九州王朝(倭国)一覧

第1063話 2015/09/26

「鬼前太后」「干食王后」の出典

 「古田史学の会」9月の関西例会では、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からも貴重な報告がありました。法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された上宮法皇(阿毎多利思北孤)の母親と奥さんの名称「鬼前太后」と「干食王后」の出典は仏典であったとする仮説です。
 正木さんの調査によると、「小地獄(無限地獄)」に落ちて受ける罰の一つに「鉄、野干、食処(てつやかんじきしょ)」というものがあり、これは仏像・僧侶などを焼いたり毀損した罪で、「身体から火が吹き出し、鉄の瓦が降り罪人を打ち、炎の牙の野干(ジャッカルとも。日本では狐に似た動物とされる)に食われる」という地獄。つまり「干食」は仏教上ではこうした罪を受ける意味を持っているとのこと。
 「鬼前」は前世で仏教を信じず侮った罪とされ、北魏の延興2年(472)に訳された『付法蔵因縁伝』に見える「斯鬼前世一是吾息一是兄婦(以下略)」を出典とされました。その意味は「鬼の前世は息子夫婦で、仏教を侮った罪で鬼に生まれ罪の報いを受けた」とのことで、ここに「鬼前」が見えます。
 結局、これらの語はいずれも仏教に背き罪を受け、無限地獄に落ち苦しむ様を示しています。多利思北孤の母、妻は、地獄の苦しみか(天然痘による病没か)らの釈迦の救済を求め、そこからの救済を行うために、「戒名」として授けられたと正木さんは考えられました。
 例会参加者からはそのような悪い戒名を天子の母や妻に付けるものだろうかという疑問も出されましたが、従来典拠不明とされていた「鬼前」「干食」の語を仏典から見いだされたことから、一つの仮説として研究に値するものと思います。「法興」「聖徳」に続いて「鬼前」「干食」も仏教に関わる語とされる正木さんの一連の研究は、九州王朝仏教史研究において貴重な成果ではないでしょうか。
 なお、この正木さんの研究は『古田史学会報』130号に掲載予定です。


第1062話 2015/09/25

加賀の「天皇」と「臣」

 「古田史学の会」9月の関西例会では重要なテーマの研究発表がいくつもありましたが、中でも今後の展開が期待される研究が冨川ケイ子さん(会員、相模原市)から報告されました(加賀と肥後の道君 越前の「天皇」と対高句麗外交)。それは6世紀(欽明期)の加賀に「天皇」と「臣」を称した有力者がいたというものです。
 『日本書紀』欽明31年(570年、九州年号の金光元年)3〜5月条に見える、高麗の使者が加賀に漂流し、当地の豪族である道君を天皇と思い、貢ぎ物を献上したという記事です。そのことをこれも当地の豪族の江淳臣裙代が京に行って訴え、其の結果、道君が天皇ではないことを高麗の使者は知り、貢ぎ物は取り返されたと記されています。
 冨川さんは、道君は高麗の使者が天皇と間違えるほどの有力者であることに着目され、当時の加賀(越の国)では道君が「天皇」を自称したのではないかとされました。また8世紀初頭において、道君首名(みちのきみ・おびとな)が筑後と肥後の国司を兼任していることから、筑紫舞の翁(三人立)の登場人物が都の翁と肥後の翁、加賀の翁であることと、何らかの関係があるのではないかとされました。
 肥後が鉄の産地で、加賀がグリーンタフ(緑色凝灰岩)の産地であることから、九州王朝の天子を中心としながらも、加賀にナンバーツーの「天皇」を名乗れるほどの有力者がいたかもしれないという仮説は大変興味深いものです。
 高麗(高句麗)の使者が倭国(九州王朝)の代表者が九州にいたのか、加賀にいたのかを知らなかったとは考えられません。もしかすると、九州ではなく最初から加賀の「天皇」に会うために高麗の使者は加賀に向かったのかもしれません。まだ当否の判断はできない新仮説ですが、これからどのような展開を見せるのかが楽しみな研究発表でした。


