二倍年暦一覧

第2813話 2022/08/22

「二倍年暦」研究の思い出 (1)

―「二倍年暦」研究の発端と展開―

 わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2001年頃からでした。その発端は、仏典中に超高齢者が少なからず見えることに気づいたことです。そして研究対象は中国や西洋の古典に広がりました(注)。その研究成果を「古田史学の会」関西例会で発表し、2002年からは『古田史学会報』での論文発表へと続きました。そして、「古田史学の会」では会員による「二倍年暦」の研究発表も活発となり、2002年から2004年だけでも管見では次の論稿が発表されました。

○和田高明「『三国史記』の二倍年暦を探る」『新・古代学』第6集、2002年、新泉社。
○古賀達也「仏陀の二倍年暦(前編)」『古田史学会報』51号、2002年。
○西村秀己「盤古の二倍年暦」『古田史学会報』51号、2002年。
○古賀達也「仏陀の二倍年暦(後編)」『古田史学会報』52号、2002年。
○古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
○冨川ケイ子「エジプト年暦と兄ウカシ弟ウカシ」『古田史学会報』53号、2002年。
○森 茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
○古賀達也「ソクラテスの二倍年暦」『古田史学会報』54号、2003年。
○安藤哲朗「『高僧伝』における寿命記事」『古田史学会報』56号、2003年。
○古賀達也「荘子の二倍年暦」『古田史学会報』58号、2003年。
○古賀達也「『曾子』『荀子』の二倍年暦」『古田史学会報』59号、2003年。
○古賀達也「アイヌの二倍年暦」『古田史学会報』60号、2004年。
○澤井良介「『二倍年暦』に関する一考察」『古田史学会報』60号、2004年。
○肥沼孝治「古代戸籍の二倍年暦」『古田史学会報』60号、2004年。

 この当時の「二倍年暦」研究は、史料に見える高齢記事や、一年を2シーズンに分ける暦表記の探索が中心でした。(つづく)

(注)当時、わたしが研究対象とした古典は次のようなものであった。『長阿含経』『妙法蓮華経』『スッタニパータ』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘロドトス『歴史』、『旧約聖書』、プラトン『国家』、アリストテレス『弁術論』、セネカ『人生の短さについて』、キケロー『老年について』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』、アリストテレス『弁術論』、マネトー『エジプト史』、『論語』、『孟子』、『列子』、『管子』、『荘子』、『曾子』、『荀子』、『春秋左氏伝』、菅江真澄『えぞのてぶり』、新井白石『蝦夷志』など。


第2698話 2022/03/13

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (3)

 松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)で指摘された大宝二年西海道戸籍の高齢出産を示す年齢表記は、二倍年齢による年齢計算の痕跡ではないかと思われました。というのも、わたしは八王子セミナー2020(注②)で、同じ大宝二年の御野国戸籍が二倍年齢の影響をうけているとする研究(注③)を発表したのですが、そのときの根拠は同戸籍に見える次の傾向でした。

(1) 大宝二年(702)当時としては考えにくい高齢者群が見える(注④)。
(2) 超高齢出産の事例が散見される(注⑤)。
(3) 戸主と嫡子(長子)の年齢差が30歳~40歳ほどの戸が少なからず存在し、当時の親子の年齢差としては不自然。

 これらの不自然な史料状況を合理的に解決する方法として、庚午年籍(670年)の造籍時までは当地で二倍年齢が採用されており、その二倍年齢で登記され、それ以後は一倍年齢として六年毎の造籍時に六歳が加算されたとする仮説に至りました(注⑥)。
 それでは西海道戸籍も同様の理解によりリーズナブルな年齢に換算できるでしょうか。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②「古田武彦記念古代史セミナー2020」2020年11月14日(土)~15日(日)、大学セミナーハウス。
③古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf

④次の高齢者(70歳以上)が見える。
〔味蜂間郡春部里〕
 戸主姑和子賣(70歳)
〔本簀郡栗栖太里〕
 戸主姑身賣(72歳)
〔肩縣郡肩〃里〕
 寄人六人部身麻呂(77歳)・寄人十市部古賣(70歳)・寄人六人部羊(77歳)・奴伊福利(77歳)
〔山方郡三井田里〕
 下々戸主與呂(72歳)
〔加毛郡半布里〕
 戸主姑麻部細目賣(82歳)・戸主兄安閇(70歳)・大古賣秦人阿古須賣(73歳)・都野母若帯部母里賣(93歳)・戸主母穂積部意閇賣(72歳)・戸主母秦人由良賣(73歳)・下々戸主身津(71歳)・下々戸主古都(86歳)・戸主兄多比(73歳)・下々戸主津彌(85歳)・下中戸主多麻(80歳)・下々戸主母呂(73歳)・寄人石部古理賣(73歳)・下々戸主山(73歳)・寄人秦人若賣(70歳)・下々戸主身津(77歳)・戸主母各牟勝田彌賣(82歳)
⑤『御野国加毛郡半布里戸籍』「縣主族比都自」戸の「寄人縣主族都野」家族に、次の超高齢出産となる年齢が記されている。
 寄人縣主族都野(44歳、兵士)
 嫡子川内(3歳)
 都野甥守部稲麻呂(5歳)
 都野母若帯部母里賣(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 母里賣孫縣主族部屋賣(16歳)
 これを親子順に並べると、次の通り。
(母)若帯部母里賣(93歳)―(子)都野(44歳)―(孫)川内(3歳)
 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れている。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不自然だ。
⑥【補正式】(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢


第2697話 2022/03/08

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (2)

 京都府立大学文学部図書館で閲覧した松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたもの(注②)。

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部甫西豆売 42歳
(2) 卜部夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部與利売 42歳・52歳
  吉備部岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部稲津売 48歳
(5) 卜部宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部酒屋売 62歳
(7) 宇治部彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部咩豆売 47歳
(9) 葛野部比良売 45歳・46歳
(10)大家部泉売 40歳
(11)葛野部美奈豆売 49歳・55歳
〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部小民売 43歳
(13)秦部乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部小赤売 41歳・42歳
(15)秦部意等比売 43歳・51歳
(16)秦部伊比豆売 44歳
〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部阿理売 41歳
  秦部刀自売 45歳・47歳
(20)狭度小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部犬売 40歳・42歳
(24)春日部昨売 42歳
(25)狭度赤売 47歳
(26)川邊波太売 51歳
(27)秦部夜波良売 43歳
(28)秦部犬売 51歳
(29)膳百手売 41歳
(30)秦部蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないと言わざるをえませんが、松尾さんは「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような理解はできません。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②掲載順は『寧楽遺文』上巻によるとのこと。


第2696話 2022/03/07

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (1)

 先週、久しぶりに京都府立大学文学部図書館に行き、書籍を閲覧しました。『古代史論聚』(注①)に収録された中川収「中臣習宜朝臣阿曽麻呂について」を読むことが目的でした。同論文は日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)からご紹介いただいたもので、「洛中洛外日記」〝難波宮の複都制と副都〟(注②)で採りあげた大宰府主神の習宜阿曽麻呂についての先行研究論文です。日野さんからは古代氏族の氏(うじ)名や姓(かばね)の歴史的経緯や性格についての通説を度々教えていただいており、リモート勉強会(注②)での講義もお願いしています。
 『古代史論聚』には古代史学界の多くの学者の論文が収録されており、最新の研究動向を知る上でも役立ちそうです。中でもわたしが着目したのが、松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」という論文でした。同論文で松尾さんは、大宝二年西海道戸籍には40~50歳代女性による高齢出産が少なからず見られ、従来は古代におけるこのような高齢出産は考えられないとされてきたが、同戸籍を史料根拠として、こうした高齢出産を否定できないと論じています。西海道戸籍だけではなく、美濃国戸籍などにも同様の高齢出産が認められるとする論文を松尾さんは発表されています(注③)。
 この〝高齢出産〟現象に、わたしは思い当たる節がありました。高齢出産とされる大宝二年(702年)における女性の年齢は、庚午年籍造籍時(670年)の二倍年齢登記の痕跡ではないかと。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
②関東や遠方の研究者との情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を有志と行っている。
③松尾光「養老五年下総国戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」『歴史研究』649号、2017年。
 同「東国御野・大宝二年戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」横浜歴史研究会創立三十五周年記念誌『壮志』2017年。


