近畿天皇家一覧

第2977話 2023/03/30

『大安寺伽藍縁起』の

  「小治田宮御宇太帝天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)に見える天皇名表記で、推古天皇だけが異質です。同縁起冒頭部分(注①)に推古を次のように記しています。

(a)小治田宮御宇太帝天皇 (b)太皇天皇 (c)天皇

この中で(a)(b)が『日本書紀』には見えない異質の天皇名表記です。「太帝天皇」や「太皇天皇」のように同類の称号が二段になっている例は『古事記』『日本書紀』には見えない表記方法で、管見では古代の金石文や遺文には二人の人物に対して用いられています。推古天皇と九州王朝の天子、阿毎多利思北孤の二人です。後者は伊豫温湯碑に見える「法王大王」という表記です。前者の推古は当縁起の「太帝天皇」「太皇天皇」の他にもその用例が知られています。以下にそれら全てを列記します。

《阿毎多利思北孤・上宮法皇》
〔伊予温湯碑〕「法王大王」

《推古天皇》
〔大安寺伽藍縁起并流記資財帳〕「太帝天皇」「太皇天皇」
〔法隆寺薬師如来像光背銘〕「大王天皇」「小治田大宮治天下 大王天皇」
〔元興寺伽藍縁起并流記資財帳〕「大〃王天皇」
〔上宮聖徳法王帝説〕「大王天皇」「少治田大宮御宇 大王天皇」

 このように何故か近畿天皇家では推古天皇だけが二段称号表記が見られます。九州王朝の多利思北孤の場合は、出家した天子〝法王〟と倭王の通称〝大王〟を併記したものと理解できますが、近畿天皇家の場合、なぜ推古だけにこうした二段表記にされたのかが問題です。この疑問を解く鍵が他ならぬ『大安寺伽藍縁起』の田村皇子(後の舒明天皇)の発言中にあります。

 「田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺」

 ここに見える「遠皇祖并大王」と「繼治天下天皇御世御世」の意味するところは、遠い皇祖の時代に並ぶ古(いにしえ)の称号は「大王」であり、それを継いで天下を治めたのが「天皇」を称号とする歴代の先祖であると、同縁起編纂者あるいは元史料の作成者が認識していたことを示しています。ですから、推古の称号「大王天皇」は、「大王」を称していた推古が「天皇」号を採用することができた〝最初の近畿天皇家の大王〟であるとする認識、あるいは歴史事実の反映ではないでしょうか。もし、初代の神武から天皇を称していたと認識していたのであれば、「遠皇祖并治天下天皇御世御世」とでも記せばよく、遠皇祖と治天下天皇の間に大王の存在を記す必要はないのですから。
この点、『古事記』『日本書紀』は初代の神武から天皇号表記を採用していますが、今回紹介した推古の二段称号問題は『日本書紀』などの〝神武から天皇を名のった〟という大義名分が史実ではないことを間接的に証言していたことになります。
それでは近畿天皇家がいつから天皇号を採用したのかについて、本テーマの考察が正しければ、古田先生晩年の説(王朝交代後の文武から)よりも、旧説(推古から)の方が妥当ということになります(注②)。ちなみに近畿天皇家一元史観内では、飛鳥池出土「天皇」木簡などの実証を主な根拠とする〝天皇号は天武から〟が有力になりつつあるように感じています。

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭部分は次の通り。
「大安寺三綱言上
伽藍縁起并流記資財帳
初飛鳥岡基宮御宇天皇《舒明》之未登極位、號曰田村皇子、
是時小治田宮御宇太帝天皇《推古》、召田村皇子、以遣飽浪葦墻宮、令問廐戸皇子之病、勅、病状如何、思欲事在耶、樂求事在耶、復命、蒙天皇之頼、無樂思事、唯臣〔伊〕羆凝村始在道場、仰願奉爲於古御世御世之帝皇、將來御世御世御宇帝皇、此道場〔乎〕欲成大寺營造、伏願此之一願、恐朝庭讓獻〔止〕奏〔支〕、
太皇天皇《推古》受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉、汝姪男自來問吾病矣、爲吾思慶可奉財物、然財物易亡而不可永保、但三寶之法、不絶而可以永傳、故以羆凝寺付汝、宜承而可永傳三寶之法者、
田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺、仍奉將妻子、以衣齋(裹)土營成而、永興三寶、皇祚無窮白、
後時天皇《推古》臨崩日之、召田村皇子遺詔、皇孫朕病篤矣、今汝登極位、授奉寶位、與上宮皇子讓朕羆凝寺、亦於汝〔毛〕授〔祁利〕、此寺後世流傳勅〔支〕、(以下略)」
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻、東京堂、1962年。《》内と段落分けは古賀による。
②古賀達也「七世紀の「天皇」号 ー新・旧古田説の比較検証ー」『多元』155号、2020年。


