古賀達也一覧

第2245話 2020/09/28

古典の中の「都鳥」(4)

 チドリ目ミヤコドリ科の都鳥(渡り鳥)は、古代に於いて近畿天皇家の都がおかれた地には飛来していませんし、『伊勢物語』(九段)の主人公とされる在原業平(825~880年)の時代の平安京にはユリカモメもいなかったとされています。ですから、『伊勢物語』(九段)の舞台とされる武蔵国の「隅田川」でユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする次の歌が成立することは困難です。

 「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」『伊勢物語』(九段)
 ※『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見えます。

 そこでわたしが着目したのが「隅田川」という説話の舞台です。というのも、能楽に「隅田川」という演目があり、そこにも「都鳥」が登場するからです。
 観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作とされる「隅田川」は、都の婦人が人買いにさらわれた息子を探して武蔵国の隅田川まで訪れ、そこの渡し守との応答の中で「都鳥」が登場し、在原業平の「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥」の歌を引用するというものです。その概要については、本稿末に転載したウィキペディアの解説をご参照下さい。
 この「隅田川」の時代の都は平安京ですが、やはり京都には飛来しない「都鳥」(ミヤコドリ科)を、同じく「都鳥」がいない隅田川で、「鴎」(ユリカモメか)を指して歌うという不自然さがあります。そのとき、わたしが思い出したのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」(注①)です。(つづく)

(注)
①正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。

【隅田川】
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『隅田川』(すみだがわ)は能楽作品の一つである。観世元雅作。
 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。
 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。

 シテ:狂女、梅若丸の母
 子方:梅若丸の霊
 ワキ:隅田川の渡し守
 ワキヅレ:京都から来た旅の男

 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
 渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
 次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
 狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
 対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。
 それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。


第2236話 2020/08/20

明治天皇の即位の宣命と「不改常典」

 先日の「古田史学の会」関西例会では『続日本紀』元明天皇の即位の宣命に初めて見える「不改常典」について研究発表しました。その要旨は、天智の近江朝が九州王朝からその権威を引き継いだ宣言こそ「不改常典」の内実ではないかとするものでした。そしてそれは「禅譲」に近いものではないかと推定しました。
 しかし、『日本書紀』は九州王朝の存在や、天智がその権威を継承したことを隠していますし、宣命で述べられた天智天皇が定めた「不改常典」という言葉さえも掲載していません。ですから、『日本書紀』成立後(720)の聖武天皇や孝謙天皇らの即位宣命にも「不改常典」のことが記されてはいるものの、初代の神武天皇を近畿天皇家の権威の淵源とする『日本書紀』の大義名分と、天智天皇が定めた権威の淵源「不改常典」との関係が不明瞭です。
 ところが、この天智天皇が定めた法(「不改常典」法)と『日本書紀』の大義名分の両方含む即位の宣命があります。それは慶應四年(1868)八月二十七日に発布された明治天皇の即位の宣命です(翌九月に「明治」に改元)。当該部分を紹介します。

 「掛(かけまくも)畏(かしこ)き近江の大津の宮に、御宇(あめのした)しろしめし、天皇の初め賜ひ定め賜へる法の随(まま)に、仕え奉(まつる)と仰せ賜ひ授け賜ひ」
 「橿原の宮に御宇しろしめし、天皇の御(おん)創(はじ)めたまへる業(わざ)の古(いにしへに)基(もとづ)き、大御世を弥(いや)益々に、吉(よ)き御代と固(かため)成(な)し賜はむ」

 このように、近世においても天智天皇と神武天皇の二人が皇室の歴史的権威の淵源とされていることは興味深いことと思います。

【明治天皇の即位の宣命 原文】
 「現神止大洲国所知須、天皇我詔旨良万止宣布勅命乎、親王諸臣百官人等、天下公民衆聞食止宣布。掛畏伎平安宮爾、御宇須倭根子天皇我、宜布此天日嗣高座乃業乎、掛畏伎近江乃大津乃宮爾、御宇志、天皇乃初賜比定賜倍留法随爾、仕奉止仰賜比授賜比、恐美受賜倍留御代々乃御定有可上爾、方今天下乃大政古爾復志賜比弖、橿原乃宮爾御宇志、天皇御創業乃古爾基伎、大御世袁弥益々爾、吉伎御代止固成賜波牟、其大御位爾即世賜比弖、進毛退毛不知爾恐美坐佐久止宣布大命乎、衆聞食止宣布。(後略)」


