九州王朝(倭国)一覧

第1203話 2016/06/06

大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」

 7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
 大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
 そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
 『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)


第1201話 2016/06/05

鞠智城出土炭化米のC14測定年代

 「洛中洛外日記」1200話で、鞠智城創建時期は7世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかと述べましたが、Facebook での読者(西野さん)から鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、7世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。こうしたリアルタイムでの応答や情報交換ができることはFacebook などの強みで、「古田史学の会・WEB例会」を構築したいという、わたしの希望の良き先例となりそうです。
 西野さんからご紹介された『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(p.51)によると「平成3年度の第13次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。

①山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
②南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は1000±15BPで、これは西暦950±15年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第21表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差2倍、信頼度95%でAD(西暦)1000〜1020年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が879年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③17調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は1450±15BPとなり、これは西暦500±15年という事になる。同じく、第21表によりAD590〜640年(6世紀後半〜7世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦698年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成2年度に鞠智城の第9次調査(昭和62年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦650±30年(第21表によりAD660〜770年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも70〜130年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が6世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。

 以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、わたしの多利思北孤の時代に創建されたとする説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。この報告書の存在をご教示いただいた西野さんに感謝申し上げます。


第1200話 2016/06/04

鞠智城編年の

キーファクター「須恵器杯B」の年代観

 和水町講演会の翌日に鞠智城を再訪問し、歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんに鞠智城出土土器編年について教えていただきました。通説では鞠智城の創建は7世紀第3四半期とされているのですが、わたしは7世紀初頭のタリシホコの時代にまで遡るのではないかと考えています。
 その主たる理由は7世紀の年代判定に使用されている須恵器の編年が各地で揺らいでおり、特に従来は天武期とされてきた「須恵器杯B」が652年に創建された前期難波宮整地層から出土していることから、その編年が30年ほど古くなったのです。
 「須恵器杯B」とは蓋につまみがあり、底に「脚」がある土器なのですが、木村さんから見せていただいた『鞠智城跡Ⅱ』(2012年)の土器編年表も鞠智城出土「須恵器杯B」が7世紀第4四半期に位置付けられています(FaceBookに写真を掲載しています)。この問題は古代の遺跡編年が雪崩打って変化する重要なテーマですので、慎重に検討したいと思います。
 最後に、昨年に続いての鞠智城訪問でしたが、わたしの通説と大きく異なる意見や質問に対して、休日出勤までして懇切丁寧に答えていただいた木村さんに感謝申し上げます。


第1197話 2016/06/01

久留米大学公開講座は盛況

 5月28日に開催された久留米大学公開講座は、おかげさまで盛況でした。正木裕さんが「聖徳太子」(多利思北孤)は久留米にいたことを明らかにされ、九州王朝の兄弟統治についても解説されたところ、質疑応答ではその「弟」についての質問や、久留米からは7世紀初頭の宮殿遺構が発見されていないなどの鋭い本質的な質問が出されました。年々、聴講者からの質問のレベルが高くなっているように思いました。
 そうした質問に対応するように、わたしからは「弟」を「肥後の翁」とする仮説を発表しました。また、北部九州の須恵器編年が40年ほど古くなる可能性があり、久留米市から出土した筑後国府遺構の編年についても再検討する必要があることを説明しました。
 講演後は西鉄久留米駅近くの居酒屋に場所を換えて、当地の会員のみなさんや久留米地名研究会の荒川会長や久留米大学の福山教授も交えて、夜遅くまで歓談しました。


第1196話 2016/05/31

熊本県に多い古墳時代の「馬」出土

 「洛中洛外日記」1194話の「馬と塩」で、馬の飼育には大量の塩が必要であることを述べましたが、昨日、訪問した歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんに馬と塩についてお聞きしたところ、天草の製塩土器が県内各地から出土することと、馬を飼育していたと思われる古代の牧が阿蘇外輪山付近などにあったとのことでした。
 更に、案内していただいた高木正文さん(現地の考古学者、菊水史談会)のお話では、古墳時代の「馬」の出土は熊本県と長野県が多いとのことでした。熊本県が多いのは、『隋書』の記述からも納得できますが、なぜ長野県に多いのか不思議です。しかも、長野には海がなく、塩の入手にも困難と思われるだけに、ますます不思議に思いました。古墳の周濠などから馬の骨が出土しており、埋葬の痕跡を示しているとのことでした。
 『隋書』「イ妥国伝」に見える200騎の騎馬隊や、江田船山古墳出土鉄剣の馬の象嵌など、古代の肥後が馬の産地であることは、九州王朝の実像を考える上で重要なことのように思いました。


