九州王朝(倭国)一覧

第1167話 2016/04/12

唐軍筑紫進駐と庚午年籍

 今朝は特急サンダーバード5号で金沢に向かっています。夕方には松本市に到着、一泊します。明日13日と14日に桂米團治さんがKBS京都放送での番組収録や落語会(松尾大社)で京都に見えられるので、ご挨拶にうかがいたいのですが、出張と重なってしまいました。もちろん、『古田武彦は死なず』にKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での古田先生との対談を掲載させていただいたお礼のためです。残念ですが、ご挨拶は次の機会ということになりました。
 琵琶湖沿いの湖西線を列車は走っています。金色に輝く湖面と青空に映える比良山系、咲き誇る桜がきれいで、心は癒されます。連日繰り返される激しい企業間競争や困難な開発案件に、ついつい「好戦的」になり、心がささくれだつのですが、日本の美しい風景は、一瞬それらを忘れさせてくれます。まさに「ゆく春を近江の人と惜しみけり」の心境です。

 「庚午年籍」(670年)の造籍が近江朝によると正木さんは理解されているのですが、この「庚午年籍」造籍について、わたしは重要な問題が提起されているのではないかと考えてきました。古田先生もたびたび論じられたテーマですが、唐軍進駐により筑紫は軍事的に制圧され、倭国王墓は壊されたという指摘についてです。
 わたしは白村江戦敗北により、倭国水軍は壊滅的打撃を被ったと思いますが、九州王朝の都・太宰府や、その防衛施設である水城は破壊された痕跡がなく、むしろ「大宰府政庁2期」の宮殿や観世音寺が白鳳10年頃に造営されたり、同じく白鳳10年(670)には「庚午年籍」という全国規模で造籍がなされていることから、九州王朝の権威や国家官僚群(中央と地方とも)は健在だったのではないかと考えていたからです。もし、筑紫進駐した唐軍が九州王朝に対して軍事攻撃や墳墓・王宮破壊を行っていたのなら、その同時期に悠長に観世音寺や「政庁」を造営したり、全国的造籍事業を行ったりはできないはずだからです。
 ところが正木さんは「近江朝年号」すなわち天智・大友による「近江朝」という新概念を提起され、「庚午年籍」はその「近江朝」が造籍したものとされたのです。しかも正木説によれば、天智・大友の「近江朝」は九州王朝系であり、親唐派の薩夜麻と対立して対唐抗戦派の「近江朝」を立ち上げ、年号も「中元」と改元し、九州王朝を継ぐ自らの正当性を主張したとされたのです。
 その正当性を背景に「庚午年籍」を造籍したとすれば、この二重権力状態においてどのようにして全国的戸籍、とりわけ九州地方の造籍を行ったのでしょうか。実は「庚午年籍」において、九州地方と他地域とで「差」があったのではないかと考えられる史料根拠があります。『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国のの庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)
 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」には大和朝廷の官印が押されていなかったことを意味します。したがって、この時期になってようやく大和朝廷は筑紫諸国の「庚午年籍」に官印を押すことができたということであり、それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられるのです。
 この『続日本紀』の記事が以前から問題になっており、何度か論じたこともありました(「洛中洛外日記」119話「九州の庚午年籍」)。今回の正木さんによる「庚午年籍」近江朝造籍説にショックを受けたのも、こうした問題意識があったからでした。(つづく)


第1166話 2016/04/11

近江朝と庚午年籍

 『古田史学会報』133号に発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「『近江朝年号』の実在について」は九州王朝説の展開について重要な問題を提起していることに気づきました。
 『二中歴』などに見える九州年号とは別に「中元(668〜671)」「果安(672)」という不思議な年号が諸資料に散見されることが、九州年号研究者には知られていました。正木さんはこの「中元」を天智天皇の年号(天智7年〔即位元年〕〜10年)、「果安」を大友皇子の年号、すなわち「近江朝年号」と理解されました。「中元」を天智の年号ではないかとする見解は竹村順弘さんやわたしが関西例会で発表したことがあるのですが、正木さんは更に「果安」も加えて「近江朝年号」と位置づけられたのです。ここに正木説の「画期」があります。
 九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻が白村江戦敗北により唐の捕虜となっている間、九州年号「白鳳」(661〜683)は改元もされず継続するのですが、その最中に「中元」「果安」が出現しているのです。すなわち、日本列島内に二重権力状態が発生したと正木さんは主張されました。そこで、正木さんとの懇談の中で、「それでは庚午年籍(670)は誰が命じて造籍したのか」というわたしの質問に対して、「近江朝でしょう」と答えられました。その瞬間、わたしの脳裏は激しく揺さぶられました。(つづく)


