九州王朝(倭国)一覧

第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1411話 2017/06/03

世界最古の会社「金剛組」の始祖

 「洛中洛外日記」1410話「九州王朝系の老舗」で、現存する世界最古の会社が四天王寺を建立した株式会社金剛組であることに触れましたが、その出自を知りたくてネット検索したところ、微妙に異なる諸説がありましたが、次のような説明が今のところ最も有力なようです。

「朝日新聞デジタル」
ニュース>トピックス>四天王寺に関するトピックス

金剛組(2014年03月29日 夕刊)
 西暦578年の創業と伝わり、帝国データバンクは「把握する限り日本最古の企業」と説明している。日本書紀に「百済に行った使者が僧や造寺工を連れ帰り、難波(大阪)に住まわせた」という趣旨の記述があり、金剛組の系図は「用明天皇の皇太子(聖徳太子)が金剛、早水、永路の3人の大工を召して四天王寺を建立した。この金剛重光が当家の始祖である」と伝える。

 この朝日新聞デジタルの「金剛家系図」に基づく解説によれば、金剛組の始祖は百済から来た「大工」とのことです。そうしますと、当時の倭国(九州王朝)と百済の友好関係から考えると、百済から金剛重光を招来したのはやはり九州王朝と考えてもよいようです。金剛家系図を是非拝見させていただきたいものですが、金剛組か金剛家とお知り合いの方がおられれば、ご紹介いただけないでしょうか。


第1410話 2017/06/01

九州王朝系の老舗

 山形新幹線で東京に向かっています。今回の出張では群馬県の代理店Y社の方とお会いしました。聞けばY社は創業300年の老舗とのこと。江戸時代中頃の享保2年(1717)の創業で、宗家は近江国蒲生郡日野のご出身とのことです。日野には鬼室集斯神社があり、九州年号「朱鳥三年戊子」(688年)銘の墓碑があることでも有名です。
 Y社の方との雑談で、現存する世界最古の会社は、聖徳太子の時代に四天王寺などを建立した株式会社金剛組であることを紹介しました。聖徳太子の時代ですから創業1400年以上になります。金剛組は四天王寺以外にも大和の寺社の建立や修築に関わってきた伝統がありますから、わたしは大和朝廷お抱えの近畿出身の宮大工集団と思ってきたのですが、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に見える「二年 難波天王寺聖徳造」が九州王朝系記事の可能性が高いことから、この難波天王寺を金剛組が建立したのであれば、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利が連れてきた筑紫の宮大工だったのかもしれません。「聖徳太子」関連史料をそういう視点で精査すれば、何かわかるかもしれません。
 他方、昭和35年頃まで続いた九州王朝系の企業がありました。太宰府の瓦製造メーカー「平井瓦屋」です。大宰府政庁から出土した瓦に「平井」「平井瓦」という銘文を持つものがあり、平井瓦屋が古代九州王朝の時代まで遡る可能性があるのです。このことを「洛中洛外日記」35話(2005.10.12)「太宰府の平井瓦屋」で紹介したことがあります。古代の太宰府に九州王朝の宮殿の瓦を製造した「平井」という名前の方がおられたということでしょうね。今でも太宰府市あたりにご子孫の平井さんが住んでおられるのではないでしょうか。


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1401話 2017/05/19

前期難波宮副都説反対論者への問い(5)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮副都説」にわたしが決定的に傾いた瞬間(発見)がありました。それは上記の問4の「答え」に気づいたときのことでした。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650)二月条の大規模な白雉改元の儀式が行われた7世紀中頃の宮殿遺構候補が見つからず、永く考え込んでいた時期がありました。この白雉改元記事に関して、わたしは次のように論理展開していました。もちろん、実際は考察において右往左往しており、思考の順番は必ずしも一貫性があったわけではありません。

1.「白雉」は九州年号だから、この改元の儀式は九州王朝の宮殿で行われたはず。
2,その様子が『日本書紀』白雉元年(650)二月条に記載(盗用か)された。
3.その大規模な儀式を行うためにはかなり大規模な宮殿や「庭(朝廷)」が必要。
4.太宰府政庁Ⅱ期の宮殿では狭すぎて、白雉改元儀式の舞台とするには苦しい。
5,その点、7世紀中頃に造営された前期難波宮であれば、規模や様式(大規模な朝廷)は候補地として問題ない。
6.しかし、前期難波宮の造営は孝徳紀白雉三年(652)であり、まだ完成していない。
7.『日本書紀』白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿遺構がない。なぜだろう。

