第1189話 2016/05/17

戦国武将、筑紫広門の祖先

 今朝は東京行きの新幹線車中で書いています。午後、東京で代理店と商談を行った後、長岡市に向かいます。明日からは新潟で仕事です。わたしの席のお隣には就活中と思われる黒いスーツのお嬢さんが座られており、心の中で「頑張って」とエールを送りました。

 25年ほど前のことですが、わたしは九州王朝の御子孫調査に取り組んだことがありました。「倭の五王」時代の九州王朝の王家が筑後に割拠し、高良大社の御祭神、高良玉垂命を襲名したことはかなり明らかにできたのですが、7世紀初頭に太宰府(倭京)を造営し、筑後から筑前に戻った多利思北孤の家系や末裔の調査は進みませんでした。現在に至ってもなお不明です。
 その折り、最も精力的に調査したのが、戦国武将の筑紫広門の家系でした。その「筑紫」という姓から、古代における「筑紫君」の末裔ではないかと考えたからです。『太宰管内志』によれば、筑紫神社(筑紫野市)の項に、筑紫広門の祖先は筑紫神社神官との記述があり、ますます九州王朝の子孫の可能性が高まったのですが、結局のところそれ以上調査は進まず、結論には到達できませんでした。なお、筑紫広門の子孫は江戸で旗本となります。ですから関東地方の「筑紫さん」は広門の御子孫の可能性があります。
 筑紫姓で有名な方に、ニュースキャスターの筑紫哲也さんがおられました。面識はなかったのですが、筑紫さんは古田説をご存じでした。わたしは「市民の古代研究会」事務局長時代に筑紫さんからお葉書をいただいたこともあります。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社)を衆参の全国会議員と著名なマスコミ関係者に送付したのですが、筑紫さんからだけ丁重なお礼のお葉書をいただきました。おそらく、筑紫さんもご自身の名前と九州王朝との関連を気にされたのではないかと想像しています。
 国家「君が代」法制化問題などが取りざたされていた時期でもあり、古田史学を世に広める絶好のタイミングと考え、「市民の古代研究会」の事業として『「君が代」は九州王朝の讃歌』無償提供を行ったのですが、結局、表だって反応があったのは筑紫さんからのお礼状と、その数年後に公明党京都府本部主催文化講演会に古田先生が講師として呼ばれたことぐらいでした。今思うと、与野党含めて「君が代」問題を学問的に論じるということに興味がなかったのかもしれません。懐かしい思い出です。

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