九州王朝(倭国)一覧

第2218話 2020/08/30

文武天皇「即位の宣命」の考察(3)

 文武天皇「即位の宣命」の中には、多元史観・九州王朝説の視点から注目すべき用語が用いられています。中でも九州王朝の末期に、文武が「天皇」号を称していることは、晩年の古田新説、すなわち近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した大宝元年(701年)からとする理解を否定します。

《文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」》
①現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命
②高天原に事始めて、遠天皇祖の御世
③天皇が御子のあれ坐(ま)さむ
④現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命
⑤神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命
⑥天皇が朝庭
⑦詔りたまふ天皇が大命

 このように「天皇」号が七カ所に使用されており、その内の④「倭根子天皇命」は前代の持統のことであり、このとき近畿天皇家では文武も持統も「天皇」を称していることがわかります。また、冒頭には「集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等」とあり、天皇の子供たちは「皇子」と呼ばれていたこともうかがえます。
 この宣命中の「天皇」「皇子等」の記述と対応する様に、飛鳥池遺跡から「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」木簡が出土しており、その出土層位からこれらは七世紀後半の天武期の木簡とされています。従って、当宣命と出土木簡が対応しており、文武天皇「即位の宣命」の同時代性(697年の詔)を疑うことは困難です。(つづく)


第2217話 2020/08/29

文武天皇「即位の宣命」の考察(2)

 文武天皇「即位の宣命」が掲載されている『続日本紀』は基本的には漢文体で書かれていますが、その中の「宣命」と呼ばれる詔勅は万葉仮名を伴う特殊な和文「宣命体」で書かれています。『続日本紀』にはこの宣命が62詔あり(数え方による異説あり)、その最初が今回のテーマとした文武天皇「即位の宣命」です。
 この文武天皇「即位の宣命」は、次の二つの特徴を有しています。

①王朝交替前の文武元年(697年)という「九州王朝(倭国)の時代」に出されている。古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)とされる。
②『続日本紀』全四十巻の成立は延暦十六年(797年)だが、当「宣命」記事は文武元年(697年)に出された同時代史料と見られる。

 この二つの特徴により、「九州王朝(倭国)の時代」に近畿天皇家の文武らがどのような認識に基づき、どのような主張をしていたのかということを当宣命から知ることができます。この点、『古事記』や『日本書紀』のように、王朝交替後に編纂され、編纂当時の自らの大義名分により古い昔(九州王朝時代)のことを真偽取り混ぜて造作されたという史料性格とは異なります。もちろん、『続日本紀』編纂時に当「宣命」にも編集の手が加わっているという可能性を完全には否定できませんから、文献史学の常道として、史料批判や関連他分野との整合性のチェックは大切です。(つづく)


第2216話 2020/08/28

文武天皇「即位宣命」の考察(1)

 このところ、アマビエ伝承や滋賀県の「聖徳太子」伝承など、最近、注目されているテーマを集中して取り上げましたが、それらの考察も一段落しましたので、今回から新たに文献史学のベーシックなテーマを論じます。それは『続日本紀』冒頭に見える文武天皇の「即位の宣命」です。
 古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)に起こったとされています。従って、近畿天皇家はそれまでは九州王朝の有力臣下であり、列島内ナンバーツーの実力者です。その近畿天皇家が「天皇」号を名乗ったのは、初期の古田説(古田旧説)では七世紀初頭の推古の時代からとされていましたが、晩年の古田新説では王朝交替した701年からと変更されました。この点について、わたしは古田旧説を支持していますが、古田新説を支持する意見もあることから、検証や論争が続くことと思います。このように異なる意見が自由に出され、真摯な論争が行われることは学問の発展にとって不可欠であると、わたしは考えています。
 今回のテーマ〝文武天皇「即位宣命」の考察〟は、この新旧の古田説の検証にも関係し、王朝交替時の実態に迫る上でも重要なテーマです。古代史学界でもこれまで多くの論文が発表され、論争が続いていますが、わたしは多元史観・九州王朝説の視点から考察することにします。しばらく、お付き合い下さい。
 参考までに同宣命の訳文を掲載します。(つづく)

[文武天皇位に即きたまふ時の宣命]
 (『続日本紀』巻第一、文武天皇)

 元年(六九七)八月甲子朔禅を受けて位に即きたまふ。
 庚辰(十七日)詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔る。