第2975話 2023/03/27

『大安寺伽藍縁起』の

  「飛鳥浄御原宮御宇天皇」

『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)の正式名称は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と言い、冒頭に大安寺建立に関わる縁起が記され、その後に資財帳部分が続きます。資財帳部分には大安寺に奉納された仏具仏像などが、いつ誰から奉納されたのか列記されており、言わば大安寺の財産・不動産目録のようなものです。その資財帳部分を熟読したところ、ここにも興味深い記事がありましたので紹介します。それは天武天皇が〝壬申の乱〟の翌年(673年)に大安寺に奉納したとする下記の記事です(注①)。※()内の番号は、「洛中洛外日記」前話で付した番号。《》内は古賀による比定。

(26)漆佰戸
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(27)合論定出擧本稻參拾万束
在 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相摸 常陸等國
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(28)合墾田地玖佰參拾貳町
在紀伊國海部郡木本郷佰漆拾町
四至〔東百姓宅并道 北山 西牧 南海〕
若狹國乎入郡嶋山佰町
四至〔四面海〕
伊勢國陸佰陸拾貳町
員辨郡宿野原伍佰町
開田卅町 未開田代四百七十町
四至〔東鴨社 南坂河 西山 北丹生河〕
三重郡宮原肆拾町
開十三町 未開田代廿七町
四至〔東賀保社 南峯河 北大河 西山限〕
奄藝郡城上原四十二町
開十五町 未開田代三十七町
四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕
飯野郡中村野八十町
開三十町 未開田代五十町
四至〔東南大河 西横河 北百姓家并道〕
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

上記の記事が史実とすれば、〝壬申の乱〟に勝利した天武は関東・関西の広範囲を自らの支配下に置いたことになります。具体的には、「遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・常陸」から「本稻參拾万束」(30万束)を大安寺に送り、「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」の「墾田地、玖佰參拾貳町」(932町)を寄進していることから、少なくともそれらの国々を支配下に収めたと考えざるを得ません。なお、「紀伊國海部郡」「若狹國乎入郡」「伊勢國 員辨郡・三重郡・奄藝郡・飯野郡」とあるように、七世紀後半の行政単位「評」を縁起成立時(天平十九年・747年)の行政単位「郡」に書き変えています。

この記事と対応するのが、飛鳥宮跡地域から出土した七世紀(評制期)の荷札木簡です(注②)。中でも墾田を寄進した「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」からの荷札木簡が紀伊國(1点)、若狹國(5点)、伊勢國(6点)出土しており、資財帳の記事と整合しています。こうしたことから、同資財帳の「飛鳥浄御原宮御宇天皇」記事は信頼してもよいように思います。

そうすると、天武は〝壬申の乱〟の勝利後に「飛鳥浄御原宮御宇天皇」と称するにふさわしい権力者になったと思われます。その実証的根拠として、飛鳥池出土の「天皇」木簡や「皇子」木簡(注③)、「詔」木簡の存在がクローズアップされるのです。(つづく)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)による。
②市大樹『飛鳥藤原木簡の研究』収録「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別木簡の点数。「飛鳥宮」とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他、「藤原宮(京)」とは藤原宮跡・藤原京跡のこと。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350
③同遺跡の天武期の層位から、『日本書紀』に見える天武の子供たちの名前を記した「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」木簡が出土している。従って、同じく出土した「天皇」木簡は天武天皇のことと考えるのが妥当である。


