九州王朝(倭国)一覧

第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」


第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2098話 2020/03/02

沖ノ島出土の

カットグラス碗片(国宝)はペルシャ製

 ウェブニュース(本稿末に転載)によれば、沖ノ島(福岡県宗像市)から出土していたカットグラス碗片(国宝)が5~7世紀の古代イラク(ペルシャ)製であることが判明したとのことです。沖ノ島は九州王朝の海上祭祀の聖地と考えられ、出土したカットグラス片は遙々ペルシャから九州王朝にもたらされたものと思われます。
 このニュースに接して、わたしの脳裏をよぎったのが、『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店、2019年)に掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の論稿「太宰府に来たペルシアの姫」でした。同論稿によれば、『日本書紀』孝徳紀・斉明紀・天武紀に記された「舎衛女」はペルシアの姫であり、九州王朝の都、太宰府に来たとされています。今回、明らかにされたペルシャ製のカットグラス碗片こそ、このときの九州王朝とペルシャとの交流を示す物証ではないでしょうか。
 正木説と沖ノ島のカットグラス碗片が結びつき、古代のロマンが歴史の真実として蘇ってきたようです。

【共同通信社 2020/03/01 19:42】
ガラス製品、出自は古代イラク 福岡・沖ノ島の出土品
福岡県宗像市の宗像大社は1日、世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、調査の結果、5~7世紀のメソポタミア(現在のイラク)由来と分かったと発表した。ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、大規模な祭祀の際にささげられたとみられる。今秋に大社で一般公開される予定。
 沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、大社が所有し神職以外の上陸が禁じられている。ガラス製品は、淡い緑色の「カットグラス碗片」(直径5.6センチ、厚さ3~5ミリ)と、深緑色の「切子玉」(長さ3.1~3.7センチ)で、1954~55年に見つかった。

【西日本新聞 2020/3/2 6:00】
国宝の切子玉 メソポタミア伝来 福岡・沖ノ島出土
 福岡県宗像市の宗像大社は1日、同市の世界文化遺産「沖ノ島」から出土した国宝のガラス製品についてササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来とする化学組成の分析結果を発表した。これまで産地、制作時期ともに推測の域を出なかったが、初めて科学的に裏付けられた。
 東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究。組成元素を調べる蛍光エックス線分析で、円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」と細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」を調査した。古代ガラスはローマ帝国でも作られたが、結果はササン朝の「ササンガラス」と組成が類似。碗片は5~7世紀、切子玉は3~7世紀製であるとした。
 碗片と切子玉は沖ノ島8号遺跡(5世紀後半~7世紀)から出土。碗片は類似品などからササン朝由来とされてきたが、切子玉は一切不明だった。宗像大社の福嶋真貴子学芸員は「8号遺跡の年代と大差ない。できあがって間もなく運ばれた」とみる。今後は伝来ルート、祭祀(さいし)上の意味などの研究につながることを期待する。早稲田大の田中史生教授(日本古代史)は「ユーラシアのガラス交易の始点、終点がくっきりしてきた。日本も含めたシルクロードの実態を考える上でも重要な結果だ」と評価する。(小川祥平))


第2084話 2020/02/15

服部さんが「倭姫王」九州王朝天子説発表

 本日、「古田史学の会」関西例会がI-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で開催されました。開催中止3月はI-siteなんば、4月はドーンセンター開催中止で開催します。
 今回の関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表された「倭姫王」九州王朝天子説について、最も論議が交わされました。『日本書紀』に記された天智の皇后「倭姫王」こそが、九州年号「白鳳」時代の天子(白鳳の君)であるとする仮説です。従って、筑紫君薩野馬は九州王朝の天子ではなく、唐により「筑紫都督倭王」に任命され、白村江敗戦後に帰国したとされました。他方、天智や天武の庇護を得た「倭姫王」が九州王朝の女帝として薩野馬帰国後も難波宮や飛鳥宮で君臨し、その後、文武の時代に王朝交替(禅譲)に至ったとする七世紀後半の歴史復元(仮説提起)を試みられました。
 服部新説の是非や、既に発表されている正木さんの「九州王朝系近江朝」説との関係や整合性など、これからの研究の深化が待たれます。
 この他にも、大原さんによる三星堆遺跡の青銅立神と縄文時代の土偶や土器文様との関係についての新説も興味深い内容でした。
 正木さんからは、「令和」改元の典拠となった万葉歌と序文についての新視点による研究が発表されました。各地の講演会でも好評を得たテーマです。
 満田さんの「八幡大神」研究は、古田学派内では研究者が少ない分野でもあり、今後の活躍が期待されます。いずれも、関西例会ならではの優れた発表でした。
 今回も関東や姫路市など、遠方からの参加者がありました。東京から参加された角田彰男さん(古田史学の会・会員)からは、著書『前方後円墳の謎を解く』(本の泉社、2019年)を「古田史学の会」に寄贈していただきましたので、I-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)に設置されている「古田武彦コーナー」に並べました。遠方から参加される皆様にも、「来て良かった」と喜んでいただけるような関西例会を、これからも続けたいと願っています。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①七世紀後半近畿天皇家が政権奪取するまで(八尾市・服部静尚)
②「津に臨み、捜露する」倭の津の検察体制(姫路市・野田利郎)
③宇佐八幡宮と八幡信仰について(茨木市・満田正賢)
④神を招く手の形と双眼の造形(大山崎町・大原重雄)
⑤『隋書』国伝を考える(その3)(京都市・岡下英男)
⑥厳然たる巨大古墳の物証(東大阪市・荻野秀公)
⑦令和改元の典拠となった大伴旅人の万葉歌の序の「人間解釈」(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
開催中止03/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)開催中止
2/23新型コロナウイルス対策として、 I-siteなんばでの 古田史学の会・関西3月21日例会は開催中止となりました。
 開催中止04/18 10:00〜17:00 会場:ドーンセンター開催中止
 開催中止05/16 10:00〜17:00 会場:福島区民センター開催中止