 高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(おすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 是を以ちて、天皇が朝廷の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 故(かれ)、如此(かく)の状(さま)を聞きたまへ悟りて、款(いそ)しく仕へ奉らむ人は、その仕へ奉らむ状の随(まま)に、品品(しなしな)讃(ほ)め賜ひ上げ賜ひ治め賜はむ物そと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。
 ※岩波文庫『続日本紀宣命』等による。


第2215話 2020/08/27

アマビエ伝承と九州王朝(4)

 アマビエ伝承において、アマヒコが「肥後国の海」に現れるということに、わたしは思い当たることがありました。九州王朝(倭国)の天子や王の存在や事績が後に「アマの長者」伝説として伝わる際、「アマ」には「天」や「尼」の字が使われるのですが、肥後国の「アマの長者」伝説にはなぜか「蜑」という珍しい字が使われているのです(注①)。
 肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承が史料中に見え、それには「蜑(アマ)の長者」と記されており(注②)、この「蜑」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことだそうです。アマヒコが「肥後国の海」から現れると伝えられていることと、肥後の「アマの長者」は「蜑」という海に関係する珍しい字が採用されていることとが両伝承の結束点です。
 なお、「蜑の長者」の娘が菊池の米原(よなばる)長者に嫁入りしたという伝承もあり(注③)、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、肥後国府(熊本市)から鞠智城までの道路「車路(くるまじ)」を「蜑の長者」が造営したとされています。
 今回の〝アマビエ伝承と九州王朝〟では、同伝承の主役「アマヒコ」が九州王朝の天子、あるいは王族に由来するという作業仮説(思いつき)に基づき、両者の共通点を傍証として取り上げました。しかしながら、アマビエ伝承そのものが肥後地方に遺っていないという弱点を持つため、残念ながら作業仮説の域を出ていません。引き続き、調査検証を進めていきます。新たな発見や論証の進展が見られましたら報告します。(おわり)

(注)
①web辞書によれば、「蜑」の音読みは「タン」、訓読みは「あま」の他に「えびす」もあり、九州王朝の天子や王(アマの長者)にふさわしい漢字とは思われない。
②古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
③古賀達也「洛中洛外日記」949話(2015/05/11)〝「肥後の翁」の現地伝承〟


第2214話 2020/08/26

アマビエ伝承と九州王朝(3)

 アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました。特に「アマヒコ」という名前は示唆的です。というのも、九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注①)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられることが多く、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前とされる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。
 もしかすると、阿毎多利思北(比)孤の名前が千年にも及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。というのも、『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注②)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
②「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。


第2213話 2020/08/25

アマビエ伝承と九州王朝(2)

 流行病を防ぐというアマビエ伝承に、わたしが関心を持ったのは九州王朝史研究において古代の感染症(天然痘など)記事が見出されたことによります。たとえば、九州年号史料に「老人死す」という記事が見え、それがどのような事件を意味するのか不明だったのですが、新型コロナウィルスによる高齢者の死亡や重症化が多いことから、同記事は感染症発生の痕跡ではないかと考えました。

①『二中歴』「年代歴」
 「蔵和」(559~563年)「此年老人死」

②『田代之宝光寺古年代記』
 「戊刀兄弟 天下芒鐃ト言 健軍社作始也 老人皆死去云々」
 ※「戊刀」は「戊寅」(558年)のこと。

 ①『二中歴』の九州年号「蔵和」の細注に「此年老人死」とあります。しかし、「此年」が「蔵和」年間(559~563年)のどの年のことか不明ですし、「老人」は特定の人物なのか、老人一般のことなのかもこの記事からはわかりません 。
 他方、②『田代之宝光寺古年代記』には九州年号「兄弟」(558年)の年の記事中に「老人皆死去」があり、「皆」とありますから、「老人」は特定の人物ではなく、やはり新型コロナの様な伝染病が発生し、「老人が皆死去した」と理解するのが穏当のように思われます。
 更にこの記事の前半部分「天下芒鐃ト言 健軍社作始也」は熊本市の健軍神社創建記事であることから、この「老人皆死去」という記事の場所も肥後地方のことと考えるべきでしょう。ちなみに、「田代之宝光寺」は鹿児島県肝属郡田代村にあったお寺のようですから、『田代之宝光寺古年代記』に記された同記事の舞台は肥後地方とする理解が支持されています。
 この記事以外にも、九州年号「金光」(570~575年)のときにも天下に熱病が流行ったため、仏像(善光寺如来)が百済から贈られてきたり、厄除けのために九州王朝で四寅剣(福岡市元岡遺跡出土)が作刀されたことが、正木裕さんの研究により明らかとなっています(注)。
 この肥後国を舞台とした健軍神社創建や流行病発生の記憶が、今回のアマビコ(アマビエ)伝承の淵源にあるのではないかと、わたしは考えたのです。(つづく)

