第2926話 2023/01/24

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2)

藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が興味深い研究を発表しています(注②)。その論稿中の指摘を要約し紹介します。

(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。

(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。

(3) 七曜紋も粒が大きい。

(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。

(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。

(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。

(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。

この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。阿部さんは富夲銭を九州王朝の貨幣としていますから、藤原宮は九州王朝の天子のために造営されたとする仮説(西村秀己説、注④)からすると、古いタイプの富夲銭を代々秘蔵してきた王権は九州王朝となるのかもしれません。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
④西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから唱えてきた仮説。

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