第1058話 2015/09/21

鞠智城7世紀中葉造営の理由

 鞠智城造営を白村江戦以後の665年としてきた従来説に対して、岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が大化改新後の7世紀中葉造営説を発表されました。わたしも鞠智城の従来編年が不適切であり、造営時期を少なくとも20〜30年遡らせるべきと指摘していました。ですから、岡田さんの新説には基本的に賛成なのですが、その造営理由を南九州の対隼人経営のためとされたことには賛成できません。
 岡田さんは7世紀中葉において、『日本書紀』などに対隼人経営に関する史料根拠が皆無であることを認められており、記事が無い理由を「鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」とされているのですが、いかにも苦しい言い訳としか聞こえません。ここに大和朝廷一元史観の宿痾と限界を見るのです。
 それでは鞠智城7世紀中葉造営の理由を古田史学(多元史観・九州王朝説)の立場からはどのような理解が可能となるでしょうか。まず7世紀中頃の九州王朝の大事業として「評制」の開始と難波副都(前期難波宮)の造営があげられます。唐や新羅の軍事的圧力に対抗するため、全国に中央集権的行政組織「評制」を施行し、その長官の「評督」や「助督」を任命しました。それと「副都詔」を発布し、まず難波に副都を造営しました。宮殿(前期難波宮)の完成は九州年号の白雉元年(652)です。
 またこの時期に北方の蝦夷国との戦いやその準備(柵の造営)も同時に行っています。その記録として『赤淵神社縁起』(兵庫県朝来市)も発見されました(「洛中洛外日記」604話・606話・608話・610話・611話・613話・614話・615話・618話・690話を参照、「赤淵神社」として一括掲載)。こうした九州王朝の状況から推測しますと、鞠智城造営の目的として次のことが考えられます。

1.唐・新羅の軍事的脅威に対応した太宰府の後方拠点(首都陥落に備えた臨時副都的性格)の確立。
2.九州中南部の評制施行の一環としての行政拠点の確立。

 これ以外にも目的があったかもしれませんが、多元史観・九州王朝説に立てばこのような仮説が考えられます。従って、こうした九州王朝の大事業が『日本書紀』に記されていないのも当然かもしれません。
 ちなみに、「隼人」は親九州王朝勢力ですから、対隼人経営のための鞠智城築城説は成立しません。『続日本紀』に見えるような、九州王朝末期(701年前後頃)に「隼人」が大和朝廷と激しく戦っていることも、九州王朝残存勢力が南九州で抵抗した痕跡であり、南九州が九州王朝にとって安定した支持勢力領域であったことの証拠に他ならないのです。ですから、鞠智城には「隼人」との戦闘に備えるような巨大防御施設(神籠石山城・水城など)が併設されていないのです。この点、大野城や水城・神籠石山城などの巨大防御施設で守られている太宰府とは地理的政治的条件が異なっていると言えるでしょう。


第1057話 2015/09/20

鞠智城7世紀中葉造営説が登場

 9月6日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会の当日、「鞠智城東京シンポジウム」が明治大学で開催されていました。その発表要旨集が、参加されていた菅原功夫さん(横浜市)から小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)を介していただきました。報告者によるパネル討論の発言内容についてのメモも添えられており、鞠智城造営年代についての重要な新説が発表されていたことがわかり、要旨集を精読しました。
 従来、鞠智城の創建年代については大野城と同時期の665年頃とされてきました。わたしは「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)「鞠智城のONライン(701年)」において、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されていることを紹介し、多元史観・九州王朝説による検討の結果、「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と指摘しました。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

