古賀達也一覧

第2155話 2020/05/20

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(5)

 

 話題を「南至邪馬壹国女王之所都」の「都」の字義に戻します。

 わたしの仮説が成立するのかどうかを古田先生と検討したときのことを紹介します。「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案について、最大の問題となったのが、「女王之所」をどう訓むのかということでした。

 たとえば、「之」の字義に「行く」という意味もあり、そのような他の字義での訓みや理解について古田先生と検討を続けました。しかし、結論としては妥当な訓みが成立しそうもなく、わたしの仮説はペンディングとなり、とりあえずは通説の訓み「南、至る邪馬壹国。女王之都する所」でよいということになりました。

 今回、わたしは久しぶりに『三国志』(中華書局本ですが)を全巻読破し、「都」の用例調査を改めて行い、特に「都」の「合計する」「全て」という使用例を探しました。(つづく)


第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2152話 2020/05/13

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(3)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」には、朝鮮国慶尚道から日本国の王城(京都)までの里程が次のように記されています。

 「我が慶尚道東莱県の冨山浦より対馬島の都伊沙只に至るまで四十八里。○都伊沙只より船越浦に至るまで十九里。○船越より一岐島風本浦に至るまで四十八里。○風本より筑前州の博多に至るまで三十八里。○博多より長門州の赤間関に至るまで三十里。《風本より直ちに赤間関を指せば則ち四十六里》○赤間より竈戸関に至るまで三十五里。○竈戸より尾路関に至るまで三十五里。○尾路より兵庫関に至るまで七十里。《並に水路》○兵庫より王城に至るまで十八里。《陸路》○都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。《我が国の里数を以て計らば則ち水路三千二百三十里、陸路百八十里なり。》」(120頁)※《》内は二行細注

 このように、倭人伝の行程記事と類似した書き方で里程を綴り、最後に水路と陸路の合計里数を「都計(すべて)」として記していることから、倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」という記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と理解した上で、『海東諸国紀』の読者が誤解しようのないように、「計」という字も加えて、「都計」という明確な表記にしたのではないでしょうか。
 この『海東諸国紀』の「都計、水路三百二十三里。陸路十八里なり。」を知り、わたしは国も時代も異なる知己を得たような気がしたものです。なお、同書の「琉球国記(ママ)」の里程記事も同様の表記「都計、五百四十三里なり。」を採用しています。(つづく)


第2151話 2020/05/12

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)

 倭人伝に見える「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の記事を「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案ですが、わたしのこの訓みと同じようにとらえた先人がいます。李氏朝鮮の最高の知識人とも評される『海東諸国紀』(1471年成立)の著者、申淑舟(1417-1475)です。
 『海東諸国紀』は「九州年号」史料としても著名で、近畿天皇家の天皇の記録が九州年号(善化~大長。※「善化」は「善記」の誤伝)と共に記されています。従って、申淑舟は九州年号が九州王朝の年号であることや九州王朝の存在そのものを認識していなかったことがわかります。他方、同書は李王朝の公的な史料として編纂されていますから、当時の李王朝による日本国や琉球国に関する情報や認識を推し量る上で貴重な史料でもあります。
 あるとき、わたしが九州年号の調査研究のため『海東諸国紀』(岩波文庫、田中健夫訳注、1991年)を読んでいたところ、朝鮮国慶尚道から日本国の京都までの行程が記された「道路里数」の記事を見て、その文章が『三国志』倭人伝を模倣していることに気づいたのです。(つづく)


第2150話 2020/05/11

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)

 わたしのFACEBOOKの〝ともだち〟のSさんから、『三国志』倭人伝の訓みについてコメントが寄せられました。それは邪馬壹国という国名が記された次の記事についてです。

