九州王朝(倭国)一覧

第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2667話 2022/01/23

太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益

 九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も拡充され、前期難波宮(難波京)や大和朝廷の藤原京へと受け継がれたとする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で提起しました。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。その太宰府高級官僚の一人、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介します。
 『日本書紀』の持統天皇五年正月条に持統天皇による次の詔が見えます。

 「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条

 この記事によれば、持統五年(691年)の29年前に筑紫史益が筑紫大宰府典に拝命されていたのですから、662年(白鳳二年)には筑紫に大宰府があり、律令制官職(注②)と思われる大宰府の「典」があったことを示しています。これは大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市造営の時代に相当し、当時の九州王朝(倭国)に律令と律令官僚が存在していたことの史料根拠の一つになります。
 この筑紫史益についての九州王朝説の視点から論じた論文があります。下関市の前田博司さん(故人)の「九州王朝の落日」という論文(注③)が1984年に発表されています。一部引用します。

【以下、引用】
 筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、『日本書紀』天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。(中略)
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
【引用おわり】

 前田さんは「古田史学の会」創設時に全国世話人としてご協力いただいた恩人のお一人で、30年ほど前に古田先生と二人で長門国鋳銭司跡を訪問した時、お世話いただいたことがあります。前田さんが1984年の段階で筑紫史益に注目されていたことは驚きです。
 わたしは筑紫史益の位階「直広肆」や姓(かばね)「史」の他に「筑紫」という名前にも注目しています。九州王朝の天子が筑紫君磐井や筑紫君薩野馬のように「筑紫」を名のっていることを考えれば、同じく「筑紫」の名を持つ筑紫史益も九州王朝王族の一人ではないでしょうか。そのため、前期難波宮創建の後も高級官僚として太宰府に残ったのではないかと推定しています。なお、701年の王朝交替後も「筑紫公(ちくしのきみ)」を名のる官人の存在を紹介した論文(注④)をわたしは発表しました。引き続き、九州王朝官僚の研究を続けます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2666話(2022/01/21)〝太宰府(倭京)「官人登用の母体」説〟
②『養老律令』職員令に「大宰府典」が見える。
③前田博司「九州王朝の落日」『市民の古代』6集、市民の古代研究会編、1984年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html
④古賀達也「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html


第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2665話 2022/01/19

前期難波宮「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会での佐藤隆さんの講演で「難波との複都制、副都に関する問題」というテーマに触れられたのですが、その中で〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟というような内容がレジュメに記されていました。これはとても注目すべき視点です。このことについて説明します。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注①)によれば、律令官制による中央官僚の人数は約八千人とのことで、藤原京で執務した中央官僚は九州王朝時代の前期難波宮で執務した官僚達が移動したとする仮説をわたしは「洛中洛外日記」で発表しました(注②)。一部引用します。

〝これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟

 おそらく、佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、〝前期難波宮は「官人登用の母体」〟と考えておられるのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の複都の一つとするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において約八千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、九州王朝説の視点を徹底すれば問題点は更に深部へ至ります。すなわち、前期難波宮で執務した大量の律令官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。わたしは、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が短期間に突然のように出現することは有り得ないと考えています。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②古賀達也「洛中洛外日記」1975話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟


第2664話 2022/01/17

難波宮の複都制と副都(2)

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた「難波との複都制、副都に関する問題」とは栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)に基づかれたもので、「洛中洛外日記」(注②)で次のように栄原説を紹介しました。

〝古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。〟

 ここでの「古代日本」とは七世紀から八世紀における大和朝廷のことです。そして、唯一の例外が天武期の飛鳥と難波とされました。この栄原説を佐藤さんは紹介されました。その史料根拠は次の天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 正木裕さんの研究(注③)によると、この複都詔は34年前の常色 3年(649年)のことで、九州王朝の天子伊勢王が前期難波宮造営を命じた詔勅とされました。そうであれば、複都制を採用したのは九州王朝であり、後の大和朝廷の宮都制とは異なっていたことの理由がわかります。逆に言えば、〝天武の複都詔〟の不自然さこそが前期難波宮九州王朝複都説の傍証の一つだったわけです。そうであれば、なぜ九州王朝は複都制を採用し、大和朝廷は採用しなかったのかという理由の解明が課題となります。
 佐藤さんの講演を聴いて、新たな研究テーマに遭遇できました。これも学問研究の醍醐味ではないでしょうか。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③正木裕「九州王朝の天子の系列2 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ」『古田史学会報』164号、2021年。


第2663話 2022/01/16

難波宮の複都制と副都(1)