 今回の「鞠智城東京シンポジウム」で出された新説は、基調報告「鞠智城と古代日本東西の城・柵」をされた岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)によるもので、菅原さんのメモによると岡田さんの発言として「創建は大野城、基肄城以前だ。対隼人との関係からと考えた。647〜648年頃に造営に着手した可能性を秘めている。」「665年前後に造ったのなら、それ以前の土器の存在についてはどうなのか。土器編年の問題。」とあります。そこで、要旨集の岡田さんのレジュメを精読したところ、次のように鞠智城造営年代について触れられていました。

 「結論として、私は鞠智城が白村江敗戦以降に築造されたのではなく、それ以前に南九州地方-熊襲・隼人の居住地域-を経営する城柵として大化改新後に造営され始めた「西海道最古の古代城」であろうと考えている。勿論、これを裏付ける史料は皆無なので、傍証として古代日本の城柵建設の動きを比較したい。」
 「西南日本では、7世紀中葉での南九州地方への対応は記録されておらず、約半世紀遅れて8世紀初頭に初見する。鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」(29頁)
 以上の記載から岡田さんは鞠智城の造営開始を大化改新(645年)後とされていることがわかります。パネル討論では具体的に「647〜648年頃に造営に着手」と述べられたのでしょう。
 この岡田新説に対して、他のパネラーからも次のような意見が述べられたことが、菅原さんのメモに記されています。

 佐藤信さん(東京大学大学院教授)「岡田先生が新しい知見、見方をした。新説だ。鞠智城の創建は書紀等の記述から大野城、基肄城と同様、665年頃と考えてきたのだが。」

 西住欣一郎さん(熊本県教育委員会)「岡田先生の主張はスムーズに理解できる。今後に期待を込めた講演だった。7世紀1/4期、2/4期の遺物は確かに存在している。」

 赤司義彦さん(福岡県教育庁総務部文化財保護課長)「大変なことになった。遺物は確かに古い。築城年代は何時か、考古学的には書紀の記述とは違う。648年、大野城の高野槇の木柱、皮を剥いでいるから650年頃だろう。白村江で負けてすぐに造って・・・、などと言うことではないだろう。」

 加藤友康さん(明治大学大学院特認教授)「証明が難しくてよくはわからない。」

 今回の岡田さんの新説は、わたしが「洛中洛外日記」で述べた編年修正「少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と基本的に同様のもので、評価すべきものです。ただ、鞠智城造営の目的を「南九州経営」のためとされていますが、その史料根拠が皆無であることをご自身も認められているように、『日本書紀』の記述を正しいとする大和朝廷一元史観では説明できないのです。
 しかしこのシンポジウムには特筆すべき画期があります。赤司さんや佐藤さんの「発言」で明らかなように、従来の『日本書紀』などの史料に引きずられた考古学的出土物の編年から、考古学的事実に基づいて編年しなければならないという真っ当な主張が、一元史観の学界内から出され始めたことです。大和朝廷一元史観から古田史学・多元史観へと、日本古代史学の底流での変化が静かに、しかしはっきりと進行しているのです。(つづく)

 ※赤司義彦さんの研究などについては「洛中洛外日記」259話260話262話813話でも紹介していますので、是非ご参照ください。
 (洛中洛外日記「太宰府」を参考掲載)


第1055話 2015/09/16

阿蘇山噴火と古代史

 阿蘇山噴火のニュースに接し、改めて『隋書』の次の記事を反芻しました。

 「阿蘇山があり、その石は故無くして火をおこし天に接す。俗人これを異となし、因って祭祀を執り行う。」『隋書』(タイ)国伝

 わたしたち古田学派はこの記事などを根拠に九州王朝説を主張しているのですが、大和朝廷一元史観の研究者も『隋書』を「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠としていたことをご存じでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、彼らのロジックは次のようなものでした。

1.「魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。」とあるから、『三国志』の時代の「邪馬台国」から隋の時代の7世紀まで同一王朝である。
2.7世紀に遣隋使を大和朝廷が派遣したことは『日本書紀』に記されており、7世紀の倭国の代表王朝は大和朝廷である。
3.『隋書』にある通り、7世紀の大和朝廷も3世紀の「邪馬台国」も連綿と続いた同一王朝である。
4.従って、「邪馬台国」の所在地は大和である。
5.だから、『隋書』に見える多利思北孤は大和朝廷の聖徳太子として問題ない。隋使が聖徳太子を倭国の天子と勘違いしただけである。