 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」

 古田説では「南、邪馬壹国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と訓み、通説でも「南、邪馬臺(台)国に至る。女王の都(みやこ)するところ。水行十日陸行一月。」と、国名を原文改定(邪馬壹国→邪馬臺国)するものの、共に「女王の都(みやこ)するところ」と訓まれてきました。この訓みに対して、「都(みやこ)する」と訓むのは異様ではないかとSさんは指摘され、「都(す)べるところ」と訓む仮説を提起されたのです。
 「都」という字には、「合計する」や「統率する・統括する」という意味もあり、その場合は「都(す)べる」と訓むケースがあります(通常、「統べる」の字が使われます)。しかし、「女王の都(す)べる所」と訓んでも、「女王の都(みやこ)する所」と訓んでも意味的に大差は無いようにも思います。いずれの訓み(理解)でも、女王が邪馬壹国に君臨し、そこで「統率・統括する」とするのですから、そこを「都(みやこ)とする」と実態は同じです。
 実はこの記事の「都」をどのように理解すべきかについて、昔、古田先生に私見を述べたことがあります。それは「南至邪馬壹国。女王之所。都水行十日陸行一月」と区切り、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓み、「都」を〝合計して〟の意味に理解するというものです。
 この訓み(理解)に対して、古田先生も一定の理解を示され、通説の「都(みやこ)する」とわたしの仮説「都(す)べて水行十日陸行一月」がよいのか、二人で検討しました。しかし、結論は出ませんでした。そのため、とりあえず通説の訓み「都(みやこ)する」でよいと判断し、今日に至っています。すなわち、「都(す)べて水行十日陸行一月」が通説よりも妥当と他者を納得させられるだけの根拠(『三国志』中での同様の用例)や証明(自説に賛成しない他者を納得させることができる、根拠を明示した明解な説明)が提示できないため、通説に従うことにしたのでした。(つづく)


第2149話 2020/05/10

「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響

 わたしが古代戸籍の研究をしていた三十年ほど昔に集めた先行論文のファイルを整理していたら、横山妙子さん(当時、市民の古代研究会・会員)からのお手紙(1991.12.01付)が出てきました。それには、『市民の古代・九州ニュース』No.18(1991年9月)に掲載された拙稿「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」を読まれた増田修さん(同上)からのご依頼により、古代戸籍に関する論文コピーを進呈すると書かれていました(拙稿は「九州古代史の会」HPに収録されており、閲覧可能)。申し訳ないことに、この論文コピー入手の経緯をわたしはすっかり失念していました。
 その論文とは曾我部靜雄「西涼及び両魏の戸籍と我が古代戸籍との關係 ―附、課役問題の現狀―」(『法制史研究 7』1956年)という古い研究論文です。古代戸籍における中国から日本への影響関係を論じた専門性の高い論文で、いただいた当時(36歳)のわたしの学力では同論文の意義を深く理解できていなかったと思われます。今、読み直してみて、増田さんがわたしに提供された意味(同論文の重要性)がよくわかりました。
 同論文によれば、「大宝二年籍」の西海道戸籍と御野国戸籍には差異があり、御野国戸籍は西涼(五胡十六国時代、5世紀頃)の戸籍に似ており、西海道戸籍はその後の両魏(北魏が東西両魏に分かれた時代、6世紀頃)の戸籍に似ていることを指摘され、大宝二年(702年)当時の唐の戸籍の影響は受けていないと、次のように記されています。

 「我がこれ等の大寶や養老の戸籍を中国のものと比較するに、御野のものは西涼のものに似、筑前や下総のものは両魏のものに類することが直ちに判るのである。唐のものは戸口數の集計が記載されたものは一通もなく、西涼のものと両魏のものとはこれがあり、而もその記載の方法は西涼は御野に似、両魏は筑前や下総に類してゐる。(中略)我が大寶や養老の戸籍の源流は唐には無くて、それ以前の中国の制度にあることを示して居るのである。」(74頁)
 「我が大寶及び養老の戸籍に二つの異った形式が見られるのは、唐以前の中國の編籍制度が唐以前に既に我が國に流入し、我が國では大化以前からそれ等の制度に従って編籍が行はれ、大化改新によって唐制を採用するやうになっても、編籍の形式は従来のままで改正しなかったことを現はしてゐるのであらう。而もその編籍制度の流入は一度だけではなかったことは、西涼式も両魏式も存在することによって窺はれるであらう。西涼式の根源は西晋にある可く、両魏式の根源は北魏にある可く、従って我が古代の戸籍には西晋型と北魏型とがあると謂ひ得るであらう。(中略)従って御野式のものが我が國の最も古い戸籍の様式であり、筑前等の式のものはそれよりも後のものである。」(75~76頁)

