氏は、天氏を名乗っており、天文十八年には羽坂神社に梵鐘を奉納している。」603~604頁、「米良修験と熊野信仰」(注③)

 肥後の菊池氏と日向の米良氏が関係しているとのことですが、肥後には「蜑(あま)の長者」伝説(注④)があり、『隋書』俀国伝にも天子・阿毎(あま)多利思北孤の名前や噴火する阿蘇山の描写があり、九州王朝と関係が深い地域です。これらから推定すると、九州王朝の王族である「天(あま)」氏の一族が何らかの事情で日向へ移動し、「あま」(阿萬、阿万)姓をそのまま名乗り続けた人々と、「米良」姓に代えた人々がいて、現在に至っているのではないでしょうか。
 幸いも、日向修験道や熊野信仰の史料中に米良氏が「天氏」を名のっていた記録が遺っていたのですが、「あま」(阿萬、阿万)姓の家にもそうした伝承が遺っている可能性があります。当地の方に調査していただけると有り難いです。
 ちなみに、九州王朝の中枢領域である福岡県や佐賀県には「あま」姓の分布は見つかりません。しかし面白いことに、「天本(あまもと)」姓が基山(基肄城)周辺地域(佐賀県・福岡県)に集中分布していることを中島徹也さん(福岡市)からご教示いただきました。この「天本」さんについても調査したいと思います(注⑤)。お知らせいただいた中島さんにお礼申し上げます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟
 古賀達也「『あま』姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳―」『古田史学会報』166号、2021年10月(予定)。
②古賀達也「洛中洛外日記」234話(2009/11/08)〝九州王朝天子「天」一族の行方〟
 古賀達也「洛中洛外日記」236話(2009/11/22)〝「米良」姓の分布と熊野信仰〟
③五来重編『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』昭和五六年(1981)。
④古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
⑤「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/ によれば、「天本」姓の分布は次の通り。
 人口 約3,000人 順位 3,894位
【都道府県順位】
1 佐賀県(約1,100人)
2 福岡県(約1,000人)
3 長崎県(約200人)
4 東京都(約70人)
4 埼玉県(約70人)
6 神奈川県(約70人)
6 大阪府(約70人)
8 広島県(約70人)
9 岡山県(約40人)
9 兵庫県(約40人)

【市区町村順位】
1 佐賀県 鳥栖市(約600人)
2 佐賀県 三養基郡基山町(約500人)
3 福岡県 小郡市(約300人)
4 福岡県 筑紫野市(約120人)
5 福岡県 久留米市(約70人)
6 長崎県 長崎市(約50人)
7 福岡県 福岡市西区(約50人)
8 福岡県 福岡市早良区(約40人)
8 香川県 高松市(約40人)
10 福岡県 北九州市小倉北区(約30人)


第2561話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(7)

 1992年1月から始まった「大化改新」共同研究会と並行するように、同年11月に注目すべき研究が発表されました。増田修さんの「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」(注①)という論文です。同論文が掲載された『市民の古代』14集をテキストとして、増田さんは翌1993年4月の共同研究で、九州王朝律令の推定研究について発表されました。その様子を、安藤哲朗さん(現、多元的古代研究会・会長)が次のように報告しています。

〝ついで増田氏より『市民の古代 14集』「倭国の律令」をテキストとして、「倭国の律令は古田氏の所説の如く筑紫君磐井の頃から、晋の泰始律令を継承して作られた。日本書紀の冠位十二階など隋書にある同じ十二階でも「官位」と、発音は同じでも大きく異なる。戸令・田令・公式令などは倭国の残影が感じられる。正倉院戸籍の美濃と筑前の相違は西晋と両魏の差である。大宝令以前の律令の存在があることから近江令が推定されているが、日本書紀に記述のない近江令の存在は否定されるべきである」と論じられた。〟(注②)

 この報告にあるように、増田さんの九州王朝(倭国)律令の検討範囲は広く、古田学派にとって同分野の基本論文の一つに位置づけられるものでした。わたしも「大宝二年籍」について研究(注③)してきましたので、なにかと参考にさせていただきました(注④)。なお、同論文には「大化改新詔」についての言及は見えません。(つづく)