 およそこのようなロジックにより、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠として『隋書』を利用してきました。しかしこのロジックにはいくつもの学問的誤りがあります。たとえば次の通りです。

A.大和朝廷が自らの「歴史」を自ら編纂した『日本書紀』の記述を無批判に信用している。『日本書紀』がどの程度正しいかという史料批判がなされていない。犯罪捜査で言えば、容疑者の「俺は無実だ」という証言を無批判に信用するというレベルで、まともな裁判官・検察ならこのようなことはしません。
B.『隋書』に記された国の人物名が『日本書紀』には一人として記されていない。犯罪捜査で言えば、名前や性別(多利思北孤は男性。妻も子供もいる。推古天皇は女性。)も異なる別人を逮捕するという冤罪そのものです。
C.『隋書』に記された「阿蘇山」や「竹斯」といった九州の地名は無視し、近畿地方の地名など一切記されていないのに、「舞台は奈良県だ」と主張する。

 他にもありますが、このレベルの話しが大和朝廷一元史観の学者によれば、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の「根拠」「論証」とされてしまうのですから、日本古代史学界は摩訶不思議な世界です。こんなことだから「阿蘇山が怒って噴火する」と言いたくもなります。


第1054話 2015/09/13

「空白の4世紀」? 読売新聞の不勉強

 出張先の長岡市のホテルで読んだ読売新聞(9月9日朝刊)に「大和王権『空白の4世紀』に光」という見出しで、奈良県御所市の中西、秋津両遺跡の橿原考古学研究所による「古墳時代前期で最大規模の建物群」の発表が紹介されていました。読売新聞社大阪本社編集委員・関口和哉さんによる署名記事ですが、「空白の4世紀」という表現に、読売新聞と言えども不勉強だな、との感想を持ちました。
 同記事冒頭のリードには次のように解説されています。

 「女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(2〜3世紀)と、中国に使者を送った「倭の五王」(5世紀)の時代の間は、大和王権が発展した重要な時期だが、中国の史書に倭国を巡る記述がなく、〈空白の4世紀〉と呼ばれている。」

 4世紀の倭国のことを記した中国の史書がないとあり、おそらくはこれは大和朝廷一元史観の学者の受け売り記事と思われますが、古田先生は「四世紀は『謎』ではない」とする論考を1978年に『邪馬一国への道標』(講談社)で発表されています(228ページ)。同書にて四世紀の倭国のことを記した同時代史書『広志』(晋の郭義恭による)の存在をあげられているのです。『広志』はその本全体は残念ながら現存していないのですが、いろいろな本に引用されています。たとえば『翰苑』の倭国の項の注に次のように引用されています。(『翰苑』は唐の張楚金により書かれたあと、雍公叡により注が付けられています。その注に『広志』や『魏略』などの散逸した史料が引用されており、貴重です。)

 「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)

 『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです。もっとも読売新聞の記者を責めるのも酷です。日本古代史学界の不勉強であり宿痾(古田説無視・大和朝廷一元史観)が真の原因なのですから。
 このように4世紀の倭国は「謎」でも「空白」でもありません。博多湾岸にあった邪馬壹国を都として、更に九州の西南端や屋久島について記した『広志』があり、従って、これら史料を無視しない限り「邪馬台国」東遷説など「仮説」としてさえも成立しないのです。畿内説に至っては学説でさえもないことは既に「洛中洛外日記」(「邪馬台国」畿内説は学説に非ず)で繰り返し説明してきたとおりです。
 投馬国の範囲について、昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と意見交換したのですが、邪馬壹国が「七万余戸」で、投馬国は「五万余戸」とあることから、投馬国は薩摩地方だけでは収まりきれず、大隅や日向も含んでいるのではないかとの考えを正木さんは示されました。なるほど、そうかもしれないと思いました。
 『広志』に記された「邪馬嘉国(山鹿)」ですが、わざわざ記されたことを考えると倭国内の重要な国であると考えられますから、山鹿市にある鞠智城との関係に興味をひかれます。鞠智城の成立が4世紀まで遡るとは考えにくいのですが、もともと重要な拠点都市であったことから、その地に鞠智城が造営されたのではないでしょうか。この点も、これからの楽しみな研究課題です。


