古賀達也一覧

第2026話 2019/10/30

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(2)

 臼杵市満月寺の多層石塔や石仏については、「洛中洛外日記」1818〜1822話(2019/01/08〜12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)〜(5)〟で取り上げたことがあります。というのも、臼杵石仏に九州年号「正和(五二六〜五三〇)」が刻されたものがあるとする文献(鶴峯戊申『臼杵小鑑』)があり、もしその記事が正しければ現存最古の九州年号金石文になるかもしれず、わたしも早くから注目してきたからです。それは次のような記事です。

『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)
 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。

 この記事などに対して、わたしは次のように「洛中洛外日記」1822話(2019/01/12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)〟で考察しました。

【以下、転載】
①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
【転載おわり】

 以上の考察の結論として、
 「今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。」
 「6世紀の倭国において『卯月』という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。」
 として、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは学問的に困難と判断しました。(つづく)


第2025話 2019/10/29

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(1)

 京都では八月に庶民の伝統行事「地蔵盆」が各町内で行われます。町毎にお地蔵さんを祀り、子供たちが主役の行事です。いわば「ハロウィンの京都版」です。わたしが住むご町内でも、毎年この地蔵盆を盛大に行い、昼間は子供たちによるスイカ割りやソーメン流しで盛り上がり、夜は大人たちと手伝ってくれた若者とで打ち上げ(食事会)を行い、ご町内の親睦に努めます。
 わたしは来年から町内会長を引き受けるということもあり、今年の地蔵盆には最初から最後まで参加しました。当日の朝、お地蔵さんをお堂から会場の北村美術館のガレージに運び込むのですが、そのときわたしは初めてご町内のお地蔵さんをまじまじと見ることができたのですが、どう見てもおかしいのです。その石像物はお地蔵さんではなく、なんと道祖神だったのです。おそらく京都市内の地蔵盆で道祖神を祀っているのはこのご町内だけではないでしょうか。
 古くからの町民の方々にこの「お地蔵さん」の由来をたずねると、近所の鴨川に流れ着いていたのを町内で祀ったとおじいさんから聞いた、などの諸説が出されました。夜の親睦会では、「これはお地蔵さんではなく道祖神だが、町や町民を守護する神として日本では古くから祀られており、大変ありがたい神様ですので、これからも大切にお祀りしていきたい」と、次期町内会長としてご挨拶しました。それにしても面白いご町内です。
 ご町内の北村美術館さんのご好意により、地蔵盆会場として同館ガレージをお借りしているのですが、その日は、特別に同美術館の庭園も拝観させていただくことができました。それほど広くはない庭園を一巡して、いくつもの石仏や石塔が並んでおり、恐らく鎌倉時代のものと思われる重要文化財もあって、ご町内にこれほどの文化財があることに驚きました。特に多層石塔については臼杵市満月寺の石塔の研究をしたこともあって、その年代観を理解する上でも勉強になりました。(つづく)