(注)
①増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。「古田史学の会」HPに収録。
②安藤哲朗「第六回 共同研究会(93・4・16)」『市民の古代ニュース』№118、1993年6月。
③古賀達也「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」『市民の古代・九州ニュース』No.18、1991年9月。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年11月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2149話(2020/05/10)〝「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2117~2198話(2020/03/22~08/08)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)~(22)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟


第2560話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(6)

 1992年1月から東京の文京区民センターを舞台にして始まった「大化改新」共同研究会での発表で、古田先生を別にすれば、わたしが最も注目したのが大越邦生さん(1992年12月)と増田修さん(1993年4月)の研究でした。大越さんの研究は、「大化改新詔」や『大宝律令』「大宝二年籍」などを史料根拠として、多元史観により田積法や班田収授の受田額などに焦点を絞ったもので、古田先生も次のように評価されています。

「重大な問題。研究史上の新視点。用語が不変であれば、体制の変化は判り難い。(郡・評、朝臣・条里制単位)。」(注①)

 後に大越さんは「多元的古代の土地制度」(注②)として論文発表されていますのでご参照下さい。同論文を読んで、最も考えさせられたのが、王朝交替とほぼ同時期に変化する制度と、新王朝の『大宝律令』に反していても、長期にわたり変わらずに継続する九州王朝系の制度があるということでした。前者の代表例が、行政単位名「評」から「郡」への全国一斉変更(701年)です。戦後の坂本太郎さんと井上光貞さん師弟の「郡評論争」は有名ですが、藤原宮跡などから出土した荷札木簡により、700年までは「評」、701年からは「郡」であったことが判明し、「郡評論争」は決着しました。
この「評」から「郡」への事例のように、わたしは王朝交替により、全国一斉に強権的に制度変更がなされるものと漠然と理解していました。ところが大越論文により、『大宝律令』とは異なる田積基準(口分田)の実例が大宝二年の筑前国戸籍など西海道戸籍に遺存していることを知り、それまでの認識を改めざるをえませんでした。特に、西海道戸籍から数理計算的に検出された受田額が、筑前・豊前・豊後の国ごとに異なり、いずれも『大宝律令』田令の基準と大きくかけ離れているという学界での律令研究の成果(注③)は、王朝交替や九州王朝説でも簡単には説明できないほど複雑な現象であることに驚きました。
大越さんは、これらの史料状況発生理由を701年の王朝交替によるものとされ、次のように論文冒頭に述べられています。

〝こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰り上げ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。〟165頁

 このように『日本書紀』の「大化改新」諸詔は、『大宝律令』制定など55年後に行われた〝九州年号「大化」の改新〟であり、その画期点を701年とする古田説を是とされました。なお、氏は七世紀での面積単位「代」が、八世紀には「町」に変更されたことについても、九州王朝説と701年での王朝交替の視点で論じられています。このテーマについては別述したいと思います。(つづく)

(注)
①安藤哲朗「第六回 共同研究会(92・12・18)」『市民の古代ニュース』№114、1993年2月。
②大越邦生「多元的古代の土地制度」『古代に真実を求めて』4集、明石書店、2001年。「古田史学の会」HPに収録。
③虎尾俊哉「浄御原令に於ける班田収授法の推定」『班田収授法の研究』昭和三六年(1961)。


第2559話 2021/09/08

古田先生との「大化改新」研究の思い出(5)

 藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」により、九州年号「大化」と「大化改新」を結びつけるという学問的可能性が拓けたのですが、その九州年号「大化」の年代について影響を与えたのが丸山晋司さん(市民の古代研究会・幹事)による『二中歴』の研究でした(注①)。
 九州年号史料には「大化」の位置(元年干支)について複数の異伝があるため、暦年特定という課題が未解決でした。主なものとして次の例があり、九州年号研究者間で激しい論争が続いていました(注②)。