(注)
 正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(『古田史学会報』一〇七号、二〇一一年十二月)
 古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(同上)
 古賀達也「金光元年(五七〇)の『天下熱病』」(「洛中洛外日記」八四八話 二〇一五年一月三日)
 正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」(『古田史学会報』一五七号、二〇二〇年四月)
 古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」(『東京古田会ニュース』一九三号、二〇二〇年七月)


第2212話 2020/08/24

アマビエ伝承と九州王朝(1)

 コロナ禍の中、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエと呼ばれる妖怪が注目されています。その姿が江戸時代の瓦版などに画かれており、web上ではおおよそ次の様な説明がなされています。

①アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、描き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」

②瓦版などの記述によれば、アマビエは、肥後国の海辺で役人の柴田忠太郎が遭遇した際、「今年から六年の間は諸国豊作だが、病多き事なり」と予言した。さらに「私の姿を早く写して人に見せるならばはやり病にはかからない」と告げて海中に消えた。

③アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされるが、それにつづく郡名は架空(真字郡、真寺郡、青沼郡など)であることも多く、その地域内の具体的にどこの海であったかが細かく語られることは無い。

④海彦(越後国)、尼彦入道(日向国)などの例も見られる。天日子尊(『東京日々新聞』)は越後国の湯沢近辺の田んぼから現われたと語られている。

⑤柴田という武士が正体を探りに出向くと、姿を現わし、自分はアマビコというものであると語る。柴田五郎左衛門、柴田五郎右衛門など、アマビコに遭遇したとされる人物が文中に登場する場合、ほとんどは熊本の「しばた」という名の武士であると書かれている。

 おおよそ、以上の様に解説されています。この中でわたしが着目したのが、「アマヒコ」という名前と、出現地が「肥後の海」であるという点でした。(つづく)


第2209話 2020/08/21

高良玉垂命と甲良町と高良健吾さん

 前話に続き、滋賀県と九州王朝関係の話題をもう一つ紹介します。飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある滋賀県甲良町が、筑後の高良大社(祭神は高良玉垂命)と関係があることは、「洛中洛外日記」147話(2007/10/09)〝甲良神社と林俊彦さん〟で既に指摘した通りです。御祭神の高良玉垂命が五世紀頃の九州王朝の王(倭の五王)であったとする研究もわたしは発表しています(注①)。
 そのご子孫が筑後地方に現在も続いていることが判明しています。稲員(いなかず)、鏡山、神代(くましろ)、隈(くま、大善寺玉垂宮神官の家系)と名乗られている一族です。ところが、地元(高良山の近傍)にはそのものずばりの「高良」というお名前をわたしは聞いたことがありませんでした。
 他方、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で高杉晋作役をされた人気俳優の高良健吾さんは、そのお名前から九州王朝と縁(ゆかり)のある方ではないかと思っていたところ、2016年の熊本大地震で、故郷の熊本にボランティアで救援活動に行かれたとの報道に接し、やはり九州のご出身であったのかと納得したものです。ですから、何らかの事情で「高良玉垂命」の御子孫は、地元では「高良」を名乗らず、他県で「高良」を名乗られたことになるわけです。
 似たような例で、わたしのご先祖は星野を名乗っていたのですが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)のとき、抵抗した星野宗家は滅び、新潟県小千谷市まで逃げ延びた者は当地で星野を名乗り続けました。九州に残った者は名前を変えて潜伏したようです。わたしのご先祖は、星野から佐藤に姓を変えて加藤清正公に仕え、その後、筑後の浮羽郡古賀に土着したことから古賀姓になったと伝えられています。
 このような例があることから、高良健吾さんのご先祖も九州王朝滅亡時に肥後に逃れ、高良を名乗られたのではないかと想像していました。
 その後、「高良」性は鹿児島県に多く分布していることが、久留米市在住の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただきました。下記の通りで、「高良」さんが久留米市におられることもわかりました。薩摩地方に「高良」姓が多いことは、九州王朝滅亡時に薩摩まで落ち延びた九州王朝王族(筑紫君薩野馬か。鹿児島県大宮姫伝説に関する正木裕さんの優れた研究があります。注②)と関係するのではないでしょうか。犬塚さんの調査結果と説明文を抜粋して転載します。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集(新泉社。1999年)
②正木裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(古田史学の会編、明石書店。2019年)

