「観世音寺古図」と出土遺構の不一致
「洛中洛外日記」1697話「観世音寺古図と資財帳の不一致」では、「観世音寺古図」に描かれた金堂や中門の構造と『観世音寺資財帳』の記述の不一致について紹介しましたが、「古図」と考古学的出土遺構の不一致についても紹介します。
小田和利さんの「観世音寺の伽藍と創建年代について」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)によれば、出土した伽藍配置と「古図」に描かれた伽藍配置はよく一致しています。ところが細部にわたって精査しますと、やはり一致しない部分もあります。たとえば五重塔の基壇に敷設された階段の位置です。「古図」では画法のため基壇の四辺のうち、南辺と東辺しか見えず、その二辺の中央に階段が描かれています。従って全体のバランスから考えて、基壇の東西南北四辺に階段が付いていることを想定した描き方です。ところが考古学的出土遺構からは基壇の東西二辺に階段があったとされています。ここに、「古図」と出土遺構の不一致が見て取れるのです。
小田和利さんの「観世音寺の伽藍と創建年代について」には五重塔基壇の階段について次のような説明がなされています。
「基壇規模は、西辺と南辺に花崗岩自然石を並べた地覆石が一段遺存することから一辺15.0mに復元可能で、東辺・西辺中央の2箇所に階段を設けていたものと想定される。」(1頁)
「また、西辺地覆石南端の石は西側に折れ曲がり、雨落溝SD3897は地覆石南端で終わっていること、小溝SD3898は何かを避けるように西側に屈曲していることから、この箇所に階段を設定することが可能である。復元基壇北西角から南端石までの距離は5.1mを測るので、基壇一辺長15.0m-(5.1m×2)=4.8m(16尺)が階段の幅となり、南端石から小溝SD3989屈曲部までの距離2.1m(7尺)が階段の出で、階段幅は基壇長に対して約1/3を占めることになる。基壇南辺中央には地覆石が連続して存在するので、南辺には階段を付設していないことが判る。従って、Ⅱ期塔基壇は西辺と東辺の中央2箇所に階段を設けていたものと考えられる。」(12頁)
図面無しでの説明では判りにくい内容ですが、塔基壇(Ⅱ期)の西辺から階段の痕跡が出土し、南辺には無かったということから、塔基壇の西と東に階段があったと推定されたものです。北辺・東辺は地覆石が消滅していたため階段の有無は不明なはずですが、塔基壇の「左右(東西)対称」に階段かあったとする推論によられたもののようです。この推論も理解できないわけではありませんが、塔の西側に位置する創建金堂基壇には東辺にしか階段が無かったことが発掘調査から判明していますから、金堂の前面(東辺)と向かい合うように塔基壇も西辺だけに階段が付設されていたという可能性もあるのではないでしょうか。
しかし、いずれにしても四面に階段があると見られる「観世音寺古図」に描かれた五重塔と発掘調査による塔基壇の階段の数(1〜2)とは異なっており、同「古図」を史料として採用されなかった大越さんの慎重な判断はよく理解できるところです。(つづく)