第2974話 2023/03/26

『大安寺伽藍縁起』の「飛鳥宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)の精査を続けたところ、いくつかの面白い問題に気付きました。その一つが天皇名の宮号表記でした。同縁起には近畿天皇家の天皇名が次のように表記されています。縁起に登場する順に並べました。《》内は古賀による比定です。( )内は西暦。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の天皇名表記部分
※底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(2)《推古》小治田宮御宇太帝天皇
(3)《推古》太皇天皇受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、~
(4)《斉明》後岡基宮御宇天皇、造此寺司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行車(幸カ)筑志朝倉宮、將崩賜時、~
(5)《天智》近江宮御宇天皇、奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、~
(6)《?》仲天皇、奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之~
(7)《天武》後飛鳥淨御原宮御宇天皇、二年歳次癸酉(673)十二月壬午朔戊戌、造寺司小紫冠御野王、小錦下紀臣訶多麻呂二人任賜~
(8)《天武》六年歳次丁丑(677)九月康(庚)申朔丙寅、改高市大寺號大官大寺、十三年(684)天皇大御壽、然則大御壽更三年大坐坐〔支〕~
(9)《文武》後藤原宮御宇天皇朝庭
(10)《文武》後藤原朝庭御宇天皇、九重塔立金堂作建、並丈六像敬奉造之
(11)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)六月十七日
(12)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(13)《?》袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者
(14)《天武》右以丙戌年(686)七月、奉爲淨御原宮御宇天皇、皇后并皇太子、奉造請坐者
(15)《天智》淡海大津宮御宇天皇、奉造而請坐者
(16)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平八年歳次丙子(736)造坐者
(17)《元正》平城宮御宇天皇、以養老七年歳次癸亥(723)三月廿九日請坐者
(18)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)請坐者
(19)《持統》飛鳥淨御原宮御宇天皇、以甲午年(694)坐奉者
(20)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(23)《元正》平城宮御宇天皇、以養老六年歳次壬戌(722)十二月七日納賜者
(24)《聖武》平城宮御宇天皇、以天平二年歳次庚午(730)七月十七日納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(26)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(27)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(28)《天武》飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(30)《聖武》平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申(744)納賜者

 わたしが注目したのが、下記の舒明の表記です。

(1)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇之未登極位、號曰田村皇子
(21)《舒明》前岡本宮御宇天皇、以庚子年(640)納賜者
(22)《舒明》飛鳥宮御宇天皇、以癸巳年(633)十月廿六日、爲仁王會 納賜者
(25)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
(29)《舒明》飛鳥岡基宮御宇天皇、歳次己亥(639)納賜者
※舒明の在位期間(629~641)

 このなかで、(22)の「飛鳥宮御宇天皇」の表記が「船王後墓誌」(注)の「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」と類似しており、七世紀後半から八世紀前半にかけての同墓誌や同縁起の編纂者らが、舒明のことを「アスカの宮で天下を統治する天皇」と認識し、そのように名前を表記するケースもあったことがわかります。なお、『日本書紀』には「飛鳥宮御宇天皇」や「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」という表記は見えません。(つづく)

(注)「船王後墓誌」の銘文と訓み下しは次の通りである。
(表)
惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故
首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由
羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之
朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故
戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自
同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万
代之霊其牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

銘文中の各天皇の宮に対する通説での比定は次のとおり。
(1)乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
(2)等由羅宮 推古天皇(592~628)
(3)阿須迦宮 舒明天皇(629~641)


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2772話 2022/06/23

「トマスによる福音書」

      と仏典の「変成男子」思想 (7)

 前話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (6)〟で、「古代日本での仏教による女人救済思想を考える上で、この近畿地方での〝仏法の初め〟が若い(幼い)女性の出家であることは、百済からもたらされた仏像が弥勒菩薩像であることと共に重要な視点」と述べたのですが、これは近畿天皇家内において実力者であった蘇我馬子が推古を女性として初の〝天皇〟位につけたこととも関係があるのかもしれません。仏教という外来の新たな宗教的権威として若い女性を出家させ、〝天皇〟位という近畿王権の権力者として女性の推古を即位させたことを偶然の一致とするよりも、馬子の女性に対する考え方や、当時の王権内の事情や九州王朝との関係を反映したものと考えた方がよいのではないでしょうか。
 王朝交代後の八世紀に入ると、大和朝廷として君臨した近畿天皇家は新たな仏教政策を採用します。聖武天皇による国分寺の建立命令です。『ウィキペディア』では次のように説明しています。

【国分寺】フリー百科事典『ウィキペディア』
 国分寺は、741年(天平十三年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。
 天平十三年(741年)聖武天皇の勅願により、国分寺とともに諸国に創建された尼寺。正しくは法華滅罪之寺、略して法華寺と称し、妙法蓮華経を安置。奈良の法華寺は総国分尼寺の性格を有した。