  「丸山モデル」 686~691年 元年干支「丙戌」 丸山晋司さんが提唱。
 『二中歴』年代歴 695~700年 元年干支「乙未」 古田先生が支持。
 『皇代記附年代記』698~700年 元年干支「戊戌」 中村幸雄さんが支持。

 丸山さんは自らが提唱された「丸山モデル」と呼ばれる年号立てを原型とされ、『二中歴』の年号立てを誤伝としました。わたしも「丸山モデル」が正しいと当初は考えていましたが、古田先生から史料批判の方法や考え方を直接に学ぶ機会があり(注③)、先生と同様に『二中歴』が最も九州年号の原型を留めているとする理解に至りました(注④)。
 丸山さんは『二中歴』の成立が鎌倉初期であることに価値を見出され、〝鎌倉時代から室町時代にかけて、僧侶が偽作した〟とする偽作説への反証としました。こうした丸山さんの九州年号研究や偽作説との論争について、古田先生は高く評価されていました。たとえば、『失われた九州王朝』朝日文庫版(注⑤)の「あとがき」に次のように紹介されています。

〝以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。この点、論争中にこの『二中歴』を扱われた、所功・丸山晋司の両氏に深く感謝したい(所氏は、九州年号否定論。丸山氏は「旧形式〔『善化(善記)』〕型」の支持者である)。〟587頁

 こうした中村幸雄さん、藤田友治さん、丸山晋司さんの九州年号研究に支えられて、『日本書紀』孝徳紀の大化年間(645~649年)に見える「大化改新」諸詔を、50年ずれた九州年号の大化年間(695~699年)に九州王朝が公布したものとする作業仮説の検証へと、古田先生は突き進まれたのでした。九州年号の大化年間は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替(ONライン、701年)直前の時期に相当します。それは王朝交替の真実に肉薄する、古田学派による本格的な「大化改新」研究の幕開けを告げるものでした。そして、1992年1月からスタートした「大化改新」共同研究会からは、古田先生はもとより、大越邦生さんや増田修さんを筆頭とする優れた研究成果が陸続と発表されることとなります。(つづく)

(注)
①丸山晋司「九州年号の史料批判 ④『二中歴』の成立」『市民の古代研究』17号、市民の古代研究会編、1986年9月。
 丸山晋司「九州年号の史料批判 ⑤『二中歴』が依拠した文書」『市民の古代研究』18号、市民の古代研究会編、1986年11月。
 丸山晋司「古代年号は鎌倉期以降に偽作されたか ―『二中歴』に見る古代年号」『季節《特集 古田古代史学の諸相》』12号、エスエル出版会、1988年8月。
 丸山晋司「『古田武彦九州年号論』批判 ―『二中歴』を中心に―」
『市民の古代』11集、市民の古代研究会編、1989年。
 丸山晋司「古代逸年号「『二中歴』原型論」批判」『古代逸年号の謎 ー古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
②『市民の古代研究』『市民の古代研ニュース』紙上で九州年号原型論について論争が続いていた。「大化」以外には「白雉」の原型論や「法興」などが争点になった。主な九州年号研究者に、丸山晋司氏(八尾市)、中村幸雄氏(大阪市)、平野雅曠(熊本市)、石川信吉氏(東京都)、千歳竜彦氏、増田修氏(東京都)、古賀達也(京都市)がいた。
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2016/08/19)〝『二中歴』の思い出〟を希望会員へネット配信した。以下、転載する。
 わたしが古田先生の門を叩いたのが31歳のときでしたから、もう30年も昔のことになります。以来、主に九州年号の研究に取り組んできたのですが、当時、九州年号群史料として最初に『二中歴』に着目されたのは丸山晋司さんでした。「市民の古代研究会」に入会し、九州年号の先駆的研究者だった丸山さんには特に懇意にしていただき、九州年号史料について多くのことを教えていただいた先輩でした。和田家文書偽作キャンペーンのとき、古田先生と袂を分かたれましたが、九州年号に関する研究業績は優れたものがありました。
 丸山さんが『二中歴』に着目された理由は、その成立年代の古さでした。他の九州年号群史料は早くても室町時代成立でしたが、『二中歴』は鎌倉時代初頭の成立と考えられ、採録史料の多くは平安時代に遡るという史料性格を有しています。九州年号を鎌倉時代から室町時代にかけて順次偽作されたとする古代史学界の「あん暗黙の通説」を否定する史料として、丸山さんは『二中歴』を重視されたのです。
 その後、古田先生も『二中歴』に注目されましたが、その理由は成立年代の古さだけではなく、その九州年号の細注に記されている記事などから、九州王朝系史料に基づいているという史料性格を重視されたことによります。わたしもこの古田先生の見解に賛成し、『二中歴』の九州年号が最も原型に近いという立場に立ちました。
 現在、わたしの手元には丸山さんからいただいた『二中歴』尊経閣文庫「古写本」の九州年号部分のコピーと前田育徳会による解説のコピーがあります(昭和14年刊)。それと、八木書房発行『二中歴』影印本(尊経閣文庫蔵「古写本」)の全コピーを持っています。八木書房版は現在入手可能な最も良質な『二中歴』影印本ですが、その大部のコピーをわたしは古田先生からいただきました。20年ほど前のある日、上京区の拙宅に古田先生がひょっこり見えられ、風呂敷に包んだ同コピーをわたしにプレゼントされたのです。膨大なページ数にもかかわらず、古田先生がコピーされ、拙宅まで持参していただいたもので、今でも深く感謝しています。
 そのコピーのおかげで、わたしは『二中歴』の全貌を知ることができ、研究にも役立っています。『二中歴』研究の度に同コピーを書架から引っ張り出すのですが、今でも古田先生に励まされているような気持ちで、同コピーを精査する日々が続いています。
④古賀達也「洛中洛外日記」346~351話(2011/11/06~17)〝九州年号の史料批判(1)~(6)〟
 古賀達也「『二中歴』の史料批判 ―人代歴と『年代歴』が示す『九州年号』―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
 古賀達也「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
⑤古田武彦『失われた九州王朝』《朝日文庫版》朝日新聞社、1993年。