 この曾我部靜雄さんの論文は六十年以上も昔のものであり、現在の戸籍研究水準においても有効かどうかは調べなければなりませんが、もし有効であれば、九州王朝時代の庚午年籍(670年)は、より古い西涼様式の影響を受けていた可能性が高く、その西涼の戸籍制度が中国南朝の西晋の制度を淵源としていたとする見解はとても興味深いものです。九州王朝は中国南朝の影響を受けていた時代があり、後に仏教伝来等と共に北魏の影響も受けたと考えてもよいように思われます。これらは九州王朝の造籍開始時期を研究する上でも重要な視点です。
 増田さんからいただいた論文コピーが三十年後の今になって役立つとは、学問の面白さであり、不思議さでもあります。


第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)


第2147話 2020/05/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(15)

 わが国最初の全国的な戸籍とされる庚午年籍(670年)造籍時に存在したとされる、年齢が不詳・不審の人々とはどのような人々でしょうか。南部さんが推定された〝親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明(本人の申告は信用できない)な人々や、よるべき資料がなかった一般農民〟という理解では、わたしには今ひとつ納得できませんでした。
 そもそも初めての造籍であれば、人々が申告した年齢をとりあえず記す他なく、その年齢が正確か否かなどは、見た目と申告年齢がよほど異なっていない限りわからないのではないでしょうか。更に言えば、造籍にあたり戸籍調査を担当した地方役人にすれば、申告年齢をそのまま上級役人に報告しても何も問題とはならないようにも思います。上級役人も自らが一軒一軒戸別訪問して再確認でもしない限り、その報告を信用する以外ないのですから。
 しかし、「大宝二年籍」にはほぼ十歳ごとの特定年齢にピークが存在していますから、やはり何らかの事情があったと考えざるを得ません。そこで先に述べたように、見た目と申告年齢がよほど異なっているケースを想定するのであれば、その理由があるはずです。例えば、庚午年籍造籍(670年)当時の七世紀後半に至っても、古い「二倍年齢」が採用(併用)されており、その結果、自らの年齢申告に「二倍年齢」を用いた人々がある程度いたのではないでしょうか。
 具体的には、実年齢1歳の赤ちゃんを「2歳」、実年齢2歳の乳幼児を「4歳」、実年齢3歳の幼子を「6歳」と、「二倍年齢」で申告されたケースです。さすがに地方役人も、こうしたケースは不審として、それらの年齢不審の人々を全て「1歳」として登録したとすれば、その庚午年籍(670年)を基本として、32年後の「大宝二年籍」造籍時、あるいはそれまでの造籍時にその間の年数を加算することにより、大宝二年(702年)には33歳のピークが出現するわけです。他のピークも同様の理由により発生したとする解釈が可能です。
 今回わたしが示した、「大宝二年籍」中のピーク発生理由を「二倍年齢」の影響とする作業仮説(思いつき)ですが、これが学問的仮説として成立するかどうかを検証するために、「大宝二年籍」に記された人と年齢について全数精査を試みました。(つづく)


