大和朝廷(日本国)一覧

第3358話 2024/10/01

『続日本紀』道君首名卒伝の

      「和銅末」の考察 (6)

藤原朝臣真楯卒薨伝の「天平末」「出爲」

 『続日本紀』天平神護二年(768)三月条には、「天平末」という表記を持つ藤原朝臣真楯卒薨伝(注)が記されています。当該部分は次の通りです。

 「天平末、出為大和守。」

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)です。ここでも道君首名卒伝と同様に「○○末、出爲○○守」の構文が使用されており、首名卒伝と同様の読み方であれば、「天平年間(729~748年)の末年(天平20年)に、大和国守に赴任した」という意味になります。もっとも、首名とは大きく異なり、赴任先は平城京がある大和国ですから、恵まれた任官と言えそうです。ところが、当薨伝以外に藤原真楯の大和守任官・赴任記事は見えませんから、「天平末」の「末」の意味をこの記事からは直接的に導き出すことができません。

 そこで、よい機会ですので、今回は「天平末」に続く「出爲」について説明します。まず、道君首名の筑後守任官と卒伝の赴任記事の原文と訳文は次の通りです。

(a) 和銅六年(713年)八月条 筑後守任官記事
「従五位下、道君首名爲筑後守。」
従五位下、道君首名を筑後守とす。

(b) 養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」
和銅の末に出(い)でて筑後守となり、肥後國を兼ねて治めき。

 このように、(a)では動詞は「爲」だけですから、「○○になす」「○○とする」の意味で使用されています。他方、(b)では動詞が「出」「爲」と二つ続けてありますから、「出でて○○となる」という構文になっており、単に都で任命されたということではなく、「都から出て、○○になる」という意味であり、卒伝の「出爲」は赴任記事と理解するほかありません。そして、「筑後守」「肥後国」と続きますから、筑後・肥後に赴任したと読者は読むことになります。その直後に、任地での活躍記事が続きますから、文章の流れとしても自然です。

 この「出爲」の構文は『続日本紀』には少なく、道君首名卒伝・藤原朝臣真楯卒薨伝に続いて、ようやく次の用例を見つけました。天平宝字四年(760年)九月条の、新羅国からの遣使、金貞巻の言葉に見えます。

 「貞卷曰。田守來日、貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。」
貞卷曰はく、「田守來れる日、貞卷出(い)でて外官と爲(あ)り。亦復(また)賎(いや)しき人にして細旨を知らず。」といふ。

 新日本古典文学大系本(岩波書店)の脚注には、この記事を次のように説明しています。

 「田守が新羅に来た時に、貞巻は地方官として都にはおらず、また身分が低いので、細かな事情は存じません、の意。」

 このように「出爲」という用語・構文は〝ある所へ出て、○○になる〟という意味で使用されていることがわかります。従って、道君首名卒伝の「和銅末」「出爲」を、和銅八年(715年)の筑後・肥後赴任の年とするわたしの理解は正しかったようです。(つづく)

(注)藤原朝臣真楯薨伝の原文は次の通り。【】は古賀が付した。
《天平神護二年(768)三月 藤原朝臣真楯薨伝》
丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。【天平末、出為大和守。】勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。


第3354話 2024/09/27

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (4)

 『続日本紀』には、服部さんの発表資料に提示された、「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」の一つとして、道君首名卒伝の「和銅末」がありますが、今回の悉皆調査の結果、『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例見つかりました。次の各伝です。

❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年です。

 卒伝・薨伝には上記に示した「○○末」の他、「○○中」「○○初」という年次表記例もあり(○○は年号)、『続日本紀』編纂者は「末」「中」「初」を使い分けていることがわかります。これら卒伝・薨伝の「○○末」について、前話で紹介した『続日本紀』の用例(ものごとの最後)と同様に、「○○末」が年号の最後の一年という意味で使用しているのかを確認するため、内容の調査を行いました。(つづく)