第1194話 2016/05/28

馬と塩

 本日の久留米大学公開講座で正木裕さんとわたしが九州王朝の「聖徳太子」について講演しました。おかげさまで今回も盛況でした。また、質疑応答で出された参加者からのご質問はとても鋭く本質をついたものが多く、古代史ファンの学問的レベルや問題意識が高いことを感じさせられました。
 『隋書』「イ妥国伝」に200騎の騎馬隊が隋使を迎えた記事があることから、わたしが九州王朝では馬の飼育に必要な広大な牧場や騎馬軍団を維持するシステムを有していたと解説しました。これに対して、菊池市の吉田さん(古田史学の会・会員)から、馬の飼育には多量の塩が必要であり、製塩土器などが出土している地域こそイ妥国の領域であるとのご意見が寄せられ、確かに塩の供給体制は騎馬軍団維持に必要不可欠であることを認識することができました。
 古代国家と塩・製塩の関係を重視した研究が必要と痛感しました。講演会後は現地の会員や久留米大学の福山先生等と懇親会を行い、夜遅くまで歓談が続きました。


第1193話 2016/05/27

別冊宝島『邪馬台国とは何か』の読み方

 別冊宝島『古代史再検証 邪馬台国とは何か』が発刊されました。今朝、京都駅で購入し、久留米に向かう新幹線の車中で読みました。わたしへのインタビュー記事「古田史学から見た『邪馬壹国』」が掲載されているので購入したのですが、現在の「邪馬台国」研究動向と学問的水準を把握するのに役立ちました。たまにはこうした一般の古代史ファン向けの雑誌を読むのもいいものだと思いました。
 わたしのインタビュー記事を担当された常井宏平(とこい・こうへい)さんは若いフリーライターですが、その卓越した理解力と文章力により、二時間に及んだ雑多なわたしの話を要領よく、かつ説得力のある見事な記事にまとめられていました。感謝したいと思います。
 またカラー写真がふんだんに掲載されており、買って損はしない一冊といえます。たとえば中国の洛陽から発見された三角縁神獣鏡や志賀島の金印、平原遺跡の漢式鏡のカラー写真などもあり、史料的にも値打ちがあります。
 他方、「邪馬台国」畿内説にとどめを刺す重要な史料が、偶然とは思えない「配慮」によるものか、掲載されていませんでした。たとえば『三国志』倭人伝の版本写真が何ページかに散見するのですが、肝心要の「南至る、邪馬壹国」という部分は見事に掲載されていないのです。わたしのインタビュー記事以外は全論者・全頁が何の説明もなく「邪馬台国」と原文改訂(研究不正)した表記となっています。この事実こそ「邪馬台国とは何か」の答えになっているのかもしれません。すなわち「邪馬台国は研究不正の所産。みんなで隠せ邪馬壹国」という「答え」です。しかしながら「古田史学・邪馬壹国説」をわたしへのインタビュー記事として掲載されたのですから、これは編集者の学問的良心と受け止めたいと思います。もちろん、古田ファンにも売れるというビジネス的判断かもしれませんが、この点は出版ビジネスですから、わたしは否定しません。
 更に巻末に綴じ込み付録「邪馬台国出土品 邪馬台国の謎を解く6つのアイテム」として、「銅鏡」「金印」「銅剣・銅矛」「銅鐸」「玉類」「骨角器」の美しい写真が掲載されているのですが、なぜ「鉄器」と「絹」がないのでしょうか。恐らくこの二つのアイテムの圧倒的濃密出土地域が福岡県であることから、この事実を掲載してしまえば、そもそも考古学的にも畿内説は存在不可能となってしまい、「邪馬台国とは何か」という「古代史再検証」企画が成立しなくなるのです。これは出版ビジネスとしては避けたいところでしょう。わたしも仕事でマーケティングに関わっていますから、ピジネスとして理解できないこともありません。なお、鉄器と絹の福岡県と奈良県の出土分布比較グラフは本文中にはあり、全く触れられていないということではありません。しかし、巻末の「謎を解くアイテム」に取り上げられていないことには、意図的なものを感じざるを得ません。あえて編集者の立場に立って考えれば、錆びてぼろぼろの鉄器や腐食寸前のシルクでは、カラーグラビアとしてはインパクトに乏しく、そのため不採用になったのかもしれません。
 最後にこの本の読み方について述べてみます。様々な説が紹介され、各論者の意見が記されているのですが、それらのほとんどは「ああも言えれば、こうも言える」「(史料・考古学)事実はともかく、わたしはこう考えてみたい」「倭人伝中の自説に不都合な記事は信用できない。しなくてよい」「その位置は永遠の謎」「むしろ、わからなくてもよい」といった類のものか、どうとでもいえる抽象論で、およそ学問的論証レベルに達しているようには思えません(少数の例外記事を除いて)。
 そして、そうした文章を延々と読まされる読者には知的フラストレーションが溜まりに溜まります。そんなときに古田史学・邪馬壹国説のページに到着し、そこで初めて、学問的論証とは何か、邪馬壹国という倭人伝原文の史料事実(真実)を知るといった演出効果が施されています。その意味では、とてもよい古代史ファン向けの一冊ではないでしょうか。わたしはお勧めします。