第2558話 2021/09/07

古田先生との「大化改新」研究の思い出(4)

 古田先生がそれまでの慎重姿勢から本格的な「大化改新」研究に進むに当たり、〝決め手〟となったのが藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」(注①)でした。この研究の発端に、わたしも関わっていたのでよく憶えています。
 当時、「市民の古代研究会」では遺跡巡りを兼ねて、宇治橋断碑の現地調査を行っていました(注②)。入会して間もなかったわたしは、藤田さん(当時、同会・事務局長)に「宇治橋断碑には銘文を囲む界線や罫線があるが、これは古代の金石文には珍しいように思いますが」と質問しました。この質問がきっかけとなったようで、藤田さんは、金石文に界線・罫線が描かれるようになったのはいつ頃かという界線の技術の発達史を調査されました。その結果、同碑(原石碑部分)の成立を延暦年間(782~806年)と推定されました。

 「原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二~八〇六年)と推定される。」181頁

 これらを根拠として、『日本書紀』成立(720年)以後に宇治橋断碑の碑文は成立しており、宇治橋断碑を『日本書紀』の大化年号を史実とする証拠にはできないとしました。更に、「この結論は、九州年号論、『大化改新』論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。」と、九州年号・九州王朝説に基づく「大化改新」研究へと発展することを予想されたのでした。
 こうした藤田さんの研究内容は、論文発表前に古田先生にも届いていたようで、「市民の古代研究会十周年記念講演会」(注③)で古田先生は次のように述べられています。

〝『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終わりごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支が「丙午」と書いてある。六四六年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。(中略)
 ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、(後略)〟(注④)

 藤田さんのこの研究成果により、『日本書紀』の「大化」年号も九州年号からの〝盗用〟と見なすことが可能となり、九州王朝説に基づく「大化改新」研究への扉が開いたのです。しかし、もう一つの問題が残っていました。講演で「『大化』は七世紀の終わりごろに近いところ」と表現されているように、九州年号史料には「大化」の位置(暦年)について複数の記述があるため、暦年特定という課題が未解決でした。これには、「市民の古代研究会」の丸山晋司さん(当時、市民の古代研究会・幹事)の九州年号研究が寄与しました。(つづく)