第3353話 2024/09/26

『続日本紀』道君首名卒伝の

         「和銅末」の考察 (3)

 「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。

 服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。

 わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。

(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。

これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。

(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。

 これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。

 伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。

 こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。

(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。

 「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。

 このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。

 次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)

(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。


第3352話 2024/09/25

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (2)

 わたしの文章理解や文字感覚からすると、他者に読んでもらうことを前提とする〝公的〟な文書では、なるべく誤解を招かないように正確な表現や文字を選びますし、他者が書いた公的な文書もそうした配慮がなされていると、まずは捉えます。その前提にあるのは、言葉や文字にはその社会内で、同じ意味、共通した理解が成立していると考えているからです。そうでなければ、自らの意思・認識を読者に正しく伝えることができません。

 なお、この場合、その意思や認識の当否は一応別問題です。誤った不正確な情報を真実であると信じてしまい、それを他者に正確に伝えようとする〝善意の誤り〟というケースもあるからです。文献史学やフィロロギーという学問領域では、こうしたことに考慮して、研究を進めなければなりません。

 それでは本論に入ります。例えば「末っ子」という言葉は、何人兄弟であっても最後の子供を意味し、それは五人兄弟であろうと十人兄弟であろうと同じです。兄弟姉妹が十人いても、八人目や九人目を「末っ子」とは言いません。それほど、「末」という字の字義が同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立しているからです。

 『続日本紀』の道君首名(みちのきみおびとな)卒伝(注①)に見える「和銅末」の場合はどうでしょうか。もちろんわたしは「和銅末」とあるのだから、『続日本紀』編者の年代認識と執筆意図は、「和銅年間の末年(和銅八年)のことと読んで欲しい」であると判断します。卒伝の当該部分は次のようです。

 「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 この文を読めば、和銅年間の末年(最後の一年。和銅八年・715年)と読者は理解するでしょうし、日本国の正史である『続日本紀』の編纂者はエリート文書官僚ですから、その「末」の字により、和銅年間の最後の一年のことと理解されてしまうことはわかっているはずです。むしろ、そのつもりで「和銅末」と書いたと考えるのが、文献史学における文章理解の基本です。もし、首名が筑後国守に任命された和銅六年(713年)のことと理解してほしければ、末年(最後の年)と読者から理解されてしまう「末」ではなく、たとえば「和銅年中」とか「和銅中」のような、幅を持つ適切な文字使いがありますから、文書官僚であればそちらを選ぶのではないでしょうか。

 ですから、都(平城京)で筑後国守に任命されたのが和銅六年であり、現地に赴任し、筑後国守となり肥後国守を兼ねたのが和銅年間の末の和銅八年のことであると、編者は認識しており、それを卒伝に記したのではないでしょうか。交通や情報手段が発達した現代社会とは大きく異なり、当時は家族や部下を引き連れて、そう簡単に都から筑後国に転居することはできないでしょうし、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており(注②)、赴任するのに二年かかったとしても不思議ではありません。しかも、首名は和銅五年(712年)九月に遣新羅使に任命され、和銅六年(713年)八月十日に都に帰還、その十六日後に筑後国守に任命されています。

 従って卒伝の通り、筑後国守赴任が二年後の和銅八年(和銅末、715年)であれば、「和銅末」はむしろ正確な情報に基づいた表記だと思われます。この理解が妥当かどうかを確認するために、わたしは『続日本紀』に使用された「末」の字の全用例を調べてみました。調査漏れがあるかもしれませんが、『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件ありました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』の養老二年(719年)四月条の「道君首名卒伝」は次の通り。
夏四月乙丑朔。(中略)乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。曉習吏職。和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。勸人生業。爲制條。教耕營。頃畝樹菓菜。下及鶏■。皆有章程。曲盡事宜。既而時案行。如有不遵教者。隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實。莫不悦服。一兩年間。國中化之。又興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。初出は『古田史学会報』七八号、二〇〇七年。