 聖武天皇が発したこの国分寺創建詔(注①)により、各地で国分寺・国分尼寺の造営が開始されます。なかでも、国分尼寺の正式名が「法華滅罪之寺」であり、女人救済という視点からすれば、法華経が中心経典とされたことは示唆的です。「法華滅罪之寺」を字義通り解釈すれば、女性の罪を法華経の教えで滅するということですから、当時の大和朝廷が受容した仏教思想として、女人救済(滅罪)には法華経が優れた教えとする認識があったことを疑えません。
 なお、聖武天皇周囲の女性皇族(光明皇后たち)が仏教を崇敬していたことは、天平八年(736)、法隆寺の法会への数々の施入品からもうかがえ、それが九州王朝への畏怖を背景の一つとしていたとする論稿をわたしは発表しました(注②)。(つづく)

(注)
①『続日本紀』聖武天皇天平十三年二月条に見える詔勅。
②古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集、明石書店、2012年。


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。


第2533話 2021/08/10

王朝交替前夜の飛鳥と筑紫

 太宰府関連遺跡の土器編年を研究するため、発掘調査報告書と研究論文を連日読みあさっています。そうするといろいろと面白い問題や発見に遭遇します。その一つを紹介します。
 「古田史学の会」関西例会では、七世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替がどのように起こったのかについて諸説発表と論争が続いています。それぞれの説に根拠や説得力があり、今のところ決着はついていません。論議が深まり、諸説の淘汰・発展が進み、いずれは最有力説へと収斂することでしょう。わたしも史料根拠に立脚した議論検討のための一助として、飛鳥・藤原出土評制木簡や「天皇」銘金石文の紹介など、「飛鳥」地域に焦点を絞って発表してきました。王朝交替の表舞台が飛鳥の地(おそらく藤原京)であったと考えるからです。
 そこで今回は、逆に王朝交替により歴史の表舞台から退場することになる筑紫(太宰府関連遺跡)に焦点を当て、検討すべき問題について指摘します。それは『続日本紀』文武紀に見える次の記事です。

 「大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を繕治させた。」『続日本紀』文武二年(698年)五月条

 文武二年(698年)は701年(大宝元年、九州年号・大化七年)の王朝交替の直前ですから、古田説では九州王朝の時代、その最末期です。ですから、大宰府に三城の繕治を命じたのは九州王朝の最後の天子ということになるのかもしれません。この王朝末期の権力実態について、古田学派内でも30年以上前から仮説が発表されていました(注①)。近年でも、文武天皇は九州王朝からの禅譲を受け、実質的には藤原宮に君臨した近畿天皇家(文武・持統ら)が第一権力者だったとする見解が発表されています。たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、持統紀に見える「禁中定策」を多元史観(九州王朝説)で考察された「多元史観と『不改の常典』」(注②)で次のように論じられました。

〝文武即位の六九七年は九州年号大化三年で、まだ「評」の時代、仮に実力はヤマトの天皇家が遥かに上にあったとしても、形式上の我が国の代表者は倭国(九州王朝)の天子で、持統は臣下の№1という位取りだ。これは天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」の「真人」が臣下のトップを意味することからも分かる。そうした位取りの中での持統の「定策」とは、臣下№1の天皇家持統の主導で、朝廷内の重臣の総意により、「倭国(九州王朝)の天子の系統」に代えて文武を即位させた、つまり「王朝・王統を交代させた」ことを意味するだろう。〟

 わたしも、文武天皇の即位の宣命に焦点を当てた拙稿「洛中洛外日記」1980話(2019/09/02)〝大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)〟(注③)を発表しました。

〝『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。〟

 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は、王朝交替(701年)以前の藤原宮には九州王朝の天子がいたとする仮説を口頭発表されており、「古田史学の会」関西例会の論者からは有力説と受けとめられつつあるようです(同説の詳細を論文発表するよう西村さんに要請しています)。
 なお、通説の立場からも、大野城などの「三城の繕治」以前と以後とでは、列島の南北の勢力(蝦夷・隼人)に対する大和朝廷の姿勢が、より強権的で武力行使も辞さないという姿勢に大きく変化しているとする小澤佳憲さん(九州国立博物館)の研究(注④)があり、注目されます。おそらく、南九州に逃げた九州王朝の徹底抗戦派に対する、大和朝廷による戦争準備として、大野城などの繕治命令が大宰府に出されたのではないかと、わたしは考ています。