第2587話 2021/10/03

久留米大学公開講座で講演

古代戸籍に記された超・長寿の謎

 今日は、久留米大学公開講座(注)で講演させていただきました。テーマは「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」で、二倍年記(二倍年齢)の最新研究を解説しました。当該レジュメの冒頭「現代日本の長寿社会」と末尾「二倍年暦で激変する世界の古代史編年」を転載します。
 コロナ騒動のため、二年ぶりの公開講座ですが、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん(久留米市)や中村秀美さん(長崎市)と久しぶりにお会いできました。お元気そうで何よりでした。

【以下、転載】
2021.10.03 久留米大学公開講座
古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―
               古賀達也(古田史学の会)

1.現代日本の長寿社会

 人類史上初の長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年)に突入した日本において、平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではない。武田邦彦氏は次のように説明している。
 〝1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に「老後」でした。〟(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』2018)
 ところが、東洋と西洋の古典には80歳を越える長寿者や100歳を越える超長寿者は少なくない。

8.二倍年暦で激変する世界の古代史編年

 以上のように、古代社会においては、人の年齢を一年間に二歳と計算する二倍年暦(二倍年齢)の時代があったことがわかる。一旦、この二倍年暦という概念が承認されると、世界の古代文明の年代が地滑り的に新しくなる。というのも、古代文明などの年代を決定する際に、その王朝の王の在位年数を後の時代から逆算するという方法が採用されるケースがあり、その結果、二倍年暦を採用していた時代は実年数の二倍の年数で逆算していることになり、その分だけ古く編年されてしまうからである。
 残念ながら古田武彦氏が提唱された二倍年暦という学説は、関連学界からは無視されている。たとえば、中国の国家プロジェクトとして進められた古代中国王朝の絶対年代決定研究「夏商周断代工程」(1996~2004年)は、二倍年暦という概念がないままに行われたこともあって、その結論が誤りであることをプロジェクト参加者も認めざるを得なくなった。歴史学にとって最も重要な作業の一つである年代確定には二倍年暦という視点が不可欠である。エジプト文明、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、そしてわが国の古代史研究においてもそれは避けられない。

(注)久留米大学御井校舎での公開講座(10月3日午後)。
 福山裕夫(久留米大学教授)「古田の黒歯国考」
 古賀達也「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」。


第2551話 2021/08/28

10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ

古代戸籍に記された超・長寿の謎 — 古今東西の超高齢者

 この数日間、10月3日の久留米大学公開講座向けレジュメの作成に追われていました。本日、ようやく書き上げました。テーマと要約は次の通りです。

「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」

1.現代日本の長寿社会
 人類史上初の長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年)に突入した日本において、平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではない。ところが、東洋と西洋の古典には80歳を越える長寿者や100歳を越える超長寿者は少なくない。

2.古代ギリシアの超長寿記事
 例えば、古代ギリシア(紀元前四~五世紀)の哲学者の寿命について、次の記録がある。
【ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』からのギリシア哲学者死亡年齢の抜粋】(以下抜粋)
 アテノドロス(82歳) カルネアデス(85歳) クレアンテス(80歳 B・E・リチャードソンによれば99歳) デモクリトス(100か109歳) ディオゲネス(90歳) エピカルモス(90歳) ゴルギアス(100、105もしくは109歳) イソクラテス(98歳) ミュソン(97歳) プラトン(81歳) ピューロン(90歳) ピュタゴラス(80か90歳) テレス(78か90歳) テオフプラストス(85か100歳以上) ティモン(90歳) ゼノン(98歳)
 ジョルジュ・ミノワは「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』)と説明している。

3.古代ローマの超長寿記事
 ローマ帝政初期のセネカ(前4年頃~後65年)の『人生の短さについて』に次の年齢記事が見える。
 「沢山の老人のなかの誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい。『あなたはすでに人間の最高の年齢に達しているように見受けられます。あなたには100年目の年が、いやそれ以上の年が迫っています。』」
 セネカよりも100年前の古代ローマのキケロー(前106~前43年)の『老年について』にも次の超高齢記事が見える。
 「かつてガーデースにアルガントーニオスという王がいて、80年間君臨し、120歳まで生きたという」