第3347話 2024/09/16

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (4)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145から出土した木簡から、701年に起きた行政官庁・官司の名称変化と行政用語を示すものを紹介します。これらも藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代がなされた根拠となる木簡群です。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】0
【本文】←○左大臣□□□

【木簡番号】0
【本文】□〔主〕典大初□〔位〕

【木簡番号】0
【本文】・←□御命受止食国々内憂白・←□止詔大□□〔御命ヵ〕乎諸聞食止詔

【木簡番号】0
【本文】・恐々謹々頓首→・受賜味物→

【木簡番号】8
【本文】・卿等前恐々謹解寵命□・卿尓受給請欲止申
【木簡説明】卿等への上申文書。助調の一部を万葉仮名で、補なう形をとった解。仮名を小字に書かない例は宣命木簡(奈教委『概報』)にもみられる。卿は養老令では八省の長官をいう。ここでは単なる尊称か。(後略)

【木簡番号】11
【本文】・恐々受賜申大夫前筆・暦作一日二赤万呂□
【木簡説明】筆の請求に関する文書。「暦作」云々の文言からすると暦の勘造、頒布に要する筆か。大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨、頒暦に当っている(『令集解』職員令陰陽寮条古記)。(後略)

【木簡番号】13
【本文】・内掃部司解□→・倭国○葛下郡→
【国郡郷里】大和国葛下郡
【木簡説明】内掃部司は宮内省の被管で供御の畳、席、薦等の事を分掌する官司。伴部として掃部をもつ。令制では掃部は大蔵省掃部司と宮内省内掃部司にある。掃部の伴造の系譜をひく掃部連の出身者が内掃部司の令史に任じられている例が、天平一七年四月付の正倉院文書にある(『大日古』二-四〇八頁)。この木簡の文意は不明であるが、葛下郡との関係は、同郡内に掃部氏の氏寺で義淵の建立と伝える掃守寺跡があることが注意される。

【木簡番号】17
【本文】中務省/管内蔵三人∥
【木簡説明】「管」は官司を管理するの意で、養老職員令にも「中務省/管職一寮六司三∥」などとある(『令集解』)。ただこの場合の「内蔵三人」は内蔵寮の官人のことか。大宝・養老令制では内蔵寮は中務省に所属している。

【木簡番号】18
【本文】中務省使部
【木簡説明】養老令制では中務省には使部七〇人が配属されている(『令集解』)。(後略)

【木簡番号】30
【本文】・大初位下上県白→・○□
【木簡説明】上縣という氏は他の文献史料にない。あるいは上が民(ママ、氏ヵ)で縣は名か。(後略)

【木簡番号】72
【本文】・□〔而ヵ〕薬司□〔侍ヵ〕/□□□□/○□∥・□□部□/○/□∥
【木簡説明】薬に関する官司は大宝令制では後宮十二司の薬司、典薬寮、内薬司などがある。この木簡の示す薬司は後宮十二司のそれをそのまま示すものか、あるいは典薬寮の大宝以前の前身である外薬寮(『日本書紀』天武四年正月朔条)や内薬司の前身である内薬官(『続日本紀』文武三年正月癸未条)の別称であるのかはつまびらかにしない。

遺構SD145から出土した上記木簡で注目されるのが、木簡17・18にある「中務省」(注①)という大宝令で創設された官庁名です。木簡13の「内掃部司」も中務省管轄の官司であり、木簡11の「暦作」を担当した部署も「大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨(ママ、暦)、頒暦に当っている(注②)」とあることから、SD145の近辺に中務省があったのではないでしょうか。藤原宮(京)が律令制の王都王宮として機能していたことは、木簡0・30に見える律令制官位「大初□」「大初位下」からもうかがえます。(つづく)

