九州王朝(倭国)一覧

第1298話 2016/11/16

権力者「出身地名」の広域化

 古代において、中国でも日本でも権力者の出身地(発生地)の地名が、その権力範囲の拡大に伴って広域化するという現象があります。
 たとえば近畿天皇家の場合は地方名称「大和(やまと)」が、そのまま日本国の別称となり。それから派生した「大和魂」とか「大和なでしこ」という言葉も作られました。もちろん「奈良県の魂」「奈良県の女性」という意味ではなく、「日本の魂」「日本の女性」を意味するわけです。
 それは九州王朝においても同様だったと思われます。九州内の地方権力者「生葉(浮羽)の臣」の場合でも、その出身地「うきは」は現在の福岡県うきは市ですが、「うきは」地名の淵源はうきは市の中の小領域「大字浮羽」です。このことを知ったのはわたしの本籍が以前は「浮羽郡浮羽町大字浮羽」だったからです。そこには古賀家墓地があり、父やご先祖様が眠っています。
 これが九州王朝の天子の場合はどうでしょうか。筑紫君磐井などに見られるように、九州王朝の天子・国王は「筑紫」という地名を冠しています。今の福岡県にほぼ相当する地域で、6世紀末頃には筑前と筑後に分国されています。これが『日本書紀』編纂の時代になると「九州島」を「筑紫」とする表記例が現れます。この傾向は中世にも引き継がれ、「筑紫」地名が広域化します。
 逆に「筑紫」地名の淵源をたどりますと、現在の筑紫野市に「大字筑紫」「字筑紫」がありますので、権力者「出身地名」が広域化するという現象からすれば、九州王朝の淵源の地がこの「字筑紫」だったということになります。当地の近隣には筑紫神社(筑紫野市原田)もありますから、まさに「筑紫の中の筑紫」という地域です。
 その観点からすれば、古田説では九州王朝は天国領域(壱岐・対馬など)から天孫降臨で糸島半島に侵攻した勢力ですから、その淵源は天国領域か、せめて九州島内では糸島博多湾岸の地こそ「出身地」と称すべきです。ところが「筑紫君」を自称していますから、糸島博多湾岸よりも内陸部に位置する「筑紫」を淵源とすることを主張しています。この不思議な現象について、その理由はまだよくわかりませんが、おそらくは九州王朝発展史にその理由があることでしょう。九州王朝はどうしても「筑紫」を名乗りたかった、そう考えるほかありません。近世でも尾張出身の秀吉が一時期「羽柴筑前守」を名乗ったように。この小領域「筑紫」の謎は今後の研究テーマです。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)


第1290話 2016/10/27

「御舟入」の淵源

 三笠宮殿下が薨去され、「昭和」や「戦後」が歴史となりつつあり、感慨深いものがあります。ご葬儀に関する報道で「御舟入(おふないり)」という言葉が用いられ、「納棺」のことと説明されていました。皇室では納棺のことを「御舟入」と称されていることに、この言葉は古代にまで遡るものではないかと思いました。
 『隋書』「イ妥国伝」によれば古代日本の葬儀の風習として、ご遺体を船に乗せて運ぶという次のような記述があります。

 「死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。」『隋書』「イ妥国伝」

 この葬儀の記事に続いて有名な阿蘇山の記事が見えます。

「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」

 九州王朝や北部九州におけるご遺体を舟に乗せるという風習を淵源とするのが、皇室における「御舟入」という言葉ではないでしょうか。「舟形石棺」や肥後北部に分布する石穴墓に見られるご遺体を安置する部分にある舟のような文様の彫り込みも、この風習に淵源するように思われます。
 「御舟入」という皇室用語に、九州王朝(倭国)と皇室(大和朝廷の末裔)の関係を感じるのですが、いかがでしょうか。


