太宰府、般若寺創建年の検討(2)
太宰府の般若寺跡は条坊内(左郭14条4坊)にあった古代寺院とされており、もともとは筑紫野市の塔原廃寺に「甲寅年」(654年、九州年号の白雉3年。『上宮聖徳法王帝説』裏書による)に蘇我日向により創建されたものが、奈良時代に太宰府市朱雀地区(旧大字南字般若寺)に移転されたとする説が通説となったようです。もちろん、移転されたとするのは一元史観による解釈にすぎず、「移転」の痕跡が考古学的事実に基づいて証明されたわけではありません。
なぜこのような移転説が採用されたのでしょうか。わたしの推定では、太宰府条坊造営が井上説でも7世紀末頃(藤原京造営と同時期)とされているため、654年には存在しないはずの条坊に沿った寺院など造営できないとされたのではないでしょうか。しかし、地名として残っているのは太宰府市の「般若寺」であり、塔原廃寺跡のある場所の地名は「塔原(とうばる)」であって「般若寺」ではなく、その廃寺を般若寺とするのはかなり恣意的な判断と言わざるを得ません。
地名と考古学的事実の指し示すところ、太宰府市の字地名「般若寺」から、条坊と同じ南北方位軸をもった寺院跡が出土しているのですから、7世紀には造営されていた太宰府条坊都市の中に般若寺が創建されたとする理解が最も真っ当で無理のないものでしょう。わたしの研究では、太宰府条坊都市は九州年号の倭京元年(618年)頃に造営されたと考えていますから、その後に般若寺が条坊内に創建されたことになります。
そこで注目されるのが、般若寺跡から出土した最も古い瓦が、なんと観世音寺と同じ複弁八葉蓮華文軒丸瓦の「老司1式」瓦なのです(わたしのfacebookの写真を参照ください)。もしこの「老司1式」瓦が般若寺の創建瓦とすれば、その創建年は観世音寺と同時期の670年(白鳳10年)頃となり、「甲寅年」(654年)よりやや遅れます。今のところ、これ以上のことはわかりませんが、九州王朝の都、太宰府に観世音寺と般若寺が条坊内に存在していたことになり、九州王朝史研究の新たな手がかりになります。