(注)
①中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつで、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた。
②『養老律令』巻十 雑令に次の条文がある。
「凡よそ陰陽寮は、年毎に預(あらかじ)め来年の暦造れ。十一月一日に、中務に申し送れ。中務奏聞せよ。内外の諸司に、各(おのおの)一本給へ。並に年の前に所在に至らしめよ。」(日本思想大系『律令』岩波書店)による。


第3346話 2024/09/15

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (3)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構として、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145があります。同遺構から出土した約500点の木簡から、王朝交代前後での変化を示す木簡を「木簡庫」より抽出して紹介します。

 最初に紹介するのは、古代史研究での郡評論争として著名な、701年に起きた「評」から「郡」への行政単位名の変化を示すSD145出土木簡です。すなわち、藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代(評制から郡制へ)がなされた根拠となる木簡群です。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「評」木簡◆

【木簡番号】0
【本文】己亥年十月上捄国阿波評松里
【国郡郷里】安房国安房郡〈上捄国阿波評松里〉
【和暦】(己亥年)文武3年 【西暦】699年

【木簡番号】0
【本文】上毛野国車評桃井里大贄鮎
【国郡郷里】上野国群馬郡桃井郷〈上毛野国車評桃井里〉

【木簡番号】0
【本文】下毛野国芳宜評□
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈下毛野国芳宜評〉

【木簡番号】0
【本文】・←河評柏原里・□三烈一□〔節ヵ〕
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉

【木簡番号】0
【本文】三川国波豆評□〔篠ヵ〕嶋里大□〔贄ヵ〕一斗五升
【国郡郷里】参河国幡豆郡〈三川国波豆評篠嶋里〉

【木簡番号】0
【本文】山田評之太々里○□□□□〔邑内塩入ヵ〕
【国郡郷里】尾張国山田郡志談郷〈尾張国山田評太々里〉

【木簡番号】0
【本文】尾張国〈〉評〈〉
【国郡郷里】尾張国

【木簡番号】0
【本文】・飯□〔穂ヵ〕評若倭部柏・五戸乎加ツ
【国郡郷里】播磨国揖保郡〈播磨国飯穂評〉

【木簡番号】0
【本文】与射評大贄→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〉

【木簡番号】0
【本文】□□〔神門ヵ〕評阿尼里知奴大贄
【国郡郷里】出雲国神門郡〈神門評阿尼里〉

【木簡番号】0
【本文】海評/海里/○〓廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉

【木簡番号】0
【本文】海評三家里/日下部日佐良□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉

【木簡番号】0
【本文】次評/上部里/→∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡〈隠岐国次評上部里〉

【木簡番号】0
【本文】・吉備中国下道評二万部里・多比大贄
【国郡郷里】備中国下道郡迩磨郷〈吉備中国下道評二万部里〉

【木簡番号】0
【本文】←国後木評
【国郡郷里】備中国後月郡〈←国後木評〉

【木簡番号】0
【本文】加夜評□□〔守里ヵ〕□部
【国郡郷里】備中国賀夜郡〈備中国加夜評守里〉

【木簡番号】0
【本文】熊毛評大贄伊委之煮
【国郡郷里】周防国熊毛郡〈熊毛評〉・(大隅国熊毛郷〈熊毛評〉)

【木簡番号】82
【本文】吉備道中国浅口評神部
【国郡郷里】備中国浅口郡〈吉備道中国浅口評神部〉
【木簡説明】浅口評は浅口郡か。『倭名鈔』では浅口郡は備中国にある。ただし神戸郷は同郡にはない。形態が不明で文書か荷札か判断しがたい。

【木簡番号】145
【本文】三方評竹田部里人○/粟田戸世万呂/塩二斗∥
【国郡郷里】若狭国三方郡竹田郷〈若狭国三方評竹田部里〉
【木簡説明】三方評竹田部里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。ただし、平城宮出土木簡には竹田部里にあたる竹田郷丸部里(『平城宮木簡一』三三二)、竹田里(『平城宮木簡二』二六六五)がある。