 昨日の新春古代史講演会(注①)での佐藤隆さんと正木裕さんの講演は示唆に富むものでした。そこで佐藤さんの「難波との複都制、副都に関する問題」という指摘について、その重要性を解説したいと思います。
 今から15年前に前期難波宮が九州王朝の「副都(secondary capital city)」とする説をわたしは発表したのですが(注②)、その後、「複都制(multi-capital system)」と考えた方が良いことに気づき、今は前期難波宮九州王朝複都説という表現を用いています。その後、太宰府(倭京)と難波京の「両京制(dual capital system)」という概念に発展しました。その経緯にいては「洛中洛外日記」(注③)で説明してきたところです。
 わたしの当初の視点と問題意識は、九州王朝(倭国)の首都は太宰府(倭京)で、その副都が前期難波宮(難波京)というものでした。その根拠は『隋書』や『旧唐書』に倭国の首都が筑紫から難波へ移動(遷都)したとする痕跡が見えないことです。この点については古田先生も同見解でした。このこともあって、先生は前期難波宮九州王朝副(複)都説に賛成されませんでした。
 他方、白雉改元の儀式を行った前期難波宮は副都ではなく、首都とするべきという西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からのご批判もありました。こうした意見がありましたので、わたしは前期難波宮を副都ではなく、複都の一つとする見解に変わりました。すなわち、太宰府と前期難波宮の双方を九州王朝の天子は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの首都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を変更しました。(つづく)

(注)
①1月15日(土)i-site なんば(大阪公立大学なんばサテライト)で開催。主催:古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会。
○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」1861話(2019/03/18)〝前期難波宮は「副都」か「複都」か〟
 同「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟


第2660話 2022/01/13

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)

 「去京師一萬四千里」と記された距離を考えるにあたり、唐の長里を560mとする説の根拠や妥当性から検証しなければなりません。そこで参考になったのが、「レファレンス協同データベース」(注①)で紹介された『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」に付された次の解説です。

 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」

 1里559.80mは機械的に算出されたとあり、これを逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cmとなり、1尺31.1cmの尺を1800倍して1里を559.80mとしたようです。これは1800尺を1里とする古代中国のルールに基づいた計算ですが、唐代には複数の尺単位があったことが山田春廣さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に見えます。次の通りです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5
 ※「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。

 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の距離は大きく変わります。各尺を1800倍すると次のようになります。

唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m

 次いで、『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)により、『西域記』の一里の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を320m、441m、453m、454mとする説の紹介があります(注②)。
 更に、唐代の1里を約400~440mと考察している資料に森鹿三著「漢唐一里の長さ」(注③)があり、次の唐代の里単位諸説が見えます。

○リヒトホーフェン説 440m
○藤田元春説 436.3m
○狩谷棭斎説 小尺441m 大尺529m

以上のように唐代の1里を320mから大尺の529mとする諸説があり、それぞれに根拠が示されています。他方、わたしが『旧唐書』地理志に見える里程記事で、現代の地名や道路に比較的対応した二点間の距離から逆算した1里の数値は次の通りでした。

○京師⇒河南府(洛陽付近) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 これらの計算値と紹介した諸説の数値を比較検討した結果、「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」(注④)という感想に至ったわけです。(つづく)

(注)
「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②同①。
③森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。
④古賀達也「洛中洛外日記」2648話(2021/12/26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟


第2659話 2022/01/12

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (9)

 「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」と「洛中洛外日記」2648話〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟に記しました。そうした疑念を裏付けるような調査記事があったからです。栃木県立図書館より提供された「レファレンス協同データベース(2015年09月11日)」(注①)です。関係箇所を抜粋して転載します。

【以下、転載】
〔質問〕中国唐代の1里は何メートルか。
〔回答〕資料によって異なる距離を示していました。
■唐・五代の1里は559.80mと記載している資料
○『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)
 p.巻末12に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 この表から、周の時代(-前256)から民国(1912-)までの1尺、1里等の基準単位の変化が分かります。
 お尋ねの「唐・五代(618-960)」の1里は559.80mとされています。
 なお、表の説明として次のとおり記載がありました。
 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」
○『中国古典文学大系 14 資治通鑑選』(平凡社 1983)
 p.494に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 先に挙げました『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』と同じ情報が掲載されています。
■唐代の資料に関連して1里を紹介している資料
○『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)
 p.416-417「『西域記』の「一里」の長さ」の項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里に関して複数の資料を紹介しています。
 この項で紹介されている資料は一里を約320m、約453m、454m、441mとしています。
■唐代の1里を約400~440mと考察している資料
○森鹿三/著「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究 5(6)』,438-441,1940-10-31、注②)
 以下の資料もお調べしましたが、お尋ねの内容は確認出来ませんでした。
○『図解単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝/編著 柏書房 1989)
 p.194「中国の尺度・面積・量・重さの単位の変遷」に、周から清の時代までの基準単位の変化がまとめられています。
 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には「578m」とあります。
【転載終わり】

