大和朝廷(日本国)一覧

第3384話 2024/11/28

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (3)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を「太寶元年」木簡と「大宝二年籍」西海道戸籍に基づいて考察しましたが、今回は筑紫大宰府が大和朝廷の支配下に置かれたことを端的に示す「和銅」ヘラ書き須恵器甕片を紹介します。
『延喜式』「主計寮上」によれば、筑前国の「調」(注①)として「大甕九口」「小甕百九十五口」が記されています。そのことを示すヘラ書き甕片が牛頸(うしくび)須恵器窯跡群や大宰府条坊跡から出土しています。それには次の文字がヘラ書きされています。

❶「*甕和銅八年」
❷「仲郡手」
❸「筑紫前国奈珂郡
手東里大神マ得身

幷三人
調大*甕一隻和銅六年」
❹「年調大*甕一」
❺「大神君百江
大神部麻呂
内椋人万呂
幷三人奉
*甕一隻和銅六年」
※*甕は瓦偏に長。

❶は大宰府条坊跡の羅城門近くから出土。❷~❺は牛頸須恵器窯跡群出土。

 これらの銘文から、和銅六年(713)頃には筑前国が日本国(大和朝廷)の収税の対象に入っていたことがわかります。しかし、それ以前の年号(大寶・慶雲)が記された甕片などが見えないことから、大宝元年(701)に日本国(大和朝廷)の影響下(大宝律令に基づく統治領域)に入った筑前国は和銅年間(708~715)に至り、本格的な収税の対象国に組み込まれたと考えることができそうです。

 この点、注目されるのが『続日本紀』養老二年(719)四月条の「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝」です。「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、首名が筑後国の国司に就任(肥後国兼任)した次の記事が見えます。

「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 和銅年間の末年は和銅八年(715年)ですから、先の大宰府条坊跡から出土した「和銅八年」ヘラ書き甕片との一致は偶然ではなく、大宝元年から和銅八年にかけて、筑前国を完全に自らの律令体制に組み込んだ大和朝廷が、次に筑後国(肥後国兼任)にも国司を派遣したという王朝交代直後の歴史経緯の痕跡ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①租庸調の一つで、都へ上納した地域の産物(布・糸・絹・特産物など)が「調」と呼ばれている。
②古賀達也「洛中洛外日記」3350~3362話(2024/09/23~10/05)〝『続日本紀』道君首名卒伝の「和銅末」の考察 (1)~(7)〟


第3383話 2024/11/26

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (2)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を考える上で、「太寶元年」木簡以上に優れた同時代エビデンスがあります。それは大宝二年籍と呼ばれる702年に造籍された西海道戸籍です。奈良の正倉院などに保存されていたもので、筑前国嶋郡川部里をはじめ豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などの断簡が現存しています。

 同戸籍には「大寶二年」と記されており、八世紀初頭の同時代史料であることを疑えません。造籍作業は恐らくは前年から開始されたものと思われ、そうであれば大宝元年には少なくとも筑前国や豊前国など北部九州諸国は王朝交代直後から大和朝廷の命令により造籍を開始したことになります。このことは、造籍に携わる各地の「郡」の役人は九州王朝の「評」制時代からの役人と考えざるを得ないことから、王朝交代は筑紫に於いて整然と官僚組織の秩序を維持してなされたことを意味します。

 ちなみに、太宰府市国分松本遺跡からは七世紀第4四半期頃の戸籍木簡が出土しており(注①)、九州の役人たちは造籍作業に手慣れていたものと思われます。それは次の二つの木簡です。

【木簡番号】0
【本文】・/嶋評/○/「嶋□□〔戸ヵ〕」/○/「□□□」∥○/§戸主建部身麻呂戸又附去建□〔部ヵ〕→/政丁次得□□〔万呂ヵ〕兵士次伊支麻呂政丁次→/占部恵〈〉川部里占部赤足戸有□□→/小子之母占部真□〔廣ヵ〕女老女之子得→/穴凡部加奈代戸有附□□□□□□〔建部万呂戸ヵ〕占部→/□□∥・并十一人同里人進大貮建部成戸有○§戸主□〔建ヵ〕→\同里人建部咋戸有戸主妹夜乎女同戸□〔有ヵ〕□→\麻呂損戸○又依去同部得麻女丁女同里□〔人ヵ〕□→\白髪部伊止布損戸○二戸別本戸主建部小麻呂□→
【文字説明】表面、二列目三行目「戸有□」の「□」は「金偏」の文字。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】文書
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈嶋評〉・筑前国志麻郡川辺郷〈川部里〉
【人名】建部身麻呂・得(万呂)・伊支麻呂・占部恵・占部赤足・占部真(廣)女・得→・穴凡部加奈代・(建部万呂)・建部成・建部咋・夜乎女・得麻女・丁女・白髪部伊止布・建部小麻呂