4.古代エジプトの超長寿記事
 古代エジプトにおける最も著名なファラオの一人、ラメセス二世(在位、前1279~1212年)は67年間在位し、92歳で没したとされる。

5.古代中国(周代)の超長寿記事
 古代中国の堯は118歳、舜は100歳で没したと『史記』に記されている。周を建国した人々(紀元前12世紀頃)や穆(ぼく)王の寿命も次のように伝えられている。
○初代武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
○武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
○武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
○武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
○五代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳没(『史記』)。

6.古代インド(釈迦)の超長寿記事
 『長阿含経』に、人の寿命は「今では百歳以下になった」という仏陀の言葉が記されている。
 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」(『長阿含経』巻第一)
 釈迦の没年齢は80歳と伝えられている。弟子には120歳の須跋がいた。
 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧(きぐ)にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四)

7.古代日本(弥生時代)の超長寿記事
 古代日本列島において、倭人は一年を二つに分けて二年とする暦法、即ち「二倍年暦」を使用していたことが、古田武彦氏により明らかにされた(『「邪馬台国」はなかった)。それは『三国志』倭人伝と魏略の記述から導き出されたものだ。
 「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(倭人伝)
 「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計りて年紀となす」(魏略)
 二倍年暦の影響は古代戸籍(『大宝二年籍』702年)にも及んでおり、二倍年暦で自らの年齢を計算していた人々が二倍年齢で戸籍登録した痕跡が遺っている。

8.二倍年暦で激変する世界の古代史編年
 古代社会においては、人の年齢を一年間に二歳と計算する二倍年暦(二倍年齢)の時代があったことがわかる。この二倍年暦という概念が承認されると、世界の古代文明の年代が地滑り的に新しくなる。エジプト文明、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、そしてわが国の古代史においてもそれは避けられない。


第2377話 2021/02/11

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(6)

 本シリーズでは『史記』天官書の原文が「中宮」か「中官」かという問題を扱ってきましたが、このような場合は通常の文献研究では原本調査や原本に近い写本・刊本の調査を真っ先に行うのですが、『史記』に関してはそうした基本的な調査がかなり困難なのです。というのも、今から二千年以上前に竹簡に書かれたものですから、原本はもとより、それに近い写本・刊本の遺存など望むべくもないからです。
 そのため、はるか後世の注釈書に記された『史記』本文部分の記録によらなければなりません。しかもその注釈書は、現存最古のものでも南宋代まで時代が下がるという状況です。それならばその南宋版の現物を見たいと思い、調べたところ、なんとわが国にあることがわかりました。
 それは「南宋慶元黄善夫本」と呼ばれており、国宝に指定されていました。国宝なので現物は無理でしょうから、その影印本だけでもなんとかして見たいと思い、京都府立図書館の館員さんに調査を頼み込んだところ、何と自宅のパソコンからweb上で閲覧可能であることを突き止めていただいたのです。丁重に館員さんにお礼を述べ、急いで自宅に戻り、パソコンで検索しました。それは国立歴史民俗博物館のホームページに収録されており、全巻の閲覧が可能でした。URLは下記の通りです。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohanshiki
国立歴史民俗博物館 データベース

 同サイトには「南宋慶元黄善夫本」について次の解説がありましたので転載します。なお、こうしたことは中国古典の研究者・専門家には常識のことと思います。

【以下、転載】
 南宋時代(南宋慶元年間(1195~1201)刊か) 前漢の司馬遷(前135?~)による黄帝から漢代までの歴史書。「三史」と通称される『史記』『漢書』『後漢書』の一つ。全130巻からなり、本紀(帝王の事績)・表(年表)・書(制度沿革)・世家(諸侯の系譜と事績)・列伝(人物伝)の五部に分かれる。中国だけでなく日本でも必読書として重んじられた。これらは当初、竹木などに手書きされていたが、宋時代には書道大家の書風をまね、厳密な校正を加えた印刷出版物となり(宋版)、南宋時代には黄善夫のような民間の出版家も出現した。
 袋綴冊子本 印記「興学亭印」(朱方印) 「水光邱青」(黒印 朱印 青印)
史記集解・索隠・正義の三注合刻本で、全130巻完存した現存最古本。「建安黄善夫刊/于家塾之敬室」の刊記があり、建安(現在福建省)で刊行。石清水八幡宮耀清・月舟寿桂・直江兼続・上杉藩校興譲館伝来。
【転載おわり】