第1192話 2016/05/21

国家官僚群を収容できない「飛鳥京」

 本日の「古田史学の会」関西例会では、犬山市から参加されている掛布(かけの)さんが初発表されました。
 服部さんからは、律令体制の都における国家官僚の人数と生活に必要な家地の面積と条坊都市の面積の関係について論じられ、前期難波宮にいた国家官僚群を収容できる広さが「飛鳥京」(通説では前期難波宮から遷都した「倭京」を奈良の「飛鳥京」とする)にはないことを明らかにされました。
 正木さんからは、中国洛陽から発見された三角縁神獣鏡を調査実見された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)の講演内容について報告されました。とても興味深いのでしたので、西川さんに「古田史学の会」でも講演していただこうということになりました。ちなみに西川さんは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者ですが、「古田史学の会」で講演しても良いとのことです。また、奈良の龍田神や「風祭り」について、本来は肥後における阿蘇神(健磐龍命)の風祭りであったとする研究を発表されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の廻心とわたしたちの結授によせて
 再び古田武彦氏の弟子となる意味を問う(東大阪市・横田幸男〔古田史学の会・インターネット事務局〕)
②宮年号の証明(犬山市・掛布広行)
③「京域と官僚」-藤原宮を中心に考察する(八尾市・服部静尚)
④洛陽から発見された三角縁神獣鏡について(川西市・正木裕)
⑤橿原市瀬田遺跡の円形周溝暮(川西市・正木裕)
⑥岡山県造山古墳訪問報告(川西市・正木裕)
⑦盗まれた風の神の祭り(川西市・正木裕)
⑧『後代の旧事記』(『先代旧事本紀』)の有効性を探る(東大阪市・萩野秀公)
⑨前期難波宮の内裏(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 「古田史学の会」活動報告・書籍出版販売状況・6/19会員総会と記念講演会(張莉さん・正木さん)の案内・「東京古田会」藤沢会長ご逝去・久留米大学公開講座で講演・7/02「古田史学の会・四国」正木氏講演会(松山市)の案内・6/24「古代史セッション」(森ノ宮)で古賀発表「古代染色技術と最先端機能性色素の歴史」の案内・7/16関西例会々場が大阪歴博に変更・その他


第1189話 2016/05/17

戦国武将、筑紫広門の祖先

 今朝は東京行きの新幹線車中で書いています。午後、東京で代理店と商談を行った後、長岡市に向かいます。明日からは新潟で仕事です。わたしの席のお隣には就活中と思われる黒いスーツのお嬢さんが座られており、心の中で「頑張って」とエールを送りました。

