古賀達也一覧

第2261話 2020/10/14

古田武彦先生の遺訓(5)

二倍年齢の痕跡、周代の百歳と漢代の五十歳

 わたしは周代は二倍年暦(二倍年齢)で漢代は一倍年暦と考えていますが、そのように考えた理由の一つは、当時の人々の寿命についての一般的認識に二倍の差があることが諸史料に見えることです。これまで発表した資料も含めて、あらためて列記しておきます。

【周代史料の寿命認識記事】
①「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)
②「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
③「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(『荘子』盗跖篇第二十九)
④「召忽(しょうこつ)曰く『百歳の後、わが君、世を卜(さ)る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺(きゅう)を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり。いわんやわれに斉国の政を与うるをや。君命をうけて改めず、立つるところを奉じて済おとさざるは、これわが義なり』。」(『管子』大匡編)
⑤「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(『列子』「周穆王第三」第八章)
⑥「林類(りんるい)年且(まさ)に百歳ならんとす。」(『列子』「天瑞第一」第八章)
⑦「穆王幾(あ)に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮(きわ)むるも、猶(なほ)百年にして乃ち徂(ゆ)けり。世以て登假(とうか)と為す。」(『列子』「周穆王第三」第一章)
⑧「太形(行)・王屋(おうおく)の二山は、方七百里、高さ萬仞(じん)。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且(まさ)に九十ならんとす。」(『列子』「湯問第五」第二章)
⑨「人生れて日月を見ざる有り、襁褓(きょうほ)を免れざる者あり。吾既に已(すで)に行年九十なり。是れ三楽なり。」(『列子』「天瑞第一」第七章)
⑩「百年にして死し、夭せず病まず。」(『列子』「湯問第五」第五章)
⑪「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。設(も)し一有りとするも、孩抱(がいほう)より以て昏老(こんろう)に逮(およ)ぶまで、幾(ほと)んど其の半(なかば)に居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
⑫「然(しか)り而(しこう)して萬物は齊(ひとし)く生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴くして齊しく賤(いや)し。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(『列子』「楊朱第七」第三章)
⑬「百年も猶(なほ)其の多きを厭(いと)ふ。況(いわ)んや久しく生くることの苦しきをや、と。」(『列子』「楊朱第七」第十章)

【漢代史料の寿命認識記事】
⑭「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』「上古天真論第一」)
⑮「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(『論衡』「命義第六」)
 ※「随」の説明として、「亦、三性有り、正有り、随有り、遭有り。正は五常の性を稟くるものなり。随は父母の性に随(したが)ふものなり、遭は悪物の象に遭得するもの故なり。」(『論衡』「命義第六」)とあり、「随命」とは「父母の性に随」った場合の寿命である。すなわち、前漢代当時の一般的な人(父母)の寿命が五十歳であることを示している(注①)。
⑯「人生は百歳に満たず、常に懐に千歳を憂う」(『楽府詩集』「西門行」)

 以上のように、人の寿命について周代史料では「百歳」、漢代史料では「五十歳」を一般的な「高齢」あるいは「限界」と見なしています。この二倍の寿命差こそ、周代に二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたとする史料根拠です。
 特に、⑭の前漢代の医学書『素問』に見える記事「上古の人は春秋皆百歳」と「今時の人は、年半百(五十歳)」は、前漢代では二倍年齢の概念が失われており、上古(恐らく周代以前)の二倍年齢表記による「百歳」を、前漢代当時の百歳と誤認し、「時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」と疑義を呈したものです。この記事も周代の二倍年暦(二倍年齢)という仮説でなければ理解できません。
 他方、周代の『曾子』の記事①「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり」は、孔子の弟子である曾子の言葉ですから、師の孔子も二倍年齢で『論語』を語ったと考えざるを得ません。そうしたとき、彼の有名な『論語』の一節、「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩のりを踰こえず。」(『論語』「爲政第二」)の年齢も二倍年齢として理解しなければなりませんし、その方がリアルな孔子像が見えてきます(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「『論衡』の二倍年齢 ―寿命百歳説と王充の寿命―」(『東京古田会ニュース』186号、2019年5月)
②詳しくは本ホームページに収録されている次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集(2004年、新泉社)
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第8集(2005年、新泉社)


第2260話 2020/10/13

古田武彦先生の遺訓(4)

プロジェクト「夏商周断代工程」への批判

 2000年に発表された中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究についても紹介した佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を購入して精読しています。
 同書には、岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で紹介されたプロジェクト「夏商周断代工程」の研究成果への学界からの批判として、次の事例が紹介されています。