【木簡番号】0
【本文】竺志前国嶋評/私□板十六枚目録板三枚父母/方板五枚并廿四枚∥
【形状】帳簿木簡をまとめて管理する際にインデックス的な機能を持つ付札として使用されたとみられる。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】付札
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈竺志前国嶋評〉

「嶋評」「竺志前国嶋評」「進大貮」などの記述から、七世紀末頃の木簡と見られています(注②)。(つづく)

(注)
①2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の嶋評戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域である当地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせる。正倉院文書の大宝二年「筑前国川辺里戸籍断簡」などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなった。
②古賀達也「太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―」『古田史学会報』112号、2012年。


第3382話 2024/11/25

王朝交代直後(八世紀第1四半期)

           の筑紫 (1)

 「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟などで、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の倭国(九州王朝)と近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)の実勢力範囲(統治領域)を飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国名を根拠に論じました。今回は王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を確かなエビデンスに基づき、考察を試みたいと思います。

 最初のエビデンスは「大宝」年号木簡です。福岡市西区の元岡・桑原遺跡から次の「太寶元年」木簡が出土しています。奈良文化財研究所の「木簡庫」より、要約転載します。ここで留意していただきたいのが、通常は「大寶」とされていますが、出土木簡のほとんどは「太寶」と、「太」の字が採用されています。その理由は知りませんが、興味深いことです。「太宰府」と「大宰府」のように、現存地名などは太宰府ですが、『日本書紀』などでは大宰府と記されており、「太」と「大」には何か歴史的背景がありそうです。

【木簡番号】8
【本文】・太寶元年辛丑十二月廿二日\白□□□〔米二石ヵ〕〈〉鮑廿四連代税\○官川内□〔歳ヵ〕六黒毛馬胸白・○「六人部川内」
【出典】木研33-162頁-(5)(『元岡・桑原遺跡群14』-8・木簡黎明-(165)・木研23-158頁-(5))
【文字説明】裏面「部(マ)」は「ア」の字形。
【遺跡名】元岡・桑原遺跡群
【所在地】福岡県福岡市西区大字桑原字戸山
【遺構番号】SX002
【内容分類】荷札・文書?
【人名】六人部川内
【和暦】(辛丑年)大宝1年12月22日
【西暦】701年12月22日

 この木簡が指し示すように、王朝交代したその年(701年)の暮れには、九州王朝(倭国)の中枢領域で大和朝廷(日本国)最初の年号「太寶」が使用されていることは注目されます。この事実は、少なくとも筑前国ではスムーズに権力移行がなされたことを示唆します(注①)。

 なお、服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」(注②)によれば、次のように読まれています。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

 □は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されています。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸  — 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3377話 2024/11/10

王朝交代前夜の天武天皇 (4)

 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、木簡の年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観には幅がありますし、天武が天皇を称し始めた年次そのものを特定できるわけでもありません。この点、もう少し年次を絞り込める七世紀の金石文があります。京都市左京区上高野から出土した小野毛人墓誌です。銘文には「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「歳次丁丑年(677)」とあることから、遅くとも丁丑年(天武六年、677年)には天武が天皇を称したことを示す同時代金石文です。

【小野毛人墓誌銘文】
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
【釈文】
飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。
小野毛人朝臣の墓を歳次丁丑年(677)十二月上旬に営造し、即ち葬る。

 この墓誌銘も〝天武八年(679)頃に天武にとっての画期があった〟とする仮説と矛盾しません。当時、天武天皇の下に「太政官」「刑部大卿」という官職があったことも示しており、貴重な金石文です。ここで問題となるのが、「治天下天皇」の「治天下」の範囲です。近畿天皇家にとって、「天下」が倭国全土を意味するのは王朝交代(701年)以降のことですから、天武期に天武天皇が「治天下」した範囲は、飛鳥出土の荷札木簡により推定することができます。

 「洛中洛外日記」(注①)でも紹介しましたが、飛鳥地域と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。
市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注②)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。ここでいう飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡のことです。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   7
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350