 25年ほど前のことですが、わたしは九州王朝の御子孫調査に取り組んだことがありました。「倭の五王」時代の九州王朝の王家が筑後に割拠し、高良大社の御祭神、高良玉垂命を襲名したことはかなり明らかにできたのですが、7世紀初頭に太宰府(倭京)を造営し、筑後から筑前に戻った多利思北孤の家系や末裔の調査は進みませんでした。現在に至ってもなお不明です。
 その折り、最も精力的に調査したのが、戦国武将の筑紫広門の家系でした。その「筑紫」という姓から、古代における「筑紫君」の末裔ではないかと考えたからです。『太宰管内志』によれば、筑紫神社(筑紫野市)の項に、筑紫広門の祖先は筑紫神社神官との記述があり、ますます九州王朝の子孫の可能性が高まったのですが、結局のところそれ以上調査は進まず、結論には到達できませんでした。なお、筑紫広門の子孫は江戸で旗本となります。ですから関東地方の「筑紫さん」は広門の御子孫の可能性があります。
 筑紫姓で有名な方に、ニュースキャスターの筑紫哲也さんがおられました。面識はなかったのですが、筑紫さんは古田説をご存じでした。わたしは「市民の古代研究会」事務局長時代に筑紫さんからお葉書をいただいたこともあります。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社)を衆参の全国会議員と著名なマスコミ関係者に送付したのですが、筑紫さんからだけ丁重なお礼のお葉書をいただきました。おそらく、筑紫さんもご自身の名前と九州王朝との関連を気にされたのではないかと想像しています。
 国家「君が代」法制化問題などが取りざたされていた時期でもあり、古田史学を世に広める絶好のタイミングと考え、「市民の古代研究会」の事業として『「君が代」は九州王朝の讃歌』無償提供を行ったのですが、結局、表だって反応があったのは筑紫さんからのお礼状と、その数年後に公明党京都府本部主催文化講演会に古田先生が講師として呼ばれたことぐらいでした。今思うと、与野党含めて「君が代」問題を学問的に論じるということに興味がなかったのかもしれません。懐かしい思い出です。


第1188話 2016/05/16

十三弁花紋と五十猛命と九州王朝

 久留米市の犬塚幹夫さんの調査によると、わたしが九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋ですが、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているようです。

筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
鴻臚館跡(福岡市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 他方、十三弁の菊家紋を紋章としている神社として兵庫県たつの市の中臣印達神社(なかとみのいたてじんじゃ)が知られています。その御祭神を調べてみますとなんと五十猛命でした。わたしにはこの五十猛命に見覚えがありましたので、『太宰管内志』で確認したところ、筑紫神社(福岡県筑紫野市)と荒穂神社(佐賀県基山町)の御祭神が五十猛命(筑紫の神)でした。
 両神社は比較的近傍(基山の東麓と西麓に位置します)にある神社で、御祭神が共通していることから、五十猛命は筑紫と肥の国にまたがる古い神様(天孫降臨以前の権力者)と思われます。
 偶然かもしれませんが、筑紫と五十猛命と十三弁紋が「九州王朝の十三弁紋」という仮説が結節点となって有機的な繋がりが見えてきそうです。調査はまだ始まったばかりですので、あまり断定せずに研究を進めたいと思います。


第1186話 2016/05/13

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)

 「洛中洛外日記」第1179話「観世音寺の創建年と瓦の相対編年」において、「百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。(中略)九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。」と記したのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から疑義が寄せられました。
 百済滅亡以前に九州王朝へ贈られた阿弥陀如来像が10年以上も後の白鳳10年に建立された観世音寺の本尊とされたことについて、「史料とよく整合する」と記した部分が意味不明とされたようです。たしかにここは説明が足りないなと、わたしも懸念を抱いていた箇所でもあり、その心裏を見透かされたような御指摘でしたので、さすがは正木さんと感服しました。
 観世音寺創建について、わたしは次のように考えてきました。