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文(注①)の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」(注②)を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟110~111頁

 こうした批判と、その批判を認めざるを得なくなったプロジェクト「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、著者の佐藤信弥さんは次のように指摘されました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟111~112頁

 この佐藤さんの指摘はもっともなものです。様々な解釈が可能な金文の記事に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」の方法自体にわたしも疑念を抱いています。この周代の編年・暦法研究はそれこそ後秦代(384~417年。注③)から試みられており、未だに決着がついていません。やはり、二倍年暦という概念(仮説)を含めた年代研究が不可欠であるとわたしは感じています。(つづく)

(注)
①呉鎮烽『商周青銅器銘文曁(および)図像集成』(2012年)で初公開された「㽙簋」(いんき)の銘文冒頭にある「隹(こ)れ十年正月初吉甲寅」。
②『竹書紀年』に見える「天再び鄭に旦す」について、第七代懿王元年に「日の出の際に皆既日食が起こった」とする解釈。この解釈により、プロジェクト「夏商周断代工程」は懿王元年を前899年と「確定」した。
③新城新蔵「春秋長暦」に、後秦の姜笈が「三紀甲子元歴によりて春秋の日食を推算す」(『狩野教授還暦記念支那學論叢』京都弘文堂書房1927年。33頁)とある。


第2258話 2020/10/11

古典の中の「都鳥」(5)

 『伊勢物語』(九段)の舞台、武蔵国の「隅田川」で当地には飛来しない「都鳥」(宮こ鳥)のことが詠われることから(注①)、わたしは謡曲「隅田川」(注②)を思い出しました。それにも隅田川に「都鳥」(鴎のこと)が登場するからです。能楽(謡曲)の中に九州王朝系のものがあることは古田学派の研究者から指摘されてきました(注③)。九州王朝の都があった北部九州に飛来する渡り鳥が「都鳥」と呼ばれている事実は九州王朝説を支持するもので、その「都鳥」が詠われる謡曲「隅田川」や『伊勢物語』(九段)の説話は、本来は九州王朝の「都」から武蔵国「隅田川」へ、人買いにさらわれたわが子を探すために「物狂い」(旅芸人)となった母親が放浪したという故事に由来するのではないかとわたしは考えました。
 たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は謡曲「桜川」の淵源となる説話は北部九州で成立したとされ(注④)、謡曲「桜川」に見える地名(日向、桜の馬場、箱崎)が筑前にあることなどを根拠とされました。謡曲「隅田川」には、地名として武蔵国の「隅田川」の他に、母子の出身地「都」「北白河」、その父方の姓「吉田」が見えます。そこで、これらの地名などが都鳥が飛来する九州王朝の「都」に存在したはずと考え、博多湾岸や太宰府周辺の地名を調査しました。その結果、太宰府天満宮の西側に「白川」という地名が見つかりましたが、そこは都鳥が飛来する沿岸部ではないので、有力候補地とはできませんでした。
 もしやと思い、大分県(豊前国)の京都(みやこ)郡を調査したところ、苅田町の南部に「白川」という地名があり、隣接する行橋市北部に「吉田神社」がありました。「吉田神社」の近くには小波瀬川があり、東流し長峡川と合流、そのすぐ先が海です。この地域であれば都鳥が飛来しそうですが、「吉田神社」の由来など現地調査が必要です。
 現時点ではこれ以上の調査はできていませんが、引き続き、北部九州の地名や「都鳥」伝承の調査を続けます。(おわり)

(注)
①『伊勢物語』(九段)に「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌が記されている。『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見える。
②観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作。
③新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』新泉社、2004年。
④正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。
 謡曲「桜川」(世阿弥作)も、筑紫日向(福岡県糸島の日向)で東国の人買いに連れ去られたわが子「桜児」を、母親が「物狂い」(旅芸人)となって常陸国(茨城県桜川市)まで放浪して再会するという内容で、「隅田川」と似た筋書きです。「隅田川」では、息子は一年前に亡くなっていたという悲劇もので、この点が「桜川」とは異なります。


第2257話 2020/10/10

古田武彦先生の遺訓(3)