(注)
藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
②広野千代子『「市民の古代」遺跡めぐりの旅』(自家版、1991年)によれば、宇治橋断碑調査は1987年7月19日の「山城地方の遺跡・神社」巡りのときである。同書は「市民の古代研究会」の遺跡めぐりを担当されていた広野千代子さん(後に同会・副会長に就任)が執筆されたもので、わたしは副担当として協力していた。多元史観・古田史学が、そう遠くないうちに教科書に載るようになると、わたしは信じて疑わなかった、牧歌的で良い時代であった。その数年後、「市民の古代研究会」は分裂し、後に解散することになる。
 同書には、古田先生による「鴨川の水のように ―発刊によせて―」の一文が寄せられている。一部抜粋し紹介する。
〝『市民の古代』の大阪講演会は、春秋行われるのが慣例である。(中略)四~五時間に及ぶ講演のあと、夕食をともなう懇親会が二時間余り。それからさらに、喫茶店にたむろしてのダベリ合い、とつづくのだけれど、まだ、そのあと。楽しいひとときがつづくことがある。梅田から東向日町へ、阪急電車の中だ。JRのこともある。京都から来ておられる小川澄子さん・古賀達也さん・そして広野さん。わたしも、向日町帰りだから、一時間足らず、また話がはずむのである。
 楚々たる小川さんも、馥郁(ふくいく)の広野さんも、無類の聞き上手だから、わたしはつい引きこまれて、最近の研究目標、いや、探求へのとりとめもない夢を語りはじめる。(中略)それに古賀さんが加われば、いつも新鮮な課題を見つけ、エネルギッシュに取り組んでおられる、その姿に、わたしが快い刺激と高揚をうけること、いうまでもない。
 京へ、京へ。――京への夜ふけの電車は、そのような人間の心情の高まりを運んで疾走するのだ。〟
③昭和63年(1987)5月23日、「市民の古代研究会」結成十周年記念講演会がなにわ会館(大阪市天王寺区)で開催された。10月30日には東京(労音会館、千代田区)でも開催された。
④古田武彦講演録「金石文と史料批判の方法 ―黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。65~66頁。演題中の「稲荷台鉄剣」とは、千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した銀象嵌の文字が刻まれた「王賜」銘鉄剣のこと。


第2557話 2021/09/06

古田先生との「大化改新」研究の思い出(3)

 「市民の古代研究会」では、『日本書紀』孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとする研究が進められていました。そして、その仮説成立の〝障壁〟となっていた「大化二年丙午之歳」の銘文を持つ宇治橋断碑に関する研究が1988年頃から論文発表され始め、大化を九州年号とすることに慎重だった古田先生の認識に変化が起こります。それは次の論文です。

○中村幸雄「宇治橋に関する考察」『市民の古代』10集、市民の古代研究会編、1988年。
○藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」 同上

 両氏は「市民の古代研究会」以来の先輩〝兄弟子〟であり、後に「古田史学の会」創立に当たっては、行動を共にしていただいた同志でした(古田史学の会・全国世話人として参加。共に故人)。中村さんは九州年号の研究仲間でもあり、「大化」年号原型論などで厳しく論争したこともありました(注①)。藤田さんは、古田先生と中国吉林省集安で好太王碑の現地調査を行うなど、金石文研究で成果をあげられていました(注②)。
 中村さんは、宇治橋碑は中世に造られた「川施餓鬼参加勧誘碑」であり、そこに記された「大化二年丙午之歳」は石碑が造られた年ではないとしました。従って、宇治橋断碑は『日本書紀』大化(645~649年)の実在を証明する同時代金石文ではなく、本来の九州年号「大化」の年代は、『皇代記附年代記』に記された大化(698~700年)であるとしました。そして、「結語」に次のように記し、大化改新詔の実年代を九州年号の大化(698~700年)の頃と示唆されました。