 「唐代の1里は何メートルか」という質問への回答として「資料によって異なる」とし、その根拠となる資料を紹介したものです。ここで注目されるのが次の三点です。

(1) 「唐・五代(618-960)」の1里559.80mは呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。
(2)『西域記』の「一里」の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を約320m、約453m、454m、441mとしている。
(3) 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には578mとある。

 この調査によれば、1里560m(559.80m)とする説が「1尺の数値を基にして機械的に算出した」結果であれば、唐代の1尺の実長(逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cm)が根拠となっていたわけです。また、『西域記』などの諸史料に記された里程記事を根拠とした場合、「一里」の長さが約320~441mと複数になるとのことから、『旧唐書』地理志の里程記事と同様の史料状況(1里の長さはバラバラ)を示しているようです。
 このように唐代の1里の実長について諸説ある以上、『旧唐書』の里程記事の数値を実際の距離と比較して倭国の位置・距離を論じるのは学問的に危うい方法とわたしは感じました。(つづく)

(注)
①「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。


第2657話 2022/01/09

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (8)

昨晩、友人達とリモートで新年の挨拶と勉強会を行いました。様々なテーマで意見交換や情報交換ができ、とても刺激的で有意義でした。なかでも昨年末から「洛中洛外日記」で検討を続けている〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」〟(注①)について、長里での理解も可能ではないかとする見解が日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から出されました。その主たる論旨は次のようでした。

(1) 『旧唐書』の記事からは「去京師一萬四千里」の根拠は不明とせざるを得ない。
(2) そのうえで、次のような視点に基づき、長里でも理解可能ではないか。
(3) 『旧唐書』百済伝にある、京師(長安)から百済(の都)までの距離「在京師東六千二百里」(長里とする)を重視する。
(4) 『隋書』俀国伝にある、百済から俀国までの距離「水陸三千里」も隋唐代の長里と見なし、『旧唐書』の6,200里に加算すれば9,200里となる(いずれも長里とみなす)。
(5) 更に朝鮮半島内の行程距離や、倭国の都を前期難波宮とすれば更に距離が伸びて、総里程は増える。
(6) 唐代の長里を一里400~500mとする諸説があり(注②)、それによれば14,000里は5,600~7,000kmであり、長安(西安)から難波(大阪)までの行程が道行きのジグザグ行程であれば、その総里程を「去京師一萬四千里」とする『旧唐書』の記事を長里で理解できるのではないか。

 以上のような日野さんの見解には解決しなければならない問題点が残されてはいますが、こうした視点・解釈があることを知り、とても勉強になりました。今のところ、ただちに賛成はしかねますが、検討すべき仮説と思いましたので、日野さんの了解を得て、紹介させていただきました。自説と異なる見解は学問の深化発展にとって貴重です。本テーマについては、日野さんの見解も含めて引き続き検討したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2642~2648話(2021/12/21~26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(7)〟
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。この他にも諸説ある。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。


第2651話 2021/12/29

奈良新聞に〝「邪馬壹国九州説」有力〟の記事

 令和三年の最後を飾る素晴らしいプレゼントが竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。12月28日付の奈良新聞です。
 その第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟という見出しで(邪馬台国ではなく邪馬壹国と表記)、正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)の講演「改めて確認された博多湾岸の宮都」(12月14日、和泉史談会主催)が記事として掲載されているのです。同記事の冒頭には次のように紹介されています。

 「2021年もまもなく終わろうとしている。今年もコロナ禍で古代史関係の数多くのイベントや講演会が中止となった。そんな中、大人数ではなく、小規模な講演会が京阪奈では開催され続けてきた。その中の一つの講演会を追ってみた。(後略)」

 記事では正木さんの講演内容が鉛同位体分析グラフや博多湾岸の地図も使って丁寧に紹介されているほか、「2021年の古代史講演会」一覧も付されており、そこには古代大和史研究会(原幸子代表)、古田史学の会(古賀達也代表)、市民古代史の会・京都(山口哲也代表)、誰も知らなかった古代史の会(正木裕代表)、和泉史談会(辻野安彦代表)、市民古代史の会・東大阪(服部静尚代表)、市民古代史の会・八尾(服部静尚代表)の各会が主催した講演会の講師と演題が紹介されており、古田史学の会々員を初めとする研究者による関西各地での講演活動の記録となっています。
 古田先生の邪馬壹国説や九州王朝説が人々に受け入れられつつあることが紙面からうかがえるのですが、地元紙として邪馬台国畿内説を支持していても不思議ではない奈良新聞に、こうした古田説に基づく講演記事が大きく掲載されていることに驚くと共に、時代の変化を感じました(注)。
 あらためて各講演会の主催者の皆さんに感謝し、正木さんを初めとする講師の方々に敬意を表したいと思います。令和四年(2022年)はもっと良い年になりそうです。

(注)元橿原考古学研究所の関川尚巧氏は、奈良からは「邪馬台国」の痕跡は出土せず、考古学的にも北部九州にあったとする。
 関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。

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