中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」の方法

 中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト「夏商周断代工程」を紹介した岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)を読みましたが、その学問の方法には納得できていません。もちろん、プロジェクトの報告書ではなく日本語訳された概要と結論の紹介ですから、断定はできません。
 同書によれば、プロジェクトの方法論とは、複数の古典史料に記された年代や天文現象(日食など)の史料事実の取捨選択、金文(青銅器に記された文字記録)の紀年や記事の解釈、出土物(炭・人骨など)の放射性炭素C14年代測定、古天文学による天体現象の暦年復元、これらの研究結果が一致・近似するケースを求め、古代王朝の王の即位年代を確定していくというものです。このように、測定・観察方法が原理的に異なる複数分野の方法により求められた結論が一致する場合は、その仮説や結論はより真実であるという考え方は、自然科学分野でもクロスチェックとしてよく用いられています。
 こうした方法で「確定」された国家プロジェクト「夏商周断代工程」の結論の一つとして、周の武王が殷(商)を滅ぼした年代「前1046年」の「確定」があります。そして、この「前1046年」などを定点として、周王(武王から幽王まで)の在位年代が次々と「確定」されました。更に、夏王朝の始まりは「ほぼ前2070年」、殷(商)の始まりは「ほぼ前1600年」などと「確定」されたのです。
 1996年5月から開始されたこの国家プロジェクトの「段階的成果」は、国家科学技術部の承認を経て、2000年11月9日に北京で正式に発表されました。2004年1月には国家科学技術部に報告書が提出され、審査を受けて承認されたとあります。ちなみに、同プロジェクトが政府(国務院)の「指導グループ」からの全過程にわたる「指導」に基づいて実施されたことが次のように記されています。

 「幸いなことに《プロジェクト》が始まる段階から政府と社会各界の力強い支持を受けた。国務院の七部門の主要な責任者からなる指導グループは、全過程にわたって支持と指導を怠らず、実施過程で遭遇した重大な問題や困難の解決を力強く支援してくれた。」267頁

 全過程にわたる政府の「指導」により実施され、結果が「承認」される、という「学術研究」はわたしには理解し難いのですが、これもお国柄なのでしょう。
 他方、従来の文献研究では『竹書紀年』(古本)に記された周の武王が殷(商)を滅ぼした年代は前1027年と解読されてきました。プロジェクト「夏商周断代工程」が「確定」した「前1046年」説が〝正しい〟とするのであれば、なぜ『竹書紀年』に〝正しくない〟年代が記されたのかという研究(論証)が文献史学では必要ですが、『夏王朝は幻ではなかった』にはそのことについて触れられていません。(つづく)


第2256話 2020/10/09

古田武彦先生の遺訓(2)

『史記』「三代世表」と「十二諸侯年表」の

              歴代周王調査

 古代中国における「二倍年暦」の研究を深めるために、過日、京都府立図書館で司馬遷の『史記』を読んできました。膨大な史書ですので、今回は「表」(三代世表、十二諸侯年表)に記されている歴代周王や「周本紀」の紀年記事を精査しました。
 「三代世表」には二代周王の成王から共和まで、「十二諸侯年表」には共和から敬王までが表中(最上段)に列記されており、周代を概観するのに便利な「表」です。しかし『史記』本文の周王在位年数と各「紀」や「表」に掲載された歴代周王の在位年数に微妙な違いもありますので、留意が必要です。
 それとは別に、WEB上で『竹書紀年』(古文、今文)を閲覧し、その周王部分をエクセルにコピペし、『史記』『竹書紀年』『東方年表』(注①)を並べて、年代を比較しています。
 また、昨日からは『春秋左氏伝』明治書院版全四巻(鎌田正編著、1971年)を書架から引っ張り出して、約10年ぶりに読み直しています。これらの史書は基本的に一倍年暦で著述されており、その成立時点、あるいは後代での再編集時点は一倍年暦の時代になっていたことがうかがわれます(注②)。それらを二倍年暦(二倍年齢)の視点から史料批判を試みることが今回の調査目的です。(つづく)

(注)
①藤島達朗・野上俊静編『東方年表』(平楽寺書店、1988年版)
②一例を挙げれば、『春秋左氏伝』に見える次の記事は「一倍年齢」表記と考えざるを得ない。
 「晋の公子重耳、(中略)将に齊に適(ゆ)かんとし、季隗(きかい)に謂ひて曰く、我を待つこと廿五年なれ。来たらずして而(しか)る後に嫁(か)せよ、と。對(こた)へて曰く、我は廿五年なり。又是(か)くの如くにして嫁せば、則ち木〔棺〕に就かん。請ふ子(し)を待たん、と。狄(てき)に處(お)ること十二年にして行(さ)る。(後略)」一巻362頁
 これは、晋の公子重耳が妻の季隗に、「25年待ってわたしが迎えに来なかったら他に嫁げ」と言ったが、季隗は「わたしは25歳なので、それだけ待っていたら棺桶にはいることでしょう。あなたの帰りを待たせてほしい」と言い、重耳は12年留まってから齊に去ったという説話である。
 このとき季隗は既に子供を二人産んでおり、この年齢(25歳)からは一倍年暦と考えざるを得ないが、「25年待て」という中途半端な数字であることから、本来の記事は二倍年暦による「50年待て」というものではなかったか。すなわち、『春秋左氏伝』編纂当時の一倍年暦に換算して、二分の一の「25年」に改訂表記されたのではあるまいか。とすれば、その編纂時点では二倍年暦(二倍年齢)の存在がまだ記憶されていた、ということになろう。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2254話 2020/10/07