【姓名検索サイトでの調査報告・犬塚幹夫さん】(2016年)
全国計  1,420人
 このうち10人以上いる都道府県(単位:人)
埼玉県    10
東京都 27
神奈川県   25
静岡県 16
愛知県 11
大阪府 42
兵庫県 13
広島県 11
山口県 12
福岡県 115
熊本県 11
鹿児島県 54
沖縄県 1,004

 このうち断トツに多い沖縄県は、現那覇市の高良(たから)という地名を名乗ることになった一族とされており、九州王朝とは関係ないと思われます。
 福岡県、熊本県、鹿児島県の内訳は次のとおりです。

福岡県   115
 久留米市   38
 朝倉市    34
 福岡市    13
 北九州市    7
 大刀洗町    5
古賀市      3
 飯塚市     3
 その他    12

熊本県    11
 熊本市     3
 山鹿市     3
 荒尾市     2
 玉名市     1
 合志市     1
 南関町     1

鹿児島県   54
 南九州市   19
 鹿児島市   15
 南さつま市   6
 薩摩川内市    4
 曽於市      3
 指宿市      2
その他 5

 各県の傾向について言えば、まず福岡県は、県内の大都市圏である福岡市と北九州市を除けば久留米市と朝倉市に集中し、熊本県は福岡県に近い県北地方に分布し、鹿児島県は薩摩地方がほとんどを占めており大隅地方や島部はごくわずかということが分かりました。非常に興味深い結果です。(転載、終わり)


第2205話 2020/08/17

滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(3)

 前話〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承(2)〟で紹介した近江における九州王朝との関係を示唆する遺物・遺構5件の外に、滋賀県大津市の崇福寺跡から出土した無文銀銭も九州王朝が発行した可能性があるとする論文をわたしは30年ほど前に発表したことがあります。「古代貨幣『無文銀銭』の謎」(『市民の古代研究』24号、1987年11月。市民の古代研究会編)という論文で、その根拠として次の点をあげました。

①江戸時代(宝暦年中)に摂津国天王寺村(現、大阪市天王寺区)から無文銀銭が72枚出土したとする記録(注1)があり、貨幣として流通していたと考えてもよい出土量である。
②崇福寺跡から出土した無文銀銭(12枚)の中に、「田」「中」の字のような刻印を持つものがあり、これは『大日本貨幣史』(大蔵省、明治九年発行)に掲載された無文銀銭の刻印に似ていることから、これらの無文銀銭が同一権力者により発行された可能性を示唆している。
③天平十九年に書かれた『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』の銀銭の項に「八百八十六文之中九十二文古」とあり、この「古」とされた「九十二文」の銀銭とは無文銀銭のことと考えられる。

 以上の点を拙稿で指摘したのですが、発表当時は「富本」銅銭が飛鳥池遺跡から出土する前であり、富本銭が古代貨幣とは認識されていませんでした。ですから、③の「九十二文古」とされた銀銭は「富本」銀銭(未発見)の可能性もあると今は考えています。
 今回、わたしが改めて着目したのが無文銀銭の出土分布でした。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行の「リーフレット京都 No.82(1995年10月) 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」によれば、「現在知られている無文銀銭の数は、出土品、収集品、拓本を含む文献資料などすべて合わせると約130枚を数え、このうちの25枚が現存している。」とあります。この現存する25枚と出土地が記録された大阪市天王寺区の72枚(※「リーフレット京都 No.82 発掘ニュース17 北白川の無文銀銭」は約100枚とする)の分布を見ると、下記の様に九州王朝の複都と考えている難波京と近江大津宮(注2)が分布の二大中心となります。こうしたことから、無文銀銭も九州王朝と滋賀県(近江国)との関係を示唆する遺物と見ても良いのではないでしょうか。

【無文銀銭出土地】
出土地 数(計25)
大阪府  1 +(※約100:摂津天王寺村から江戸時代に出土)
滋賀県 16  (内、12枚は崇福寺跡、1枚は大津市唐橋遺跡出土)
奈良県  6  (内、3枚は明日香村、1枚は藤原京出土)
京都府  1
三重県 1

 上記の内、京都府の1枚は京都市左京区北白川別当町の小倉町別当町遺跡からの出土(注3)で、同地は滋賀県大津市の近傍です。また、滋賀県からは、飛鳥時代の絵画が発見された西明寺がある甲良町(尼子西遺跡)から1枚、創建法隆寺(若草伽藍)と同范瓦が出土した蜂屋遺跡がある栗東市(狐塚遺跡)からも1枚出土していることが注目されます。