(注)
①わたしの記憶するところでは、次の中小路駿逸氏の発表が嚆矢と思われる。氏は、『続日本紀』文武紀の「即位の宣命」を、「これはそれまで九州系の一分王権に過ぎなかった大和の王権が、文武天皇にいたってはじめて、九州から東国までを支配し、九州王朝の『格』をひきつぎ、それと同質となったことの宣言でなくて何でしょう。」と指摘された。
 中小路駿逸「古田史学と日本文学(講演録)」『市民の古代』第10集、新泉社、1988年。
②正木裕「多元史観と『不改の常典』」『古田史学会報』144号、2018年2月。
③後に、「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)として発表した。
④小澤佳憲「大野城の繕治 ―城門からみた大野城の機能とその変化―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2409話 2021/03/14

拡張する飛鳥宮「エビノコ郭」遺跡

 わたしは10年ほど前から木簡研究に本格的に取り組み始め、古田学派の研究者にもその重要性を訴えてきました(注①)。それと併行して、飛鳥宮跡にも注目してきました。
 当時は「伝板蓋宮跡」(注②)と呼ばれていた近畿天皇家の宮殿内郭の規模が、大宰府政庁Ⅱ期の朝堂遺跡より大きいことも気になっていました。七世紀中頃に造営された最大規模の前期難波宮については、それを九州王朝の複都とすることで納得しえたのですが、近畿天皇家の宮殿であることが確かな飛鳥宮跡が大宰府政庁跡よりも大きいことについて(注③)、九州王朝説の立場からどのように考えればよいのかが課題として残っていました。
 そうした疑問に拍車をかけたのがエビノコ郭の発見と同遺構の〝拡張〟でした。エビノコ郭発見の経緯は次のようです。

1977年 エビノコ大殿(東西9間29.2m、南北5間15.3m)検出
1989年 エビノコ大殿の南面掘立柱塀の検出
1990年 エビノコ大殿の南方でⅠ期とⅡ期の掘立柱建物を確認
  ※奈良県HP掲載「飛鳥宮跡 発掘調査概要」による。

 このエビノコ大殿を囲む塀と西門が検出され、「エビノコ郭」「正殿」とも呼ばれるようになり、同遺跡は天武の大極殿とする見解が通説となりました。古田先生はその規模などから、エビノコ郭を大極殿とすることに反対されました。ところがその後、エビノコ郭の南側から建物跡の検出が続き、その配列が朝堂院の様相を見せてきたのです。当初は東西の2棟が検出(推定)され、現時点では4棟の存在が推定されています。エビノコ郭の造営は670年以降からとされているようですが、その目的や形式は不思議なことだらけです。それは次の点です。

(1)正殿は塀で囲まれており、その西側にしか門跡が発見されていない。「天子南面」であれば、塀の南側に門が必要。正殿には南側に門があり、対応していない。
(2)その塀の平面図は四角形ではなく、台形である。天武期以前に造営された前期難波宮や近江大津宮は四角形である。
(3)門がない南側の塀の外に朝堂様式の建物が並んでいる。
(4)680年代には藤原宮(京)の造営が開始されており、同時期にエビノコ郭造営の必要性があるのか疑問。

 以上の状況から、わたしは次のように推定しています。壬申の乱に勝利し、実力的にナンバーワンとなった天武ら近畿天皇家は、自らの王宮(飛鳥宮跡)の隣に、ナンバーワンにふさわしい「大極殿」「朝堂院」の造営を計画し、建設を開始した。しかし、全国統治に必要な宮殿や官衙の造営は飛鳥の狭い領域では不可能と判断し、その北方で藤原宮(京)の造営を開始し、「エビノコ郭」とその「朝堂」の建設を中止したのではないかと。
 あるいは、天武はその実力を背景にして九州王朝(倭国)に圧力をかけ、近畿天皇家への王朝交替(恐らく禅譲に近い形式で)が可能と確信した時点で、飛鳥宮やエビノコ郭に見切りをつけて、日本列島内最大規模の藤原宮(京)造営を決断したのではないでしょうか。飛鳥や大和の有力豪族の地位に甘んじるのであれば、藤原宮(京)のような巨大宮殿と巨大条坊都市は不要ですから。
 なお、王朝交替した701年までは九州王朝が大義名分上の倭国の天子ですから、その時期に天子がどこにいたのかという問題があります。このことに関して、西村秀己さんは20年前から「藤原宮には九州王朝の天子がいた」とする見解を述べられていました(注④)。また、近年では、前期難波宮が焼失した後の一時期、飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする見解も示されていました(注⑤)。この見解が成立するためには越えなければならないハードルがあり、ただちに賛成はできませんが、拡張したエビノコ郭遺構との関係も含めて、可能性を秘めた作業仮説ではないでしょうか。