〝私は本稿で採用した「大化元年=持統十二年=六九八年」説を、いわゆる「大化改新」に適用し、『日本書紀』の六四五~六四七年の「大化の諸詔令」は、むしろ大宝律令発布(七〇一年)直前の持統大化、六九八~七〇〇年に移動させる方が適切であることを(中略)いずれ別稿「新大化改新論争の提唱」として発表するつもりである。〟

 後に発表された「新『大化改新』論争の提唱」(注③)によれば、「大化」年間(698~700年)に発せられた「大化改新詔」は持統天皇によるものであり、このころは九州王朝と大和朝廷の並立時代とされました。中村さんは平成七年(1995)三月に物故され、この論文は遺稿として『新・古代学』3集(新泉社、1998年)に掲載しました(注④)。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に〝中村幸雄論集(遺稿集)〟があるので、参照されたい。
②好太王碑現地調査は1984年3月に行われた。藤田氏の業績は『藤田友治追悼集 ともに生きる』(藤田友治追悼集刊行会、2006年)に詳しい。
中村幸雄「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」『新・古代学』3集、新泉社、1998年。「古田史学の会」HPにも収録した。
④古賀達也「学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟」(『古田史学会報』38号、2000年6月)において、次のように紹介した。
〝いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。〟
〝(注2)故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。〟


第2556話 2021/09/05

古田先生との「大化改新」研究の思い出(2)

 古田先生が東京で「大化改新」共同研究会を立ち上げられたとき、次のような問題意識を持っておられました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える大化年間の一連の詔勅は、『二中歴』に記された九州年号の「大化」年間(695~700年)に九州王朝より発せられたものではないかという作業仮説でした。その仮説の検証を中心として、共同研究会では戦後の大化改新詔研究史の勉強も進められていました。そのとき、古田先生からいただいた重要論文(注①)のコピーをわたしは今でも大切に持っています。
 『日本書紀』の大化と九州年号の大化の存在から、孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとするアイデアは、既に1980年代後半頃には関西の九州年号研究者の間ではささやかれていたのですが、古田先生は慎重な姿勢をくずされず、態度を保留されていました。それは次の二つの理由からでした。

(1)「大化」年号は宇治橋断碑に見え、その干支(注②)が『日本書紀』大化(645~649年)と一致することから、「大化」を九州年号とすることにはまだ慎重であるべき。
(2)九州年号であったとしても、その年代には諸説(注③)あり、暦年とのリンクが確定できていない。

 ところが1992年頃には、大化を七世紀末頃に実在した九州年号とする立場に古田先生は立たれ、「大化改新」の共同研究へと進まれました。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
 井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
佐伯有清「八世紀の日本における禁書と叛乱」『日本歴史』84号、昭和30年(1955)。
 井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
 岸俊男「造籍と大化改新詔」『日本書紀研究』第1冊、塙書房、1964年。
 井上光貞「伊場と木簡」『古代史研究の世界』吉川弘文館、昭和50年(1975)。
 鎌田元一「評の成立と国造」『日本史研究』176号、1977年4月。
②宇治橋断碑の現存部分には大化年号は見えないが、後代史料(『帝王編年記』)によれば欠失部分に「大化二年丙午之歳」(646年)とあり、『日本書紀』孝徳紀の大化と干支が一致している。
③九州年号史料には、大化について主に次のタイプがある。
  「丸山モデル」 686~691年 ※丸山晋司氏が作成。
 『二中歴』年代歴 695~700年
 『皇代記附年代記』698~700年


第2555話 2021/09/04

古田先生との「大化改新」研究の思い出(1)