第2235話 2020/08/19

王朝統合と交替の古代史論争

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは久しぶりの発表です。会員の皆さんの発表を優先するために、なるべく例会での発表は遠慮していたのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からの要請もあり、「洛中洛外日記」で連載した文武・元明「即位の宣命」の史料批判について発表させて頂きました。厳しい質問や批判もよせられましたが、新たな発見もあり、有意義でした。
 今回の例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの、大化二年(646)改新詔の舞台は難波宮で、九州王朝による七世紀中頃のものとする研究発表は説得力があり勉強になりました。同改新詔は九州年号の大化二年(696)に出されたものが、『日本書紀』編纂時に「大化」年号ごと50年遡らされたとわたしは考えてきましたが、今回の服部さんのご指摘により、それほど単純なものではなく、詳細な見直しが必要であることに気づきました。自説の誤りや不十分さに気づくことができるのも、関西例会の醍醐味で、ありがたいことです。
 正木さんの発表は、謡曲・能などの古典芸能に強い正木さんならではのものでした。能楽「老松」が九州王朝の近江遷都の傍証になるというもので、会報での発表が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①欽明紀の真実(茨木市・満田正賢)
②女王国論(姫路市・野田)
③古くて新しい今城塚古墳(大山崎町・大原重雄)
④能楽「老松」と九州王朝の近江遷都(川西市・正木 裕)
⑤改新詔は九州王朝によって難波宮で宣勅された(八尾市・服部静尚)
⑥王朝統合と交替の新古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―(京都市・古賀達也)
⑦博徳書内の「驛」記事について(東大阪市・萩野秀公)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 10/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「多利思北孤の時代② 仏教を梃とした全国統治」 講師:正木 裕さん
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール
 10/03(土) 14:00~16:00 ①「古代瓦と飛鳥寺院」 ②「法隆寺の釈迦三尊像と薬師像」 講師:服部静尚さん
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②「条坊都市はなぜ造られたのか」 講師:服部静尚さん

◆「泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 10/13(火) 14:00~16:00 「疫病と古代の戦争 ―『聖徳太子』は天然痘で薨去した」 講師:正木 裕さん
 11/10(火) 14:00~16:00 「なぜ蛇は神なのか」 講師:大原重雄さん
             「法隆寺薬師像は実は釈迦像だった」 講師:服部静尚さん
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター
 10/06(火) 18:30~20:00 「疫病と古代の戦争 ―『聖徳太子』は天然痘で薨去した」 講師:正木 裕さん
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2234話 2020/09/18

古典の中の「都鳥」(3)

『万葉集』巻第二十(4462)の大伴家持の歌と並んで、『伊勢物語』(九段)に見える「都鳥」(宮こ鳥)も有名です。

 「さるおりしも、白き鳥の嘴(はし)と脚(あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きなる、水のへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、『これなん宮こ鳥』といふを聞きて、
 名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」『伊勢物語』九段