第2024話 2019/10/28

『日本思想史学』第51号のご紹介
 〝冥界からの贈り物〟

 「日本思想史学会」から機関誌『日本思想史学』第51号が届きました。わたしは「古田史学の会」の他にも各地の古代史研究会や、仕事関係では「繊維学会」「繊維応用技術研究会」などにも参加しています。また、学会として高名な「日本思想史学会」の会員でもあります。これは古田先生からのご指示で入会したもので、先生に促されて筑波大学での総会で「古代の二倍年歴」、京都大学では「九州年号」についての研究発表を行ったことがあります。化学系学会で講演することには慣れているのですが、人文系の伝統ある「日本思想史学会」で、その大勢の専門家を前にしての発表にはちょっと足が震えました。
 古田ファンにはご存じの方も多いと思いますが、日本思想史学は東北大学の村岡典嗣先生が提唱された学問領域であり、それが引き継がれて「日本思想史学会」が発足しました。ですから、村岡先生の「最後の弟子」である古田先生は同学会の重鎮でした。そうしたご縁もあり、大阪府立大学なんばキャンパスで執り行った古田先生の追悼式典には、「日本思想史学会」の会長だった佐藤弘夫さん(東北大学教授、中世思想史研究者)から御弔文をいただけました(『古田武彦は死なず』明石書店刊に収録)。
 今回の『日本思想史学』第51号の論文で特に興味深く拝読したのが尾留川方孝さんの「神漏伎・神漏弥および天神の性質と役割」です。尾留川さんは『日本書紀』などに見える「天神」とは誰のことなのかというテーマを論じ、「天神は命じるのみで、自ら行動せず客体にもならない」とされ、「天孫降臨にいたる一連の出来事のなかで、天神は天下の統治を天孫に命じている」という例をあげられ、神武東征も同様に天神の命令を受けて開始されていることを指摘されました。
 わたしは『記紀』の神武東征説話中の「天神子」「天神御子」説話部分は天孫降臨説話からの転用とする仮説を発表(注)していますが、尾留川さんの視点(仮説)を採用すれば、その転用は神武東征説話の冒頭部分にもなされていたと考えなければならないかもしれません。そうした意味から、『日本思想史学』第51号は古代史研究にも関わる貴重な一冊であり、冥界におられる古田先生からの贈り物のような気がしました。

(注)
 古賀達也「盗まれた降臨神話 ー『古事記』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古田史学会報』48号、2002年2月。
 古賀達也「続・盗まれた降臨神話 ー『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判ー」、『古代に真実を求めて』第六集、2003年4月。古田史学の会編、明石書店。


第2023話 2019/10/27

『九州倭国通信』No.196のご紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.196が届きましたので紹介します。
 同号には拙稿「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の『宿痾』〈後編〉」を掲載していただきました。本稿は『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)に掲載された注目すべき論文をピックアップして、九州王朝説の視点で解説したものです。
 今回の後編には次の収録論文を取り上げ、高倉論文の先進性を評価し、他方、森論文と井形論文が大和朝廷一元史観の『宿痾』に冒されていることを指摘し、批判的に解説しました。

○高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱」
○森弘子「筑紫万葉の風土」
○井形進「大宰府式鬼瓦考」


第2022話 2019/10/26

即位礼正殿の儀の光景(3)
〝古代の伝統を継ぐ茶色染料〟

 本シリーズの最後に、一般の方々にはまず知られていない現在におけるウールの茶色染色が「黄櫨染御袍」と同様の染色の設計思想に基づいていることをお教えします。
 茶色の染色が難しいことは本稿二節で触れましたが、「黄櫨染御袍」では櫨(黄色)と蘇芳(赤色)の二色を混ぜて茶色にしています。というのも、きれいで高堅牢度の茶色の天然染料はありそうでなかなかありません。そのため、こうした配合染色により茶色にするわけですが、現在のウールでも同様なのです。ウールの茶色染色には、カラーインデックスナンバー(染料の国際分類番号)で「モルダント・ブラウン・15」(Mordant Brown 15)と呼ばれる金属媒染染料が最も使用されています。この染料も実はオレンジ色と青色の配合染料なのです。もちろん、一成分だけで茶色になる染料もあるにはあるのですが、価格や性能において「モルダント・ブラウン15」が抜きん出ているため、結果として他の茶色染料は淘汰されつつあります。
 わたしの勤務先はこのウール用茶色染料を国内で製造している唯一の会社ですから、その製造の難しさや原材料調達の困難さなど、身にしみて知っています。この度の即位礼正殿の儀での「黄櫨染御袍」を拝見して、こうした伝統文化の末端に関わってこられたことに感謝し、これらの技術を次世代に伝えなければならないと思いました。(おわり)


第2021話 2019/10/24

「評制」時期に関する古田先生の認識(3)