(注)
①「洛中洛外日記」488話(2012/10/28)〝多元的木簡研究のすすめ〟、同505話(2012/12/15)〝「多元的木簡研究会」のすすめ〟で木簡の共同研究を訴えた。
②「伝板蓋宮跡」の発掘調査が進んだ結果、Ⅲ期にわたる重層的宮殿遺構であることがわかり、それらを総称して「飛鳥宮跡」と呼ばれるようになった。
③ウィキペディア等によれば、両遺跡を取り囲む塀の規模は次の通りである。
 飛鳥宮最上層内郭 東西152-158m 南北197m
 同エビノコ郭   東西92-94mm  南北約55m
 大宰府政庁Ⅱ期  東西111.6m     南北188.4m
④「洛中洛外日記」196話(2007/11/16)〝「大化改新詔」50年移動の理由〟で紹介した。
⑤西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」(『古田史学会報』162号、2012年2月)に、九州王朝は「ヤマト王家の本拠地『飛鳥』を接収して臨時の都にしたに相違ない。」とある。


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2399話 2021/03/04

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)

飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡に続き、今回は石神遺跡出土木簡を紹介します。先に紹介した評制下荷札木簡で年次(干支)記載のある石神遺跡出土木簡は次の通りです(注①)。

【石神遺跡出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡

次は石神遺跡と藤原宮(京)出土の献上国別荷札木簡数です(注①)。

【石神遺跡・藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡】
国 名 石神遺跡 藤原宮(京)
山城国   1   1
大和国   0   1
河内国   0   4
摂津国   0   1
伊賀国   1   0
伊勢国   1   1
志摩国   0   1
尾張国   5   7
参河国   0   3
遠江国   0   2
駿河国   0   2
伊豆国   2   0
武蔵国   1   2
安房国   0   1
下総国   0   1
近江国   7   1
美濃国  13   4
信濃国   0   1
上野国   0   3
下野国   0   2
若狭国   0  18
越前国   1   0
越中国   0   0
丹波国   3   2
丹後国   0   8
但馬国   0   2
因幡国   1   0
伯耆国   0   1
出雲国   0   4
隠岐国   7  21
播磨国   6   6
備前国   0   2
備中国   2   6
備後国   2   0
周防国   0   2
紀伊国   0   0
阿波国   0   2
讃岐国   2   1
伊予国   1   2
土佐国   1   0
不 明  54   7
合 計 109 122

この出土状況から見えてくることは、石神遺跡からは美濃国や近江国から献上された荷札木簡が比較的多く、時期的には天武・持統期であり、694年の藤原京遷都よりも前であることです。このことは、各国から産物の献上を受けた飛鳥の権力者が藤原宮へ移動したとする『日本書紀』の記述(注②)と対応しており、このことは歴史事実と考えてよいと思います。こうした史料事実により、当時としては列島内最大規模の藤原宮・藤原京(新益京)で全国統治した大和朝廷は、『日本書紀』に記されているように、〝藤原遷都前は飛鳥宮で全国統治していた〟とする通説(近畿天皇家一元史観)が、出土木簡により実証的に証明されたと学界では考えられています。

この点について、九州王朝説を支持するわたしたち古田学派には、出土木簡(同時代文字史料)に基づく実証的な反論は困難です。なぜなら、太宰府など九州王朝系遺跡からの木簡出土は飛鳥・藤原と比較して圧倒的に少数で、その記載内容にも九州王朝が存在していたことを実証できるものはないからです。

それに比べて、石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、〝日本最古の暦〟とされる具注暦木簡が出土したことでも有名です。同遺跡からは3421点の木簡が出土しており、ごく一部に七世紀中葉の木簡を含みますが、圧倒的大多数は天武・持統期のものとされています。そして、遺跡の性格は「王宮を構成する官衙の一部」と説明されています(注③)。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②『日本書紀』持統八年(694年)十二月条に次の記事が見える。
「十二月の庚戌の朔乙卯(6日)に、藤原宮に遷り居(おは)します。」
③市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。


第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。