法隆寺釈迦三尊像「周半丈六佛」の先行説

 このところ研究テーマが続出し、多方面の史料調査を行っていますが、「洛中洛外日記」1875話(2019/04/14)〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)〟で提唱した法隆寺の釈迦三尊像を「周半丈六佛」とする拙論に先行説がありましたので報告します。
 同「洛中洛外日記」で、わたしは次のように述べました。

〝佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。〟

 ところが、昭和25年(1950)の『佛教藝術』7号に掲載されている藪田嘉一郎氏(1905-1976)の「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」に、次の記述がありました。

〝(前略)そして施入の對象となった丈六像こそ彼の釈迦像ではないか。しかし釈迦像は普通概念によると丈六像とは言われぬ小像で所謂「尺寸王身」の等像身である。しかるに、これを「丈六分」の丈六に當てる理由は如何。今この像の實測高は二尺八寸五分を算するという。天平の當用尺では二尺九寸を超え三尺に近い。周半丈六の坐像は三尺という説があり、之に近いから、一に「丈六」の名を以て呼偁したのではあるまいか。〟(96頁)

 わたしの仮説が高名な先学と同じであったことはうれしいのですが、先行説の存在に気づかなかったことを研究者として恥じ入るばかりです。しかも、藪田さんの同論文をわたしは20年ほど前に読んでおり、コピーまでしていました。ですから、この論文の内容を失念していたわけですが、当時は「丈六」問題にまで関心が及ばなかったものと思います。
 恥ずかしながら、このことを報告させていただき、畏敬する先学へのお詫びに代えたいと思います。なお、わたしの法隆寺研究は新たなテーマへ展開しそうであり、先行研究などを精査しているところです。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2252話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(4)

 大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただいたもう一つの古い土器、サン・ペドロ複合遺物(San Pedro complex)の土器については当該論文(注)を入手し、その写真を見ることができました。サン・ペドロ土器はバルディビアの南側約40kmほどのところにあるリアル・アルト(Real Alto)遺跡で発見され、そこはバルディビアと同じ太平洋岸に位置しています。ですから、広い意味では同一領域(エクアドル太平洋岸)と考えてもよいように思います。
 論文によればサン・ペドロ土器の中で最も古いものは、バルディビア土器1層とその下の無土器時代層の間から出土しており、バルディビア土器よりも古いとされています。掲載された写真によれば、その文様は単純な〝線刻〟であり、比較的進化した文様を持つバルディビア土器よりも素朴で古いと見てよいと思われました。
 以上の理解が正しければ、バルディビア土器の誕生が縄文土器の伝播によるとする場合、最初にリアル・アルトへ伝播し、その後に北部のバルディビアへも広がり、あの多彩なバルディビア土器群へ発展したと考えることもできます。あるいは、アマゾン川下流域の土器が南米大陸を横断してリアル・アルトへ伝播したのかもしれません。
 いずれにしても、このような新知見を取り入れて、「縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播した」とするメガーズ説の修正発展、あるいは大胆な見直しを含む再検証が必要な時代を迎えたようです。(おわり)

(注)〝New data on early pottery traditions in South America: the San Pedro complex, Ecuador〟Article in Antiquity June 2019 Yoshitaka Kanomata , Jorge Marcos , Alexander Popov , Boris Lazin & Andrey Yabarev


第2249話 2020/10/04

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)