 ここに見える「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌は『古今和歌集』(411)にも収録されています。この歌の作者や『伊勢物語』の主人公は在原業平(825~880年)とされていますが、「もともと伝承されていた土俗の歌」とする説もあります(注①)。また、この「都鳥」(宮こ鳥)は「ユリカモメのこと。伊勢物語の在原業平の歌にあるように、頭が白く、背中が銀白色で、嘴と脚とが赤く、尾の純白な鳥。」と解説(注②)され、チドリ目ミヤコドリ科の都鳥ではなく、ユリカモメとするのが通説のようです。
 この『伊勢物語』の説話や歌を多元史観・九州王朝説の視点から考察すると、ユリカモメのことを隅田川(現・東京)の渡守が「都鳥」(宮こ鳥)と呼ぶことの説明が困難です。この時代にユリカモメが飛来する他地域で、ユリカモメがミヤコドリと呼ばれた例は知られていませんし、多元史観によれば古代において都がおかれていたのは、短期間の都を除けば、九州王朝(倭国)時代の筑前と難波(前期難波宮)、大和朝廷時代の大和と難波(後期難波宮)、そして京都(平安京)です。この中でミヤコドリ科の都鳥が飛来するのは北部九州の筑前しか該当しません。その上、在原業平(825~880年)の時代の京都(平安京)にはこのユリカモメも飛来していないと考えられていますし、『伊勢物語』に「京には見えぬ鳥なれば」とあるように、ユリカモメが京都に飛来していないことは明白です。ですから、ユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする『伊勢物語』や『古今和歌集』の説話は不審とせざるを得ません。
 そこでわたしが注目したのが『伊勢物語』(九段)「都鳥」(宮こ鳥)の舞台が「隅田川」であることでした。(つづく)

(注)
①秋山 虔「伊勢物語の世界形成」『竹取物語 伊勢物語』(新日本古典文学大系、岩波書店)
②日本古典文学大系(岩波書店)『万葉集』巻第二十(4462)の頭注による。


第2233話 2020/09/17

古典の中の「都鳥」(2)

 「船競ふ 堀江の川の水際に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」

 『万葉集』巻第二十(4462)に見えるこの歌は大伴宿禰家持の作と記されています。この歌の内容からは次のことが推定できます。

①大伴家持(718~785年)の時代に都鳥と呼ばれる鳥がいた。
②この都鳥は水鳥である。
③大伴家持は都鳥やその鳴き声を知っている。
④この歌は「堀江の川」付近で詠まれた。
⑤「都鳥かも」とあることから、このとき都鳥を見たわけではなさそうである。
⑥都鳥が堀江の水際に「来(き)居(い)つつ鳴くは」とあることから、他の地から来た鳥と思われる。

 日本古典文学大系『万葉集』(岩波書店)の同歌頭注には、この都鳥について次の様な説明があります。

 「都鳥―ユリカモメのこと。伊勢物語の在原業平の歌にあるように、頭が白く、背中が銀白色で、嘴と脚とが赤く、尾の純白な鳥。入り江に来て小魚などを取る。イリエカモメが転じてユリカモメになったのだろうという。別に千鳥科のミヤコドリとする説もある。歌が作られた陽暦四月二十日頃には、ユリカモメは北に帰っていて、水際に降りて鳴くのは千鳥科のミヤコドリであろうという。」

 現在では、古典に見える「都鳥」をユリカモメのこととする説が有力ですが、この解説では千鳥科のミヤコドリかもしれないともあり、どちらとも決めがたいようです。いずれにしても、都鳥の候補としてはこの2種類の鳥しかないことがわかります。それではどちらでしょうか。
 その「都鳥」という名前から、日本各地に生息する鳥ではなく、主に「都」でしか見かけることがない鳥であると思われます。そうでなければ、「都鳥」というような名前が付けられるとは考えにくいからです。そうすると、渡り鳥として博多湾など北部九州にしか飛来しないミヤコドリ科の都鳥しかありません。近年は東京でも見かけるとする記述も見えますが、家持の時代の都は奈良県であり、関東(東京)に都はありません。
 わたしたち古田学派にとっては九州王朝の都が博多湾岸や筑前にあったことは自明ですから、そこに飛来するミヤコドリ科の都鳥が「都鳥」と命名されるのは極めて自然です。ですからも家持の歌の都鳥はミヤコドリ科の都鳥のことと考えざるを得ません。この都鳥であれば、先の①②⑥の考察とも一致します。
 次いで、③「大伴家持は都鳥やその鳴き声を知っている」とする考察はどうでしょうか。わたしは家持が都鳥を知っていたことはまず間違いないと思います。なぜなら、家持は天平宝字八年(764年)に薩摩守へ左遷され、神護景雲元年(767年)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めているからです。大宰府(筑前)に赴任時に、この嘴の色や形状が印象的な都鳥の飛来を博多湾岸などで家持は見ており、その鳴き声も聞いたことがあるはずです。少なくともその可能性を否定できません。
 九州から近畿に戻った家持には、難波の堀江(通説による)で聞いた鳥の鳴き声が都鳥に似ていたのではないでしょうか。そのため、「都鳥かも」と詠ったものと思われます。もしかすると、家持は九州王朝や難波に九州王朝の複都の一つ「前期難波宮」があったことも知っており、滅亡した九州王朝・難波宮の故地で聞いた鳥の鳴き声を「都鳥かも」と詠み、その歴史的存在を暗喩したのではないでしょうか。そうであれば、この歌は筑前と難波、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の時代という、場所と時間を俯瞰した歌といえるかもしれません。
 なお、大伴家持や父の旅人ら大伴一族と九州王朝との関係についての拙論「『君が代』『海ゆかば』、そして九州王朝」(『「君が代」、うずまく源流』古田先生らとの共著、新泉社。1991年)を30年前に発表したことがあり、その当時を懐かしく思い出しました。(つづく)