《各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 開催中止03/03(火) 10:00〜12:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子の実像を求めて」 講師:正木 裕さん。開催中止
 開催中止04/07(火) 13:00〜17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    日本書紀完成1300年記念講演会開催中止
    講師:正木裕さん、服部静尚さん、満田正賢さん、大原重雄さん、古賀。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
開催中止03/10(火) 14:00〜16:00 「(仮)池上曽根遺跡と泉州の古代」
講師:高瀬裕太さん(大阪府立弥生文化博物館学芸員)。開催中止

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
02/18(火) 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(2)本当は不思議な高砂」 講師:正木 裕さん。
03/17(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その1)二倍年歴の世界」 講師:服部静尚さん。

開催中止
04/21(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その2)解明された万葉の染と色」 講師:古賀達也。開催中止

◆「古代講演会in八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円

開催順延4月11日(土)から開催順延し、6月13日になりました。
 6月13日(土):午後2時〜4時30分
 04/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼」から「倭の五王」の世界 ②「蘇我・物部戦争と河内」 講師:服部静尚さん。

◆久留米大学講演会(久留米大学御井キャンパス)
06/07(日) 14:30〜16:00 「『日本書紀』に息づく九州王朝」 講師:古賀達也
06/14(日) 14:30〜16:00 「継体と『磐井の乱』の真実」 講師:正木 裕さん


第2077話 2020/02/07

観世音寺創建年を再考する(1)

 学問研究は真実を求め、真実に至るための営みですが、それは一直線に到達できるものではなく、立ち止まったり右往左往、ときには引き返すということもあります。また、自説が論証や実証により成立し、真実に至ったと自分は思っていても、それを超える他者の研究により自説が間違っていたり不十分であることがわかるのは、学問が持つ本質的な性格です。そのことをドイツの学者、マックス・ウェーバー(1864-1920)が、1917年にミュンヘンで行った講演録『職業としての学問』に次のように記しています。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 わたしはマックス・ウェーバーのこの指摘は学問の金言と思っていますし、〝学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなる〟ということを頭では理解しているのですが、自説の誤りや欠点を自ら気づくことは容易ではありません。そのため、研究会での口頭発表や論文発表などで自説を開示し、他の研究者の評価に委ねなければなりません。幸い、わたしの周囲には真摯に拙論を批判したり、疑問を投げかけてくれる信頼すべき友人たちがいます。こうした学問的環境こそ、真理に至る(近づく)ためには不可欠なのです。「古田史学の会」の存在意義の一つはこうした点にあります。
 先に発表した「洛中洛外日記」2073話「難波京朱雀大路の造営年代(8)」において、次のように記しました。

 〝都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。〟

 この観世音寺に対するわたしの認識に対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から本質的な質問と指摘をいただきました。いずれも重要な問題を含んでおり、自説を見直す上でも良い機会ですので、観世音寺の創建について改めて考察することにしました。(つづく)