 このようにわたしの思考は展開(右往左往)していたのですが、四国の松山市(古田史学の会・四国の講演会)に向かう特急列車の中で、九州年号の白雉元年(652)は『日本書紀』の白雉元年(650)とは二年ずれているのだから、九州年号「白雉」改元儀式が行われたのは『日本書紀』にある650年ではなく652年。この年であれば前期難波宮はほぼ完成しているのではないかということに気づいたのです。そこで、松山駅に到着して迎えに来ていただいた合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長)にお願いして市内の大型書店に直行し、『日本書紀』を購入し「前期難波宮造営」記事の年次が652年であることを確認したのでした。その後、孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元記事が同三年二月条から切り貼りされたものである痕跡を発見し、「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」(『古田史学会報』76号2006年10月。『「九州年号」の研究』に収録)として発表しました。
 この瞬間、わたしは「前期難波宮九州王朝副都説」の論証は成立するのではないかとの思いを強くしました。そして論理展開は更に進み、九州王朝の副都前期難波宮で行われた白雉改元儀式に近畿天皇家の孝徳(あるいはその代理者)は参列したのではないか。だからこそ白雉改元の儀式の内容を正確に把握でき、『日本書紀』孝徳紀に儀式の詳細を記載することができたと考えたのです。
 『日本書紀』によれば当時の孝徳の宮は「難波長柄豊碕宮」(大阪市北区長柄豊崎と推定)とされており、前期難波宮がある大阪市中央区法円坂とは地下鉄で5駅ほどの場所ですから、改元儀式に参列可能な距離です(通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」としていますが、地名が異なります)。
 『日本書紀』に記された九州年号「大化」「朱鳥」については改元儀式記事の記載がないことから、この二つの年号の改元儀式に近畿天皇家の天皇は参列していなかったのではないでしょうか。というのも、前期難波宮は686年に焼失しており、「朱鳥」改元はその後になされていますし、九州年号「大化」は元年が695年ですから、どちらも前期難波宮が焼失後のことで、おそらくこの二年号の改元儀式は太宰府で行われたと思われます。ですから近畿天皇家は遠く離れた太宰府での改元儀式の詳細がわからず、『日本書紀』に記載できなかったとも考えられるのです。(つづく)


第1400話 2017/05/18

前期難波宮副都説反対論者への問い(4)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮造営を天武期とする際の根拠である飛鳥編年に対して、大阪歴博等の考古学者による干支木簡や年輪年代測定、理化学的年代測定による実証的反論を紹介してきましたが、それとは別に論理的な批判が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から寄せられましたので、紹介します。次の通りです。

 「日本書紀を正しいとして創られた飛鳥編年によって導き出された難波宮の造営時期が日本書紀の内容と矛盾する。これは飛鳥編年そのものが間違っている証拠。」(西村秀己)

 骨太の論証スタイルを好む西村さんらしいシャープな論断です。もちろん、わたしも同意見です。古田学派の研究者であれば、『日本書紀』の記事の暦年を無批判に信用できないとするのは当然のはずです。
 たとえば孝徳紀の「大化」についても九州年号「大化」と50年のずれがありますし、「白雉」も九州年号「白雉」と2年のずれがあることは古田学派であれば周知のことです。持統紀の「吉野」関連記事が34年移動されていることも古田先生が論証されたところです。ですから、『日本書紀』暦年記事を「是」として成立している飛鳥編年やそれに基づく緒論を無批判に支持、依拠することもまた、古田学派ではありえないと思うのです。(つづく)


第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)