 「評制」の開始時期を七世紀中頃と古田先生は考えておられましたが、それ以前は「県(あがた)」の時代とされていました。このことを示すエビデンス(古田先生の著書)を紹介します。
 『古代は輝いていた3』(一九八五年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」には次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(七〇頁、ミネルヴァ書房版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が『県』であった」「筑紫の君磐井の治世下の行政単位が『県』であった」とされています。すなわち、七世紀中頃の評制開始の前の行政区画を「県制」とされているのです。なお、「県」は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。
 また、『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、二〇〇一年)では次のように記されています。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(二一九頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かず、「評の時代」と書かれたはずです。このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされ、それ以前が「県」とされてきたのは明白です。
 最後にお願いがあります。「評制開始を六世紀以前」とする仮説を発表されるのも「学問の自由」であり、それがたとえ古田説と異なっていたとしても「師の説にな、なづみそ」(本居宣長)ですから、全くかまいません。しかし、古田先生ご自身がどのように認識されていたのかを論じられる場合は、せめて事前調査の一つとして、古くから古田先生の下で古代史学を学んできた〝長老〟格の方々に直接確認していただけないでしょうか。たとえば、学生時代(京都大学)から古田先生の謦咳に接してこられた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)もおられます。
どのような自説の発表も「学問の自由」ですが、「○○の認識はこうだ」とされる場合は、その方に直接確認するか、お亡くなりになっておられるのであれば、その方を最も知る方々に直接確認するというのが、古田先生が示されてきた学問の方法です。たとえば、好太王碑研究において、古田先生は酒匂大尉のご遺族を探しだし、そのご遺族から直接聞き取り調査をされ、最終的には好太王碑の現地調査もされ、碑文改ざんがなかったことを明らかにされました(『失われた九州王朝』)。このことは、古田ファンや古田学派の研究者には周知のことでしょう。
 もし、「古田史学を継承する」といわれる方があれば、口先だけではなく、実践されることを望みます。古田先生は、あの和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングが酸鼻を極め、「市民の古代研究会」が分裂したとき、津軽の地を訪れ、現地での聞き取り調査を実施されました。私も何度も現地に行かせていただきましたが、そうした実践が古田史学を継承し、発展させていくうえで重要だと考えます。


第2020話 2019/10/24

即位礼正殿の儀の光景(2)
「黄櫨染御袍」に使用された蘇芳(すおう)

 新天皇の「即位礼正殿の儀」で着用された「黄櫨染御袍」は、光源の変化により色調が変化することを紹介しました。これにはかなりの技術が必要なのですが、それよりもすごい染色技術が京都の匠(染織家)により発明されています。それは五年ほど前にお会いしたご高齢の匠から見せていただいたもので、「貴婦人」と名付けられたシルクの染色糸です。
 「貴婦人」は「黄櫨染御袍」よりも青みの茶色をしていました。ところが、同じ室内光(蛍光灯)下でも糸束をねじったり角度を変えると、色調が茶色から濃緑色に変化するのです。ここまで変化するシルク糸は初めて見ました(化学繊維であれば機能性色素を用いて簡単にできます)。恐らく「演色性」だけではなく、シルクの成分であるフィブロインやセリシンを複数の染料で染め分けているのではないかと思い、使用した染料をたずねましたが、教えてはいただけませんでした。しかし、その糸束をわけていただくことができ、わたしは勤務先の科学分析機器を駆使して、染料成分分析や繊維構造解析を行いました。恐らく、自らが発明した「貴婦人」の染色技術を次世代の技術者に継がせたいとの思いから、貴重な糸束をわけていただいたものと感謝しています。
 話を「黄櫨染御袍」に戻します。使用された蘇芳は南方の国(インド、マレーシア)が原産地であり、〝輸入〟しなければならないのですが、もしかすると入手はそれほど困難なことではなかったのではないでしょうか。
 「洛中洛外日記」2006〜2014話(2019/10/06〜13)で連載した〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)〜(9)〟において、わたしは九州王朝(倭国)の東西南北の「道」の「方面軍」という仮説を発表し、その「南海道」の終着点を今の沖縄・台湾とする説と中南米とする説を提起しました。いずれにしても、強力な海軍力を有してした九州王朝であれば、「南国」の蘇芳を入手することは可能と思われますし、あるいはその「南国」からの使者が九州王朝へお土産として持参した可能性さえあります。「黄櫨染御袍」の製造のため蘇芳を九州王朝が欲しがっていたとすれば、少なくとも「西国」百済から贈呈された七支刀と比べれば、自国に自生している蘇芳の木の贈呈は輸送コストはかかるものの、手間をかけて〝製造〟する必要もない〝お安いご用〟ですから。
 こうした視点を重視しますと、日本列島内を軍事的に展開(侵略)する「東山道」「北陸道」の「方面軍」とは異なり、「海道」の「方面軍」の主目的は「軍事」というよりも「交易」だったのではないかとの考えに至りました(軍事的側面を否定するものではありません)。大型船造船技術と航海技術があれば、大量の物資運搬にも海上郵送は便利です。一つの仮説として検討の俎上に乗せたいと思います。