第1284話 2016/10/08

古代山城サミット西条大会が開催

 愛媛県松山市の合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長、全国世話人)から『第6回 古代山城サミット西条大会資料集』が送られてきました。本年9月30日・10月1日、愛媛県西条市で開催された古代山城サミットの資料集です。最近の『季刊考古学』も「天智紀の山城」が特集されていましたから、ちよっとした古代山城ブーム到来かもしれませんね。わたしも、近年、熊本県の鞠智城の研究を始めましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も大野城山城の研究で成果をあげられています。偶然のタイミングの一致でしょうが、興味深いものです。
 同資料集は一元史観による遺跡解説に終始していますが、古代山城を有す全国の30自治体による写真付きでご当地の山城紹介記事が収録されており、史料価値も高いものです。送っていただいた合田さんに感謝申し上げます。「古田史学の会」としても『古代に真実を求めて』で「九州王朝の都城」特集を組んでみたくなりましたが、いかがでしょうか。


第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1272話 2016/09/16

『季刊考古学』136号を読む

 今年7月に発行された『季刊考古学』136号を読んでいます。「西日本の『天智紀』山城」が特集されていたので、迷わず購入しました。編集は高名な考古学者の小田富士雄さんです。特集では水城・大野城・基肄城・鞠智城や神籠石山城などが取り上げられており、「西日本の『天智紀』山城」というよりも「西日本の『九州王朝』山城」というべき内容でした。
 近年、わたしは熊本県の鞠智城の研究を進めていたこともあり、特集中の「鞠智城の役割について」を最初に読みました。執筆された木村龍生さん(歴史公園鞠智城・温故創生館)はわたしが鞠智城見学したおり、お世話になった当地の新進気鋭の考古学者です。木村さんは従来からの鞠智城編年を説明された後、次のような興味深い問題に触れられました。

 「鞠智城では古墳時代後期後半から築城直前まで存続した集落の存在が確認されている。この集落の性格についいては今後検討の余地があるが、古代山城としての鞠智城の前身となった施設であったことも考えられる。」(83頁)

 従来説では鞠智城の造営は7世紀の第3四半期から第4四半期とされてきましたが、近年では7世紀前半からとする説(岡田茂弘さん)も出されています。「洛中洛外日記」第1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」で紹介したところです。しかし、鞠智城址からは6世紀や7世紀初頭の住居跡やそのころの炭化米も出土していますが、そのことについて真正面から深く考察した論稿を見かけませんでした。
 他方、わたしは鞠智城の造営を6世紀末か7世紀初頭する説を発表してきました。その根拠は『隋書』「イ妥国伝」に記された隋使の行程記事です。隋使が阿蘇山の噴火の火を見たことを記録しています。ということは、かなり肥後の内陸部よりの行程をたどったと考えざるを得ません。筑後国府から肥後国府へ南に向かう西海道行路では阿蘇山の噴煙は見えても噴火の火は見えないからです。そう考えたとき、国賓たる隋使が無人の広野で野営したとは考えられず、国賓にふさわしい館を行路中に用意したはずです。その館の一つが鞠智城ではなかったかと、わたしは考えたのです。
 更に、現地の「米原(よなばる)長者伝承」では、その時代を用明天皇の時代(在位585年〜587年)と伝えていることも、わたしの仮説と対応しています(米原:鞠智城がある場所の地名)。
 こうしたわたしの仮説をご存じかどうかはわかりませんが、木村さんは6世紀末の鞠智城の住居跡を「鞠智城の前身となった施設」として検討課題とされました。このように意識的に検討課題とされたことに、考古学者としての厳密性がうかがわれました。これからの鞠智城研究は考古学編年の再検討と、文献史学との整合性が必要と考えており、展開が楽しみです。

〔参考〕米原長者伝承(Wikipediaより)
 用明天皇(在位585年 – 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢や牛馬3000以上(異説では牛馬1000、または奴婢600と牛馬400)を抱える大富豪だった。彼はこれらの労働力で、5000町歩(3000町歩とも)もの広大な水田に毎年1日で田植えを済ませることを自慢にしていた。ある年の事、作業が進まずに日没を迎えてしまった。すると米原長者は金の扇を取り出して振るい、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。だが再び陽が沈んでも終わらなかったため、山鹿郡の日岡山で樽3000(異説では300)の油を燃やし、明かりを確保して田植えを終わらせた。この時、にわかに天(山頂とも)から火の輪(玉とも)が降り注ぎ、屋敷や蔵が炎に包まれ、米原長者は蓄米や財宝など一切を一日にして失った。これは太陽を逆行させた天罰で、この影響から日岡山は草木が生えない不毛な地になり、名称も「火の岡山」が転じてつけられたという。


