多利思北孤一覧

第2294話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

     「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫と前話で述べたように、「鵤」以外にも「聖徳太子」伝承と関係する国字の存在に気づかせていただきました。それは、九州王朝の天子、多利思北孤の年号「法興六年(596)」銘(注②)を持つ伊予温湯碑文中の文字です。
 同碑文には「臨朝(あした)に鳥啼きて戯れさえずる」という文章があり、この「さえずる」という字(動詞)に「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕という国字が使用されています。同碑は行方不明となっており、『風土記』逸文などに碑文が遺されていることから、厳密にいうと、その逸文執筆者が碑文の字体を正確に書き写しているということが、六世紀末の法興六年と同時代の字体とするための必要条件です。しかし、「さえずる」という別の字が、書写者により「*峠」という珍しい字に書き換えられたとは考えにくいのではないでしょうか。原碑文にその字があったので、そのまま書き写され、その後も書写されたと考える方が穏当と思われるのです。
 以上の理解が間違っていなければ、「*峠」という国字が六世紀末までに成立していたことになり、それはまさしく九州王朝「新字」の誕生となるわけです。そうすると、法隆寺「観音像造像記銅板」銘文中に見える「甲午年」も、通説の694年(持統八年)だけではなく、その60年前の「甲午年(634)」の可能性が復活します。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②正木裕氏(古田史学の会・事務局長)は、「法興」は仏門に入った多利思北孤の「法号」であり、それを「年号」のように使用したとする説を発表されている。
 正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年6月。


第2293話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

    「天武十一年条の『新字』」

 今朝は〝八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2020)〟に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。新幹線に乗るのは今年八月のリタイア以来のことです。現役中は週に何度も新幹線のお世話になっていました。まだ四ヶ月も経っていないのに、車窓から見える風景が懐かしく、「帰省列車」のような気分です。もちろん座席は富士山を観賞できる、いつものE席です。

 今、拝読している上原和さん(1924~2017)の『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫です。その中から生まれた新テーマ「古代日本の国字」を続けます。
 国字について勉強するために読んでいるのが『文字と古代日本 5』(注②)です。全5巻で、古代日本の文字に関する論文が網羅されており、各専門家による優れた著述と思われました。幸い、岡崎の京都府立図書館(拙宅から自転車で10分)に置いてあり、精読中です。
 同書中の論文笹原宏之「国字の発生」によれば、国字発生の研究史について次のように説明されています。

 「古代における国字の実態については、近世以来、伴直方『国字考』など諸書において論考があり、春日政治〔春日―一九三三〕や橋本進吉〔橋本―一九四九〕などにも言及があるが、その後には国字は九世紀末まで存在しなかったという意見まで見られる」同書284頁(注③)

 このような意見の影響を受けてか、私も「国字は九世紀末まで存在しなかった」と思っていた時期もありました。そして、笹原稿の結論として次のように締めくくられています。

 「国字とみなしうる確例はほとんどすべてが天武朝以降に現れているということは、『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月に記されている、境部連石積らに命じて、はじめて造らせたという「新字」四四巻を想起させる。その内容については諸説あり、そもそも中国の史書を模倣した記述であり、日本の史実であったかも疑わしい。しかし、時期の符合は、これ以前に残存文字史料自体が少ないことを差し引いても、何らかのできごとを反映した記事であったと考えられる。
 (中略)これらは、次の奈良時代に合意の国字や合字となっていくものである。国字の活動はもはや止められない時代となっていたのである。」同書296頁

 天武紀に見える「新字」記事(注④)を国字の発生と関連付ける笹原さんの指摘は刺激的です。この見解が正しければ、「観音像造像記銅板」銘文中に見える「鵤」という国字の発生は天武期以降となり、その「甲午年」も通説の694年(持統八年)でよいとなるからです。(つづく)