1.九州王朝(倭国)と同盟関係にあった百済から阿弥陀如来像が贈られてきた。その正確な時期と理由は不明(検討中)。
2.その後、百済は滅亡し、同盟国である倭国は百済復興のため唐・新羅連合軍と朝鮮半島で戦い、白村江戦で敗北し、倭王薩夜麻は捕らわれる。
3.太宰府では従来の条坊都市の北部に異なった尺度による条坊を追加造成し、そこに太宰府政庁2期の宮殿と、その東に観世音寺の建設を行う。
4.そしてようやく白鳳10年(670)に観世音寺が落成し、百済から贈られた阿弥陀如来像を本尊として安置した。
5.このように白村江戦敗北や薩夜麻の捕囚などの大事件が続発したため、さらには条坊の追加造成などもあったので、観世音寺創建が遅れた。

 以上のようにわたしは考えていますので、百済滅亡前に贈られた阿弥陀如来像のための寺院(観世音寺)建立に10年以上かかったのも当然としたのです。
 今回の正木さんからのご指摘を得て、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)について新たな疑問点が浮かんできました。
 それは観世音寺式伽藍配置の特徴として金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けたとされているにもかかわらず、観世音寺を「鎮護国家の寺」とされたことです。仏教思想や国家と仏教との関係について勉強中なのですが、阿弥陀信仰というものは「鎮護国家」とは少し異なるように思うのです。王家や王族の菩提を弔う「菩提寺」のような性格ではないでしょうか。この点、観世音寺式寺院の阿弥陀信仰と「鎮護国家」を関連付ける積極的な理由が不明です。この点、わたしも勉強したいと思います。
 なお、つい最近になって知ったのですが、摂津の四天王寺(『二中歴』年代歴に見える「難波天王寺」)の創建当時の本尊も阿弥陀如来像だったとする史料があるようなのです(調査中)。わたしは四天王寺(天王寺)も九州王朝の太子、利歌彌多弗利による創建と考えていますから、九州王朝は7世紀初頭において、阿弥陀信仰を受容しており、その影響は観世音寺にまで続いていたと考えられるのではないでしょうか。(つづく)


第1185話 2016/05/12

前期難波宮「内裏」の新説

 『大阪歴史博物館研究紀要 第14号』(平成28年3月)に収録されている佐藤隆さんの論文「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」を読みました。前期難波宮九州王朝副都説を唱えているわたしにとって、前期難波宮遺跡の北側にある大阪城の場所には前期難波宮時代に何があったのだろうかという疑問を永く持ち続けていましたので、強い関心を持って読みました。
 大阪城一帯が特別史跡に指定されているため、その下層の発掘調査はほとんど報告がなく、この佐藤論文は貴重です。須恵器杯Bの編年など、興味深い問題も記されているのですが、わたしがもっとも驚いたのが、現在の大阪城南部の本丸および二の丸から大手門に至る地域から、7世紀中頃の土器が出土したことなどを根拠に、その付近に前期難波宮の「内裏」があったのではないかとの新説を出されていることでした。掲載された図面によれば、その「内裏推定域」の位置は前期難波宮の北東にあたり、前期難波宮の中心軸からは200〜300mほど東にずれているのです。
 わたしは何となく、古代王都においては朝堂院の真北に内裏は位置すると考えていたのですが、今回の佐藤説に触れて、このような考え方もあるのだと驚いたのです。もちろん、それは佐藤さんの推定に過ぎませんが、わたしはあることを思い出しました。それは太宰府政庁2期の内裏(字、大裏)についてです。
 太宰府政庁の北側の遺構の規模は小さく、その後背地もそれほど広くないことから、本当にこんな狭い場所で九州王朝の天子(薩夜麻)は生活していたのだろうかと疑問視する声もあったからです(伊東義彰さんの意見)。ところが、太宰府政庁の北西に位置する「政庁後背地区」にも遺跡があり、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されています。それで、ここに内裏があったのではないかと考えていましたので、九州王朝王都にも朝堂院の真北に内裏が無いケースがあったことになり、前期難波宮の内裏も同様に朝堂院からずれていても問題ないと考えることができるのです(「洛中洛外日記」第982話 2015/06/16 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 をご参照ください)。
 佐藤さんの前期難波宮「内裏推定域」説が妥当かどうかは、今後の考古学的調査を待たなければなりませんが、広さやその位置が上町台地最高所であることなどから考えると、有力説ではないかと思えるのです。