第2049話 2019/12/03

『東京古田会ニュース』189号の紹介

 『東京古田会ニュース』189号が届きました。今号には拙稿「即位礼正殿の儀の光景 -『黄櫨染御袍』考-」を掲載していただきました。本稿は、天皇しか着ることが許されていないという「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」の染色に使用された天然染料(櫨、蘇芳)とその染色技術(金属媒染)について考察したものです。国内に自生していない蘇芳の入手や九州王朝(倭国)海軍についても触れました。
 今号で改めて注目したのが橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」でした。信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介されました。
 橘高さんは、『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表されていたのですが、当時は「このような捉え方もあるのか」と思った程度で、わたしはあまり関心を払いませんでした。論証成立の当否も半信半疑だったと思います。ところが今回改めて拝読しますと、『日本書紀』の「鼠」記事全てとは言えないまでも、仮説としては成立するのではないかと考えるようになりました。
 橘高稿にもあげられていますが、『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見されます。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、「前期難波宮九州王朝複都」説に対応していそうです。天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事があり、これも「九州王朝の近江遷都」説に対応していると捉えることもできます。このように、十数年来、わたしが提起してきた仮説と橘高説は対応していることに、遅まきながら気づいた次第です。なお、橘高さんによる八面大王伝承の紹介論稿「安曇野に伝わる八面大王説話」が『倭国古伝』(古田史学の会編、明石書店)に収録されていますので、ぜひご参照下さい。


第2040話 2019/11/17

『隋書』国伝について本格論戦始まる

 昨日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。12月はI-siteなんば、1月はアネックスパル法円坂、2月はI-siteなんばで開催します。
 1月は例会翌日の19日(日)午後に恒例の「新春古代史講演会」(会場:アネックスパル法円坂)も開催します。こちらにも、ぜひご参加下さい。
 今回の関西例会では、野田さんとインドから帰国された日野さんから、『隋書』国伝の新読解による新説が発表されました。野田説によれば秦王国を山口県、国の都を大阪の難波とされ、日野説では『隋書』に見える国と倭国は別国で、倭国と秦王国は大和朝廷でもないとされました。その上で秦王国は吉備にあったとされました。
 国伝の行程記事の読解方法などについて、参加者と論争が続けられました。通説や古田説とも異なる、こうした異説・新説が自由に発表され、真摯な論争が続けられることは「古田史学の会」関西例会の面目躍如と言えます。これからの展開が期待されます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①七支刀は鍛造で再現されていた(大阪市・中山省吾)
②三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたか(八尾市・服部静尚)
③壬申の乱は「大乱」か「小乱」か(川西市・正木 裕)
④前期難波宮設置に関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑤『隋書』の秦王国と倭国(たつの市・日野智貴)
⑥秦王国、十余国、海岸 ー隋書国伝の新解釈 その2ー(姫路市・野田利郎)
⑦「倭姫命世記(紀)」についてⅣ(東大阪市・萩野秀公)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆「古田史学の会」新年古代史講演会
 01/19 13:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 ※難波宮の考古学的テーマと新年号「令和」に関わる『万葉集』をテーマとすることを検討しています。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
 01/18 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 02/15 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10「古田武彦記念 古代史セミナー2019」の報告(古賀、冨川さん)。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰。会場:森ノ宮キューズモール) 参加費500円
 11/22 18:30〜20:00 「盗まれた天皇陵 俾弥呼の墓はどこに」講師:服部静尚さん。

◆「古代史の会・八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 01/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼の世界」②「飛鳥の謎-飛鳥浄御原宮はどこだ」講師:服部静尚さん。
 04/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼」から「倭の五王」の世界②「蘇我・物部戦争と河内」講師:服部静尚さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 12/03 10:00〜12:00 (会場:奈良新聞本社西館)
    「誰も知らなかった万葉歌(4)白村江前夜に身籠もった大王と幻の飛鳥」講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
 12/10 14:00〜16:00 「仮・江戸時代の自然災害」講師:岡本康敬さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
11/19 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(1)謡曲「羽衣」に秘められた古代史」講師:正木 裕さん。
 12/17 18:30〜20:00 「聖徳太子と十七条憲法」講師:服部静尚さん。

◆水曜研究会
 11/27(水) 13:00〜17:00 会場:豊中倶楽部自治会館


第2037話 2019/11/06

『令集解』儀制令・公文条の理解について(3)

 阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は過去にも『令集解』を史料根拠とした優れた論稿〝「古記」と「番匠」と「難波宮」〟(『古田史学会報』143号所収、2017年12月)を発表されています。そして今回は、『令集解』「儀制令・公文条」の新読解により、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする説を発表されました。
 この見解はとても刺激的な内容です。しかしながら、この説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明が必要です。
 そこで、まず下記の当該記事の読みについて、検討します。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行割注。

 冒頭の「凡公文應記年者、皆用年號。」は『養老律令』の条文であり、それ以降(二行割注)は編者による条文の解説です。その解説では当時の律令解説書と思われる「釋」「古記」「穴」を引用し、「年号」とは具体的にどのようなものかを説明しています。そして、今回のテーマとなっている「問答」形式部分「問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」へと続きます。
 わたしはこの解説部分を次のように意訳したことがあります。