〔後記〕八王子の大学セミナーハウスに着きました。八王子は快晴でぽかぽか陽気。「本日、勉強日和」です。

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③春日政治「仮名発達史序説」『岩波講座 日本文学』五 岩波書店、1933年。
 橋本進吉『文字及び仮名遣の研究』岩波書店、1949年。
④『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月条に次の記事が見える。
 「丙午(13日)、命境部連石積等、更肇俾造新字一部四四巻。」


第2292話 2020/11/13

古代日本の和製漢字(国字)「鵤(いかるが)」

 「洛中洛外日記」で連載中の〝新・法隆寺論争〟執筆のため、通説における法隆寺や聖徳太子の研究史を勉強しています。今、読んでいる本が上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)で、40年以上前の本ですがなかなかの名著と思いました。もちろん学問的には一元史観に立っており、批判的に読まなければなりませんが、その博識には学ぶことが多々ありました。
 その中で触発されたことのひとつが和字「鵤(いかるが)」の指摘でした。「洛中洛外日記」2274話(2020/10/26)〝新・法隆寺論争(3) 法隆寺持統期再興説の根拠〟で紹介した、法隆寺に伝わる「観音像造像記(銅板)」の銘文(注②)に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、この中の「鵤」という字が和製漢字(国字)であることが、『斑鳩の白い道のうえに』に記されていたのです。わたしは国字の存在は知っていましたが、その発生が7世紀まで遡るとは思ってもいませんでした。
 この銘文の「甲午年」は六九四年(持統八年)とされていますが、干支一巡前の六三四の可能性もあるかもしれないと思うのですが、本体の仏像は不明で、仏像の様式による編年ができません。そこで銘文の文章や字体から編年できないものかと思案していましたので、「鵤」という字が国字であれば、国字の成立時期がヒントになるのではないかと考えました。そこで、国字成立に関する研究論文が収められている『文字と古代日本 5』(注③)を読んでみました。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
③『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。


第2290話 2020/11/11

アマビエ伝承とダルマさん

 今朝、テレビで縁起物のダルマさんのお店(神奈川県平塚市)が紹介されていました。ダルマさんの製造工程の説明があり、木型に和紙を貼り付けてハリボテを作るのですが、着色前の白いダルマさんの輪郭が例のアマビエによく似ており、もしかすると何か関係があるのではないかと思いました。そのときです。ダルマ人形の由来として、江戸時代に流行した天然痘を防ぐためにダルマさんが作られたと説明があったのです。ダルマさんはアマビエと同じ、流行病を防ぐためのものだったのです。もちろん、ダルマ人形の起源については諸説あるのですが、この説は知りませんでした。
 コロナ禍にあって注目された、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエについて、九州王朝の「天彦(アマヒコ)」を淵源とする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で発表したことがありますが、もしかするとダルマさんはこのアマビエの一つの進化形ではないでしょうか。ダルマさんとよく似たアマビエの絵も江戸時代以降のものが残っていることから、ダルマさんの発生時期と共通しています。
 わたしがアマビエを九州王朝の「天彦(アマヒコ)」に淵源するものと考えた理由は下記の通りです。
アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました(注②)。九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注③)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられ、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前と思われる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。阿毎多利思北(比)孤の名前が千年に及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。
 『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注④)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのです。
 ちなみに、多利思北孤をモデルとする法隆寺の釈迦三尊像も、天平年間に大和朝廷の光明皇后らから、おそらく当時流行していた天然痘封じのために厚く祀られていたことが史料に遺されています(注⑤)。アマビエとダルマさん、そして法隆寺の釈迦像は「流行病封じ」という不思議な縁により、時代を超えて繋がっているかのようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)〝
アマビエ伝承と九州王朝(1~4)〟
②アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、書き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」
 瓦版などの記述によれば、アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされる
③古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
④「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。
⑤古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)


第2214話 2020/08/26

アマビエ伝承と九州王朝(3)

 アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました。特に「アマヒコ」という名前は示唆的です。というのも、九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注①)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられることが多く、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前とされる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。
 もしかすると、阿毎多利思北(比)孤の名前が千年にも及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。というのも、『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注②)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
②「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。