第2019話 2019/10/23

「評制」時期に関する古田先生の認識(2)

 古田先生が「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったのですが、わたしの説明が不十分だったようで、納得していただけない方がおられるようです。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介することにします。
 2015年にミネルヴァ書房から発行された『古田武彦の古代史百問百答』(古田武彦著、古田武彦と古代史を研究する会編)に〝「庚午年籍の保存」について〟という一節があり、その中に大和朝廷により「評」史料が隠されたり廃棄された実例として次の三例が示されていますので、その部分を引用します。

(イ)正倉院文書では「評」の文書がない。
(ロ)『万葉集』にも「評」は出現しない。(「郡」ばかり、九十例)。
(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。
 (『古田武彦の古代史百問百答』218頁)

 ここに〝(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。〟と古田先生が記されているように、「評制」の期間が「六四五〜七〇一の間」との認識に立たれていることがわかります。なんとなれば、『日本書紀』には「六四五」より前も「郡」表記がなされており、もし古田先生が「評制開始を六世紀以前」と認識されていたのなら、それこそ「五〇一〜七〇一の間すべて」などと書かれたはずです。しかし、古田先生は「評制」開始を七世紀中頃と考えられていたので、『日本書紀』の中の「評」が「郡」に書き換えられた範囲として「六四五〜七〇一の間」と表現されたのです。そうでなければ、「六四五」という年次を記す理由は全くありません。
 同時に、「六四五」よりも前は「評」ではなく、「県」であると古田先生は考えられていました。このことについてもエビデンス(古田先生の著書)を示します。(つづく)

〔補注〕正確に言えば、「評制」は「七〇〇年」までで、「七〇一年」には「郡制」に変わったことが、出土木簡から判明しています。また、『日本書紀』の記述対象範囲は持統十一年(六九七年)までです。もちろん、本稿の論旨には影響しません。


第2018話 2019/10/22

即位礼正殿の儀の光景(1)
「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」

 本日、執り行われた新天皇の「即位礼正殿の儀」をテレビで拝見いたしました。まるで平安時代の王朝絵巻を見ているようで、感動しました。そして何よりもわたしが着目したのは、やはり職業柄か、両陛下や皇族方の装束の色彩でした。
 わたしの本職は染料化学・染色化学のケミストですので、どうしても衣装の色に目が行ってしまい、古代において使用されたであろう染料の分子構造式と染色技術(草木染めか)、そして衣装の繊維素材は何だろうかと、そうした疑問が頭の中をぐるぐると廻ります。そうやって出した科学的結論を妻に説明しようとすると、「やめてッ!」と言われてしまいました。そこで、「洛中洛外日記」読者の皆さんにさわりだけ説明させていただきますので、ちょっとお付き合い下さい。
 わたしが最も注目したのが天皇しか着ることが許されないという「黄櫨染御袍」でした。高御座の幕が開かれたとき、その色調に驚きました。想像していたよりも赤みが強い茶色だったからです。近代では合成染料が発達して、容易に茶色が出せるようになりましたが、以前は茶色を再現性良く出すことは高度な染色技術が必要とされていました。古代であればなおさらです。
 「黄櫨染御袍」も古代から伝わる染料と染色技術により、あの色相が出されていますので、それはまさに〝匠の技〟と言えます。しかも「黄櫨染御袍」は朝夕と昼間では異なる色調を発します。それは「演色性」という光学現象を利用したもので、太陽光中の光の波長分布が朝夕と昼間では異なって地上に届くという現象により、大きく色調が変化する染料(複数)が使用されていることによります。ですから、テレビを見ていて、「黄櫨染御袍」に使用された染料の推定とその分子構造が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。そのときの、わたしの推論は次のようなものでした。