【木簡番号】146
【本文】庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若佐国小丹生評木ツ里〉
【和暦】(庚子年)文武4年 【西暦】700年
【木簡説明】庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

【木簡番号】150
【本文】←治国春部評春→
【国郡郷里】尾張国春部郡〈←治国春部評春→〉
【木簡説明】春部評は尾張国春部郡と思われるが、『倭名鈔』では同郡に「春□郷」はみえない。

【木簡番号】157
【本文】出雲評支豆支里大贄煮魚/須々支/→∥
【国郡郷里】出雲国出雲郡杵筑郷〈出雲評支豆支里〉
【木簡説明】出雲評支豆支里は『倭名鈔』の出雲郡杵筑郷にあたる。『風土記』にも出雲郡杵築(寸付)郷や支豆支社の名がみえる。『延喜式』では出雲国は贄の貫(ママ、貢ヵ)進国にはいっていない。

【木簡番号】159
【本文】・○伊余国久米評□・「天山里人○宮末呂」
【国郡郷里】伊与国久米郡天山郷/伊予国久米郡天山郷〈伊余国久米評天山里〉
【木簡説明】久米評天山里は、『倭名鈔』には久米郡天山郷とみえる。裏は別筆、表にも里名記載の墨痕がある。

【木簡番号】163
【本文】海評/中□〔田ヵ〕里/支止軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評中田里〉・尾張国海部郡〈尾張国海評中田里〉・紀伊国海部郡〈紀伊国海評中田里〉・豊後国海部郡〈豊後国海評中田里〉

【木簡番号】164
【本文】海評/海里人/小宮軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉
【木簡説明】海評海里は『倭名鈔』では隠岐国海郡と尾張国にある。同評同里の木簡は、奈良県教育委員会調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にみえる。軍布の訓はメ、海藻をいう。

【木簡番号】165
【本文】宇和評小物代贄
【国郡郷里】伊与国宇和郡/伊予国宇和郡〈宇和評〉
【木簡説明】宇和評は伊予国宇和郡。

【木簡番号】168
【本文】大荒城評胡麻□
【国郡郷里】上野国邑楽郡〈上野国大荒城評〉
【木簡説明】大荒城評は上野国邑楽郡かあるいは飛騨国荒城郡か。胡麻は『延喜典薬式』では上野国年料雑薬にみえる。

【木簡番号】170
【本文】神前評□山里
【国郡郷里】播磨国神埼郡蔭山郷〈播磨国神前評□山里〉・近江国神埼郡〈近江国神前評□山里〉・肥前国神埼郡〈肥前国神前評□山里〉
【木簡説明】神前評は神前郡で、近江国・播磨国・肥前国にみえる。

【木簡番号】171
【本文】海評三家里人/日下部赤□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉
【木簡説明】海評三家里は『倭名鈔』では尾張国にある。

【木簡番号】172
【本文】次評/新野里/○軍布∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡新野郷〈隠岐国次評新野里〉
【木簡説明】次評新野里は『倭名鈔』の隠岐国周吉郡新野郷にあたる。

【木簡番号】176
【本文】・上毛野国車評・○□□□
【国郡郷里】上野国群馬郡〈上毛野国車評〉
【木簡説明】上毛野国車評は上野国群馬郡にあたる。車評は奈教委調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にもある。

【木簡番号】179
【本文】与射評大贄伊和→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〈与射評〉〉
【木簡説明】与射評は丹波国(後、丹後国)与謝郡。「伊和→」は伊和志か。『延喜式』では丹後国は交易雑物として小鰯腊一二籠を出すことになっている。

【木簡番号】186
【本文】・大伯評□〈〉三斗・〈〉
【国郡郷里】備前国邑久郡〈大伯評〉
【木簡説明】大伯評はのちの備前田邑久郡にあたる。

【木簡番号】192
【本文】熊野評大贄塩塗近代百廿隻
【国郡郷里】丹後国熊野郡〈熊野評〉

【木簡番号】194
【本文】・□〔志ヵ〕加麻評□・柏
【国郡郷里】播磨国飾磨郡〈播磨国志加麻評〉
【木簡説明】志加麻評は『倭名鈔』では播磨国餝磨郡にあたる。柏は『延喜民部式』では年料別貢雑物として播磨国が貢進することになっている。