第1162話 2016/04/03

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(2)

 鳥取県東伯郡の天神川右岸に位置する長瀬高浜遺跡は、古墳時代におけるこの地域の支配者らの住居跡と見られていますが、その遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることから、天孫族(倭国)の西日本支配以降もこの地域では銅鐸を用いた祭祀が続けられたと考えられます。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、「倭の五王」の時代に入った5世紀前半にはこの銅鐸が廃棄されていることから、大和朝廷による全国支配の確立による変動がこの地の在地豪族に影響を与えたと考察されています。これを九州王朝説の視点から考えると次のような歴史的変遷が想定可能です。

1.「天孫降臨」や「国譲り」により、出雲や山陰地方の銅鐸勢力は東へ逃亡した。
2.天孫族に降伏した大国主命らは、その後も在地勢力として残ったが、銅鐸祭祀を継続できたか否かは不明。
3.鳥取県の天神川流域の勢力は、古墳時代中期頃まで長瀬高浜地区の高殿で銅鐸を祭祀に使用していた。
4.古墳時代中期以降にはこの銅鐸が廃棄され、長瀬高浜に割拠していた勢力は移動した。

 概ね以上の変遷をたどったと推定できますが、もしこの推定が正しければ、この地域では銅鐸祭祀の継続が許されていたが、古墳時代中期に至り、何らかの事情で銅鐸を廃棄したということになります。
 そうであれば、出雲に残った大国主命たちは銅鐸祭祀を続けたのでしょうか、それともやめたのでしょうか。従来は、荒神谷遺跡。加茂岩倉遺跡などからの銅鐸出土を根拠に、天孫族の侵略により、この地の銅鐸圏の権力者たちは銅鐸を地中に隠して逃亡したと、古田説では考えられてきました。しかし、長瀬高浜遺跡からの銅鐸出土により、山陰地方における古墳時代の銅鐸祭祀が想定されることから、再検討が必要かもしれません。(つづく)


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1135話 2016/02/07

大善寺の十二弁菊花紋の御神像

「洛中洛外日記」1130話で肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究を紹介したところ、鳥栖市のTさんから久留米市大善寺にも十二弁菊花紋を持つ祠があることをお知らせいただきました。メールで送信していただいた写真には確かに石の祠に十二弁菊花紋があり、御神像が安置されていました。
 そこで、久留米市の研究者で威光理神や筑後国府のことをお調べいただいた犬塚幹夫さんにその祠のことをお伝えし、調査協力をお願いしたところ、早速次のメールが届きました。
 なんと十二弁菊花紋の祠の神様は女性の恵比寿様とのこと。恵比寿様といえば男性と思いこんでいたのですが、これには驚きました。ちなみに、筑後地方には恵比寿信仰が濃密に残っており、その淵源は九州王朝や高良大社とも関係がありそうです。楽しみな研究テーマがまた一つ増えました。当情報をお知らせいただいたTさんと犬塚さんに感謝いたします。
 以下、犬塚さんのメールをご了解の上、転載します。

古賀達也様
十二弁菊花の祠について

 先だっては、貴重なお話を聞かせていただき大変刺激になりました。ありがとうございました。
 さて、遅くなりましたが、十二弁菊花の祠について現在までに判明したことをお知らせします。

1  現地調査
 祠は西鉄大善寺駅の近く、明正寺という浄土真宗のお寺の脇にあります。祠自体にご祭神の情報がなかったため、お寺の方に聞いてみたところ、ご祭神は恵比須様であること、毎年七月下旬に町内の子どもが集まってお祭りをすること、祠がいつの時代からあるのかはわからないことなどを聞かせていただきました。