①「黄櫨染」というからには、「櫨(はぜ・はじ)」の色素(フラボノール系色素:fustin)が使用されているはず。
②しかも「黄」とあるから、櫨の木の黄色の成分を用いて、アルミ明礬で媒染染色されているはず。
③というのも、金属で媒染染色しなければ草木染めの天然染料は日光堅牢度が劣り、使用に耐えない。
④従って、高堅牢度の黄色に発色させるためにはアルミ明礬か木材(主に椿)の灰に含まれるアルミ成分(+微量のカルシウム成分)の使用が考えられる。古代の染色において、「灰」の使用は『延喜式』などに見える既知の技術。
⑤しかし、「櫨」だけではあの赤みの茶色にはならず、更に青みの赤色染料も使用されているはず。
⑥古代において使用されている青みの赤色染料としては、「茜(あかね)」(アリザリン系色素)と「蘇芳(すおう)」(色素成分はbrazilein)が有名。
⑦「茜」は『万葉集』にも詠まれているように国内に自生しており、入手は容易。他方、「蘇芳」は南方の国(インド、マレーシア)が原産地とされ、〝輸入〟しなければならない。
⑧入手し易さでは「茜」だが、「黄櫨染御袍」のあの深みのある赤みの茶色を出すには「蘇芳」が望ましい。
⑨染色技術的にはどちらもアルミで媒染により赤色が出せるので、どちらを使用したのかは判断し難い。

 概ね以上のような思考が堂々巡りしたため、インターネットで確かめることにしました。その結果、「櫨」と「蘇芳」が「黄櫨染御袍」には使用されているとありましたので、わたしの推論はほぼ当たっていました。それにしても、とても美しく神々しい「黄櫨染御袍」でした。(つづく)


第2017話 2019/10/21

「評制」時期に関する古田先生の認識(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者から「評制の開始時期はいつ頃か」という質問をいただき、当日に答えきれなかったことなどについて、「洛中洛外日記」1996〜2005話(2019/09/21〜10/04)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)〜(8)〟として連載しました。
 そのときは質問に答えることに集中していたため思い至らなかったのですが、日本古代史研究では「評制」開始時期は七世紀中頃とすることが定説となっており、ほとんど異論を聞きません。それなのになぜこのような質問が出されたのでしょうか。恐らく、古田学派の論者の中には「評制開始は六世紀以前に遡るというのが古田先生の見解」とされる方がおられ、そうした見解が古田ファンの中にも伝わっていたことが背景にあるのではないでしょうか。
 古田先生も「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったので、そのことを「洛中洛外日記」や各会の会紙でも発表してきました。それで十分にご理解いただけたはずとわたしは思っていましたが、今回のような質問が出されたこともあり、まだまだ説明が足りなかったのではないかと反省しました。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介して、古田先生が「評制」開始時期を七世紀中頃と考えられていたことを改めて説明したいと思います。(つづく)


第2014話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(9)

 九州王朝(倭国)の都、太宰府から土佐に向かう7番目の官道として、足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ向かう「大海道」(仮称)があったとする作業仮説(思いつき)を提起し、次の九州王朝「七道」案を示しました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○仮称「大海道」→「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)