【木簡番号】211
【本文】←□〔河ヵ〕評柏原里玉作部下□
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉
【木簡説明】柏原里は、『和名鈔』の駿河国駿河郡柏原郷にあたる。同里の荷札は、奈教委『藤原宮』(一〇一頁)にもみえる。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「郡」木簡》◆

【木簡番号】0
【本文】知夫利郡由良里軍□〔布〕→
【国郡郷里】隠岐国知夫郡由良郷〈隠岐国知夫利郡由良里〉

【木簡番号】151
【本文】・尾治国知多郡→・大寶二年
【国郡郷里】尾治国知多郡
【和暦】大宝2年 【西暦】702年

【木簡番号】154
【本文】綾郡→
【国郡郷里】讃岐国阿野郡
【木簡説明】讃岐国綾郡の貢進荷札の断簡。平城宮第二次内裏西外郭より出土した和銅頃と推定される木簡とよく似た書風である(『年報一九七五』)。

【木簡番号】156
【本文】出雲国嶋根郡副良里伊加大贄廿斤
【国郡郷里】出雲国嶋根郡副良里
【木簡説明】嶋根郡副良里は『倭名鈔』に該当する郷名が見えないが、同郡内には現在の地名に福浦が残されている。烏賊は『延喜式』では出雲国の調の品目のなかに、烏賊廿斤としてみえる。『養老賦役令』調絹絁条では烏賊卅斤を正丁一人が貢納することになっている。

【木簡番号】169
【本文】□〔神ヵ〕郡前里鮎十八斤

【木簡番号】178
【本文】・安芸国佐伯郡雑腊二斗・【「〈〉□□□」】
【国郡郷里】安芸国佐伯郡
【木簡説明】裏面は倒書で別筆の楽書である。

【木簡番号】177
【本文】伊豆国仲郡
【国郡郷里】伊豆国那賀郡
【木簡説明】仲郡は、『倭名鈔』の那賀郡にあたる。

以上のように、各地からの荷札木簡に記された「評」「郡」木簡の同一遺構SD145からの出土という事実は、この藤原宮が王朝交代の舞台であったことを示しています。なぜならその当時、律令制(中央官僚約八千人)による全国統治が可能な規模を持つ大都市(条坊都市)と宮殿・官衙遺跡は日本列島内でここだけだからです(注)。(つづく)

(注)九州王朝の複都難波宮(京)は686年に焼失している。大宰府政庁Ⅱ期は規模が小さく、全国統治が可能な宮殿・官衙遺構とはできない。


第3345話 2024/09/13

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (2)

 『日本書紀』によれば持統八年(694年)に藤原遷都し、古田説では701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代します。その痕跡が藤原宮跡北面中門地区出土木簡に見えます。その代表的な遺構にSD145があります。出土点数が500点を超えますのでテーマ毎に分けて説明します(「木簡庫」に登録されているものは300件)。最初に紀年銘木簡を紹介します。今回は年次順に並べました。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】166
【本文】・辛卯年十月尾治国知多評・入見里神部身〓三斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡〈尾治国知多評入見里〉
【和暦】(辛卯年)持統5年 【西暦】691年
【木簡説明】辛卯の年は持統五年(六九一年)にあたる。知多評入家(ママ、見ヵ)里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。

【木簡番号】162
【本文】・甲午年九月十二日知田評・阿具比里五□〔木ヵ〕部皮嶋□養米六斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡英比郷〈尾張国知田評阿具比里〉
【和暦】(甲午年)持統8年 【西暦】694年
【木簡説明】甲午の年は持統八年(六九四年)。養米は、衛士、仕丁などに支給される国養物と関連をもつものか。関連史料はなく不詳。阿具比里は『倭名鈔』の尾張国智多郡英比郷か。