2  文献調査
 この祠と神像について、「久留米市史第5巻」では、「大善寺町には、明正寺前の祠にも木彫の恵比須(女形)が祭られている」とあり、ご祭神は恵比須様の女神であることがわかります。
 また、加藤栄「史料とはなし 鄕土大善寺」では、「恵比須さん 明正寺の道端にある町祠。明治初年からの木像がある。」とあるます。明治になって木像が補修されたのでしょうか。
 坂田健一「恵比須の中の筑後」で、次のように述べています。
 「恵比寿を単体で祭祀する場合、抱鯛型通相の神像がほとんどであるが、時に女神だけの事例もある。」として、久留米市大善寺にある二例の女神だけの恵比寿神像について説明しています。
 一つは、大善寺藤吉の称名院前の石祠にある神像で、「筑後秘鑑」によれば日本最初の市蛭子ということです。現地で確認したところ、神紋は「十二弁の菊花紋」ではなく「三つ蔓柏」でした。
 もう一つが大善寺宮本の恵比寿像です。坂田氏はこれについて、「石祠は大型の入母屋平入りの堂々たる構えで破風面に十二花弁の菊花が彫り出されているのが特徴的で珍しかった。『享和元年(一八〇一)酉年十月吉馬焉』の銘の外に、『上野町願主 江口吉右衛門』や庄屋の江口小右衛門、別当の田川儀七などの刻銘がある。
 内部の神像は高さ約二五センチほどの木彫で、頭頂部分が欠失しているが、明らかに垂髪の女神像である。目は線状に彫りくぼめ、鼻は三角形の小さな突起をつくり、両手を膝上に組んで何かを捧げている態様であるが、詳細は不明。小袖・袿・長袴姿を着た平安期の正装女性を感じさせるが、着衣の袖が左右に大きく張り出し、全体の形が三角形を呈しているのが出色である。
 神像の周囲に素焼きの恵比須・大黒像が置かれていて、この女神像が恵比須として祭祀されていることは明らかである。」としていますが、十二弁の菊花紋が使用されている理由などについては特に触れていません。

3  御廟塚
 大善寺町から約2キロメートル離れた三潴町高三潴にある高良玉垂命の墓と伝えられる御廟塚に祠がありますが、「三潴町文化財探訪」に「正面鳥居の前に小さな石祠がある。恵比須神の石祠である。」とされています。
 また、坂田氏の「恵比須の中の筑後」では、「三潴町の恵比須  塚崎の高良廟の境内に石祠がある。もとは古い石祠だったと思われるが、現在の祠は奥壁の一枚を保存して再建したものと推測される。この奥壁は平石の中央を彫りくぼめ、左右の縁部を前方に突出した形になっている。半肉彫に表現された恵比須は、高さ三二センチほどあり、両手で大鯛をがっちり抱え込む珍しい様式のものである。再建石祠の向かって右側面に『文政五年(一八二二)六月吉日 昭和七年十月再建』の銘がある。」とされています。
 念のため現地で確認したところ、大善寺藤吉の神像と同じく「三つ蔓柏」の神紋を使用していました。

4  十二弁菊花の神紋について
 十二弁菊花の神紋については、どの文献も触れていなかったため、神社に関するサイト「玄松子の記憶」を参照しました。玄松子さんが自ら調査した神社という制約はあるもののかなりの数の例が挙げられていますので大変参考になります。
 菊花の神紋を持つ254社のうち
十二弁       3社
    宇佐神宮  大分県宇佐市
    明治神宮  東京都渋谷区
        荏原神社  東京都品川区
 八弁       4社
十四弁       5社
十五弁       1社
十六弁その他    241社
(分類・集計は犬塚による)

 以上現在まで判明した事項についてお知らせしました。今後、私も十二弁、十三弁の神紋について探していきたいと思っております。

参考文献
加藤栄「史料とはなし 郷土大善寺」 1977
久留米市史編さん委員会「久留米市史 第5巻」 1986
坂田健一「恵比須の中の筑後」 1998

犬塚幹夫


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。