(注)
1.内田銀蔵著『日本経済史の研究・上』(1924年〔大正13年〕、同文館)による。
2.正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説やわたしの「九州王朝近江遷都」説によれば、近江大津宮は「九州王朝(系)の王宮」ということになる。
3,「洛中洛外日記」1886話(2019/05/06)〝京都市域(北山背)の古代寺院(2)〟参照。


第2200話 2020/08/09

『隋書』「俀国」表記の古田先生の理解

 『隋書』夷蛮伝の「俀国」の「俀」の由来について、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されていることを「洛中洛外日記」2182話(2020/07/11)〝九州王朝の国号(8)〟で紹介し、同2183話(2020/07/12)〝九州王朝の国号(9)〟では、「古田先生は、五世紀以来、『タイ国』という名称を用いた九州王朝が『倭』に似た文字の『俀』と一字で表記した」と説明しました。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 この引用文の直前の「俀国の由来」冒頭には、次のようにも述べられています。

〝ここで「俀」という、わたしたちにとって〝目馴れぬ〟文字を国名とした由来について考えてみよう。
 『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀(タイ)国」と名乗っていた。そのように考えるほかない。〟

 この文章は『失われた九州王朝』「第三章 高句麗王碑と倭国の展開」(朝日新聞社、1973年)に記されたもので、その時点での古田先生の見解を示しています。ところが、東京古田会の機関紙『東京古田会ニュース』バックナンバーを精査したところ、次の古田先生の寄稿文がありました。要点部分を転載します。

〝第一に「俀」の訓み。わたしは「タイ」と訓んできたが、田口さんは「ツイ」と訓んでおられる。お聞きすると、「漢音では『タイ』だが、呉音系列では『ツイ』。九州王朝は南朝系だから『ツイ』と訓んだ。」とのこと。なるほど、一つの筋道だ。
 だが、わたしはお答えした。
 「問題は、この『俀』という文字を“使った”のが、九州王朝側か、それとも隋書を作った『唐』側か、という点です。
 この『俀』という字には『よわい』という意味しかありません(諸橋、大漢和辞典)。そんな字を、九州王朝自身が“使って”外国(隋か唐)への国書を送るものか。有名な『日出ずる処の天子』を自称するほど、誇りに満ちた王朝ですからね。」
 わたしは言葉を次いだ。
 「ですから、わたしの考えでは、九州王朝側は『大倭』(タイヰ)と国書に書いたのではないか。と思うのです。
 『倭』は、魏や西晋など、洛陽・西安滅亡の『四一六』、南北朝成立以前には『wi』です。右の北朝、つまり北魏(鮮卑)の黄河流域制圧以後、『wa』の音が成立してきた、と思います。
 (中略)
 それで、『大倭』は『タイヰ』と発音していたはずです。ところが、隋や唐側は、これを“面白く”思わなかった。『大隋』というのは、隋自身の“誇称”ですからね。『天子』を自称する倭国側には当然でも、隋には『不愉快』。いわんや唐にとっては、“許しうる国号”ではありません。ですからこれを『弱い』という意味の『俀』に“取り変え”て表記したのではないでしょうか。
 ちょうど、三国志に出てくるように、新の王莽が高句麗を敵視して『下句麗』と書き改めたという、あれと同じです。文字の国独自の“やり口”ですね。」
 わたしはそのように語った。
 「まかりまちがっても、倭国側が自分でわざわざ『弱い』という意味の文字を使うはずはありませんからね。」
と、わたしにとっても、永年の模索の結論だったのである。〟『東京古田会ニュース』108号(2006年5月)「閑中月記 第四十一回 創刊『なかった』」

 このように2006年段階では、「俀国」という文字使用は、隋書を作った『唐』側によるものとされています。そして末尾にあるように、このことを「永年の模索の結論だった」と述べておられますから、自説変更のため、三十年以上、模索されていたわけです。ですから、本件についての「古田説」を紹介する場合は、2006年段階の〝「俀国」表記は隋書を作った唐側による〟とするのが適切ではないでしょうか。


第2192話 2020/08/01

九州王朝の国号(14)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に中国北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたとする理解に至りましたので、本シリーズ最後のステージ、七世紀後半から大和朝廷と王朝交替する701年(ONライン)までの期間の国号について考察します。
 この時期の九州王朝の国号を記した同時代史料が見つかりませんので、八世紀前半の史料中に残された七世紀の国号表記を史料根拠として紹介します。次の例が比較的有力なものです。