第1397話 2017/05/14

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(2)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮造営時期を天武期とする批判があります。その根拠は『日本書紀』の暦年記事を「是」として成立している一元史観の飛鳥編年です。その飛鳥編年の根拠が脆弱であり基礎データも間違っているとする服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論文(「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」『古代に真実を求めて』17集)が出されていることは既に紹介してきましたが、それ以外にも天武期造営説には次のような問題があることも指摘してきました。
 それは、もし天武が前期難波宮を造営したのであれば、なぜ『日本書紀』の天武紀に書かれずに、孝徳紀に書かれたのかという素朴な疑問に答えられないのです。『日本書紀』を編纂したのは天武の子や孫たちの世代であり、『日本書紀』で最も詳しく立派な人物として記されているのが天武であるにもかかわらず、国内最大規模で初めての朝堂院様式の前期難波宮の造営を天武紀に書かれていない理由を全く説明できません。
 一元史観の飛鳥編年が脆弱であることや、『日本書紀』の史料事実を副都説反対論者は説明できないまま、前期難波宮天武期造営説を主張するのは学問的に真摯な論争とは言い難いものです。(つづく)


第1396話 2017/05/13

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(1)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから10年近くの歳月が流れました。主に「古田史学の会」関西例会で口頭発表し、『古田史学会報』に論文として発表してきたのですが、多くの賛成意見が示され、その立場から研究される論者も現れ、論証や史料根拠・傍証も多岐にわたりました。
 他方、少数ですが反対意見も出されています。わたしは、学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると考えていますから、賛否両論が出されたことに感謝しています。しかしながら、「前期難波宮九州王朝副都説」反対論者に繰り返し求めた次の四つの問いに対して、一人として明確な返答はなされませんでした。なかには、古賀の質問などに答える必要はないとされた論者もありました。

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に対して、近畿天皇家一元史観の論者であれば答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と比較しても遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のために必要な規模と律令官制に対応した朝堂院様式を持つ近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解です。
 このような考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が前期難波宮九州王朝副都説なのです。(つづく)


第1386話 2017/05/07

都府楼は都督府か大宰府か

 都督府についてはこれまで何度も論じてきましたが、基礎的ですが未解決で重要な問題について指摘しておきたいと思います。
 「洛中洛外日記」第1382話「倭の五王」の都城はどこか(1)において、「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)というような説明をしましたが、実はこれも結構複雑な問題が残されているのです。現在、大宰府政庁跡を「都府楼跡」と呼んでいますが、おそらくこれは菅原道真の「不出門」によるものと思われます。次の漢詩です。

不出門 菅原道真

一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
(原典:『菅家後集』)

〔訳文〕
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより
万死兢兢たり 跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看
観音寺は只鐘の声を聴く
中懐好し 孤雲を逐(お)ひて去り
外物は相逢ひて満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん

 近畿天皇家が「都督」を任命していたことは『二中歴』都督歴に見えますから、この「都府楼」が「都督府」のことと理解することは穏当です。ただし、『養老律令』などでは「都督」「都督府」ではなく「大宰」「大宰府」とされており、正式名称は後者です。従って、『二中歴』や道真は、古くは九州王朝時代の伝統を反映して「都府楼」と表現したものと思われます。
 ここまではご理解いただけると思いますが、実はここにやっかいな問題があるのです。それは地名との非対応問題です。現在の政庁跡(都府楼跡・都督府跡)は旧・観世音寺村に属し、太宰府村ではないのです。太宰府村は現在の太宰府天満宮がある場所で、大宰政庁跡とは位置が異なるのです。もし、8世紀以降に近畿天皇家が任命した「大宰」「都督」が政庁跡に居していたのなら、そここそ「太宰府村」であるべきでしょう。しかし、現実は旧・観世音寺村に属し、字地名としては「大裏(内裏)」「紫宸殿」があり、天子の居所にふさわしい地名なのです。「大宰」「都督」は天子が任命する官職名であり、その官舎は太宰府村の方にあってしかるべきなのですが、政庁跡(都府楼)は旧・観世音寺村にあるのです。
 この一見矛盾した地名との齟齬は、おそらく「大宰府」「都督府」が九州王朝と近畿天皇家の両方に多元的に、歴史的には重層して存在していたことによるものと推察しています。ですから、古田学派の研究者はこの複雑な構造に十分留意して立論しなければなりません。わたし自身もまだ研究考察の途中ですので、断定できるような結論は持っていません。これからの研究の進展を待ちたいと思います。


第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)