井上信正さんへの三つの質問(3)
井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つの質問のうち、一つ目の応答は次のようでした。
〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。
〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ2000尺の位置にあることから、小尺が採用された8世紀初頭となる。出土土器も7世紀に遡る古いものは出土していない。
講演会後の懇親会でも観世音寺の創建年代について、井上さんと真摯な意見交換を続けました。わたしは複数の九州年号史料に白鳳10年(670)の観世音寺創建記事があることや、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では7世紀後半頃とされていること以外にも、国宝の銅鐘が7世紀末頃のものとされていること、本尊の阿弥陀如来像は百済から贈られたものと伝承されていることから、これも百済滅亡の660年以前にもたらされたと考えられ、その場合、井上説では50年近くどこかに置かれていたこととなり、これも不自然であると指摘しました。
もちろん井上さんもこうしたことはよくご存じで、その上で観世音寺から7世紀に遡る土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。この点については、わたしも納得できていません。機会を得て、同調査報告書を精査したいと考えています。
「小尺」(30cm弱)の採用時期については、近畿天皇家一元史観に立てば『続日本紀』の記述などに基づき8世紀初頭とする井上説は理解できますし、九州王朝説に立つわたしには『続日本紀』の記述を無批判に「是」とすることはできませんので、これはお互いの依って立つ歴史観の差から来ています。したがって、この問題については、倭国における「小尺」採用時期を示す遺構や遺物の有無などの検証が、互いの説の優劣を検討する有効な論点となるでしょう。(つづく)