第2146話 2020/05/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(14)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、庚午年籍を始めとして庚寅年籍・「持統九年籍」などの造籍時に、十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとする南部昇さんの説は概ね納得できます。しかし、庚午年籍(670年)造籍時になぜ年齢が不詳・不審とされる人々が存在していたのでしょうか。この点について南部さんの次の説明だけでは不十分と思われるのです。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか」(『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 南部さんは、「一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかった」とされますが、「大宝二年籍」にはピーク年齢以外の多くの人々の年齢が記載されており、この事実から「一般農民」は基本的に自らの年齢を把握しており、一部の農民に年齢不詳・不審のケースがあったと理解すべきです。
 さらに指摘されたピークを精査すると、次の疑問点が見えてきます。それは33歳の大ピークの存在です。南部さんの仮説によれば、大宝二年(702)の造籍時に33歳の人は、庚午年籍(670年)造籍時に年齢不詳・不審により、まとめて「一歳」として年齢認定されたということになります。それは当時、乳幼児年齢の人たちであり、母親や養育者が身近にいなければ生きていけない人たちです。そうであれば、その乳幼児の年齢は母親や養育者が知っていたはずであり、造籍を担当した地方役人たちもその申告をそのまま登録すればよいわけですから、年齢不詳・不審によるピークは少なくともこの年齢層には発生しにくいはずなのです。従って、南部さんの仮説だけでは「大宝二年籍」の33歳の大ピーク発生理由をうまく説明できないのではないでしょうか。(つづく)


第2143話 2020/04/28

『多元』No.157のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.157が本日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「『国県制』を考える」と拙稿「前期難波宮出土『干支木簡』の考察」が掲載されていました。
拙稿では、前期難波宮出土の現存最古の干支木簡「戊申年」(648)木簡と二番目に古い芦屋市出土「元壬子年」(652)木簡の上部に空白部分があることを指摘し、本来は九州年号「常色」「白雉」が記されるべき空白部分であり、何らかの理由で木簡に九州年号を記すことが憚られたのではないかとしました。また、「戊」や「年」の字体が九州王朝系金石文などの古い字体と共通していることも指摘しました。
また、『多元』No.156に掲載された拙稿「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」を批判した、Nさんの論稿「読後感〝七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証」〟について」が掲載されていました。その中で、わたしが紹介した古田旧説、近畿天皇家は七世紀前半頃から〝ナンバーツー〟としての「天皇」号を名乗っていた、という説明に対して、次のようなご批判をいただきました。

 〝古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。〟
〝小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じる〟
〝今回同様の手前勝手に論点の整理をして、「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。〟

 このように、わたしの古田旧説の説明に対して、「誤認識」「不正確」「手前勝手」と手厳しく論難されています。
「洛中洛外日記」読者の皆さんに古田旧説を知っていただくよい機会でもありますので、改めて七世紀における近畿天皇家の「天皇」号について、古田先生がどのように認識し、述べておられたのかを具体的にわかりやすく説明します。
「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」でも紹介したのですが、古田先生が七世紀前半において近畿天皇家が「天皇」号を称していたとされた初期の著作が『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏の光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)です。同著で古田先生は、法隆寺薬師仏の光背銘に見える「天皇」を近畿天皇家のこととされ、同仏像を「天平仏」とした福山俊男説を批判され、次のように結論づけられました。

 「西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀前半。これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証しする世紀はない。」(278頁)

 このように、七世紀前半の金石文である法隆寺薬師仏に記された「天皇」とは近畿天皇家のことであると明確に主張されています。すなわち、古田先生が「旧説」時点では、近畿天皇家は七世紀前半から「天皇」を名乗っていた、と認識されていたのは明白です。
さらに具体的な古田先生の文章を紹介しましょう。『失われた九州王朝』(朝日文庫版、1993年)に収録されている「補章 九州王朝の検証」に、次のように古田旧説を説明されています。