第2232話 2020/09/16

万葉の色と染め・黄櫨染御袍の説明

 昨日は京都駅前のキャンパスプラザ京都で講演しました(「市民古代史の会・京都」主催)。テーマは古代の染色技術の説明と、その技術が現代社会の先端技術にも応用されていることを紹介しました(演題:よみがえる万葉の色と染め)。
 講演の最後には、京都初公開となる九州王朝王家の系図「稲員家系図」の一部をお見せしました。
 久しぶりの講演のためか、今までになく疲れましたが、おかげさまで好評のようでした。仕事をリタイアしましたので、これからは積極的に各地での講演活動を行いたいと思います。
 なお、「市民古代史の会・京都」主催の10月講演会は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が「能楽の中の古代史」を講演されます〔10/20(火) 18:30~20:00〕。皆様のご参加をお待ちしています。


第2231話 2020/09/15

古典の中の「都鳥」(1)

 冬になるとシベリア方面から博多湾(北部九州)に飛来する都鳥(みやこどり)と呼ばれる鳥について、「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08)〝九州王朝の都鳥〟で紹介し、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったと解説しました。すなわち、このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説でなければ都鳥という名称の説明がつかず、九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥です。
 今回は、古典に見える「都鳥」を紹介し、都鳥がどのように認識されていたのかについて考察します。管見では次の『万葉集』と『伊勢物語』に見える「都鳥」が著名です。(つづく)

 「船競ふ 堀江の川の水際に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十 4162 (大伴宿禰家持の作)

 「さるおりしも、白き鳥の嘴(はし)と脚(あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きなる、水のへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、『これなん宮こ鳥』といふを聞きて、
 名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」『伊勢物語』九段 (この歌は『古今和歌集』にも収録されている。411)


第2230話 2020/09/10

南極越冬隊員、北村泰一先生のこと

 昨日、関西テレビで放送された「世界の何だコレ!?ミステリーSP」(19:00~20:54)を視て感動した妻が「南極のタローとジローの他にリキというリーダー犬が生存していたらしい」と番組の内容を事細かに報告するので、「そのときの越冬隊の方に知り合いがいるよ」と言うと、「北村泰一さんというカラフト犬担当のご老人がその番組に出ていた」とのこと。「僕はその北村先生と知り合いで、お会いしたこともある」と自慢げに説明すると、妻は驚いていました。わたしは、北村先生がご健在であることを知り、嬉しくなり、昔のことを思い出しました。
 北村泰一先生(九州大学名誉教授)は古田先生の大ファンで古田史学の熱心な支持者です。福岡市で開催した古田先生の講演会にもよくお見えになっておられました。そうした御縁もあって、『新・古代学』第二集(新泉社、1996年)の特集「地球物理学と古代史と」「タクラマカン砂漠の幻の海 ―変わるシルクロード」をご寄稿いただきました。同書には古田先生との対談「地球物理学と古代史」も掲載されています。また、「古田史学の会」にご寄付をいただいたこともありました。
 北村先生は京都市のご出身で、鴨沂高校から京都大学へ進まれました。京大山岳部に所属されていたこともあり、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として参加されました。最年少隊員(25歳)だったそうです。第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。
 なお、今回の番組は『その犬の名を誰も知らない』という本を基に企画されたものです。著者の嘉悦洋さんは、西日本新聞の記者を務められた方で、2018年、まったくの偶然から南極観測隊第一次越冬隊の犬係だった北村先生が福岡市でご健在であることを知り、インタビューに訪れ、同書を上梓されたとのことです。

