九州王朝(倭国)一覧

第1225話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(5)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和61年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。

 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(p.93)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、1982年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(p.167〜168)

 わたしは大和朝廷一元論者の困惑したこれらの文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。

 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。(つづく)


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1222話 2016/07/03

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(2)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とわたしが名付けた考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視しすることは学問的態度ではないからです。これが九州王朝説論者同士の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元史観論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》を考察します。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者からは、当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然であると説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されており、わたしは期待を持ってそれを見守っている状況です。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)


第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。


第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)


第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1204話 2016/06/07

大宰府政庁出土「須恵器杯B」の年代観

 『西都大宰府』に記されているように、大宰府政庁1期整地層から、従来7世紀第4四半期と編年されていた「須恵器杯B」が出土するということはかなり衝撃的なことです(Facebookに写真を掲載してます)。なぜなら、大和朝廷一元史観に立った通説でも大宰府政庁1期は天智の頃(660年前後)とされており、その下の整地層から出土した「須恵器杯B」は660年以前の土器となり、従来編年よりも20年ほど早くなるからです。
 もしこの「須恵器杯B」を従来通り7世紀第4四半期と編年してしまうと、大宰府政庁1期の堀立柱遺構も7世紀第4四半期以降となってしまい、白村江戦(663年)の10年以上も後に建てられたことになります。そうすると、通説でも665年頃に造営されたとするあの巨大な水城や大野城、基肄城は一体何を防衛していたのか、全くわけがわからなくなるのです。このように、大宰府政庁1期整地層から出土した「須恵器杯B」は一元史観の編年では数々の矛盾が生じ、理解不能となるのです。したがって、通説を維持する為にも「須恵器杯B」の編年を7世紀中頃以前にしなければなりません。前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」の編年も同様の論理的帰結を指し示していることは既に述べたとおりです。(つづく)