 この思いつきに至ったとき、わたしは思わず[あっ」と声を発してしまいました。こうやの宮(福岡県みやま市)の上半身裸の「南の国」からの使者と思われる御神像は「流求国」ではなく、倭人伝に記された「裸国」からの使者ではないかと思い至ったのです。
 そもそも、「南の国」からの使者が九州王朝を訪問したとき、上半身裸で倭王に謁見したとは考えられません。だいいち、倭国(筑前・筑後)は夏でも上半身裸でおれるほど暖かくはないと思われますし、倭王に謁見するのに上半身裸は失礼ではないでしょうか。そうすると、御神像が上半身裸として作製されたのは、「南の国」からの使者にふさわしい姿として、実見情報ではなく、別情報によったと考えざるを得ません。その別情報こそ、「裸国」という国名だったのではないでしょうか。九州王朝内で伝わった外交文書中に記されていたであろう「裸国」という国名に基づき、「裸の国」からの使者にふさわしい想像上の人物として、あの上半身裸の御神像が成立したと思われるのです。
 このような理解に立つとき、こうやの宮の四人の使者の出身国は蝦夷国(東)・百済国(西)・裸国(南)・粛慎国(北)となります。更に、「南海道」の最終到着国は「裸国」ではないかというアイデアも出てきますが、これ以上あまり先走りすることなく、慎重に仮説の検証を続けたいと思います。(おわり)

〔謝辞〕本シリーズの論証は、次の方々による古代官道に関する先駆的研究業績に基づいています。お名前を紹介し、感謝の意といたします。
 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)。

 あわせて、「東に向かっているのになぜ北陸道なのか」という疑問をFACEBOOK上で寄せていただいたKさん(コジマ・ヨシオさん)、「流求国」についての知見をご教示いただいた正木裕さんにも御礼申し上げます。Kさんのコメント(疑義)がなければ本シリーズは誕生していなかったといっても過言ではありません。〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が真実であることを改めて深く認識することができました。


第2013話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(8)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について論じてきた本シリーズもようやく最終局面を迎えました。今回は、わたしに残された二つの疑問に挑戦してみます。一つ目は、大和朝廷は「七道」なのに、なぜ九州王朝は「六道」なのか。二つ目は、山田春廣さん作製マップによれば太宰府から本州方面にむかう「北陸道」「東山道」「東海道」により、ほぼ全ての国がその管轄下におかれるのですが、四国の「土佐」が直接的にはどの官道も通らない〝空白国〟なのはなぜか、という疑問です(土佐国へは「東海道」枝道が通じていたのではないかとのご指摘を西村秀己さんからいただきました)。
 一つ目の疑問は、「たまたま、九州王朝は六道になり、大和朝廷は七道になった」とする地勢上の理由として説明することも可能です。しかし、九州王朝の官道に倣って大和朝廷も「七道」にしたとすれば、九州王朝にはもう一つの「道」があったのではないかと、わたしは考えました。そのように推定したとき、二つ目の疑問〝土佐国の空白〟が、残りの「一道」に関係しているのではないかと思いついたのです。
 それでは古代において、太宰府から土佐に向かう、しかも他の「六道」に匹敵するような重要官道はあったのでしょうか。そのような「重要官道」をわたしは一つだけ知っています。それは魏志倭人伝に記された「裸国」「黒歯国」(南米、古田武彦説)へ向かう太平洋を横断する〝海流の道〟です。倭人伝には次のように記されています。

 「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。」『三国志』魏志倭人伝

 ここに見える「侏儒国」の位置は四国の西南岸部と思われ、その南の足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、倭人は「船行一年」(二倍年歴による)かけて「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ行っていると記録されているのです。この「裸国」「黒歯国」と九州王朝との往来がいつの時代まで続いていたのかは不明ですが、九州王朝にとっては誇るべき〝国際交流〟であったことを疑えません。
 この太平洋を横断する〝海流の道〟(行きは黒潮に乗る北側ルート。帰りは赤道反流に乗る南側ルート)の名称は不明ですが、仮に「大海道」と名付けたいと思います。もっと良い名称があればご提示下さい。
 もしこの作業仮説(思いつき)も含めれば、九州王朝(倭国)官道は大和朝廷と同じ「七道」とすることができますが、いかがでしょうか。(つづく)

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)