①「対馬国司忍海造大国言さく、『銀始めて当国に出でたり。即ち貢上る』。是れによりて大国に小錦下位を授けたまう。おおよそ倭国に銀有ることは、此の時に始めて出る。」『日本書紀』天武三年(六七四)三月条

②「唐の人我が使いに謂ひて曰く、『しばしば聞かく、海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼儀敦(あつ)く行はるときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈(あに)信(まこと)ならずや』といふ。」『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月条

③「三宝の奴(やっこ)と仕(つか)へ奉(まつ)る天皇が盧舎那の像の大前に奏(もう)し賜へと奏さく、此の大倭国は天地開闢(ひら)けてより以来に、黄金は人国より献(たてまつ)ることはあれども、斯(こ)の地には無き物と念(おも)へるに、聞こし看(め)す食国(おすくに)の中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。(後略)」『続日本紀』聖武天皇・天平勝宝元年(七四九)四月宣命

 ①の天武紀に見える「倭国」や②③の「大倭国」は共に「日本」全体のことを指していますから、『日本書紀』成立時点(720年)において、九州王朝の領域を「倭国」と表記していたことになります。②の「大倭国」は遣唐使が聞いた中国側の認識です。また、聖武天皇の宣命に見える「大倭国」も天平勝宝元年(七四九)時点のものと考えられますから、聖武天皇が九州王朝の国号を「大倭国」と認識していたことがわかります。
 こられ史料の「倭国」「大倭国」という記事から、王朝交替以前の九州王朝の国号が多利思北孤の時代の国号と同一と考えてよいと思われます。それ以外の国号としては、「大委国」と九州王朝系近江朝が採用した「日本国」くらいしか史料に見えませんので、九州王朝の国号は次のような変遷をたどったとして良いのではないでしょうか。

1世紀頃 委奴国(志賀島の金印による)
3世紀頃~ 倭国(『三国志』による)
6世紀末頃~7世紀末 大委国(主に国外向け表記。『法華義疏』『隋書』による)、倭国、大倭国
7世紀後半(670年~) 日本国(九州王朝系近江朝) ※この「日本国」は7世末頃(藤原京)から大和朝廷に引き継がれる。

 以上が九州王朝国号の考察結果ですが、新たな史料や論理の発見により、更に修正が必要になるかもしれませんので、現時点での到達点とご理解下さい。引き続いて、「大和朝廷の国号」をテーマに考察を行います。(おわり)


第2191話 2020/07/31

九州王朝の国号(13)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に国号を「倭国」から「大委国」に変更したと、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」などを根拠に考えたのですが、事実はそれほど単純ではないことに気づきました。というのも、九州年号「倭京」(618~622年)の存在が問題を複雑にするからです。
 この九州年号「倭京」は九州王朝が太宰府条坊都市を都(京)にしたことによる年号と解されます。その字義から、「倭国」の「京(みやこ)」を意味すると考える他ありません。従って、倭京元年(618)時点の国号表記に「倭」の字が使用されていたことになります。このときは多利思北孤の治世ですから(多利思北孤の没年は法興32年、622年)、先に示した国号表記「大委国」の「委」とは異なります。
 この矛盾を解決するために、考察を続けた結果、次のような理解に至りました。

①九州王朝は国名を「wi」と称し、南朝系音(日本呉音)で「wi」と発音する「委」「倭」の字を当てた(委奴国、倭国)。
②中国での北朝の勃興により、北方系音(日本漢音)への音韻変化が発生し、「倭」字は「wa」と発音するようになった。
③その結果、九州王朝は北朝系中国人から「倭:wa」と呼ばれるようになった。
④自らを「倭:wi」と称していた九州王朝は、音韻変化していない「委:wi」の字を国号表記として採用することによって、北朝系中国人からも「wi」と呼んでもらえるようにした。その痕跡が『法華義疏』に見える「大委国」である。
⑤他方、国内では伝統的日本呉音により「倭:wi」と発音されており、従来の国号の「倭」字使用を変更する必要はなかった。その根拠が「倭京」(618~622年)という九州年号である。
⑥わたしたちは九州年号の「倭京」を「わきょう」と呼んでいたが、公布当時(七世紀前半頃)は「ゐきょう」(日本呉音)と発音していたと考えられる。

 以上の理解により、九州王朝が多利思北孤の時代に北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたと、わたしは考えるようになりました。(つづく)