九州王朝(倭国)一覧

第1502話 2017/09/17

「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理

 昨日の「古田史学の会」関西例会で、田原さんと大下さんから発表された宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について考察しました。「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌鉄剣を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないでしょうか。
 この「龍」銀象眼鉄刀を知り、真っ先に思い浮かべたのが同じ九州から出土した江田船山古墳(熊本県和水町。5世紀末〜6世紀初頭)出土の「馬」「水鳥」「魚」「菊花文」が銀象嵌さたれ鉄刀(国宝)でした。おそらくは被葬者は九州王朝の有力武人と思われますが、金象嵌ではなく銀象嵌であることなどから九州王朝の倭王ではなく、その配下の肥後の有力豪族と推測したものです。
 ところがえびの市の島内114号地下式横穴墓出土の鉄刀は同じ銀象嵌ですが、天子のシンボルである「龍」が象嵌されていることから、位取り的には江田船山古墳の被葬者よりも「上位」と考えざるを得ません。他方、その墓制を比較すると、江田船山古墳は墳丘長62mの前方後円墳で、墳丘を持たない島内114号地下式横穴墓とは様相が全く異なります。すなわち、南九州特有の墓制である地下式横穴墓には墳丘により被葬者の権威を誇るという思想性は見られず、むしろ盗掘を恐れて目立たないように埋葬したのではないかとさえ思われるのです。
 この現象は墓制に関する思想性の差かもしれませんが、古代における権力者間の衝突という側面もあったのではないかと考えています。おそらく、北から前方後円墳のような大型古墳の築造勢力(九州王朝か)が南下し、その侵攻と支配に備えて、盗掘から逃れるために地下式横穴墓が採用されたのではないでしょうか。それでは侵攻を受けた南九州の勢力とは何だったのでしょうか。通説では「熊襲」「隼人」と呼ばれた勢力ですが、その実体についての解明は不十分なようです。(つづく)


第1498話 2017/09/09

大型前方後円墳と多元史観の論理(4)

 宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳であり、九州王朝の倭王磐井の岩戸山古墳よりも大きくても、一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしい大和朝廷の巨大前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能としましたが、これこそ「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 この《一の矢》に対して、近畿の大型前方後円墳は近畿天皇家の墳墓ではないとする仮説で挑戦を試みられているのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)ですが、それとは異なった仮説で挑まれた著作がありました。吉田舜著『九州王朝一元論』(葦書房刊、1993年)です。その概要と論理的根幹は次のようなものでした。

①古代日本列島の代表王朝は九州王朝である。
②九州王朝は代表王朝としてふさわしい規模の墳墓を築造したはずである。
③日本列島中最大の巨大前方後円墳を擁するのは近畿(河内や大和など)の前方後円墳群である。
④従って、近畿(河内や大和など)の前方後円墳群は九州王朝の歴代国王の墳墓である。

 このような「骨太」な論理展開により、近畿の巨大前方後円墳は九州王朝の墳墓とする仮説を提起されたのです。御著書を吉田さんからいただいたときは、この問題の重要性にわたしはまだ気づいていませんでした。その後、一元史観支持の研究者との論議において、《一の矢》への九州王朝説からの回答の一つとして吉田さんの仮説を研究史の中で位置づける必要に気づきました。
 わたしは今でもこの吉田仮説に賛成はできませんが、《一の矢》への問題意識を早くから持っておられたことは、研究者として敬意を表したいと思います。なお、わたしが吉田仮説に賛成できない理由は次のようなことです。

(1)九州王朝が遠く離れた近畿に墳墓を築造しなければならなかった理由が不明。
(2)5世紀の古墳時代は各地に王権(九州王朝・出雲王朝・関東王朝・東北王朝など)が併存していた時代であり、日本列島を代表する九州王朝(倭国)とは別の王権が近畿にあった可能性を否定できず、その地の巨大古墳はその地の王権の墳墓とする、多元史観の基本的な考え方と相容れない。
(3)5世紀末頃から6世紀初頭の九州王朝・倭王の墳墓として岩戸山古墳などが八女丘陵から三潴地方に点在しており、近畿の巨大古墳群との「連続性」がうかがわれない。

 大型前方後円墳(考古学的事実・実証)について多元史観による論理(合理的な説明)を構築(論証)することが古田学派にとって重要な課題であることを改めて訴えたいと思います。(つづく)