 七世紀の飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国に、九州諸国が見えないことにわたしは注目してきました。これは天武・持統期における近畿天皇家の統治領域に九州が含まれていないことを示唆しており、すなわち小野毛人墓誌の「治天下」には九州が含まれていないと考えることができます。

 この理解が正しければ、王朝交代前夜の日本列島には、九州を「治天下」していた九州王朝(倭国)の天子と、その他の領域を「治天下」していた近畿天皇家(日本国)の天皇とが〝併存〟していたことになります。もちろん、この場合でも年号(九州年号)を公布していたのは九州王朝であり、大義名分上は列島を「治天下」していた代表王朝は倭国(九州王朝)であったと考えられます。しかしながら、この時期の荷札木簡の献上国の範囲を比較する限り、実勢力は天武天皇ら近畿天皇家が上であったと考えざるを得ません(注③)。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。
③本稿で論じた荷札木簡の献上国の分布事実は『旧唐書』日本国伝の記事「日本舊小國、併倭國之地」の歴史経緯の一端を示しているのではあるまいか。


第3376話 2024/11/09

王朝交代前夜の天武天皇 (3)

 当シリーズでは、天武八年(679)頃に天武にとっての画期(天皇号使用公認か。王朝交代は701年。:古賀試案)があったとする、エビデンスに基づく次の3件の調査研究を紹介しました。

(1) 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、その年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観(注①)。
(2) 天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)。
(3)『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すとする都司嘉宣さんの研究(注③)。

 (1)は同時代史料の出土木簡を、(2)(3)は後代史料の『日本書紀』(720年成立)をエビデンスとして成立していますが、それぞれ異なる視点の調査研究でありながら、その結論は同じ方向へと収斂しており、これを偶然の一致とするよりも、史実を反映したものとするのが妥当と思われます。この理解を支持するもう一つのエビデンスを紹介します。それは飛鳥(飛鳥宮跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他)出土の荷札木簡群です。

 「洛中洛外日記」(注④)でも紹介しましたが、市大樹さんが作成した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」(注⑤)によれば、七世紀(評制時代)の荷札木簡350点のうち、産品を献上した年次(干支)が記されたものが49点あります。年次順に並べました。次の通りです。

【飛鳥・藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
《天智期》
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
《天武期》
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
《持統期》
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
《694年12月 藤原京遷都》
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
《文武期》
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡
701 《「大宝」建元 王朝交代》

 天武期に注目すると、天武五年から荷札木簡が現れ、六~八年に増えており、この時期に天武の統治力が増したように見えます。ただし、その範囲は東国諸国(美濃国)が中心のようです。恐らくは壬申の乱でこの地域の豪族が天武を支持したのではないでしょうか。もちろん、出土木簡中の年干支が記されたものに限っての判断であり、実際の統治範囲はもっと広範囲だったと思われます。このような飛鳥での荷札木簡の出現・増加時期が、天武八年(679)頃に天武にとっての画期があったとする本テーマの仮説と整合しており、貴重なエビデンスです。(つづく)

(注)
①『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2395話(2021/02/28)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代〟
⑤市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。


第3375話 2024/11/08

王朝交代前夜の天武天皇 (2)

 「洛中洛外日記」前話(注①)で、飛鳥池出土「天皇」木簡の年代を天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする判断と、天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)により、天武が天皇を名のり始めた頃から詔を多発し始めたとする見解を述べました。この天武八年頃に天武にとっての画期点があったのではないでしょうか。このことを示唆する研究が最近発表されました。都司嘉宣さんの論文「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」です(注③)。

 『古田史学会報』最新号一面に掲載された同論文はわずか2頁弱(半頁の表を含む)の短文ですが、『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すものとしました。そして、わたしや新保さんの研究結果とも整合する内容であり、王朝交代前夜の近畿天皇家の実体に迫る上で貴重な知見と言えるでしょう。都司稿は非常に簡潔で秀逸な論文であり、まるで理系論文を読んでいるような気がしました。

 余談ですが、二十世紀最大の発見とされるワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造説を発表したネイチャー誌掲載論文(注④)もわずか2頁です。この短い論文によりワトソンらはノーベル生理学・医学賞(1962年)を受賞しました。わたしも古代史の分野で画期的で短い論文をいつかは書いてみたいと、青年の頃、身の程知らずにも思ったものです。