第1053話 2015/09/13

瓦の編年と大越論文の意義

 「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

 「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。」

 軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
 この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」です。同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

 「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

 「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

 次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
 更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

 「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

 この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、10年以上も前に出されています。当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
 大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。大変優れた内容で、わたしも同意見です。


第1045話 2015/09/07

「武蔵国分寺」七重塔創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」1044話の「武蔵国分寺」現地調査緊急報告で書きましたように、「塔1」(七重塔)の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではないことがわかりました。
 出土瓦だけからは編年が難しいのかもしれませんが、同遺跡の「塔1」創建瓦として展示されているものは「単弁八葉蓮華文」であり、7世紀後半によく見られる「複弁」ではありません。むしろ7世紀初頭や前半の瓦に似ているように思われ、どこかで見たような記憶がありましたので、持参していた『一瓦一説』(森郁夫著)に記載されている瓦と見比べたところ、7世紀前半頃とされる法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の軒丸瓦・軒平瓦の文様によく似ていました。もちろん、全く同じではありませんし、編年には地域性もありますから、断定するものではありません。
 また、武蔵国分寺跡資料館の発掘担当者の中道さんの説明によれば、『一瓦一説』に掲載されているような「(この地域では)きれいなものは見たことがない」とのことで、確かに展示されていた瓦は近畿の博物館などで見るような整った瓦はありませんでした。「複弁蓮華文」の軒丸瓦も、この地方ではほとんど出土していないと説明されていましたので、畿内の瓦の様式編年をそのまま適用するには用心が必要なようです。
 しかしながら、それでも「武蔵国分寺」の「塔1」の編年が、考古学的出土物よりも『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立命令の詔勅(天平13年、741年)を根拠に8世紀中頃以後とされているのは、大和朝廷一元史観の宿痾と言わざるを得ません。やはり多元史観による「九州王朝の国分寺建立」という視点で、各地の国分寺遺跡の編年見直しが必要と思われます。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の

古田史学に再掲載。


第1044話 2015/09/05

「武蔵国分寺」現地調査緊急報告

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のご案内で、「東山道武蔵路」「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」などの現地地調査を行いました。総勢8名で3時間ほどかけて、しっかりと見学できました。そして、予想を上回る成果をあげることができました。考察はこれからですが、取り急ぎ事実関係を中心に緊急報告を行います。
 武蔵国分寺跡資料館などで次の知見、説明を得ました。これらの持つ意味については、順次「洛中洛外日記」で考察します。

1.七重塔の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではない。瓦からは編年が難しいとされているようでした。
2.真北に主軸を持つと思っていた「塔2」の発掘図面を精査すると、東に約5度ほど振れており(茂山憲史さんの指摘・測定による)、真北に主軸を持つ「塔1」(七重塔)とは造営年代や造営主体が異なると思われる。
3.「武蔵国分尼寺」の主軸も、内部の伽藍により異なっていた。尼坊とその他の伽藍(金銅・講堂など)の主軸にはずれがありました。
4.同地域には7世紀の遺跡がないとされており、従って「塔1」の編年も8世紀中頃とする根拠の一つにされていた。

 他にも現地でなければわからない知見が次から次へと得られました。「歴史は脚にて知るべきものなり(秋田孝季)」という言葉を実感しました。懇切丁寧に説明していただいた武蔵国分寺跡資料館の中道さん石井さん、そして下見やご案内をしていただいた肥沼さんに感謝いたします。(つづく)