第1497話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(3)

 東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)が九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも大きいことを知り、九州地方の大型前方後円墳についても調べてみました。その結果、宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(西都市、墳丘長180m、5世紀前半中頃)が九州地方最大の墳丘長を持つことがわかりました。近くにある男狭穂塚古墳(西都市、墳丘長175m、5世紀前半中頃)も岩戸山古墳より巨大で、帆立貝形古墳としては日本最大とのこと。
 九州王朝説に立つわたしとしては、九州王朝(倭国)の王墓は中枢領域の筑前や筑後にあったと考えており、そうであれば倭王にふさわしい最大規模の古墳が同地にあったと考えたいのですが、考古学的事実としては宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳なのです。なぜ筑前や筑後から離れた日向国にこうした巨大古墳群があるのか、九州王朝説・多元史観からはどのように考えるべきなのかが問われることでしょう。
 なお一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしいもっと巨大な近畿天皇家の前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能です。(つづく)


第1496話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(2)

 一元史観では、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響が九州や東北にまで及び、各地で前方後円墳が築造されたと理解し、古墳時代には大和朝廷が唯一最大の列島の代表王朝であった証拠とします。この一元史観による多元史観・九州王朝説否定の根拠と論理に対して、果敢に挑戦されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による、河内などの巨大前方後円墳は近畿天皇家の祖先の墓ではないとする仮説です。
 この服部説の当否は今後の研究や論争を待ちたいと思いますが、仮にこの服部説が正しくても九州王朝説の論拠とはなりません。すなわち服部説だけでは、畿内の近畿天皇家とは別の勢力が河内などに割拠し、巨大前方後円墳を築造したというに留まるからです。従って、古墳時代には各地に王権や王朝が並立していたとする多元史観の論拠の一例とはできますが、九州王朝存在の直接的な論拠とはできないのです。
 そこで注目されるのが冨川ケイ子さんの「河内戦争」論です(『盗まれた「聖徳太子」伝承』に収録。古田史学の会編、明石書店刊)。『日本書紀』用明紀に見える「河内戦争」記事の史料批判により、摂津や河内など八国を領する王権が存在し、九州王朝との「河内戦争」により滅亡したとする仮説です。この滅ぼされた勢力を仮に「河内王権」と呼びますと、この冨川説の延長線上に、河内などに分布する巨大前方後円墳の被葬者は「河内王権」の歴代王者だったという仮説が発生します。これは「仮説の重構」ではなく、連動する「仮説の系」と言えそうです。しかも、先の服部説との整合が可能です。
 さらに言うならば、服部説と冨川説も連動した「仮説の系」と考えざるを得ないように思われます。なぜなら、服部説によれば河内などの巨大前方後円墳を築造した、近畿天皇家とは別勢力の存在が『日本書紀』の記述には見えず、その勢力がその後どのようになったのかも、冨川説以外では説明されていないからです。したがって、服部説を「是」とするのであれば、冨川説も「是」とせざるを得ないのです。その逆も同様で、冨川説を「是」とするのなら服部説も「是」となります。他に有力な仮説があれば別ですが、管見では冨川説以外に納得できる仮説を知りません。
 この連動する仮説群、すなわち「仮説の系」という概念を古代史の論証において明示されたのは他ならぬ古田先生でしたが、この「仮説の系」と「仮説の重構」とを区別せずに、両者共に否定する論者が見かけられます。もちろん「系」と「重構」のいずれであるのかは仮説ごとに判断しなければならないことは言うまでもありません。(つづく)


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1482話 2017/08/18

7世紀の王宮造営基準尺(1)

 古代中国では王朝が交代すると新たな暦を採用したり、度量衡も改定される例が少なくありません。わが国においても、九州王朝から大和朝廷に交代する際に同様の事例があるのではないかと考えてきました。そこで7世紀の基準尺を精査し、大宰府政庁や条坊、前期難波宮や藤原京の造営において変化があるのかについて関心を持ってきたところです。
 古田学派では九州王朝は中国南朝系の基準尺を採用してきたとする諸論稿が発表されてきました。近年では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が「古田史学の会」関西例会において、古代日本における基準尺について論じられています。わたしも「洛中洛外日記」1362話(2017/04/02)「太宰府条坊の設計『尺』の考察」において、九州王朝の基準尺について次の推測を述べました。