第1271話 2016/09/14

上町台地に7世紀前半の寺院跡か

 本年7月に発行された『葦火』182号に「幻の仏教施設が上町台地に?」(小田木富慈美さん)という興味深い記事が掲載されました。
 前期難波宮の南西にある中央区上本町遺跡の難波京坊間路(条坊道路の中間にある道路)の溝やその周辺から飛鳥時代の平瓦や漆を入れた須恵器、蓮華文軒丸瓦などが出土したことが報告されています。特に蓮華文軒丸瓦は前期難波宮の西側から出土した前期難波宮と同時代の軒丸瓦と同笵の可能性があるとのこと。
 これらの出土状況から、大阪市の中央を南北に延びる上町台地周辺には、飛鳥時代に多くの寺院(四天王寺・大別王寺・堂ヶ芝廃寺〔百済寺〕・細工谷廃寺〔百済尼寺〕)が建立されたことを紹介され、「今回の調査地域にも前期難波宮と同じ頃の寺院か仏教施設があった可能性が高くなってきた」とされています。
 九州王朝は7世紀初頭の「河内戦争」に勝利して河内や難波に進出し、上町台地に難波天王寺や多くの寺院を建立し、652年には副都として前期難波宮や条坊都市難波京を造営したと、わたしは考えていますが、今回の報告はそのことと対応しています。そして何よりも、北部九州には7世紀前半の寺院遺跡が見つからないという「九州王朝説に刺さった三本の矢」のうちの《二の矢》に対する「答え」になる可能性をこの仮説は秘めています。正式な発掘調査報告書を待ちたいと思います。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。


第1270話 2016/09/14

京都府立総合資料館での爆読、「九州」調査

 京都府立総合資料館閉鎖の報に接し、数々の思い出が蘇るのですが、「空海全集」などの他にも全巻読破したものに「平安遺文」「鎌倉遺文」がありました。「寧楽(なら)遺文」は持っていましたので、自宅で読みました。この場合は「読む」というよりも、「検索」に近い作業で、検索ワードは「九州」でした。
 古代中国において「九州」とは天子の直轄支配領域を意味する政治用語で、中国史書にも「九州」という用語が散見されます。もちろん日本列島の九州島のことではなく、中国の天子の直轄支配領域、転じて自国のことを意味しています。ですから、日本列島の九州という地名は単に国が九国あるということではなく、その地の政治権力者により九州島を九分割して、意図して「九州」という名称に対応させたと考えられるのです。たとえば筑紫や肥、豊は「前」「後」に分割し、その他の日向・薩摩・大隅は分割せず、意図的に九分割した痕跡がこれら「前」「後」地名として残ったと見られるのです。
 こうした視点に立って、国内史料中に見える「九州」表記を調査し、いつ頃に九州島が九国に分割されたのか、そして「九州」と表記されるようになったのか、あるいは701年以降に日本の代表王朝となった近畿天皇家が自らの支配領域を「九州」と表記したのはいつ頃からかという調査を行いました。そのときに「平安遺文」などの膨大な史料調査を府立総合資料館で終日行ったのです。
 この調査結果に基づいて書いた論文が「九州を論ず -国内史料に見える「九州」の変遷-」「続・九州を論ず -国内史料に見える「九州」の分割-」です。両論文は古田先生等との共著『九州王朝の論理』(2000年、明石書店)に収録されています。この論文は古田先生からも高い評価をいただくことができ、自分でも自信作の一つです。休日の度に府立総合資料館に通い、昼食抜きで閉館時間まで爆読(検索)した日々が懐かしく思い出されます。


第1268話 2016/09/07

九州王朝の難波進出と狭山池築造

 わたしのfacebookに下記の記事を掲載しましたが、読者からの興味深いコメントも寄せられましたので、転載します。

九州王朝の難波進出と狭山池築造の作業仮説(思い付き)

 巨大な狭山池を見て、誰が何の目的でこれだけの規模の灌漑施設を築造したのだろうかと、この二日間ほど考えてみました。もちろん水田用の灌漑が目的であることは明白ですが、それにしても規模が大きすぎると思いました。相当な食糧増産の必要性に迫られた権力者でなければ、このような巨大土木事業は行わないのではないでしょうか。そこで次のような作業仮説(思い付き)に至りましたが、いかがでしょうか。