多元的「武蔵国分寺」現地調査

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)とリンクしています。


第1043話 2015/09/05

「九州顔」の女性たち

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で綴っています。午後からは国分寺市で「武蔵国分寺」の現地調査を行います。今回の「洛中洛外日記」は、あまり学問的ではないが、経験的に間違いないという話題です。
 九州出身(福岡県久留米市)のわたしは、二十歳のとき就職で京都に来ました。その後、帰省の度に九州には典型的な女性の顔があることに気づきました。九州にいるときは当たり前すぎて、しかも九州以外の人と比較するという機会もなかったので気づかなかったのですが、九州人の典型的な顔があるのです。特に女性はその特徴から、見た瞬間に「九州顔」ではと思い、ご当人やそのご両親の出身地を調べるとかなりの確率で九州出身であることが多いのです。最近はお化粧の技術もアップしましたので、わかりにくくはなりましたが、やはり特徴的な「九州顔」の人はわかります。
 皆さんもよくご存じの芸能人でいえば、田中麗奈さん(久留米市出身)、家入レオさん(久留米市出身)、黒木瞳さん(八女郡出身)、吉田羊さん(久留米市出身)などはその代表的な女性で、いずれも眼に特徴が現れています。わたしの母親はそれほどでもありませんが、祖母や叔母さんたちの何人かは「九州顔」でした。
 この「九州顔」の特徴は南に行くほど顕著ですから、元々は南九州人の特徴だったのかもしれません。おそらく、邪馬壹国の卑弥呼や壹与も「九州顔」だったのではと、かなりの確信を持っているのですが、いかがでしょうか。


第1039話 2015/08/30

世界遺産候補「沖ノ島」出土土器は九州製

 「洛中洛外日記」1009話(2015/07/28)で九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補となったことに触れました。「洛中洛外日記【号外】」(2015/08/26)でも沖ノ島の国宝、金銅製龍頭(こんどうせいりゅうず)について紹介しました。
 沖ノ島の祭祀遺跡からは4〜9世紀にかけての奉納品が発見されていますが、それらは大和朝廷が奉納したものと解されてきました。しかし、沖ノ島から出土した土器のほとんどが北部九州製で、一部が山口県の土器であることが明らかになっています。したがって、沖ノ島は大和朝廷の祭祀遺跡ではなく、太宰府を首都とした九州王朝(倭国)の祭祀遺跡と考えざるを得ないのです。詳細は古田先生の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』をご参照ください。
 沖ノ島が九州王朝の聖地であることを、世界遺産候補となったこの機会に、古田史学・九州王朝説を広く社会に紹介していきたいと思います。

第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究


第1038話 2015/08/29

平野雅曠さんの先行説(2)

「鞠智城は九州王朝造営」

 平野雅曠さんは「市民の古代研究会」時代からの古田説支持者で、中でも九州年号研究において優れた業績を上げられた熊本市在住の研究者でした。明治44年のお生まれで、地元の九州年号史料の調査発掘などを手がけられ、好著を何冊も出されています。
 「市民の古代研究会」分裂後に、わたしが「古田史学の会」を立ち上げたときも、呼びかけに応じ入会され、自主的にカンパも寄せていただきました。わたしも九州年号研究をテーマとしていたこともあり、論争もしましたし、とても思い出深い恩人です。
 その平野さんの著書『倭国王のふるさと火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)を読み返したところ、既に鞠智城を九州王朝の都城とする説を発表されていたことに気づきました。「国の王城か、『鞠智城』」という論文です。わたしよりも20年も早く同仮説に至られていたのです。改めて古田学派「鎮西の巨頭」の慧眼に感服しました。「今頃、気づいたか」と天国から温厚な笑顔と眼差しで後進を見ておられることでしょう。同書からはこれからも多くの学問的示唆を得られそうです。