 ①6世紀以前、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用した。
 ②太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測でき、条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。「隋尺」か。
 ③条坊都市成立後、その北側に造営(670年頃か)された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致する。

 以上の推定に基づいて、考古学的調査報告書を中心に基準尺について調べてみました。調査の対象を国家公認の主要尺とするため、王都王宮の遺構としました。現時点でわたしが把握できたのは次の通りです。引き続き、調査しますので、データの追加や修正が予想されますが、この点はご留意ください。

(1)太宰府条坊(6〜7世紀) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(725年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺の数値は算出根拠が比較的しっかりとしており、信頼できると考えています。(つづく)


第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。


第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。


第1464話 2017/07/27

冨川ケイ子さん「[身冉]牟羅国論争メモ」

 「洛中洛外日記」1448話で、「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争が勃発したことをお知らせしましたが、参加者による熱心な応答により学問的にとても優れた論争へと発展しています。もちろん「決着」がついたわけではありませんが、学問の方法や史料批判など重要な問題も含まれており、興味深く拝読させていただいています。
 その論争内容をまとめた「[身冉]牟羅国についての論争メモ」が冨川ケイ子さんから論争参加者に発信されましたので、転載させていただきます。その中に、わたしの説の紹介もあり、わたしが自説を撤回すると今月の「古田史学の会」関西例会で述べたのですが、そのことも紹介されています。自説撤回の理由については別に説明する予定です。
 以下、冨川さんからのメールを転載します。なお、冨川さんからは「メモ」なので文章として不完全で、これでもよければ転載してくださいとの趣旨のコメントをいただいています。この点、お含みおきください。

各位
谷本さんが参加されたのを機会に、皆様のご意見を集約してみました。下のメモは多元の会合からの帰りの電車の中でケータイで書いたものが元なので、ご意見の根拠など漏れている点が多々あってご不満もおありと思いますけれど。
メールでの議論は後から参加された方が読めないのが欠点ですね。
冨川

■史料
隋書百済伝 百済
「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多?鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云」

隋書[イ妥]国伝
「其國境東西五月行南北三月行至於海」

◆石田敬一氏の説
(東京古田会ニュースNo.161〜162)
[身冉]牟羅国=済州島
百済の南 [身冉]牟羅国は短里で済州島の大きさに合う
東西と南北は辺と辺(東西と南北は常識の反対)
九州は縱5月、横3月の大きさ

◆古田武彦氏の説
(『古代の霧の中から』p.166-167 ミネルヴァ版p.143-144)
(東京古田会ニュースNo.145〜146の講演録)
[身冉]牟羅国と[身冉]羅国は違う
隋書は短里か、東西と南北は辺と辺か、調べていうのが自分の学問
[身冉]牟羅国は百済から南に3月ならボルネオかスマトラかルソンか

◆清水淹氏の説
(多元NO.138)
石田説を支持
九州王朝の勢力は九州と山口県あたりまで
その他は間接支配
蘇我氏は九州王朝の代官
天智天皇は近畿豪族の勢力を結集して独立をはかる

◆西村秀己氏の説
百済の南3月は済州島ではない
[イ妥]国の東西5月は北米まで
[身冉]牟羅は「たんむら」ではなく「ぜんむら」と読む

◆服部静尚氏の説
(清水説批判、多元No.140に掲載)
[身冉]牟羅国にはノロ鹿が住む
沖縄のケラマ鹿は外来、鹿骨の出土はある
台湾に在来種の鹿あり

◆古賀達也氏の説
(古田史学会報No.11)
[身冉]牟羅国=済州島説は石田・清水両氏より古い
撤回したい
ボルネオだとこうやの宮の人形と関わりがあるかも

◆正木裕氏の説
根本的には3月行であれ5月行であれ九州島に収まらない
[身冉]牟羅国は済州島ではない
呉志は長里で「夷洲」は台湾(方位は南、距離は400㌔)ではなく「沖縄」等西南諸島

◆冨川ケイ子説
[身冉]牟羅国は百済より大きい可能性がある
5パーセントくらいセイロン島
20パーセントくらい台湾
75パーセント沖縄説
九州はどの方角でも1か月以内で横断できる


第1459話 2017/07/20

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(9)