 古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)の中で異彩を放つテーマがあります。倭人が中南米にあった裸国・黒歯国まで太平洋を渡って交流していたというテーマです。この部分の削除を編集者から要請されたり、ご友人からも掲載に反対されたとのことですが、古田先生はそれを拒否されました。
 その後、倭人の太平洋横断を支持する研究がアメリカでもなされていたことがわかりました。アメリカの考古学者、クリフォード・エバンズ(Clifford Evans)夫妻の研究によれば、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様が日本列島の縄文土器に類似していることから、縄文人が太平洋を渡り、縄文土器の文様が伝播したとされました。この研究を知った古田先生は自説を支持するものとして評価され、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)を刊行されました。
 1995年11月にはエバンス夫人(Betty Jane Meggers 1921-2012、アメリカ合衆国考古学会副会長)が来日され、古田先生を始め各界の専門家との「縄文ミーティング」に出席されました。その内容は古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)に掲載されていますのでご参照下さい。わたしは古田先生のご配慮により、録音係として同ミーティングに同席させていただきました。今でも、通訳の女性の博識を鮮明に記憶しています。メガーズ博士が話される考古学用語や出席者の多方面の専門用語を見事に訳されていました。日本語訳について確認されたのは「〝point〟は〝やじり〟でよろしいですね」の一回だけでした。出席者の各分野の専門用語を淀むことなく英訳され、ミーティング終了時には参加者一同から拍手が贈られたほどです。

【縄文ミーティング出席者】
 1995年11月3日(金) 全日空ホテル(東京都港区赤坂)
ベティー・J・メガーズ博士
大貫良夫(東京大学理学部教授)
鈴木隆雄(老人総合研究所疫学室長)
田島和雄(愛知ガンセンター疫学部長)
古田武彦(昭和薬科大学教授)〈司会〉
 ※所属・肩書きは当時のもの。

 議論が白熱すると、通訳を待たずに全員が英語で話し出すという一幕もあり、主催者の藤沢徹さん(故人・東京古田会々長)から、「この内容は日本語で書籍化しますので、日本語で話して下さい」と注意がなされたほどです。通訳の女性は、皆が英語で話している間は一休みできてホッとされていました。わたしの英語力では専門用語はもとより、メガーズさんの英語はほとんど理解できませんでした。ときおり耳に入る〝migration〟という言葉に、縄文人や土器の「移動」について論議されているのだなあと推測していました。
 ところが、南米でバルディビア土器よりも古い土器の発見が続いていることを最近になって大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただき、従来のメガーズ説について検証が必要であることを知りました。(つづく)


第2248話 2020/10/03

『纒向学研究』第8号を読む(1)

 今日も京都府立図書館へ行き、司馬遷の『史記』などを読んできました。とりわけ、探していた『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)が同館にあることがわかり、掲載されている柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」をコピーしてきました。同論文は、近年、発見が続いている弥生時代の板石硯についての最新かつ網羅的な報告書であり、研究者には必読の論文です。
 同論文では柳田さんや久住猛雄さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、中でもその出土分布は示唆的でした。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上で、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
 ※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
 ※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
 ※九州以外合計62例。

 ただしこれらの発見は、柳田・久住両氏の「行動範囲内」であり、「関心のある研究者が少ない地域は希薄」とのことです。板石硯の出土分布は北部九州、特に福岡県が圧倒的に多く、弥生時代の倭国の文字受容先進地域が福岡県にあったことがわかります。そのことは魏志倭人伝に記された邪馬壹国の所在地が福岡県に存在したことを示しています。(つづく)


第2247話 2020/10/02

古田武彦先生の遺訓「二倍年暦の研究」

 今日は秋晴れのなか、岡崎公園にある京都府立図書館を訪れ、二冊の本を閲覧しました。岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)と佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)です。
 前者は中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト(夏商周断代工程)の概要と結果をまとめたもので、その結論が正しければ古田先生やわたしが提唱してきた『論語』など周代史料の二倍年暦説が否定されます。後者はタイトルにある通り、中国古代史研究の最新状況を紹介したもので、主に「夏商周断代工程」以後の研究について解説されたものです。
 二倍年暦研究において、わたしは古田先生から『論語』の語彙悉皆調査を委託されましたが、その当時は仕事が多忙で果たせませんでした(注)。本年八月、わたしは四五年間勤務した化学会社を定年退職し、ようやく古田先生の遺訓を実現できる研究環境を得ました。
 『論語』はもとより、『春秋』『竹書紀年』の本格的な史料批判をこれから試みます。その手始めとして、この二冊を読みました。そこからは、わたしが想像していた通り、二倍年暦や「二倍年齢」という概念を持たない現代中国の研究者たちの限界と混乱の様子が見えてきました。(つづく)

(注)
 平成二二年(二〇一〇)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。
 「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」『古田武彦が語る多元史観』六六~六七頁(ミネルヴァ書房、二〇一四年)