 都司さんは元東京大学地震研究所准教授で、古田先生が立ち上げた国際人間観察学会の特別顧問でした。同研究会の会報「Phoenix」No.1(2007)は同地震研究所のお力添えを得て発行したもので、都司さんの論文“Similarity of the distributions of the strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka Plain and the ancient Kawachi Lagoon”と拙稿“A study on the long lives described in the classics”などが収録されています。拙稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する英文論文です。都司論文は歴史地震学に関するもので、こうした専門知識と研究実績が背景にあって、「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」を書かれたものと思われます。なお、「Phoenix」は「古田史学の会」ホームページに採録されています。ご覧いただければ幸いです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3374話(2024/11/07)〝王朝交代前夜の天武天皇 (1)〟
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④J.D.Watson & F.H.C.Crick: MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACID A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid Nature 171,737-738(1953)


第3374話 2024/11/07

王朝交代前夜の天武天皇 (1)

 七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。

 もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。

 「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。

 飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。

 この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。

 「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。

 

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3358話 2024/10/01

『続日本紀』道君首名卒伝の

      「和銅末」の考察 (6)

藤原朝臣真楯卒薨伝の「天平末」「出爲」

 『続日本紀』天平神護二年(768)三月条には、「天平末」という表記を持つ藤原朝臣真楯卒薨伝(注)が記されています。当該部分は次の通りです。

 「天平末、出為大和守。」

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)です。ここでも道君首名卒伝と同様に「○○末、出爲○○守」の構文が使用されており、首名卒伝と同様の読み方であれば、「天平年間(729~748年)の末年(天平20年)に、大和国守に赴任した」という意味になります。もっとも、首名とは大きく異なり、赴任先は平城京がある大和国ですから、恵まれた任官と言えそうです。ところが、当薨伝以外に藤原真楯の大和守任官・赴任記事は見えませんから、「天平末」の「末」の意味をこの記事からは直接的に導き出すことができません。

 そこで、よい機会ですので、今回は「天平末」に続く「出爲」について説明します。まず、道君首名の筑後守任官と卒伝の赴任記事の原文と訳文は次の通りです。

(a) 和銅六年(713年)八月条 筑後守任官記事
「従五位下、道君首名爲筑後守。」
従五位下、道君首名を筑後守とす。

(b) 養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」
和銅の末に出(い)でて筑後守となり、肥後國を兼ねて治めき。

 このように、(a)では動詞は「爲」だけですから、「○○になす」「○○とする」の意味で使用されています。他方、(b)では動詞が「出」「爲」と二つ続けてありますから、「出でて○○となる」という構文になっており、単に都で任命されたということではなく、「都から出て、○○になる」という意味であり、卒伝の「出爲」は赴任記事と理解するほかありません。そして、「筑後守」「肥後国」と続きますから、筑後・肥後に赴任したと読者は読むことになります。その直後に、任地での活躍記事が続きますから、文章の流れとしても自然です。

 この「出爲」の構文は『続日本紀』には少なく、道君首名卒伝・藤原朝臣真楯卒薨伝に続いて、ようやく次の用例を見つけました。天平宝字四年(760年)九月条の、新羅国からの遣使、金貞巻の言葉に見えます。

 「貞卷曰。田守來日、貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。」
貞卷曰はく、「田守來れる日、貞卷出(い)でて外官と爲(あ)り。亦復(また)賎(いや)しき人にして細旨を知らず。」といふ。

 新日本古典文学大系本(岩波書店)の脚注には、この記事を次のように説明しています。

 「田守が新羅に来た時に、貞巻は地方官として都にはおらず、また身分が低いので、細かな事情は存じません、の意。」

 このように「出爲」という用語・構文は〝ある所へ出て、○○になる〟という意味で使用されていることがわかります。従って、道君首名卒伝の「和銅末」「出爲」を、和銅八年(715年)の筑後・肥後赴任の年とするわたしの理解は正しかったようです。(つづく)

(注)藤原朝臣真楯薨伝の原文は次の通り。【】は古賀が付した。
《天平神護二年(768)三月 藤原朝臣真楯薨伝》
丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。【天平末、出為大和守。】勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。


第3354話 2024/09/27

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (4)

 『続日本紀』には、服部さんの発表資料に提示された、「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」の一つとして、道君首名卒伝の「和銅末」がありますが、今回の悉皆調査の結果、『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例見つかりました。次の各伝です。

❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年です。

 卒伝・薨伝には上記に示した「○○末」の他、「○○中」「○○初」という年次表記例もあり(○○は年号)、『続日本紀』編纂者は「末」「中」「初」を使い分けていることがわかります。これら卒伝・薨伝の「○○末」について、前話で紹介した『続日本紀』の用例(ものごとの最後)と同様に、「○○末」が年号の最後の一年という意味で使用しているのかを確認するため、内容の調査を行いました。(つづく)


第3353話 2024/09/26

『続日本紀』道君首名卒伝の

         「和銅末」の考察 (3)

 「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。

 服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。

 わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。

(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。

これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。

(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。

 これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。

 伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。

 こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。

(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。

 「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。

 このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。

 次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)

(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。


第3352話 2024/09/25

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (2)

 わたしの文章理解や文字感覚からすると、他者に読んでもらうことを前提とする〝公的〟な文書では、なるべく誤解を招かないように正確な表現や文字を選びますし、他者が書いた公的な文書もそうした配慮がなされていると、まずは捉えます。その前提にあるのは、言葉や文字にはその社会内で、同じ意味、共通した理解が成立していると考えているからです。そうでなければ、自らの意思・認識を読者に正しく伝えることができません。

 なお、この場合、その意思や認識の当否は一応別問題です。誤った不正確な情報を真実であると信じてしまい、それを他者に正確に伝えようとする〝善意の誤り〟というケースもあるからです。文献史学やフィロロギーという学問領域では、こうしたことに考慮して、研究を進めなければなりません。

 それでは本論に入ります。例えば「末っ子」という言葉は、何人兄弟であっても最後の子供を意味し、それは五人兄弟であろうと十人兄弟であろうと同じです。兄弟姉妹が十人いても、八人目や九人目を「末っ子」とは言いません。それほど、「末」という字の字義が同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立しているからです。

 『続日本紀』の道君首名(みちのきみおびとな)卒伝(注①)に見える「和銅末」の場合はどうでしょうか。もちろんわたしは「和銅末」とあるのだから、『続日本紀』編者の年代認識と執筆意図は、「和銅年間の末年(和銅八年)のことと読んで欲しい」であると判断します。卒伝の当該部分は次のようです。

 「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 この文を読めば、和銅年間の末年(最後の一年。和銅八年・715年)と読者は理解するでしょうし、日本国の正史である『続日本紀』の編纂者はエリート文書官僚ですから、その「末」の字により、和銅年間の最後の一年のことと理解されてしまうことはわかっているはずです。むしろ、そのつもりで「和銅末」と書いたと考えるのが、文献史学における文章理解の基本です。もし、首名が筑後国守に任命された和銅六年(713年)のことと理解してほしければ、末年(最後の年)と読者から理解されてしまう「末」ではなく、たとえば「和銅年中」とか「和銅中」のような、幅を持つ適切な文字使いがありますから、文書官僚であればそちらを選ぶのではないでしょうか。

 ですから、都(平城京)で筑後国守に任命されたのが和銅六年であり、現地に赴任し、筑後国守となり肥後国守を兼ねたのが和銅年間の末の和銅八年のことであると、編者は認識しており、それを卒伝に記したのではないでしょうか。交通や情報手段が発達した現代社会とは大きく異なり、当時は家族や部下を引き連れて、そう簡単に都から筑後国に転居することはできないでしょうし、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており(注②)、赴任するのに二年かかったとしても不思議ではありません。しかも、首名は和銅五年(712年)九月に遣新羅使に任命され、和銅六年(713年)八月十日に都に帰還、その十六日後に筑後国守に任命されています。

 従って卒伝の通り、筑後国守赴任が二年後の和銅八年(和銅末、715年)であれば、「和銅末」はむしろ正確な情報に基づいた表記だと思われます。この理解が妥当かどうかを確認するために、わたしは『続日本紀』に使用された「末」の字の全用例を調べてみました。調査漏れがあるかもしれませんが、『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件ありました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』の養老二年(719年)四月条の「道君首名卒伝」は次の通り。
夏四月乙丑朔。(中略)乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。曉習吏職。和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。勸人生業。爲制條。教耕營。頃畝樹菓菜。下及鶏■。皆有章程。曲盡事宜。既而時案行。如有不遵教者。隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實。莫不悦服。一兩年間。國中化之。又興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。初出は『古田史学会報』七八号、二〇〇七年。