 〝このことは逆に、従来「後代の追作」視されてきた、薬師如来座像こそ、本来の「推古仏」だったことを示す。その「推古仏」の中に、「天皇」の称号がくりかえし現れるのである。七世紀前半、近畿天皇家みずから、「天皇」を称したこと、明らかである。(中略)
もちろん、本書(第四章一)の「天皇の称号」でも挙列したように、中国における「天皇」称号使用のあり方は、決して単純ではない。「天子」と同意義の使用法も存在する。しかし、近畿天皇家の場合、決してそのような意義で使用したのではない、むしろ、先の「北涼」の事例のように、「ナンバー2」の座にあること、「天子ではない」ことを示す用法に立つものであった(それはかつて九州王朝がえらんだ「方法」であった)。
この点、あの「白村江の戦」は、いわば「天子(中国)と天子(筑紫)」の決戦であった。そして一方の天子が決定的な敗北を喫した結果、消滅へと向かい、代って「ナンバー2」であった、近畿の「天皇」が「国内ナンバー1」の位置へと昇格するに至った。『旧唐書』で分流(日本国)が本流(倭国)を併呑した、というのがそれである。〟(601-602頁)

 以上の通りです。わたしの古田旧説(七世紀でのナンバー2としての天皇)の説明が、「誤認識」でも「不正確」でも「手前勝手」でもないことを、読者の皆さんにもご理解いただけるものと思います。
わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えています。ですから拙論への批判を歓迎します。


第2138話 2020/04/20

「大宝二年籍」断簡の史料批判(11)

 現存最古の戸籍「大宝二年籍」の調査に先立ち、わたしは先行研究を調べることにしました。しかし、戸籍研究に関する学界の動向を全く知りませんでしたので、何から手を付けてよいのか困っていたところ、鬼室集斯墓碑や「大化五子年」土器などの「九州年号金石文」調査を一緒にしていた安田陽介さん(当時、京都大学院生)から南部昇著『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)という本をいただきました。同書は当時のわたしの学力では歯が立たないハイレベルな内容でした。京都大学の院生はこのレベルの本で勉強しているのかと、最高学府の手強さを肌身に感じたものでした。
 それでもなんとか同書を読み、「大宝二年籍」に関するいくつもの重要な知見を得ることができました。その中の一つ「古代籍帳における女子年齢の異常分布について」(第五編第一章)という論文にわたしは注目しました。同稿冒頭に、「大宝二年籍」における女子年齢の異常分布についての岸俊男氏の指摘が次のように紹介されています。

 「現存する大宝二年御野国戸籍の女子を各年齢ごとに集計してゆくと、二十二歳―三十三歳―四十二歳―五十二歳―六十二歳とほぼ十年ごとの周期で、この年齢に属する女子人口が異常に多いという注目すべき事実が、岸俊男氏によって報告されている。続いて、二十七歳―三十七歳―四十七歳―五十七歳―六十七歳とやはり十年間隔でこの年齢に属する女子人口も相当に多いという事実が確認されている。岸氏は、前者の人口集中を大ピークと呼び、後者の人口集中を小ピークと呼んでいるが、同様の現象は大宝二年西海道戸籍についても指摘され、大宝二年時における、ほとんど全国的な現象であったと推定されている。」’360頁)

 このように「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が指摘されており、古代戸籍の年齢表記の信頼性に問題があることをわたしは知りました。(つづく)


第2137話 2020/04/19

『九州倭国通信』No.198のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.198を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず ―倭人伝の考古学と文献史学―」を掲載していただきました。
 その冒頭の「一、はじめに」で
 〝世にいう「邪馬台国」論争は、古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているとわたしは考えていますが、マスコミや学界では未だに「邪馬台国」論争が続けられています。「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説・学問的方法)とは言い難いとわたしは考えていますが、本稿ではその理由を説明します。畿内説支持者は気分を害されることとは思いますが、ぜひ最後まで読んでみて下さい。その上で、ご批判・反論をいただければ幸いです。〟
 と前置きして、以下の項目で「邪馬台国」畿内説を批判しました。九州の皆様には特にご納得いただけたものと考えています。

二、畿内説は「研究不正」の所産
三、行程データの原文改定
四、国名データの原文改定
五、総里程データの無視
六、地勢データの無視
七、考古学データの無視
八、最も早く文字を受容した北部九州
九、考古学は科学か「神学」か