1.7世紀初頭、「河内戦争」(冨川ケイ子説)に勝利した九州王朝はその地に進出した。
2.多くの戦死者を出し、当地の人民からも恨まれたであろう九州王朝は難波天王寺を建立し、敵味方なく犠牲者の菩提を弔った。(619年、九州年号の倭京二年。『二中歴』による)
3.難攻不落の地勢を持つ上町台地への副都建設を想定して、その手始めに、急速に増加するであろう副都の官僚や家族、その他の人々のために食糧増産に迫られた。
4.そこで狭山池を築造し、水田面積を増やすべく西河内の灌漑施設を整備した。(616年)
5.隋や唐の脅威が迫った首都太宰府の防備を固めると同時に、全国に軍事的中央集権体制の評制を施行し(648年頃)、全国支配のための副都前期難波宮と役所群を造営した。(652年、古賀説)
6.条坊も造営整備し、副都防衛のため、関や羅城も造営した。(服部静尚説)

 以上のようなストーリーを思い付きました。今後、学問的検証を進め、仮説として成立するか検討してみます。みなさんの御意見・ご批判をお願いします。《古賀達也》

【写真】狭山池の航空写真と狭山池博物館に掲示されていた当地方の地図です。狭山池の巨大な規模と、それによる灌漑対象地域の広さがわかります。

〔寄せられたコメント〕

冨川ケイ子さん:大和国に基盤を置く勢力にとって、前期難波宮とそこで宣言された評制が非常に脅威だったこと、8世紀以後に権力を握った時に評制を歴史的に抹殺したくなる理由もよくわかります。しかし、そうすると、壬申の乱に難波宮が関わらなかったのはなぜなのか、ちょっと悩ましいです。

西村秀己さん:難波京が副都ではなく首都であったなら、倭京=難波京であったかも・・・

古賀:倭京はやはり大宰府でしょう。難波京の成立は日本書紀によれば652年(九州年号の白雉元年)ですし、九州年号の倭京元年は618年ですから、時期が離れています。

西村秀己さん:九州年号の倭京はもちろん太宰府。ここで言っている倭京は日本書紀の壬申の乱に登場する倭京のことです。

古賀:なるほど。微妙な問題ですね。日本書紀の再史料批判が必要です。

冨川ケイ子さん:私の論文「河内戦争」はほとんどが日本書紀の記述の分析ですが、ちょっとだけ考古学からの指摘に触れました。たとえば広瀬和雄氏に「畿内の古代集落」という長大な論文があって(『国立歴史民俗博物館研究報告第22集』所収)、そこでは畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)における7〜9世紀の集落遺跡が分析されています。集落の構成要素、建物群の類型、首長層の居宅、集落の景観・構成・消長、集落と集落の関係、古代の集団構造といった目次が示すように指摘されている点は多いのですが、私はその末尾の記述に注目しました。
 すなわち、「畿内の古代集落の変遷にはふたつの画期がみとめられることを指摘しておいた。それはそのまま集団関係における画期でもあった。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭、第2の画期が8世紀初頭。」「第1に、7世紀初頭を前後する時期に、あらたにはじまる集落の多いことを述べた。いっぽうではこの時期に終焉をむかえる集落も顕著であった。(中略)すなわち、畿内各地を対象に広範におこなわれた計画的大開発が、伝統的な集団関係を改変し、それをあらたに再編成した。すなわち、耕地の開発を契機とした集落の成立、勧農を目的とした開墾、その権力による奨励が集落変遷における第1の画期の背景にある歴史的動向であった」「第2に、7世紀後半には畿内の有力首長層は寺院の建立をはじめ、そののち8世紀初頭ごろになると居宅に官衙風配置を採用するにいたる。」
 画期が2つあると言いながら、第2の画期は第1の画期が基盤になっていることは明白だと思います。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭に始まっているということは、畿内では律令制的な農村が、文献史学が示すよりも早くスタートしていることを意味するでしょう。その画期は、6世紀末の「河内戦争」がきっかけでもたらされた、と考えます。


第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。


第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)