 「釋にいう。大寶・慶雲の類を年号という。古記に云う。年号を用いよ。大寶と記し、辛丑(干支)は注記しない類をいう。穴(記)にいう。年号を用いよ。これを延暦という。答う。近江大津宮の庚午年籍は何の法に依ったのか。答える。この文以前は未だ制度がなかったというのみ。」(「『令集解』所引「古記」雑感」『古田史学会報』143号所収、2017年12月)

 これは意訳ですので、必ずしも厳密な訳ではありません。例えば。「問答」部分の「未制」を「未だ制度がなかった」としましたが、正確にはこの場合の「制」は動詞ですから、「未だつくらず」か「未ださだめず」と訓むのが妥当です。これを意訳して「未だ制度がなかった」としたのですが、この短い記事では、阿部さんのように、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立します。
 いずれとも断定しがたいのですが、わたしとしては編者による条文説明部分が「年号」についての説明ですから、それに続く問答部分の中心テーマも「年号」についてと考えるべきと思われ、そうであれば「未制」とは、〝未だ年号をさだめず〟と理解するのが、文脈上穏当ではないかと思います。
 更に詳細に論じれば、「問」部分に「未知、依何法所云哉」とあるように、「庚午年籍」が何れの「法」によって造籍されたのか「未だ知らず」と述べているわけですから、その「法」に「儀制令・公文条」のような条文があったのかどうかも知らないことになります。従って、「年号使用を規定した条文がなかった」とする理解はやはり難しいように思われます。
 もっとも、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要であること、言うまでもありません。(つづく)


第2036話 2019/11/05

評督の上位職は各「道」都督か(2)

 七世紀後半、評制の時代の九州王朝(倭国)の行政単位は近年の「古代官道」研究から次のようではないかと推定しています。

 倭国(倭王・天子)→各「道」(都督)→各「国」(国司?、国造、国宰)→各「評」(評督、評造)

 七世紀の出土木簡により、評制時代の行政単位が「国」「評」「里(五十戸)」であることは確かですが、「道」は見えません。また、「道」のトップと思われる「都督」が「国」の下位行政単位「評」のトップ「評督」を「国」の〝頭越し〟に任命したとする史料痕跡は今のところありません。しかしながら、『続日本紀』に気になっていた記事がありました。文武四年(700)六月条に見える次の「評督」記事です。

 「薩末の比売・久売・波豆、衣(え)評督の衣君県、同じく助督の衣君弖自美、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物をうばおうとした。そこで、竺紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同様に扱って処罰させた。」(『続日本紀1』東洋文庫、直木孝次郎・他訳注)

 大和朝廷が派遣した「覓国使(くにまぎ使)」を「薩摩の比売」や「衣評督」等が襲ったため、「竺紫の惣領」に「決罰」を命じたという記事です。近畿天皇家の正史『続日本紀』に「評督」が出現するという珍しい記事で、古田先生も注目されていました。
 わたしが疑問に感じたのは、薩摩国内の特定地方(頴娃郡・肝属郡。肝属郡は後に設立された大隅国に編入)の「反乱者」への「決罰」を「薩摩国」の代表者(国司)ではなく、九州全体の代表者と思われる「竺紫の惣領」に命じたことです。もしこれが薩摩国全体の「反乱」であれば、その上位職と思われる「竺紫の惣領」に「決罰」を命じるのは妥当ですが、そのような大規模な「反乱」のようには記されていません。また、当該記事中で「竺紫の惣領」のみが実名が記されていないことも不審です。このような理由から、この記事に疑問を感じてきたのです。
 なお、同記事などを根拠として、「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』10集、1988年。市民の古代研究会編・新泉社刊)という論文をわたしは若い頃(32歳)に書きました。この「薩末の比売」は鹿児島県に伝わる「大宮姫伝説」の「大宮姫」のことで、九州王朝の天子・薩野馬の皇后とする論稿です(現地伝承では天智天皇の后とされる)。古田先生に入門した年の翌年のもので、古代史の長文論文としては処女作です。
 ここに見える「竺紫の惣領」は、『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」の「都督」かもしれません。ただし、文武四年(700)という九州王朝最末年の記事ですから、九州王朝が任命した方面軍(各「道」)の都督が健在であったのかは今のところ不明とせざるを得ません。冒頭に記した九州王朝の行政単位の当否と、「評督」任命権者を各「道」の都督としてもよいのか、古田先生の指摘をヒントに考察を続けてみましたが、史料不足もあり、まだ断定しないほうが良いように思います。引き続き、研究します。

《追記》「大宮姫伝説」については、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から優れた論稿「大宮姫と倭姫王と薩摩比売」(『倭国古伝』収録。古田史学の会編・明石書店。2019年)が発表されています。ご参照下さい。


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。