【木簡番号】0
【本文】乙未年木□〔津ヵ〕里/秦人倭∥
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若狭国遠敷郡木津里・若佐国小丹生評木津里〉・近江国高島郡木津郷〈近江国高島郡木津里〉・丹後国竹野郡木津郷〈丹後国竹野郡木津里〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年

【木簡番号】39
【本文】・乙未年八月十一日○舎人□□□〔秦内麻ヵ〕□・〈〉□□
【遺構番号】SD145
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙来(ママ、未)年は持統九年(六九五年)。大宝令以前の舎人については、『日本書紀』に左右舎人(天武一三年正月丙午条)、左右大舎人(朱鳥元年九月甲子条)、大舎人(持統五年二月朔条)が見える。また奈良県教育委員会の調査でも「左大舎人寮」と書かれた木簡が出土している(奈教委『藤原宮』七六)。

【木簡番号】175
【本文】乙未年御調寸松
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】参河国渥美郡〈参河国渥美郡寸松里/参河国渥美郡村松山〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。寸松里は木簡一七三参照。

【木簡番号】184
【本文】□年分乙未年六月但→
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】但馬国・尾張国知多郡但馬郷)
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】(前略)某年の未進分を「乙未年」に京(ママ、貢ヵ)進したときの荷札か。「乙未年」は持統天皇9年(695)。「但」以下は欠損により不詳であるが、但馬国、もしくは尾張国智多郡但馬郷が候補となる。郷名からはじまる荷札も知られるが、尾張国荷札について郷名のみが記された事例はほとんどみられないことから、但馬国の可能性が高いと判断した。藤原宮跡北面中門地区(藤原宮第18次調査)SD145出土。(以上、但馬集成より)。乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。乙未の年、某年分の貫(ママ、貢ヵ)進を行ったことを示しているから、この某年は乙未の年より前のものと考えられる。

【木簡番号】155
【本文】丙申年七月旦波国加佐評□〔椋ヵ〕→
【遺構番号】SD145


第3341話 2024/09/05

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (5)

 前回紹介した飛鳥池遺跡南地区出土の「舎人皇子」「大伯皇子」に続いて、飛鳥宮・飛鳥京・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡を紹介します。

《飛鳥京・飛鳥宮・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡》
【木簡番号】0
【本文】太来
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【人名】太来〈大来皇女・大伯皇女ヵ〉

【木簡番号】0
【本文】□大津皇
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【人名】大津皇〈大津皇子〉

【木簡番号】65
【本文】・穂積□□〔皇子ヵ〕・□□〔穂積ヵ〕〈〉
【遺跡名】飛鳥池遺跡南地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【遺構番号】SX1222炭層
【地区名】5AKAWL23
【人名】穂積(皇子)
【木簡説明】左右二片接続。四周削り。表裏ともに「穂積(皇子)と記す。習書ではなく、物品管理に使用された名札の可能性がある。「穂積皇子」は天武天皇の皇子。穂積皇子宮の所在地は『万葉集』一一四~一一六番歌などから髙市皇子の「香来山之宮」近辺にあったとされ、橿原市教育委員会による香具山の北にあたる藤原京跡左京一・二条四・五坊の調査では、東四坊大路の東側溝から和銅二年(七〇九)銘の木簡とともに「穂積親王宮」や「積親」と書かれた木簡が出土している(『木簡研究二十六」一五頁、一・二号)。