 同サイトで、真っ先に『史記』天官書を閲覧し、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」「員官」「五官」の部分を調べたところ、その通りとなっていました。よって、明治書院版の『新釈漢文大系 史記』や大正時代に出版された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』が正しいことが判明しました。そこで、現存版本による実証的な調査はこの辺で一応の終わりとなります。
 しかし、論証をより重視する学問としては、ここからが真の研究領域となります。それは、なぜ「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」の総称が「五宮」ではなく、「五官」とされているのかという問題の解明です。しかも現存最古とはいえ、「南宋慶元黄善夫本」は『史記』成立の約千三百年後の版本であり、しかも「宮」と「官」という、よく似た字体の使い分けを問題とするのですから、誤写誤伝の可能性と常に隣り合わせのテーマでもあり、真実解明は容易ではありません。(つづく)


第2364話 2021/01/31

二倍年齢研究の実証と論証(8)

 ―古代戸籍研究、実証主義の限界―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在を史料根拠として、当時の日本人は長生きした人が多かったとする実証が成立しないことを本シリーズで説明してきましたが、同様に当時の阿波国では二倍年暦が採用されていた史料根拠とする単純な実証に使用できないことも明らかにしました。
 こうした経験があったため、わが国における現存最古の「大宝二年籍(702年)」の研究では用心深く取り組みました。というのも、「大宝二年籍」は「延喜二年籍(902年)」のような超高齢者群は見えませんが、それでも『大宝二年御野国戸籍』には『大宝二年筑前戸籍』よりも高齢者が多く(注①)、この現象に違和感を感じていました。ですから、この史料事実をもって御野国は九州地方よりも寿命が長かったとする実証の根拠にするのは学問的に危険と感じていました。
 更に、御野国戸籍にはもう一つの違和感、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実があり、この傾向は戸主が高齢である場合はより顕著に表れています。このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところです。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注②)では次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(同書315頁)

 南部氏が非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解でした。(つづく)

(注)
①『大宝二年御野国戸籍』には、93歳の「若帯部母里賣」を筆頭として次の高齢者(70歳以上)が見える。
○味蜂間群春部里
 「戸主姑和子賣」(70歳)
○本簀群栗栖太里
 「戸主姑身賣」(72歳)
○肩縣群肩〃里
 「寄人六人部身麻呂」(77歳)
 「寄人十市部古賣」(70歳)
 「寄人六人部羊」(77歳)
 「奴伊福利」(77歳)
○山方群三井田里
 「下々戸主與呂」(72歳)
○加毛群半布里
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
 「戸主兄安閇」(70歳)
 「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)
 「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
 「戸主母秦人由良賣」(73歳)
 「下々戸主身津」(71歳)
 「下々戸主古都」(86歳)
 「戸主兄多比」(73歳)
 「下々戸主津彌」(85歳)
 「下中戸主多麻」(80歳)
 「下々戸主母呂」(73歳)
 「寄人石部古理賣」(73歳)
 「下々戸主山」(73歳)
 「寄人秦人若賣」(70歳)
 「下々戸主身津」(77歳)
 「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)
②南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)


第2363話 2021/01/30

『大学章句』の学齢

 「洛中洛外日記」2360話(2021/01/27)〝『小学』の学齢〟で、南宋の朱熹が著したとされる『小学』(注①)に見える学齢について紹介しました。それは次のようなものでした。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○「十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○「二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 続いて、同じく朱熹が著した、『大学』の注釈書『大学章句』(注②)にも学齢についての記事が見えます。なお、前漢代に成立したとされる『大学』(注③)そのものには学齢に関する記述は見えないようです。
 『大学章句』の序文「大学章句序」に次の記事があります。

○「人生まれて八歳なれば、則ち王公より以下庶人に至るまでの子弟は、皆小学に入る。而して之に教ふるに灑掃(さいそう)・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。」『新釈漢文大系 大学 中庸』「大學章句序」108頁
○「其の十有五年に及べば、則ち天子の元子(太子のこと)、衆子より、以て公卿・大夫・元士の適子(長子のこと)に至るまでと、凡民の俊秀とは、皆大學に入る。而して之を教ふるに理を窮(きわ)めて心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。此れ又學校の教、大小の節の、分かるる所以(ゆえん)なり。」同109頁