 本年八月、わたしは66歳を迎えました。古田門下に入って、35年になります。その当時、古田先生は東京におられ、昭和薬科大学で教鞭をとっておられましたので、京都にいるわたしが直接お会いできる機会は限られていました。そのようなとき、古田先生は東京で「大化改新」共同研究会を立ち上げられ、関東の研究者や支持者と共に文京区民センターで毎月のように「大化改新」研究を行われました。先生が66歳(1992年)の頃のことでした。
 関西のわたしたち(市民の古代研究会)へも、共同研究会の録音テープと先生からの資料や発表者のレジュメが送られてきましたので、わたしは外部からその様子をうかがうことができました。有り難いご配慮でした。
 この30年前の共同研究会のことを詳しく知る人たちも少なくなり、その後に古田史学を知った方々が古田学派内で増えました。そこで、わたしの記憶がまだ確かなうちに、当時の「大化改新」研究の様子や、古田先生のお考え、その後の古田学派内での研究動向などを「洛中洛外日記」に書き留めておこうと思います。わたしの記憶違いなどがあれば、是非ご指摘ください。(つづく)


第2554話 2021/09/03

弥生時代の「十進法」の痕跡

 昨日、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、新聞報道によると、須玖岡本遺跡から出土した弥生時代の権(分銅)に関する展示が「奴国の丘歴史資料館」のサイト(注①)で見られるとのこと。本来は同館の企画展だったのが、コロナ禍で中止となったのでネット上での公開となったそうです。
 新聞報道(注②)によれば、「弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初」で、「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」とあります。物的証拠(出土事実)を重視する考古学的にはその通りなのかもしれませんが、文献史学では弥生時代の「十進法」使用は当然のことと思われます。
 たとえば『三国志』倭人伝には倭国(壹與。三世紀)からの献上品として、「男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」(注③)と記載されており、「三十人」「二十匹」は倭国での十進法使用を前提とした数と考えざるを得ません。
 古田先生が紹介された室見川の銘板(注④)にも「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」とあり、「延光四年五」とは後漢の年号「延光四年(125年)」の「五月」のことですから、十進法による中国の年号や暦法を二世紀の倭人は知っていて、この銘板に刻字したわけです。
 以上のような史料根拠により、文献史学では弥生時代の倭国では「十進法」が使用されていたと考えざるを得ないのです。

(注)
①「発見!!弥生時代の権」オンライン展示室
https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002191/1009102.html
②毎日新聞web版 2021/9/2。本稿末に転載、
③「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝
④古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

【毎日新聞web版 2021/9/2】
弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4.15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。


第2552話 2021/08/30

11月14日、八王子セミナー2021 発表原稿の作成

―「倭の五王」時代(5世紀)の考古学―

 前話で紹介した久留米大学公開講座用論文の採用決定通知が同大学担当者より届きました。字数制限を大幅に超えていたのですが、まずは一安心です。
 ところが、今度は11月13~14日に開催される〝八王子セミナー2021〟の発表原稿の締め切りが近づいてきました。一応は完成させたのですが、こちらも更に字数が増え、A4で35枚(資料込み)を越えてしまいました。引き続き、字数削減と修正を行います。
 現時点でのテーマと小見出しは次の通りです。

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学

1.「筑後川の一線」の論理
2.古墳時代の最大都市、大阪上町台地
3.須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
4.九州最大の西都原古墳群(日向国)
5.考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)
6.西都原古墳群の事実と解釈
7.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」
8.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」
9.倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群
10.「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳
11.古田説の変遷とその論理構造
(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。
(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和60年(1985)。
(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。

【資料Ⅰ】
古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年
一、玉垂命と九州王朝の都
二、高良玉垂命と七支刀
三、高良玉垂命の末喬
四、多利思北孤の都
〈追記〉『九躰皇子』異論
《高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)》
高良玉垂命(初代)――┬―斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
          ├――朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
          ├――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
          ├――渕志命(ふちし)
          ├――渓上命(たにがみ)
          ├――那男美命(なをみ)
          ├――坂本命(さかもと)
          ├――安志奇命(あしき)
          └――安楽應寳秘命(あらをほひめ)

【資料Ⅱ】
古賀達也「大宰府政庁「倭の五王」王都説の検証」『多元』165号、2021年9月。
一、九州大学「坂田測定」の検証
二、「坂田測定」サンプルの試料性格
三、水城堤防出土サンプルの由来
四、水城出土物の放射性炭素年代測定値
五、「水城出土杭」、もう一つの可能性
六、内倉さんの「太宰府・筑後」王都説