 前期難波宮と藤原宮には出土土器の年代や都城様式に差があることを紹介しましたが、特に都城様式の差(北闕型と周礼型)は同時代の同一王朝のものとは考えにくいものです。このことを更に裏付ける考古学的事実が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から指摘されています。それは竜田関の位置の問題です。
 大和国と河内国の間に置かれた竜田関は、大和朝廷の都(飛鳥宮・藤原宮)への西側からの侵入を防ぐ目的で設置されたものと、一元史観の歴史学界では考えられてきました。ところがその竜田関が置かれたとされる場所が峠を境としてその東(大和)側にあり、これは地勢的にも東側(大和)から西側(河内・摂津)への侵入を防ぐのに適した位置であると、服部さんは指摘されました。
 他の有名な古代の関も同様に守るべき場所から峠を越えた相手側に置かれていることも服部さんの指摘が正当であることを裏付けています。すなわち、敵の軍勢が狭隘な峠の登り口に殺到することを想定して、関はその登り口側に設けられているのです。そうすることにより、峠に至る坂の上から敵軍を見下ろして三方から攻撃できますから、この関の位置は軍事的に理にかなっています。
 このような位置にある竜田関は大和(近畿天皇家)を守っているのではなく、東側からの侵入に対してその西側にある前期難波宮を防衛するために置かれたとする説を服部さんは発表されました。このことは、前期難波宮の勢力と大和の飛鳥の勢力とは別であることを意味していると考えざる得ません。従って竜田関を造営したのは前期難波宮を防衛しようとする勢力であることになります。この服部説は前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。
 服部さんはこの説を「関から見た九州王朝」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年)で発表されましたが、未だに前期難波宮九州王朝副都説反対論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1458話 2017/07/16

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(8)

 前期難波宮と藤原宮の差は出土土器の年代だけではありません。それは一元史観の学界でも論争が続いた都城様式差という問題です。
 倭国(九州王朝)も大和朝廷も王宮や王都の設計にあたり、中国の様式を取り入れているのですが、王宮には律令官制を前提とした左右対称の朝堂院様式が前期難波宮に最初に採用されています。王都(都城)についても条坊制の街区を太宰府や前期難波宮(後期難波宮からとする説もあります)、藤原京(『日本書紀』は新益京とする)、更には平城京・平安京に採用されています。そして、条坊都市の北側に王宮を置く「北闕型」と条坊都市の中央に置く「周礼型」が採用されています。
 この王宮を条坊都市の北に置くのか中央に置くのかは、その造営者の政治思想が反映していると考えられており、古田先生は「北闕型」を北を尊しとする「北朝様式」と見なされていました。本テーマで問題としている前期難波宮は上町台地の北端に位置し、「北闕型」の王都ですが、藤原宮は中央に王宮を置く「周礼型」で、この違いは両者の政治思想の差を反映していると考えざるを得ません。
 したがって、前期難波宮「天武朝」造営説では、同時期に政治思想が異なる都城、前期難波宮と藤原宮を天武は造営したことになり、そのことの合理的な説明ができません。このように、前期難波宮(京)と藤原宮(京)の都城様式の違いを、前期難波宮「天武朝」造営説では説明できないのです。このこともわたしは指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1455話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(6)

 前期難波宮を「天武朝」の造営とする説の史料根拠として、天武紀の有名な「複都詔」をあげる論者もありますので、この「複都詔」についても解説しておきましょう。
 『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)に関係する次の記事が見えます。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名の「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。
 たとえば①の難波羅城造営記事は羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」も、天武らとは異なる禮法を用いている朝廷が難波に先在していたことを意味しています。③が「複都詔」で、「天武朝」造営説の根拠とされています。しかし、その二年後の朱鳥元年に前期難波宮は焼失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能です。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していますから、「複都詔」を「天武朝」造営説の根拠にはできないのです。なお、前期難波宮は完成年に白雉改元、焼失年に朱鳥改元がなされており、九州年号と深い関係があることも前期難波宮九州王朝副都説の傍証といえます。
 なお、岩波『日本書紀』の訳文では「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」と訳されていますが、これは不適切です。原文の「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としていますが、原文では、百寮は難波に行って(難波の権力者かその代理者に)家地を請求しろと言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮「天武朝」造営説の史料根拠とされてきた「複都詔」も、その原文の意味することは前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示しています。(つづく)