第2176話 2020/06/27

九州王朝の国号(5)

 『法華義疏』冒頭の次の記事から、多利思北孤(上宮王)はそれまでの「倭国」ではなく、「大委国」の字を使用していたと考えられますが、その理由について思い当たる節があります。

 「此是大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』(皇室御物)

 九州王朝内における国号表記の変更は、恐らく六世紀から七世紀にかけての「倭」の字の音韻変化が理由だったのではないでしょうか。文献史学において、「倭」の字が、「wi」から「wa」へ音韻変化していることが知られています。
 『古事記』『日本書紀』には漢字一字一音表記で歌謡が記されています。その為、「わ」の音にどの漢字が使用されているかで、当時の漢字の音韻復元が可能です。たとえば『古事記』ではほとんどが「和」の字が「わ」の表記に使用されていますが、『日本書紀』ではかなり様相が変わります。有名な神武歌謡などでは『古事記』と同じ「和」の字が使用されているのですが、雄略紀の歌謡から「倭」の字の使用が顕著になり、その傾向はその後の歌謡でも主流となります。
 このように古い時代の天皇紀には、「わ」の音韻表記に「和」が使用され、ある時期から「倭」が主流になるという『日本書紀』の史料事実から、本来は「wi」の音であった「倭」が、『日本書紀』成立以前の恐らくは六世紀から七世紀前半頃の間に、「wa」に音韻変化していることがわかるのです。
 こうした「倭」の字の音韻変化により、九州王朝は国号表記を「倭国」から「大委国」に変更したと、わたしは考えています。(つづく)


第2175話 2020/06/25

九州王朝の国号(4)

 『三国志』以降の歴代中国史書には九州王朝の国号を「倭」「倭国」と表記されるのが通例でした。次に国内成立の史料を紹介します。まず重要な史料として、『法華義疏』(本文の成立年代は不明)冒頭にある六世紀末から七世紀初頭の記載と思われる次の記事です。

 「此是大委国上宮王私集非海彼本」『法華義疏』(皇室御物)

 この『法華義疏』は上宮王が集めたものとの説明がなされており、古田先生はこの「大委国上宮王」を九州王朝の天子、多利思北孤のこととされました。ここで注目されるのが「大委国」と記された九州王朝の国号です。人偏が無い「委」の字が用いられていることは重要です。「大」は国名に付された尊称と思われますが、「倭」ではなく、「委」が使用されていることは、九州王朝内の上宮王に関わる記事だけに注目されます。
 この『法華義疏』の「大委国」の国号について、古田先生と検討したことがありました。なぜ多利思北孤(上宮王)はそれまでの「倭国」ではなく、「大委国」を使用したのだろうか。もしかしたら「委奴国王」とある「志賀島の金印」を多利思北孤は見ており、人偏がない「委」の字を国号表記に使用されていたことを知っていたのではないかと述べたところ、古田先生は「志賀島の金印で押印された印影が九州王朝内に残されていたのかもしれない」と言われました。たしかにそのケースならあり得るかもしれないと思いました。
 それではなぜ多利思北孤らの時代に「倭国」から「大委国」としたのでしょうか。(つづく)