【資料Ⅲ】
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
一、前畑遺跡土塁の炭片の年代
二、前畑遺跡土塁に地震の痕跡
三、「羅城」「関」「遮断城」?
四、井上信正さんの問題提起
五、木樋による水城の造営年代
六、敷粗朶による水城の造営年代
七、敷粗朶の出土状況
八、敷粗朶のサンプリング条件
九、おわりに


第2551話 2021/08/28

10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ

古代戸籍に記された超・長寿の謎 — 古今東西の超高齢者

 この数日間、10月3日の久留米大学公開講座向けレジュメの作成に追われていました。本日、ようやく書き上げました。テーマと要約は次の通りです。

「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」

1.現代日本の長寿社会
 人類史上初の長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年)に突入した日本において、平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではない。ところが、東洋と西洋の古典には80歳を越える長寿者や100歳を越える超長寿者は少なくない。

2.古代ギリシアの超長寿記事
 例えば、古代ギリシア(紀元前四~五世紀)の哲学者の寿命について、次の記録がある。
【ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』からのギリシア哲学者死亡年齢の抜粋】(以下抜粋)
 アテノドロス(82歳) カルネアデス(85歳) クレアンテス(80歳 B・E・リチャードソンによれば99歳) デモクリトス(100か109歳) ディオゲネス(90歳) エピカルモス(90歳) ゴルギアス(100、105もしくは109歳) イソクラテス(98歳) ミュソン(97歳) プラトン(81歳) ピューロン(90歳) ピュタゴラス(80か90歳) テレス(78か90歳) テオフプラストス(85か100歳以上) ティモン(90歳) ゼノン(98歳)
 ジョルジュ・ミノワは「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』)と説明している。

3.古代ローマの超長寿記事
 ローマ帝政初期のセネカ(前4年頃~後65年)の『人生の短さについて』に次の年齢記事が見える。
 「沢山の老人のなかの誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい。『あなたはすでに人間の最高の年齢に達しているように見受けられます。あなたには100年目の年が、いやそれ以上の年が迫っています。』」
 セネカよりも100年前の古代ローマのキケロー(前106~前43年)の『老年について』にも次の超高齢記事が見える。
 「かつてガーデースにアルガントーニオスという王がいて、80年間君臨し、120歳まで生きたという」

4.古代エジプトの超長寿記事
 古代エジプトにおける最も著名なファラオの一人、ラメセス二世(在位、前1279~1212年)は67年間在位し、92歳で没したとされる。

5.古代中国(周代)の超長寿記事
 古代中国の堯は118歳、舜は100歳で没したと『史記』に記されている。周を建国した人々(紀元前12世紀頃)や穆(ぼく)王の寿命も次のように伝えられている。
○初代武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
○武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
○武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
○武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
○五代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳没(『史記』)。

6.古代インド(釈迦)の超長寿記事
 『長阿含経』に、人の寿命は「今では百歳以下になった」という仏陀の言葉が記されている。
 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」(『長阿含経』巻第一)
 釈迦の没年齢は80歳と伝えられている。弟子には120歳の須跋がいた。
 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧(きぐ)にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四)

7.古代日本(弥生時代)の超長寿記事
 古代日本列島において、倭人は一年を二つに分けて二年とする暦法、即ち「二倍年暦」を使用していたことが、古田武彦氏により明らかにされた(『「邪馬台国」はなかった)。それは『三国志』倭人伝と魏略の記述から導き出されたものだ。
 「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(倭人伝)
 「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計りて年紀となす」(魏略)
 二倍年暦の影響は古代戸籍(『大宝二年籍』702年)にも及んでおり、二倍年暦で自らの年齢を計算していた人々が二倍年齢で戸籍登録した痕跡が遺っている。

8.二倍年暦で激変する世界の古代史編年
 古代社会においては、人の年齢を一年間に二歳と計算する二倍年暦(二倍年齢)の時代があったことがわかる。この二倍年暦という概念が承認されると、世界の古代文明の年代が地滑り的に新しくなる。エジプト文明、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、そしてわが国の古代史においてもそれは避けられない。