書名 その犬の名を誰も知らない
監修・編集・著者 嘉悦洋著、北村泰一監修
出版社 小学館集英社プロダクション
出版年月日 2020年2月20日
定価 本体1500円+税


第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)


第2226話 2020/09/06

八王子セミナー用論文

「古代戸籍に見える二倍年暦の影響」が完成

 本年11月14日(土)・15日(日)に開催される「古田武彦記念 古代史セミナー2020」で、二倍年暦をテーマに研究発表させていただくのですが、それに先立ち当該論文の提出を要請されています。本日、ようやくその論文「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―『延喜二年籍』『大宝二年籍』の史料批判―」が完成しました。A4版22頁に及ぶ長い論文になりましたが、短期日に書き上げることができたのも、「定年退職」で時間がとれるようになったおかげです。
 同論文は、大宝二年籍「御野国戸籍」(702年)に見える高齢者の多さと、戸主と嫡子の大きな年齢差(40歳以上)を、「庚午年籍」造籍時(670年)での「二倍年齢登録」によるとする仮説を提起したものです。発表時間は30分ですから、これからは発表用パワーポイントを作成し、わかりやすい発表ができるよう準備します。
 なお、今回のセミナーはコロナ対策として現地参加とは別に、インターネット(zoom使用)によるオンライン参加も可能となりました。遠方の方には便利だと思います。オンライン参加費は一般6,000円、学生1,000円(資料代、郵送代として)とのことで、詳細は主催者「大学セミナーハウス」のHPをご参照下さい。わたしは、「古田史学の会」が共催していることもあり、現地参加する予定です。多くの皆様とお会いできることを楽しみにしています。


第2224話 2020/09/04

文武天皇「即位の宣命」の考察(8)

 文武天皇「即位の宣命」には、『続日本紀』に収録された他の天皇の即位の宣命と異なる点があります。その一つは、この宣命が出されたのが即位(文武元年〔697年〕八月一日)の16日後(同、八月十七日)という点です。他のほとんどの天皇は即位したその日に「即位の宣命」を出しています。持統天皇の譲位による即位ですから、それほど長文でもない「即位の宣命」を作成する期間は充分あったはずなのに、このタイムラグは不審です。
 わたしの想像では、それまでの近畿天皇家内部のトップ交代であれば「内部通達」だけでよかったのでしょうが、四年後(701年)の王朝交替を前提としたトップ交替ですから、近畿天皇家以外の諸豪族への説明も必要と判断し、その結果、16日後の宣命になったのではないでしょうか。
 ところが、遅れて出された「即位の宣命」からは、王朝交替の正統性や引き継いだ権威の淵源についての直接的な表現での説明はありません。そこで『続日本紀』中の各天皇の「即位の宣命」を改めて精査したところ、慶雲四年(707年)七月十七日に出された元明天皇の「即位の宣命」にそのことが示されていました。宣命冒頭の当該部分を転載します。(つづく)

【元明天皇「即位の宣命」】
(『続日本紀』巻第四、元明天皇)

 慶雲四年秋七月壬子(十七日)、天皇大極殿に即位す。詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇が詔旨(おほみこと)らまと勅(の)りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。

 関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕(つか)へ奉りつらくと詔(の)りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。(以下、略)