 先の『小学』の記事とは微妙に異なりますが、「小学」での修学開始年齢を八歳としていますから、これは二倍年齢で十六歳となり、『論語』に見える二倍年齢表記での「十有五歳で学に志す」と対応しています。このように、一倍年齢による「小学」での修学開始年齢「八歳」からも、『論語』の「十有五歳で学に志す」が二倍年齢であることを示しているわけです。
 他方、朱熹は「十有五歳」を「大学」への入学年齢としており、『論語』の「十有五歳で学に志す」に対応するものと認識している可能性もうかがえます。

(注)
①宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
②赤塚忠著『新釈漢文大系 大学 中庸』明治書院、昭和42年(1967)。
③同②。


第2362話 2021/01/29

二倍年齢研究の実証と論証(7)

 ―菅原道真と讃岐国の二倍年齢―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在理由について、律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が阿波地方の風習として存在していたとする仮説が理屈の上では成立しそうなため、そのことを実証できる史料痕跡を探し求めました。そうしたところ、九世紀末頃における二倍年齢の存在を示唆する史料がありました。阿波国のお隣の讃岐国での逸話です。
 それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。道真は仁和二年(886年)から寛平二年(890年)までの四年間、讃岐国司の長官である讃岐守として讃岐で時を過ごしているのですが、それは延喜二年(902年)造籍の十年ほど前ですから、『延喜二年(902)阿波国戸籍』造籍とほぼ同時代です。
 『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたもので、その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べたことから、道真は次のように問います。

 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」

 この問いによれば、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがうかがえます。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には二倍年暦(二倍年齢)が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがありました。
 しかし、この頃の二倍年暦研究は初歩的な段階(高齢者史料の調査収集による実証)でしたので、偽籍の一手段として一倍年暦の『延喜二年阿波国戸籍』に二倍年齢が部分的に〝利用(併用)〟されているとする複雑な認識や論証には、とても思い至ってはいませんでした。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を、二十年前のわたしには深く理解できていなかったのです。(つづく)


第2360話 2021/01/27

『小学』の学齢

 拙稿「古今東西の修学開始年齢」(注①)において、『論語』に見える「十有五にして学に志す」という孔子の述懐について、一倍年齢の十五歳では学を志すには遅すぎるので二倍年齢と考えた方が妥当であると、古典(『風姿華傳』『礼記』『国家』)に記された学齢と比較しながら論じました。先日、購入した『小学』(注②)にも学齢について詳述されていましたので紹介します。
 『小学』は南宋の朱熹が1187年に著したとされる儒教の教典ですが(注③)、周代史料の引用と解説が多く見られるので、12世紀の高名な儒者が周代史料、特にその年齢記事をどのように理解したのかを調べるために読んでみることにしました。また、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が朱熹の『周易本義』の次の記事を二倍年暦実在の証拠とされたこともあり(注④)、南宋の大儒朱熹の認識に関心が高まってもいました。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 今回読んだ『小学』にはいくつかの学齢に関する記事があります。それは次のようなものです。当該部分を抜粋します。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 ここでの学齢は時代的にも内容的にも当然一倍年暦によるものです。六歳から数と方角の名を教えるのですから、現在の小学校入学年齢とほぼ同様です。そうすると、二倍年暦という概念を知らなかったであろう朱熹は、『論語』の「十有五にして学に志す」という孔子の言葉をどのように受け止めたのでしょうか。このことについての言及は『小学』には見当たりません。

(注)
①『東京古田会ニュース』に投稿中。内容は次の「洛中洛外日記」記事を加筆編集したものである。
2269話(2020/10/23)『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)
2270話(2020/10/24)『論語』と『風姿花伝』の学齢(2)
2271話(2020/10/24)『論語』と『礼記』の学齢
2272話(2020/10/25)プラトン『国家』の学齢
2273話(2020/10/25)古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝
②宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
③宇野精一氏による同書解題によれば、朱熹の友人の劉清之の原稿に朱熹が手を加えて撰定したしたものとある。
④西村秀己「五歳再閏」(『古田史学会報』一五一号 二〇一九年四月)。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)