第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2136話 2020/04/17

厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷

 勤務先の玄関ホール受付に厄除けの神札が貼ってあることに気づきました。京都市南区にある吉祥院天満宮の神札で、「三密除 新型コロナウィルス 禍退散守護」「吉祥院天満宮」「朱雀天皇承平四年菅神勧請…」などと書かれています。企業としては社員の生命・健康が心配ですし、社内で感染者を出したら操業停止の社会的圧力も受けますから、〝神札にもすがる〟気持ちはよくわかります。
 わたしは厄除けの神札が吉祥院天満宮のものであることに興味を持ちました。もちろん御祭神は菅原道真公ですが、九州王朝説の視点ではそれに先立つ「天神」信仰があり、その「天神」とは九州王朝の祖先神である天照大神(アマテラス)たちのことです。ですから「天神」様に病疫退散を願うのは、おそらく古代からの風習だったように思います。
 古代日本にも度々伝染病が流行したことが諸史料に見えます。著名なものでは聖武天皇の時代、天平年間に王朝中枢が九州方面から流行した天然痘の脅威に曝されたことが『続日本紀』に見えます。天平七年(735)八月、大宰府管内で疫病が発生し、九月に新田部親王が、十一月には舎人親王が相次いで薨去します。「この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行」と『続日本紀』に記されています。しかし感染は止まらず、天平九年(737)には、藤原房前(四月)、藤原麻呂・藤原武麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢の藤原氏一族が次々と病没しています。
 この最中、天平八年(736)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)は法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像に多くの奉納品を施入しています(『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』による)。この法会・施入が「二月二二日」であることにわたしは注目し、「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(『古代に真実を求めて』15集、2012年)を発表しました。この「二月二二日」は釈迦三尊像の光背銘に記された九州王朝の天子、上宮法皇(阿毎多利思北孤)の命日であり、いわゆる近畿天皇家の「聖徳太子」の命日(二月五日、『日本書紀』推古紀)ではありません。
 『日本書紀』が成立した養老四年(720)からわずか十六年後に行われた法会の時に、大和朝廷の皇后や官僚たちが、自らが編纂した『日本書紀』に記された「聖徳太子」の命日を知らなかったとは考えられませんし、何よりも大宝元年(701)に「王朝交替」した近畿天皇家にとって前王朝(倭国・九州王朝)の天子(多利思北孤)を象(かたど)った釈迦三尊像や和銅年間に移築した法隆寺が九州王朝の寺院であったことを忘れ去っていたはずはありません。こうした理由から、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したものであり、従って法隆寺は「九州王朝鎮魂の寺」であったとする仮説を拙論で発表しました。
 同論文は小論ではありますが、わたしとしては自信作の一つです。吉祥院天満宮の「神札」を見て、この論文のことを思い出しました。一日も早く新型コロナウィルスの流行が終わり、「関西例会」などの活動が再開できることを祈っています。


第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第1910話 2019/05/30

「日出ずる国」の天子と大統領(2)

 トランプ大統領が言われた「日出ずる国」の出典は『隋書』国伝に記された九州王朝の天子、多利思北孤の国書の次の記事です。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 多利思北孤自らの国書の文面ですから、当時の倭国は「日出ずる處」にあると倭国側が認識していたことを示しているのですが、実はそれほど簡単な問題ではないと古田先生は考えておられました。というのも、倭国(九州島や日本列島)から太陽は昇らず、はるか東の太平洋の向こう側から昇ることは倭人であれば周知の事実ですから、ここでいう「日出ずる處」は九州島や日本列島のことではないのではないかと古田先生は考えておられました。
 『三国志』倭人伝によれば、倭人は東南へ「船行一年」(一倍年歴の半年に相当)で中南米にあった「裸国」「黒歯国」に行っていたことが記されており、太陽は「裸国」「黒歯国」の東から昇ることを倭人は知っていたはずです。従って、多利思北孤が自らの国を「日出ずる處」と言うとき、その領域は太平洋の東にある〝太陽が昇る処の「裸国」「黒歯国」〟をも含む広大なものと認識していたはずと古田先生はされました。
 そのように考えると、『隋書』に見える国の領域を表した次の記事の意味が変わるかもしれません。

 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
【読み下し文】其の國境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。

 この「東西五月行」が日本列島から中南米の「裸国」「黒歯国」へ向かう際の所用月数かもしれません。
 今回、紹介した古田先生の考えが正しければ、トランプ大統領のアメリカ合衆国を含む北米・中南米こそが九州王朝・多利思北孤にとっての「日出ずる国」ということになりそうですが、いかがでしょうか。