 上記のように飛鳥の遺跡からは天武の子供らの名が記された木簡が出土しており、当地に天武ら近畿天皇家の一族が居していたことを疑えません。その天武の子供たちが「王子」ではなく、「皇子」と記されていることから、父親の天武の称号も「大王」ではなく、「天皇」と考えるのが妥当です。従って、飛鳥池から出土した「天皇」木簡の「天皇」を天武のこととする学界の趨勢は当然のことと思います。これは一元史観であろうが多元史観であろうが、同時代史料(エビデンス)としての木簡が指し示す最有力の歴史認識ではないでしょうか。
今回紹介した木簡の年代観ですが、次の木簡が示すように、七世紀後半の天武・持統期と見ることができます。

【木簡番号】0
【本文】□〔明ヵ〕評
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【国郡郷里】(伊勢国朝明郡〈←明評〉)

【木簡番号】0
【本文】辛巳年
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【和暦】(辛巳年)天武10年 【西暦】681年

【木簡番号】12
【本文】・白髪部五十戸・〓十口
【文字説明】表面「髪」は異体字を使用。裏面「〓」は偏が「㠯」旁が「皮」の文字。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244
【国郡郷里】(備中国都宇郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)・(備中国窪屋郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)

【木簡番号】0
【本文】大乙下□□
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】□小乙下
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】小山上
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】□小乙下階
【文字説明】「□」は横棒が引かれるが文字か印か不明。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】大乙下階
【文字説明】下端の状況から下には続く文字はない。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】1
【本文】大花下
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

 このように、干支木簡「辛巳年」(天武10年、681年)、「評(こおり)」や「五十戸(さと)」の天武期を示す木簡が出土しています。また、『日本書紀』によれば、大化五年(649年)に制定され、天武十四年(685年)の新冠位制定まで続いた「大乙下」「小乙下」「小山上」が記された木簡もこの年代観と矛盾しません。「大花下」は天智三年(664年)の新冠位で「大錦下」に変更されており、飛鳥宮から出土する他の木簡と比べて年代的にやや古く感じますが、『木簡研究』22号(2000年)の報告では、「『日本書紀』に基づけば、大花下の冠位は大化五年二月から天智三年二月までの一七年間に限つて施行されたこととなり、この木簡もこの間に書かれたものとみてまず疑いない。」としています。(おわり)


第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3313話 2024/06/28

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (4)

 古代から近世の諸史料に記された「長柄」地名の場所が大阪市北区長柄の地と考えられることから、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮がその付近にあったとするのは、同じ地名を持つ候補地が他にないことから、最も有力な推論(作業仮説)と思われます。そうであれば、難波(大領域)のなかの長柄(中領域)のなかの豊碕(小領域)にあったと考え、その位置をさらに絞り込んでみました。

 この考えに基づけば、現・豊崎神社付近が有力候補になるのですが、地勢的には洪水の影響を受けやすい旧・中津川寄りであることと、神社境内の発掘調査(注①)でも七世紀の遺跡は未検出であり、判断しかねてきました。そうした状況が10年ほど続いていたところ、この度、赤尾恭司さん(多元的古代研究会・幹事)からある史料をご紹介頂きました。織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)です。

 同古城図の元になったと思われる古地図には、それを偽造とする喜田貞吉氏の批判(注③)があります。たとえば上町台地を東西に横断する複数の河川などは存在が疑われており、全体の構図には不審点があります。しかし、記された地名は江戸期の認識を反映したものと思われ、「南長柄」「本庄豊﨑」「長柄川」「中津川」などの名称は作成当時に存在していたとしてもよいように思われます。

 そうした視点で長柄地域を精査すると、「天満山」に「織田信長本陣」がおかれていることに気づきました。敵対する石山本願寺の北側に、川を距てて織田軍の本陣が置かれていることから、「天満山」は地勢的に本陣を置くにふさわしい場所だったと思われます。そうであれば、同様の理由から、その地は難波長柄豊碕宮の有力な候補地と考えてもよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①伊藤純「豊崎神社境内出土の土器」『葦火』26号、大阪市文化財協会、1990年。
古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③喜田貞吉「難波の京」『摂津郷土史論』日本歴史地理学会編、1927年(昭和二年)。


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。